3.美也子の夢
庭を見せてくれ、と誘ったのは昇二の方だった。客間で向かい合って話すよりも、外の方が気楽に話せるでしょう。そう笑う昇二に、美也子は曖昧に頷いた。父の許可を得た上で、昇二を庭へと連れ出した。
「して、お話とは?」
草だらけだが、辛うじて通路の体を成している場所を歩きながら、昇二は後ろを歩く美也子に尋ねた。手入れする者もおらず、荒れ放題の庭を見ても昇二は何も言わない。
助かった。言われたところで、美也子には詫びるしかできない。不毛な言葉の応酬は不要とばかりに、要点だけ口にする昇二に、美也子も最低限のセリフで問いかける。
「わたくしに求めるものは、なんでしょう?」
「何もしなくていい。邪魔さえしなければ」
すぐさま返事が来る。実に明確な答えだ。すがすがしいほどに。
「邪魔、とは?」
「俺の生活に口出しをしないで頂きたい」
つまり。
「お飾りの妻で良い。そう仰っているのですね」
昇二はニヤリと笑った。先程、客間で見せていた冷徹な笑みでなく、血が通った顔。相変わらず目の奥は、笑っていないのだが、一気に人間らしくなる。
母が見れば、影で「下品だわ」と吐き捨てるような笑みだったが、美也子は昇二らしい表情に見えて、逆に好感を持った。昇二から馬鹿にされている口調で話しかけられるまでは。
「無表情でつまらぬ女だと思ったが。頭は悪くないようだな」
昇二の一言で、美也子の体はかあっと熱くなる。
良妻賢母になるべく、家庭内外で教えを受けている美也子だ。侯爵家といえども、女に人権はあってないようなもの。男性に侮られるのは慣れている。
けれど。
昇二は悪意を持って、美也子を揶揄した。二度と関わりを持たない人間ならまだしも、婿になる男性だ。黙って口を慎むほど、美也子はまだ大人になっていなかった。
「生憎ですが。女を道具として見ていない殿方に、振りまく愛想は持ち合わせておりません」
淡々としながらも、美也子はきっぱりと言い切った。無理やり感情を抑え込んでいるから、小刻みに震えている。
生意気な女だと斬って捨てられてもいい。それでも、言われっぱなしなのは、美也子の矜持が許さなかった。
華族としてではない。時代の先端だった職業婦人を目指している、一人の女性としての誇りが昇二の言い分を許さなかったのだ。
反抗的な目できっ、と睨みつけた美也子に、昇二は怒りだすことはなかった。むしろ、声を上げて笑う。
「なんだ、中身は気が強い、跳ねっ返りじゃないか!」
どこがツボにはまったのか。ひとしきり笑った昇二は、美也子に一歩近づいた。
手を伸ばせば届く距離で美也子は、頭一つ分高い昇二の顔を見上げる。
整いすぎて冷酷そうに見える、端正な顔。反対に髪の毛は柔らかく、風になびいている。対照的な姿が一枚の肖像画のような美しさで、美也子はさっきまでの憤りを忘れて、息を呑んだ。
「何だ?」
不審げに問いかける昇二に、ハッと我に返った美也子は深呼吸する。
頭に昇った血は、見惚れている内に、元に戻ったらしい。
美也子はもう一度、息を吐いた。
冷静に淡々と。ジロジロと視線を浴びせられても侯爵家の娘として、恥ずかしくないように。姿勢を正し、凛とした目で昇二を見据えた。
「鷹司様のご希望は理解いたしました。政略結婚ですもの、情を交わす必要はありませんわ」
きっぱりと言い切った美也子に、昇二もまた、ニヤリと笑ってすぐさま応戦する。
「どうしても情を交わしたい、というのであれば努力はしよう」
「結構です」
美也子は首を振る。昇二は面白そうな顔のまま、美也子の次の言葉を待っている。
ならば。美也子は大きく息を吸い、吐く息と共に言葉を発する。
「わたくしは、松平を守るため。鷹司様は、ご自身の野望を叶えるための結婚です。愛という、不確かなものに縋るよりも、確実な誓いを立てる方が建設的ではありませんか」
「ほう」
昇二は、あごの下に手を当てて、何か考えている。そんな姿も、顔が整っているだけで絵になる。顔が良いのは特だ、と美也子がぼんやりと思った時だった。
「そんな言い方をするということは、要求したいことがある。そういうことだな」
「ええ」
「お父上から言われるのならまだしも。ご令嬢にしては、少々過ぎた言い分では?」
「あら、そうでしょうか」
美也子は、たおやかに微笑んだ。今度は侯爵家の令嬢として、相応しい立ち振る舞いだ。敢えて態度を変えたのは、昇二の器を図るためだ。
美也子は、昇二に向かって大きな一石を投じた。
「没落寸前とはいえ、わたくしは侯爵家でございます。叶えて頂くかは別として、男爵家の鷹司様に自身の希望をお伝えするのは、おかしなことでしょうか」
自分の方が立場が上だと、言外に匂わせる。これでカチンとくる男なら、しょせん男爵家の人間だ。いくら商才に長けていたとしても、侯爵家の婿として松平の家名を守っていくには、力不足は否めない。
だが昇二は、美也子の試し行為をさらりと受け流した。
「おかしくはないな。しょせん俺は、華族の末端に名を連ねている男爵家の、それも妾腹の次男坊だ。没落侯爵家様にでも婿入りをしなければ、継ぐ家すら与えられない。君の方が、立場はずっと上さ」
昇二の視線は冷たいものに戻っていた。しかし、瞳の奥にかすかに見え隠れするものは、憤りである。
いくら明治が終わり、新しい時代になったとはいえ、家督を継ぐのは長男と決まっている。次男以下は、分家を設立したり、養子となることが出来れば、万々歳。多くは生涯、結婚も出来ず、長男の手足となって生きるのだ。
特に昇二は庶子だ。兄とは数日違いで生まれたと聞いている。仮に昇二の方が先に誕生していたとしても、正妻の子が男児なら、妾腹である人間が家督を継ぐことはなかっただろうが。
しかし、昇二にしては面白くないはずだ。
美也子の耳にも、鷹司男爵家の情報は入ってきている。長男よりも次男の昇二の方がよっぽど優秀だと。
それでも、鷹司の跡継ぎは長男である。もし、今回の婿入りの話がなければ、一生実家で兄を支えるしか道はない。
仮に美也子が、この結婚はなかったことに、と言えば、困るのは松平家だけでない。昇二もまた、梯子を外されてしまう。
だからこそ、美也子は強気でいられるのだ。正式に昇二を婿に迎え入れる前の今だけだとしても。
「して、君の望みは?」
問いかける昇二の顔は、客間で見せた冷徹なものに戻っていた。ひやりとする視線を浴びせられているのに、美也子はすっと落ち着いていく。
(わたくしたちの間に、情など不要。どうぞ利用をしてください。わたくしもあなた様を利用させていただきます)
美也子は心の中で呟くと、昇二を見上げる。美也子のまっすぐな視線を、昇二は正面から受け止める。どんな挙動も見逃さないというような、強い視線で見返す昇二を十秒ほど見つめた美也子は、ようやく口を開いた。
「女学校を卒業した後、上の学校に行きとうございます。お給金で必ずお返しいたしますので、立て替えてはいただけませんか?」
「上の学校......。というと、帝国大学か?」
「いえ。帝国大学でも女子学生が入学した例は聞いておりますが、まだまだ帝国大学は男性のものです。わたくしが目指しているのは、......じょ、女子高等師範学校です」
冷静なつもりだったのに。初めて他人に自分の夢を話した美也子は、噛んでしまった。体も小刻みに震えている。
他人に、自身の夢を語ったのは、初めてだった。女学校に通えるだけで恵まれている。そう思っていたのに、ある人と出会ったことで、夢を抱いてしまったのだ。
教育者になりたい、と。
それも美也子は津田梅子女史のような、新しい時代で活躍する女性を生み出す側になりたいという、壮大な夢を持っていた。
幸いにもなんとか家柄に恵まれて、女学校に通うことが出来た。成績も主席ではないが、上から数番目だ。進学するのには充分だ。
問題は、父の考えの古さと、金銭面だった。
男ならともかく、女に学は必要ないと考える父だ。女学校こそ、花嫁修業の一環として認めては貰えたが、事業に失敗して家計は火の車だ。
まだ美也子が男だったら、父は無理にでも進学させただろう。
しかし、兄よりも博識で学校の成績が良くても、教師からの進学を仄めかされても、美也子が女である限り父は首を縦に振ることは、絶対にない。
家を守るために美也子が婿を取ることになったといえども、父の考えは変わらなかった。
むしろ妻となるなら、これ以上の勉強は不要、と女学校の退学を促すくらいである。
しかし、夫になる人間ならどうだ?
いくら婿取りとはいえ、結婚する前なら、美也子の方が立場は上。権力を振りかざすのは、華族として相応しくない振る舞いなのは、百も承知。
そして、相手は貿易商を生業にしている。海外の人間と接する機会が多いのだ。父よりも柔軟な考えを持っているはず。いや、持っていると願いたい。
重要なのは結婚する相手が、パトロンになってくれるか。その一点であった。
(昇二様も同じお考えでしたら、わたくしの夢は潰えてしまう......)
昇二を見つめる美也子の瞳が、不安げに揺らいだ。華族令嬢として常に自身を律するように教育を受けてきた美也子が初めて見せた弱さ。
昇二は、美也子の見せた脆さに驚いた。美也子は、彼の顔に浮かんだ表情を別の意味として受け取ってしまった。
(やはり、女の自分には分不相応な夢だった、ということですわね)
どれだけ時代が変わろうとしていても、まだ女に求められている姿は、良妻賢母。よい妻で、賢い母になること。夫を敬い、跡継ぎを生んで育て上げ、老婆になったら、子に従う。
女が学をつけても生意気になる一方だと、嫌煙する風潮は根強い。
それでも美也子は、祈っていたのだ。結婚相手が、鷹司男爵の次男と聞いた美也子は、万が一の奇跡が起きることを。
家業の勉強のため、海外に遊学していた経験がある昇二なら、女でも学びは必要だと言ってくれると。勝手に信じていた。
美也子は、目を伏せた。これ以上、女のくせに上の学校に行きたいとふざけたことをいう人間だ、という顔で見られたくなかった。それなら、冷笑される方がまだマシだ。
美也子の目頭が熱くなる。恥ずかしさと、叶う前に敗れた夢の持っていき方がわからない。それでも、何か言わねば。
荒くなる息を何とか整えた美也子が、「忘れてください」というより先に。
「師範学校に行くくらいなら、女子大学校にするんだな。それなら学費を出そう」
昇二が命じた。
今まで一番、優しい声色だった。