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第一話:没企画

蔀千景しとみちかげは、別に遠回りが好きなわけではない。

急いでいる時は走るし、電車を乗り継ぐなら到着時刻だって気にする。ただ、スマートフォンの地図に青い線を一本引かれて、「こちらが最速です」と断言されると、どうしても一本隣の道を選びたくなる。

理由を聞かれたことは何度もある。

そのたびに千景は、「最短ルートって、誰かが勝手に決めた正解でしょ。ちょっと感じ悪くない?」と答える。

大抵の人間は笑う。
親しい人間は、「面倒くさい性格」と言う。

千景自身も、そう思っていた。
十月の火曜日、午前十時。
千景は打ち合わせ先の喫茶店を出ると、地図アプリが示すルートを無視して商店街へ入った。

アプリはすぐに経路を引き直した。
《より速い経路が見つかりました》と表示された。

「結構です」

スマートフォンに向かって答え、千景は画面を消した。

肩まである明るい茶髪が風に揺れる。薄手のカーキ色のジャケットに白いシャツ、擦れたジーンズ。取材先へ行く時もだいたい同じ格好だった。

三十二歳。
職業欄にはフリーライターと書く。
ただし、本人は自分の仕事を「他人が忘れたことを掘る仕事」と説明することが多かった。

幽霊屋敷や地方の未解決事件、ネットで十年以上語り継がれている妙な噂、何度も名前を変えて掲載される奇妙な記事。
そういうものを、発生地点まで遡る。

怪談を書きたいわけではない。
千景はむしろ、怪談そのものには少し冷めている。

怖い写真を見せられても、最初に確認するのは撮影日時だし、「ここで昔殺人事件があった」と聞けば、その場の空気を感じるより先に新聞データベースを開く。

それでも奇妙な話ばかり追っているのは、説明できないものが好きだからではなかった。
説明できないまま放置されていることが、気持ち悪いからだ。

商店街の和菓子屋で豆大福を二つ買い、千景は四階建ての古い雑居ビルへ戻った。

二階と三階はデザイン会社。
四階の一室だけを仕事場として借りている。

エレベーターのボタンを押しかけて、やめた。
階段へ向かう。
急いでいるわけではない。
運動不足を解消、というわけでもない。
ただ、階段の方がいいと思った。

理由はなかった。
四階まで上がり、鍵を開ける。

八畳ほどの部屋には、仕事机、本棚、小さな冷蔵庫、そして紙が多い。
クリアファイル、コピーした新聞記事、取材ノート、紙の地図、付箋。

ノートパソコンもタブレットも使うが、重要な情報だけは必ず紙に落とす。

以前、仕事仲間に、「デジタル嫌いなの?」と聞かれたことがある。

「嫌いじゃないよ」

「じゃあ何で全部印刷してるの」

「データって消えるじゃん」

「それは何だって同じさ、紙も燃えるよ?」

「燃やさなければ残る」

「サーバーも消さなければ残る」

「でも消されるし、それに電子機器なんて何があるかわからないでしょ?」

「紙だって捨てられる」

そこまで言われて千景は少し考え、
「捨てるという行為は人間がする事よ?」と答えた。

仕事仲間は「これ以上は不毛だな」とだけ言った。

千景はその会話を何故か気に入っている。

豆大福を机の端へ置き、コーヒーを淹れる。
ノートパソコンを開くと、メールが一件届いていた。

送信者は鹿沼。
月刊誌の編集者で、千景とは六年の付き合いになる。

件名は、
《これ、なんか知ってる?》
だった。

千景は大福を一口かじった。
「仕事の頼み方として零点ね......」

添付ファイルがある。
容量はたった十三キロバイト。

ファイル名は、
《没企画_移行データ_041》

「没って書いてあるじゃん」
文句を言いながら開いた。

白い画面が表示される。
内容は一ページだけだった。

最上部に太字。

《八咫烏シンドロームについて》

千景の咀嚼が止まった。

口の中に餡が残ったまま、しばらく画面を見る。

八咫烏。三本足の烏。
神武天皇を熊野から大和へ導いたとされる存在。
その程度の知識はある。

けれど、八咫烏シンドローム。
その組み合わせは知らない。

知らないはずだった。

それなのに、
「......懐かしい?」
口にして、自分で眉をひそめた。

懐かしいという感情だけが、先に来た。

記憶がない。
映画のタイトルか。
昔読んだ怪談か。
誰かの創作か。

千景は無意識に赤鉛筆を手に取った。

印刷する。
プリンターから吐き出された一枚を机に置き、タイトルの下へ赤線を引いた。

《八咫烏シンドロームについて》

その下には短い文章がある。

《匿名掲示板上で断続的に使用される呼称。意味・由来不明。》

URLが一本。

続いて、
《三回目なら八咫烏》
という一文。

以上。
作成者名なし。
作成年月日なし。
企画意図なし。
媒体名なし。

「これで企画通した人いたら逆に尊敬するなぁ」
千景はスマートフォンを取り、鹿沼へ電話した。

『お、早いじゃん』

「まぁ数行しかないですからね」

『全部見たのか?』

「見ましたけど、これ企画書じゃなくてメモでしょう」

『それ俺に言うなよな』

「鹿沼さんが送ってきたんですよ」

『編集部の共有サーバー移行してたら出てきたんだよ。古い没企画が何百本も』

千景は紙を持ち上げた。

「いつのです?」

『分からん』

「書いた人は?」

『それもわからん』

「何が分かるんです?」

『ははは!お前が好きそうってことだけだな』

「雑だなぁ...私の事何だと思ってるんです?」

『褒め言葉だよ』

「一番嬉しくない種類の褒め方ですね」

受話器の向こうで鹿沼が笑った。

『こういうネット怪談、大好物だろ』

「は?好きなんじゃなくて、調べるんです」

『同じじゃん』

「全然違います。私、呪い解いたことないですから」

『そのうち解くかも知れねぇなぁ』

「解いたら原稿料上がります?」

『上がるわけねーだろ』

「じゃあ解きません」

千景は紙の端に、
鹿沼 何も知らない
と書いた。

電話の向こうでコピー機らしい音がする。

『まぁまぁ......軽く一本できない?』

「軽く?」

『ネットの都市伝説を調べてみました、くらい。四千字。ウェブ用、みたいな?』

千景はもう一度タイトルを見る。
八咫烏シンドローム。
やはり、妙な感覚がある。

怖いのではない。
嫌でもない。
ただ、この言葉をどこかに置き忘れてきたような感じがした。

「締切は?」

『一週間だ』

「資料代は?」

『出す』

「交通費は?」

『取材が必要ならな』

「企画料も?」

『そこ交渉する?』

「します、そりゃしますよ」

『さっき興味ありそうだったじゃん』

「興味と原稿料は別です」

『本当に面倒くさいな、お前』

「それも褒め言葉として受け取りますよ」

最終的に、いつもより少しだけ上乗せさせた。

電話を切る。
鹿沼との仕事は大抵こんなものだった。
受けるつもりがなければ値段の話などしない。
つまり千景は、タイトルを見た時点でほぼ決めていたのだ。

調べる、ということを。
理由は分からない。

千景は大福の残りを口へ放り込み、ブラウザを開いた。

検索窓に文字を入れる。

八咫烏シンドローム
入力し終えたところで指が止まった。

検索ボタンを押せない。

「何?」

誰もいない部屋で呟く。

妙な感覚だった。知らない言葉を検索する。毎日何十回もやっていることだ。

なのに今だけ、検索しない方がいい。そう思った。

理由はない。
そのくせ別の感覚もある。
検索結果を知っている。

千景は椅子の背にもたれた。
「......疲れてるな」

コーヒーを飲む。冷めかけていた。

検索ボタンを押した。
結果は拍子抜けするほど少ない。

八咫烏に関する神社の記事。
日本サッカー協会の関連ページ。
医学系サイトにある別のシンドローム。
創作投稿サイト。
完全一致の言葉はほとんどない、というかない。

引用符をつける。
《"八咫烏シンドローム"》
さらに減る。

「都市伝説としては弱いな」

千景は少し安心した。
何に安心したのか、自分でも分からない。
添付メモのURLをコピーする。

アクセスエラー。
当然だった。

URLの形式が古い。
ウェブアーカイブへ入れる。
保存履歴が数件だけ残っている。

最古は二〇〇七年六月。

復元ページを開く。
文字化けだらけだった。

エンコードを変更。
灰色の背景、青いリンクが輝く。

古い掲示板が出てくる。

千景は少し笑った。
「ふふ、懐かしいな」

今度の懐かしさには理由がある。
この時代のインターネットを知っているからだ。

そしてスクロールした。

《243:名無し》

《それ三回目?》

千景は読み進める。

《なら家族には言っといた方がいい。》

《なんで?》

《八咫烏じゃん。》

《八咫烏って何?》

《知らないなら調べない方がいい。》

そして、
《また八咫烏か。》

千景の指が止まった。
「......また?」
タイトルよりも、その二文字の方が気になった。

八咫烏とは何か。
三回目とは何か。
普通ならそちらを調べる。

だが、千景には、レス番号250の「また」が一番不自然に見えた。

赤鉛筆を取る。
印刷した企画書の余白に書く。
《また=前例あり》


掲示板内検索。
八咫烏、と打ち込んだ。

ヒット一件。
レス247。
前のページだ。

同じ板の過去スレ。
千景は表情を変えずに検索し続けた。

これが楽しい。分からないことがあると気持ち悪い。そして気持ち悪いものには、手を入れたくなる。

過去ログをいくつか開く。
別の検索エンジン、転載サイト、キャッシュ、魚拓を全て確認する。
それでも二〇〇七年より古い記述はすぐには出なかった。

午後十二時を回った。
豆大福の二個目を食べる。

午後一時。
コーヒーを淹れ直す。

そして一本見つけた。
古い個人ブログのコメント欄。

二〇〇五年。
《それ八咫烏のやつじゃない?》

千景の目が細くなった。
クリック。
記事は削除済みだった。
コメントだけキャッシュに残っている。

紙の上へ赤鉛筆で、2005と書く。

もう一件。
二〇〇三年。
掲示板の断片。
《八咫烏だったら近道じゃないぞ》

前の発言が消えている。

2003。机の上に紙が増えていく。
千景はそれを年代順に並べた。

二〇〇七。
二〇〇五。
二〇〇三。

そして、気づいた。
どれも説明ではない。

誰かが、《八咫烏シンドロームとは何か》と語り始めた記録ではない。
全部が、すでに知っている人間の会話だった。

「......面白い」
怖いではなかった。

千景は笑った。
この笑い方を、颯真は「ろくでもないもの見つけた時の顔」と呼ぶ。

千景はすぐにスマートフォンを手に取り、笠縫颯真かさぬいそうまに連絡する。

《暇なの?》

五秒で既読。

《決めつけんなよ。内容によるな》

《初出探し》

少し間が空いた。

《何のだ?》

千景は、《八咫烏シンドローム》と打った。

送信する前に、また指が止まった。
その時既視感を覚えた。この文字列を颯真に送ったことがある。
そんな気がした。

「いやいやいや、ないない」
笑いながら呟く。

すぐに返事が返ってきた。

《何だそれ?》

千景は安堵した。
何に安堵したかは分からなかった。

続いて祝迫圭吾いわいざこけいごへ。

《古いネットログ調べられる?》

《年代は?》

《とりあえず1990年代以前まで》

《ネット以前か?》

千景は少し考える。

《できれば、できそうなの?》

《また変なの拾った?》

《失礼だなぁ》

《否定しないんだ》

千景は笑いながら、
《明日来てよ》と送った。

《了解》

その直後、颯真からもう一件。
《明日の昼なら空く》

《じゃあ昼にね》

《飯はでるのか?》

《飯のついでに呼んだのよ》

《俺の優先順位低くないか?》

スマートフォンを伏せる。
仕事としては、これで十分だった。

四千字のネット怪談の起源調査。
数日調べて、分かった範囲を書く。

それだけのつもりだった。
千景は紙をまとめようとして、ふと手を止めた。

《八咫烏シンドロームについて》
企画書のタイトル。

その下に、赤鉛筆で自分が書いた文字。
なぜか、ひどく見覚えがあった。

文字そのものではない。
組み合わせだった。

八咫烏シンドローム、の文字。
赤鉛筆の文字。
机の上に乱雑に置いてある紙の山。
過去にも同じ光景を見た。
一瞬だけ、そんな確信に近い感覚があった。

だが、記憶を探そうとすると何もない。
千景は紙を裏返した。
「知らないものは、知らない」
自分に言い聞かせる。

そして立ち上がりコーヒーカップを洗う。
帰宅するため部屋を出る。

エレベーターの前を通った。
下向きボタンに手を伸ばす。

止める。今日は階段にした。
千景にとっては、いつものことだった。

三階まで降りた直後、背後で鈍い音が響いた。

金属が一度、大きく軋む。
続いて警告音。
千景は階段から顔を出した。

エレベーターの階数表示が、《3》で止まっている。
管理会社の事務所から老人が出てきた。

「また止まったかな」

「故障ですか?」

「たまにあるんですよ。人は乗ってないと思いますけど」

「ああ、よかった」
千景はそれだけ言い、階段を降りた。

駅へ向かうには左へ進むルートが最短だった。
だが、千景は右へ曲がった。
別に理由はない。ただ、こっちの方がいいと思った。
三分ほど歩いたところで、後ろから救急車のサイレンが聞こえた。

千景は一度だけ振り返った。
すぐに前を向く。

偶然だ。そういうことは、いくらでもある。
翌日には忘れている程度の出来事だった。

だから、この時点で千景はまだ知らない。
自分が「八咫烏シンドローム」を見つけたのではないことを。
その言葉を調べようと決めたのも、颯真と祝迫を呼んだのも、自分自身の意思だと疑っていなかった。

そして何より───。
十年前の自分が、同じ机で、同じ赤鉛筆を使い、《八咫烏シンドロームについて》という文字に線を引いていたことを、蔀千景は完全に忘れていた。
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序章:また八咫烏か
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八咫烏シンドローム作者:然々曰
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第一話:没企画

蔀千景しとみちかげは、別に遠回りが好きなわけではない。

急いでいる時は走るし、電車を乗り継ぐなら到着時刻だって気にする。ただ、スマートフォンの地図に青い線を一本引かれて、「こちらが最速です」と断言されると、どうしても一本隣の道を選びたくなる。

理由を聞かれたことは何度もある。

そのたびに千景は、「最短ルートって、誰かが勝手に決めた正解でしょ。ちょっと感じ悪くない?」と答える。

大抵の人間は笑う。
親しい人間は、「面倒くさい性格」と言う。

千景自身も、そう思っていた。
十月の火曜日、午前十時。
千景は打ち合わせ先の喫茶店を出ると、地図アプリが示すルートを無視して商店街へ入った。

アプリはすぐに経路を引き直した。
《より速い経路が見つかりました》と表示された。

「結構です」

スマートフォンに向かって答え、千景は画面を消した。

肩まである明るい茶髪が風に揺れる。薄手のカーキ色のジャケットに白いシャツ、擦れたジーンズ。取材先へ行く時もだいたい同じ格好だった。

三十二歳。
職業欄にはフリーライターと書く。
ただし、本人は自分の仕事を「他人が忘れたことを掘る仕事」と説明することが多かった。

幽霊屋敷や地方の未解決事件、ネットで十年以上語り継がれている妙な噂、何度も名前を変えて掲載される奇妙な記事。
そういうものを、発生地点まで遡る。

怪談を書きたいわけではない。
千景はむしろ、怪談そのものには少し冷めている。

怖い写真を見せられても、最初に確認するのは撮影日時だし、「ここで昔殺人事件があった」と聞けば、その場の空気を感じるより先に新聞データベースを開く。

それでも奇妙な話ばかり追っているのは、説明できないものが好きだからではなかった。
説明できないまま放置されていることが、気持ち悪いからだ。

商店街の和菓子屋で豆大福を二つ買い、千景は四階建ての古い雑居ビルへ戻った。

二階と三階はデザイン会社。
四階の一室だけを仕事場として借りている。

エレベーターのボタンを押しかけて、やめた。
階段へ向かう。
急いでいるわけではない。
運動不足を解消、というわけでもない。
ただ、階段の方がいいと思った。

理由はなかった。
四階まで上がり、鍵を開ける。

八畳ほどの部屋には、仕事机、本棚、小さな冷蔵庫、そして紙が多い。
クリアファイル、コピーした新聞記事、取材ノート、紙の地図、付箋。

ノートパソコンもタブレットも使うが、重要な情報だけは必ず紙に落とす。

以前、仕事仲間に、「デジタル嫌いなの?」と聞かれたことがある。

「嫌いじゃないよ」

「じゃあ何で全部印刷してるの」

「データって消えるじゃん」

「それは何だって同じさ、紙も燃えるよ?」

「燃やさなければ残る」

「サーバーも消さなければ残る」

「でも消されるし、それに電子機器なんて何があるかわからないでしょ?」

「紙だって捨てられる」

そこまで言われて千景は少し考え、
「捨てるという行為は人間がする事よ?」と答えた。

仕事仲間は「これ以上は不毛だな」とだけ言った。

千景はその会話を何故か気に入っている。

豆大福を机の端へ置き、コーヒーを淹れる。
ノートパソコンを開くと、メールが一件届いていた。

送信者は鹿沼。
月刊誌の編集者で、千景とは六年の付き合いになる。

件名は、
《これ、なんか知ってる?》
だった。

千景は大福を一口かじった。
「仕事の頼み方として零点ね......」

添付ファイルがある。
容量はたった十三キロバイト。

ファイル名は、
《没企画_移行データ_041》

「没って書いてあるじゃん」
文句を言いながら開いた。

白い画面が表示される。
内容は一ページだけだった。

最上部に太字。

《八咫烏シンドロームについて》

千景の咀嚼が止まった。

口の中に餡が残ったまま、しばらく画面を見る。

八咫烏。三本足の烏。
神武天皇を熊野から大和へ導いたとされる存在。
その程度の知識はある。

けれど、八咫烏シンドローム。
その組み合わせは知らない。

知らないはずだった。

それなのに、
「......懐かしい?」
口にして、自分で眉をひそめた。

懐かしいという感情だけが、先に来た。

記憶がない。
映画のタイトルか。
昔読んだ怪談か。
誰かの創作か。

千景は無意識に赤鉛筆を手に取った。

印刷する。
プリンターから吐き出された一枚を机に置き、タイトルの下へ赤線を引いた。

《八咫烏シンドロームについて》

その下には短い文章がある。

《匿名掲示板上で断続的に使用される呼称。意味・由来不明。》

URLが一本。

続いて、
《三回目なら八咫烏》
という一文。

以上。
作成者名なし。
作成年月日なし。
企画意図なし。
媒体名なし。

「これで企画通した人いたら逆に尊敬するなぁ」
千景はスマートフォンを取り、鹿沼へ電話した。

『お、早いじゃん』

「まぁ数行しかないですからね」

『全部見たのか?』

「見ましたけど、これ企画書じゃなくてメモでしょう」

『それ俺に言うなよな』

「鹿沼さんが送ってきたんですよ」

『編集部の共有サーバー移行してたら出てきたんだよ。古い没企画が何百本も』

千景は紙を持ち上げた。

「いつのです?」

『分からん』

「書いた人は?」

『それもわからん』

「何が分かるんです?」

『ははは!お前が好きそうってことだけだな』

「雑だなぁ...私の事何だと思ってるんです?」

『褒め言葉だよ』

「一番嬉しくない種類の褒め方ですね」

受話器の向こうで鹿沼が笑った。

『こういうネット怪談、大好物だろ』

「は?好きなんじゃなくて、調べるんです」

『同じじゃん』

「全然違います。私、呪い解いたことないですから」

『そのうち解くかも知れねぇなぁ』

「解いたら原稿料上がります?」

『上がるわけねーだろ』

「じゃあ解きません」

千景は紙の端に、
鹿沼 何も知らない
と書いた。

電話の向こうでコピー機らしい音がする。

『まぁまぁ......軽く一本できない?』

「軽く?」

『ネットの都市伝説を調べてみました、くらい。四千字。ウェブ用、みたいな?』

千景はもう一度タイトルを見る。
八咫烏シンドローム。
やはり、妙な感覚がある。

怖いのではない。
嫌でもない。
ただ、この言葉をどこかに置き忘れてきたような感じがした。

「締切は?」

『一週間だ』

「資料代は?」

『出す』

「交通費は?」

『取材が必要ならな』

「企画料も?」

『そこ交渉する?』

「します、そりゃしますよ」

『さっき興味ありそうだったじゃん』

「興味と原稿料は別です」

『本当に面倒くさいな、お前』

「それも褒め言葉として受け取りますよ」

最終的に、いつもより少しだけ上乗せさせた。

電話を切る。
鹿沼との仕事は大抵こんなものだった。
受けるつもりがなければ値段の話などしない。
つまり千景は、タイトルを見た時点でほぼ決めていたのだ。

調べる、ということを。
理由は分からない。

千景は大福の残りを口へ放り込み、ブラウザを開いた。

検索窓に文字を入れる。

八咫烏シンドローム
入力し終えたところで指が止まった。

検索ボタンを押せない。

「何?」

誰もいない部屋で呟く。

妙な感覚だった。知らない言葉を検索する。毎日何十回もやっていることだ。

なのに今だけ、検索しない方がいい。そう思った。

理由はない。
そのくせ別の感覚もある。
検索結果を知っている。

千景は椅子の背にもたれた。
「......疲れてるな」

コーヒーを飲む。冷めかけていた。

検索ボタンを押した。
結果は拍子抜けするほど少ない。

八咫烏に関する神社の記事。
日本サッカー協会の関連ページ。
医学系サイトにある別のシンドローム。
創作投稿サイト。
完全一致の言葉はほとんどない、というかない。

引用符をつける。
《"八咫烏シンドローム"》
さらに減る。

「都市伝説としては弱いな」

千景は少し安心した。
何に安心したのか、自分でも分からない。
添付メモのURLをコピーする。

アクセスエラー。
当然だった。

URLの形式が古い。
ウェブアーカイブへ入れる。
保存履歴が数件だけ残っている。

最古は二〇〇七年六月。

復元ページを開く。
文字化けだらけだった。

エンコードを変更。
灰色の背景、青いリンクが輝く。

古い掲示板が出てくる。

千景は少し笑った。
「ふふ、懐かしいな」

今度の懐かしさには理由がある。
この時代のインターネットを知っているからだ。

そしてスクロールした。

《243:名無し》

《それ三回目?》

千景は読み進める。

《なら家族には言っといた方がいい。》

《なんで?》

《八咫烏じゃん。》

《八咫烏って何?》

《知らないなら調べない方がいい。》

そして、
《また八咫烏か。》

千景の指が止まった。
「......また?」
タイトルよりも、その二文字の方が気になった。

八咫烏とは何か。
三回目とは何か。
普通ならそちらを調べる。

だが、千景には、レス番号250の「また」が一番不自然に見えた。

赤鉛筆を取る。
印刷した企画書の余白に書く。
《また=前例あり》


掲示板内検索。
八咫烏、と打ち込んだ。

ヒット一件。
レス247。
前のページだ。

同じ板の過去スレ。
千景は表情を変えずに検索し続けた。

これが楽しい。分からないことがあると気持ち悪い。そして気持ち悪いものには、手を入れたくなる。

過去ログをいくつか開く。
別の検索エンジン、転載サイト、キャッシュ、魚拓を全て確認する。
それでも二〇〇七年より古い記述はすぐには出なかった。

午後十二時を回った。
豆大福の二個目を食べる。

午後一時。
コーヒーを淹れ直す。

そして一本見つけた。
古い個人ブログのコメント欄。

二〇〇五年。
《それ八咫烏のやつじゃない?》

千景の目が細くなった。
クリック。
記事は削除済みだった。
コメントだけキャッシュに残っている。

紙の上へ赤鉛筆で、2005と書く。

もう一件。
二〇〇三年。
掲示板の断片。
《八咫烏だったら近道じゃないぞ》

前の発言が消えている。

2003。机の上に紙が増えていく。
千景はそれを年代順に並べた。

二〇〇七。
二〇〇五。
二〇〇三。

そして、気づいた。
どれも説明ではない。

誰かが、《八咫烏シンドロームとは何か》と語り始めた記録ではない。
全部が、すでに知っている人間の会話だった。

「......面白い」
怖いではなかった。

千景は笑った。
この笑い方を、颯真は「ろくでもないもの見つけた時の顔」と呼ぶ。

千景はすぐにスマートフォンを手に取り、笠縫颯真かさぬいそうまに連絡する。

《暇なの?》

五秒で既読。

《決めつけんなよ。内容によるな》

《初出探し》

少し間が空いた。

《何のだ?》

千景は、《八咫烏シンドローム》と打った。

送信する前に、また指が止まった。
その時既視感を覚えた。この文字列を颯真に送ったことがある。
そんな気がした。

「いやいやいや、ないない」
笑いながら呟く。

すぐに返事が返ってきた。

《何だそれ?》

千景は安堵した。
何に安堵したかは分からなかった。

続いて祝迫圭吾いわいざこけいごへ。

《古いネットログ調べられる?》

《年代は?》

《とりあえず1990年代以前まで》

《ネット以前か?》

千景は少し考える。

《できれば、できそうなの?》

《また変なの拾った?》

《失礼だなぁ》

《否定しないんだ》

千景は笑いながら、
《明日来てよ》と送った。

《了解》

その直後、颯真からもう一件。
《明日の昼なら空く》

《じゃあ昼にね》

《飯はでるのか?》

《飯のついでに呼んだのよ》

《俺の優先順位低くないか?》

スマートフォンを伏せる。
仕事としては、これで十分だった。

四千字のネット怪談の起源調査。
数日調べて、分かった範囲を書く。

それだけのつもりだった。
千景は紙をまとめようとして、ふと手を止めた。

《八咫烏シンドロームについて》
企画書のタイトル。

その下に、赤鉛筆で自分が書いた文字。
なぜか、ひどく見覚えがあった。

文字そのものではない。
組み合わせだった。

八咫烏シンドローム、の文字。
赤鉛筆の文字。
机の上に乱雑に置いてある紙の山。
過去にも同じ光景を見た。
一瞬だけ、そんな確信に近い感覚があった。

だが、記憶を探そうとすると何もない。
千景は紙を裏返した。
「知らないものは、知らない」
自分に言い聞かせる。

そして立ち上がりコーヒーカップを洗う。
帰宅するため部屋を出る。

エレベーターの前を通った。
下向きボタンに手を伸ばす。

止める。今日は階段にした。
千景にとっては、いつものことだった。

三階まで降りた直後、背後で鈍い音が響いた。

金属が一度、大きく軋む。
続いて警告音。
千景は階段から顔を出した。

エレベーターの階数表示が、《3》で止まっている。
管理会社の事務所から老人が出てきた。

「また止まったかな」

「故障ですか?」

「たまにあるんですよ。人は乗ってないと思いますけど」

「ああ、よかった」
千景はそれだけ言い、階段を降りた。

駅へ向かうには左へ進むルートが最短だった。
だが、千景は右へ曲がった。
別に理由はない。ただ、こっちの方がいいと思った。
三分ほど歩いたところで、後ろから救急車のサイレンが聞こえた。

千景は一度だけ振り返った。
すぐに前を向く。

偶然だ。そういうことは、いくらでもある。
翌日には忘れている程度の出来事だった。

だから、この時点で千景はまだ知らない。
自分が「八咫烏シンドローム」を見つけたのではないことを。
その言葉を調べようと決めたのも、颯真と祝迫を呼んだのも、自分自身の意思だと疑っていなかった。

そして何より───。
十年前の自分が、同じ机で、同じ赤鉛筆を使い、《八咫烏シンドロームについて》という文字に線を引いていたことを、蔀千景は完全に忘れていた。
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八咫烏シンドローム作者:然々曰
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