第八話 恋敵
早朝、翡翠宮の大神殿に警報が鳴り響いた。
警備管理室の空気は切迫しており、神官たちが語気を強めていた。
「瑠璃宮の王女、ナナリエ殿下が警戒網を突破なさいました!」
「若君の寝所にすでに侵入した模様です!」
「なんだと! 最新の警戒網を導入したばかりではないか!」
「あー、まあそれ、瑠璃宮に設計を委託してますし......」
「王女殿下は、瑠璃宮きっての天才学者と言われていますしね!」
「そういう情報はいらん! 寝所前の護衛はどうした!」
「相手は王位継承者です! 一介の護衛神官が手を触れられるようなお方ではありません」
「どうしますか、室長!」
「あああああ!!」
室長は叫んだ。
「先日も琥珀宮から苦情が入っているというのに!」
「はい。『成人前の姫君を、若宮司様が寝所に招き入れておられると聞き及ぶ。しかも某姫君は婚約中で、相手は我らが琥珀宮の王子だとか。人々の規範となるべき大神殿がずいぶんと緩い倫理観をお持ちのようだ』と、そう苦情が入っております!」
「読み上げるな! 西の奴らの澄まし顔が目に浮かぶ!」
「若君にも困ったものですねえ」
「くっ、どうすれば......!」
「室長! 第一守衛団、ロタラ団長が若君の寝所へ高速で移動しているようです!」
「なに! た、助かった......! 王女同士なら、触れられる!」
「えっ、そういう問題ですか?」
⭐︎
薄明かりの寝所で、白く動く人影があった。
「エンジュ、寝たふりをしても無駄よ」
澄んだ水が手水鉢に注がれるような、滑らかな声。
長い指がエンジュの唇に触れた。
「どうやら、本当に寝ているみたいね」
エンジュは静かに寝息を立てていた。
その顔に、エンジュのものではない乳白色の髪が滑り落ちた。
長い指がエンジュの口角に差し込まれると、その口はだらしなく開いた。
エンジュの鼻先に顔を寄せて、少女がひそやかに笑った。
「いいわ......」
少女は反対側の手で綿棒を握り、しっかりと構えた。
綿棒が、エンジュの口に差し込まれる――
その瞬間、エンジュの目が開いた。
翡翠の瞳が目から飛び出す勢いだった。
「うわあっ! ナ、ナナリエ! どうしてここに!?」
エンジュは寝台の上を転がって少女から距離を取った。
転がった勢いで寝巻きが激しくはだけている。
「あら、起きちゃったのね。失敗だわ」
ナナリエは静かに立ち上がると、冷ややかな目でエンジュを見下ろした。
エンジュは慌てて寝巻きを直した。
あらわになった脛まで隠すように、さらにその上から布団にくるまった。
落ち着きを取り戻したエンジュは、厳しい目をナナリエに向けた。
「ナナリエ? 異性との距離の取り方って知ってる? 無防備に寝所に入ってきたら危ないんだよ」
「エンジュの部屋に入ると危険なの?」
ナナリエは首を傾げた。その瞳は虹色の光を返し、複雑に輝いていた。
「いやいや、僕の部屋は大丈夫だけど......」
エンジュの声が小さくなる。
「そうよね。よく一緒に寝たじゃない」
「それ、君が二歳とか三歳のときの話でしょ」
ナナリエは記憶を辿るように宙を見上げた。
「いいえ、最後に寝たのは私が十歳の春よ」
「それ、木陰で昼寝したやつでしょ!数えちゃだめ!」
エンジュは布団から顔だけ出して抗議を続けた。
「だからそうじゃなくて! ......というか、僕に何をしようとしてたの」
ナナリエは寝台に膝をついて乗り上げた。
手には相変わらず綿棒を握っている。
「エンジュ。私、欲しいの......」
ナナリエの吐息がエンジュの前髪を揺らした。
「はぁ......! ナナリエ、待って......!」
バアアアアン!!
突然、寝所の扉が音を立てた!
扉が壁にめり込んでいる!
「エンジュ!!」
ロタラが戸口に立ち塞がっていた。髪が乱れ、息を切らしていた。
「......どういうことだ」
暗い寝所。布団にくるまっているエンジュ。寝台の上に膝をつくナナリエ。近すぎる、ふたりの顔。
ロタラは瞳を苛烈に燃やした。
「ロタラ......」
エンジュの声を塞ぐように、ナナリエが寝台から下りてロタラの前に立った。
相変わらず虹色の瞳は冷え切っている。
ロタラは肩で息をしながら、ナナリエの肩越しにエンジュを睨んだ。
「エンジュ! 見損なったぞ!」
「ち、違うよ。僕は......」
「私に隠れて――」
怒りに震えるロタラに、ナナリエがすたすたと歩み寄った。
「ロタラもこっちに来ていたのね」
ロタラの肩がびくっと大きく震えた。
ナナリエはかまわずロタラの長身を下から見上げる。
「ナナリエ......」
ロタラは半歩後退した。先ほどまで赤々と燃えていた瞳は、狼狽に揺れていた。
「あっ」
ロタラは思わず声を漏らした。
さっきまで大股に開いていた脚を閉じ、背筋を伸ばし、乱れた髪を手で撫でつけた。
一度だけ咳払いをする。
整えた喉からは、柔らかな声が響いた。
「久しぶりだね、ナナリエ」
ロタラは右手で前髪を掻き上げた。橙色の瞳は温もりに満ちていた。
「しばらく会わないうちに、その......う、美しくなったじゃないか」
最後の方は声が上擦っていた。
「ロタラは相変わらず勇ましいわね」
ナナリエが微かに目を細めると、ロタラの顔が一気に輝いた。
「ずるいじゃないか。エンジュのところばかり訪ねて。私のところにはどうして顔を見せてくれないんだい」
「ロタラには用事がないもの」
ナナリエは淡々と答えた。
一度だけ名前を出されたエンジュは部屋の端で存在感を消していた。
「また守衛団の訓練に参加してくれないか。君が来ると団員の士気も高まる。私も、その......君の笑顔を見ると力が湧くんだ」
「ロタラは真面目ね」
ナナリエはじっとロタラを見つめた。
「ところでこんなむさ苦しいところに何の用だい」
ロタラは椅子を引いて、座面を手でささっと払った。
「むさ苦しい......?」
エンジュは自分の匂いを嗅いだ。
ナナリエは促されるまま椅子に腰を下ろすと、射抜くような目でエンジュを見た。
「エンジュの髪の毛と口腔粘膜をもらいにきたの」
「......!」
エンジュは両手で口を押さえた。みるみる顔が紅く染まっていく。
「む、無理! ナナリエに......僕の......なんて、渡せるわけない......!」
「なんと......! そんな汚いものを欲しがるなんて!」
ロタラが目を見開いて後ずさりした。
「汚い?」
エンジュはロタラを睨んだ。
しかし、迫り来るナナリエの上目遣いに、意識はすぐそちらに引き戻される。
「ちょっとだけでいいの。痛くしないから」
ナナリエは瞳を潤ませていた。
エンジュの身体が固まった。
「だめ......だめだよ......」
口では拒否しながらも、エンジュはナナリエから視線を外すことができなかった。
ナナリエの指先が頬に触れた。
「......!」
エンジュは息を呑んだ。
「ち、近い......! 近いから!ナナリエぇ......!」
硬直した身体が必死に後ずさりし、そのまま――
寝台から転がり落ちた。
「ナナリエ、私ので良かったら......」
落ちたエンジュには目もくれず、ロタラがおずおずと名乗り出た。
「ロタラのはいらないわ。......だって、いろいろ普通なんだもの」
「......負けたッ」
ロタラは膝から崩れ落ちた。
「ロタラ、助けてよ」
「うるさい。君には私の気持ちがわかるまい。ナナリエに求められる君には」
「ロタラにだって僕の繊細な気持ちがわかるわけないよ! 女の子に口の中なんて見せられるわけないじゃないか!」
ナナリエの目つきが一段と鋭くなった。
「......ただの口よ」
「そうだ! ただの口だ!さっさとナナリエに細胞を提出しろ!」
ロタラは足を踏み鳴らした。
「僕の貞操が......」
エンジュの目に涙が浮かんだとき――
かたん。
先ほどロタラが破壊した扉が小さく音を立てた。
三人は、音のする方に視線を向けた。
そこには、扉をもとの位置に直すハルジオンの背中があった。
「ハルジオン......!」
エンジュの表情が急激に明るくなった。
対して、ロタラの眼光は鋭くなった。
ハルジオンは背を向けたまま低い声で言った。
「ナナリエ」
名前を呼ばれたナナリエは、身体をびくりと縮ませた。
「......ハルジオンお従兄さま」
ハルジオンはゆっくり振り向いて室内を見渡し、表情を変えずに口を開いた。
「君はまだ未成年だ。高等教育も卒業していない」
「はい......」
ナナリエは上目遣いにハルジオンを見つめた。
「今の君は、人に検体の提供を求められる研究者か?」
「......いえ、まだ未熟です」
ナナリエはしょんぼりと目を伏せた。
「なら、こうしよう」
ハルジオンはナナリエの前まで歩いてきて身体を屈めた。
壊れ物を扱うような手つきで、ナナリエの肩に手を置く。
「来年、君が成人し、正式に生物学者として認められたら、改めてエンジュに頼もう」
「え。」
エンジュから変な声が漏れた。
「成人祝いということなら、エンジュも快く引き受けてくれるんじゃないかな」
ハルジオンは柔らかい笑みをナナリエに向けた。
「成人のお祝い......」
ナナリエから甘いため息が漏れた。
「待って。僕、そんな......」
エンジュが涙目で訴えると、ハルジオンはエンジュを一瞥して頷いた。
エンジュも頷き返す。
ハルジオンは背筋を伸ばして、ナナリエに手を差し出した。
「今日は翡翠宮当主に、双王の継承について助言をいただく約束だろう。神殿から少し歩く。そろそろ行こう」
ナナリエは差し出された手を迷わずに取った。
「それでは失礼する。私の婚約者が騒ぎを起こして申し訳なかった」
ハルジオンは悠然とした笑みをその顔に湛え、エンジュとロタラに背を向けた。
「エンジュ――」
ハルジオンに手を引かれながら、ナナリエは名残惜しそうに振り返った。
「細胞をもらうのは、また今度にするわね」
「......!」
布団を握りしめるエンジュの手に一層の力が入った。
ふたりが去り、扉が閉まった。
エンジュは布団にくるまったまま床の上に座り込んで、膝に頬杖をついた。
ふたりが手をつないで去った向こうを、しばらく見つめる。
大きな手のひらに押されて、頬がむにっと潰れていた。
その手のひらの下で、口元が堪えきれずゆるんだ。
「やっぱり、このふたりだなぁ」
布団の中に隠れて、くすくす笑った。
「くっ......連れて行かれたッ」
ロタラが床に拳を打ちつけた。拳は小刻みに震えている。
「完全に負けた。あんな華奢で大人しい男に、なぜ君はナナリエを盗られたんだ!」
「ええ、僕? ロタラが自分で勝負して!」
エンジュはようやく布団から出てきた。
髪も服も乱れていたが、直す素振りすら見せない。
「それにハルジオンは僕を助けに来てくれたんだよ」
「そうか! 君も敵か!」
ロタラは床に胡座をかき、片手で頭を掻きむしった。
「卑怯者め! 私たちのナナリエに、ひとりでこっそり会うなんて!」
「こっそり会っていないよ。勝手に押しかけてきたんだよ!」
「自慢かッ!」