第14話 深夜の街
7月21日 01時40分 | 風見市市役所付近のコンビニ
深夜の街は昼間とは別の顔を見せる。
太陽の下ではあんなに騒がしかったアスファルトも、今はただ冷たく、街灯の光を鈍く跳ね返しているだけだ。
眠りについた住宅街を抜けて大通りに出ると、深夜営業のコンビニだけが真っ暗な街で煌々と明かりを漏らしていた。そこだけがまるで別世界のようで、吸い寄せられるように足が速くなる。
「お待たせ」
「いや、俺もちょうど来たところだよ」
コンビニの駐車場の隅。
場違いなほど明るい光の下でリクがポツンと座っていた。
夜更かしでこれくらいの時間まで起きていることは稀にあるけれど、この時間に目的を持って外にいるということは滅多にない。
これからヒトの消滅を阻止しに行く。
その事実が静かな深夜の空気に混ざり、形容しがたい高揚感と、それ以上に重い緊張を連れてくる。
それはリクも同じなのだろう。
彼はコンビニで買ったと思われる唐揚げのパックを手に、どこか落ち着かない様子で座っていた。
しかし......
「早速行ける?」
「まあ慌てるなって。これ食べ終わるまで待ってくれよ」
「......そういうと思ったよ」
そう言うと、リクは手に持っていたビニール袋から次々と食べ物を取り出した。
おにぎり、パン、スナック菓子。
それを呆れ顔で見つめるハルを尻目に、リクはまるで義務であるかのようにそれらを胃袋に収めていく。
「夕飯、食べてなかったの?」
「もちろん食べたけど、こんな遅くまで起きてたら腹減るだろ?」
「それにしたって食べすぎだよ。これから走るかもしれないんだよ?」
「これからの大仕事に備えてだよ。腹が減っては......って言うだろ?それにさ、なんか腹に詰め込んでおかないと、この静かすぎる空気に飲み込まれそうなんだよ」
リクが口の端を少しだけ歪めて笑う。
その言葉にハルはハッとした。
リクもまた、この深夜の何もない空気に本能的な恐怖を感じているのかもしれない。食べ物の熱量で自分が生きていることを確かめているようにも見えた。
「一応、リクも自覚はしてるんだね」
「当たり前だろ。相手はヒトなんだ。猫を追いかけるのとはワケが違う」
リクが最後の一口を飲み込み、空になった袋を丁寧に丸める。
少しだけ気を引き締め直し、ハルはスマホを取り出して、改めて予定表の情報を確認した。
=====
宮岡ケンジ 20代
7月21日02時21分
風見市市役所前の工事現場
交通誘導中
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この街のどこかで、今この瞬間も彼は誘導灯を振って働いているはずだ。
数十分後に自分が削り取られる運命にあることなど露ほども知らずに。
「それで、今からその宮岡ケンジって人を探しに行くけども......」
「ああ、分かってる。細かいことは聞かねえよ。ミオといつもやってる通り、ハルの動きを見て合わせる。だからお前は迷わずその人を探してくれ」
リクが立ち上がり、膝についた砂を払う。
その背中はいつもより少しだけ大きく見えた。
ハルが打ち合わせようと思っていた不安や確認事項は、リクのその短い言葉にすべて先回りされてしまった。
「......それじゃ行こうか」
ナナ以外とチームを組んで消滅回避に当たるのは初めてだ。
そのことに一抹の不安を抱えるが、リクが自分に合わせてくれるという言葉を信じて、煌々としたコンビニの光を背に、再び深い闇へと沈んでいる市役所方面へと歩き出した。
***
同日 02時07分 | 風見市市役所付近
時刻は2時を回っていた。
コンビニから市役所までは、昼間ならなんてことのない徒歩5分程度の距離なのだが、リクの深夜の食事に付き合っていたことと、街灯の少ない裏道を慎重に選んで歩いたせいで、思ったよりも到着が遅くなってしまった。
それでもまだ消滅までは10分以上の猶予がある。
今回の消滅対象は「工事現場で交通誘導中」という、極めて限定的で分かりやすい状態だ。しかもその場所は市役所の目の前。
これだけの条件が揃っているのだから特に大きな問題はないはずだ。
ハルはどこかでそう楽観していた。
やがて深夜の市役所前に辿り着き、オレンジ色の回転灯が明滅する工事現場を確認した瞬間、ハルの足が不自然なほど唐突に止まった。
喉の奥で乾いた音が鳴る。
「......あれ?」
その場に立ち尽くすハルの背中に、リクが怪訝そうな声をかけた。
「どうした、ハル。何かマズいことがあるのか?」
ハルは答えることができなかった。
道路工事における交通誘導。
それはハルが勝手にイメージしていた「二人一組で道の両端に立っている」という単純なものではなかった。
視線の先、アスファルトを削り取る重機の唸り声が夜の静寂を暴力的に引き裂く工事現場では、ハルが想像していたよりも多い数の誘導員がいた。
交差点の四隅、それぞれの進入禁止箇所に立つ者。
重機の間を縫うように歩き、ダンプカーを誘導する者。
それと、少し離れた場所で待機している交代要員らしき者。
暗闇の中で赤い誘導灯が激しく振られる。
その残像を追うと7人の姿が確認できた。
ハルは自分の認識がいかに甘かったかを突きつけられた。
急激な人口増加に伴う道路の劣化。
それを補修するための緊急工事は、市役所前の交差点を完全に封鎖する大規模なものだったのだ。
「え......交通誘導って2人じゃないの?」
自分でも驚くほど声が震えていた。
リクが隣で息を呑むのが分かった。
彼は予定表の内容を知らない。
けれど、呆然と固まるハルの横顔から、ただならぬ事態が起きていることを察したのだろう。
「ハル、落ち着け。俺は何をすればいい?」
リクの声が遠くの方で鳴っている重機の音に混じって聞こえる。
ハルは慌ててスマホを取り出して時間を確認する。
02時11分。
消滅予定まで、残り時間は10分を切っている。
10分――。
普段なら何気なくスマホを眺めているだけで過ぎ去ってしまうあまりにも短い時間だ。その短い時間の中で、ハルはこの7人の中から「宮岡ケンジ」を特定し、その行動を制限しなければならない。
当初の予定では、誘導員が2人ならどちらが対象かを確認するのは容易なはずだった。リクに話しかけてもらい、物理的に誘導を止めればそれで終わる。そう考えていた。
けれど対象が絞り込めない。
右側の彼か、奥の彼か、それとも重機の影にいる彼か。
さっきまでハルは隣で唐揚げを食べていたリクに対して、どこかで「緊張感が足りない」とさえ思っていた。
けれど、今なら分かる。
本当に緊張感が足りなかったのは自分の方だ。
関与者ではないリクやナナは予定表を見ることができない。
何が起こるか、いつ誰が消えるのか。
その絶対的な予知情報を一切持たないまま、ハルたちが指し示す「無」に向かって飛び込まなくてはいけない。そんな盲目の状態で現場に立つ彼らに緊張感がないわけがないのだ。
一方でハルはどうだ。
これまでの数件の成功体験。
自転車や猫を救ったという矮小な実績。
それらが毒のようにハルの思考を侵食し、慢心を生んでいた。
――状態を変えればいいだけ
その言葉の裏にある現場の複雑さや想定外の事態に対する想像力が決定的に欠けていた。
今この場では情報はハルにしかない。
リクはハルの指示がなければ、この広大な工事現場の中でただの不審者として立ち尽くすことしかできないのだ。
自分の油断がリクを、そして何より宮岡ケンジという一人の命を、取り返しのつかない窮地へ追い込んでいる。
「ハル!」
リクがハルの肩を強く掴んで揺さぶった。
その衝撃でようやくハルの視線が地面から上がり、リクの真っ直ぐな瞳とぶつかった。
「......ごめん。リク」
「謝るな。まだ時間はあるんだろ?指示をくれ」
その力強い声にハルは無理やり心臓の鼓動を抑え込んだ。
反省は後だ。
今はやるべきことを決断しなければならない。
消滅対象である宮岡ケンジは25歳。
この過酷な夜間工事の現場には、ベテランと思われる年配の作業員も多い。
それならば、まずは見た目が若そうな人物に狙いを定めるべきだ。
「よし......リク、あっちの方にいる人たちがどれくらいの年齢か、確認してきてくれる?僕はこっちを見てくる」
残り時間はもう7分を切ろうとしていた。
***
同日 02時15分 | 工事現場付近
再び集合し、確認した結果を報告し合う。
ハルが確認したのは東側と南側にいる誘導員。
そのうち20代に見えたのは、東側の街灯の下にいた人物だった。
これでリクが担当した北側と西側に20代らしき人物がいなければ、宮岡ケンジは東側の人物で確定になる。そうなればあとはリクに東側まで走ってもらうだけだ。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされる中、ハルはリクの言葉を待った。
「ハル、俺が見てきた中では、北側のあの人だ。マスクしてたから分かりにくかったけど、きっと若そうだぜ。多分、20代半ばくらいじゃないかな」
最悪の報告だった。
ここでもハルの目論見は外れる。
東側と北側、どちらかに絞れたがそこまでだ。これ以上は特定しようがない。
焦燥感が冷たい汗となって背中を伝い落ちる。
「で、誰がそうなのか分かったのか?」
「......東側の人か、北側の人、どちらかだと思うんだけど......」
「見た目の特徴とか、そんなので分からないのかよ!」
リクの声が先ほどよりも一段と険しくなる。
当然の反応だった。命がかかっているこの土壇場で「どっちか」という曖昧な情報はリクにとっては絶望と同義だ。
「ごめん、分からない......」
「マジかよ......時間はあとどれくらいだ?」
スマホの画面を叩くようにして時間を確認する。
02時19分。
「あと2分だ......」
その数字を口にした瞬間、喉がギュッと締め付けられた。
残り時間は少なく、2人に順番に話しかけている余裕なんてどこにもない。
ハルが告げるカウントダウンに、リクの顔から血の気が引いていくのが暗がりでも分かった。
「何でそんな......いや、今はそんなこと言ってる場合じゃねえ!」
リクは怒鳴るような、あるいは自分を鼓舞するような声を上げると、そのまま北側の誘導員に向かって駆け出した。
対象はどちらかなのだ。
何もしないで手をこまねいているより、二分の一の確率に懸けて少しでも近い方にいる誘導員に話しかけに行ったのだ。
リクが走る。
工事現場の騒音と大型車両のライトが交差する中、その背中がどんどん遠くなっていく。
ハルはその場に釘付けになったように動けなかった。
――もしあっちが「宮岡ケンジ」じゃなかったら。
――もし東側のあの人が本物だったら。
そんな思考が頭を支配する。
リクが北側の誘導員に声をかけるのであれば、自分は東側にいる誘導員に向かうべきだ。それなのに足が震えて、たった一歩を踏み出すことすらできない。
震える視線をリクの方に向けると、ちょうど北側の誘導員に話しかけているのが見えた。
「あの......ちょっといいですか?」
「ん?なに......?」
突然、切羽詰まった表情のリクに話しかけられた誘導員は、少し気後れしたようにも見えるが、リクはそれに構わず言葉を続ける。
「突然ですんませんが、貴方はもしかして、宮岡ケンジさんですか?」
ハルは息を止めてその様子を見守るしかなかった。
工事の騒音にかき消されそうなほど小さなやり取り。
けれど、誘導員が小さく頷き、工事用の投光器に照らされたリクがパッと表情を明るくしてこちらへ親指を立てるのが見えた。
二分の一の賭けに勝った。
その事実にハルの全身から一気に力が抜けそうになった。
いくつも想定外のことが起きたけれど、消滅予定時間まであと30秒足らず。
このまま時間が過ぎれば今回も消滅回避の成功となるはずだ。
今はちょうど宮岡氏がいる場所とは違う場所で交通誘導が行われている。
時折車は通るものの、彼がいるところでは交通誘導の必要はない。
そもそも彼は既に職務を放棄して、誘導灯を手にぶらぶらとさせながらリクとの会話に笑顔で応じている。
この短時間で談笑にまで持ち込むリクの社交性はもはや特殊能力としか言いようがない。ハルがそんなことを思う間にも、スマホの時計は残酷なほど正確に時を刻んでいく。
宮岡ケンジは「交通誘導」という予定表の状態とは、明らかに異なる状態になった。会話を交わし、意識をこちらへ向け手を止めている。
条件は満たした。
もう大丈夫だ。
そう思った、その瞬間だった。
カラン!
耳障りな高い金属音が、深夜の工事現場に不自然に響いた。
突然、リクの目の前から、宮岡ケンジという存在が掻き消えたのだ。
彼が手に持っていた誘導灯だけが主を失い、アスファルトの上を無機質に転がっている。
「えっ......?」
ハルの声は言葉にならなかった。
宮岡ケンジが消滅したのだ。
「なんで......」
思わずその場にへたり込みそうになる。
彼は確かにリクと話していた。それなのに――。
呆然と立ち尽くすハルの元にリクが戻ってきた。
その顔は真っ白に染まり、瞳は何か恐ろしいものを見た直後のように焦点が合っていない。
「......行こう。このままじゃ怪しまれる」
リクの声はこれまでに聞いたことがないほど震えていた。
他の誘導員たちは重機の騒音と自分たちの作業に没頭し、宮岡ケンジがいなくなったことにまだ気づいていない。
けれど、あと数十秒もすれば「宮岡がいない」と誰かが声を上げるだろう。
これ以上ここに留まることはあまりに危険だった。
促されるままハルは逃げるようにその場を離れた。
工事現場の明かりが遠ざかり、再び深夜の静寂が2人を包み込む。
路地裏へ駆け込み、市役所の建物が見えなくなったあたりでリクが不意に足を止めた。彼は電柱に手を突き、荒い呼吸を繰り返している。
「ハル。俺、あいつにちゃんと話しかけたぞ。無視されたわけじゃない。ちゃんと、俺を見てたんだ」
リクは自分自身に言い聞かせるように、絞り出すような声で言った。
自分がやるべきことはやったはずだ。それなのに結果が最悪だったことへのやり場のない戸惑いがリクを支配していた。
「......うん。リクはちゃんとやってくれたよ」
ハルはそれだけを答えるのが精一杯だった。
どうして救えなかったのか。
その問いが、重く暗い澱のようにハルの心に溜まっていく。
リクは力なく地面に膝をついた。
深夜の住宅街。
街灯の低い光の下で、二人の影が長く不格好に伸びている。
遠くから救急車かパトカーか、サイレンの音がかすかに聞こえてきた。
宮岡ケンジの不在に現場が気づいたのかもしれない。
「......行こう」
ハルは自分自身に言い聞かせるように言葉を絞り出した。
重い足取りで歩き出す2人の背中に、深夜の冷たい風が吹き付ける。
救えるはずだと思っていた自信は、今や一欠片も残っていなかった。
一歩進むごとに、得体の知れない不安が、深く、鋭く心に食い込んでいく。
自分たちのやり方はどこで違ってしまったのか。
その答えを出すための思考は今のハルの中で空回りするだけだった。