第九話 いつも君を見ている
エンジュはときどき遠くを見ることがあった。
国中を見渡せる夕暮れの山で、ひとり黙っていることもあったし、神殿の裏の泉の前で光を返す水面をひたすら見ていることもあった。
ロタラは、それがエンジュの精神統一の習慣なのだろうと、深く考えずに眺めていた。
明るい時間なら、日光に当たって養分を生成しているだけかもしれない。
そのくせ、突然立ち上がって「お腹空いた」と言うこともある。
ただ、ときどき、目の前にあるものまで見えていないような目をする。
その日、ロタラはエンジュの護衛で王都に来ていた。
もうすぐ一年に一度の春の大祭がある。奉納の演舞と、神々の息吹を国中に巡らせる儀式が行われる祭りだ。エンジュはその進行を確認するため、大神殿の王都分社を訪れていた。
一日の仕事を終えたあと、エンジュは分社の塔へ上った。
白亜の街並みの向こうへ、太陽が沈んでいく。
日没前、この国の空はほんの少しだけ翡翠色に染まる。
「今年も現れないのかなぁ」
欄干に頬杖をついて、エンジュは呟いた。
――どうやら私に話しかけているのではないな。
ロタラはそう判断し、周囲を警戒していた。若宮司に危害を加えるような国民は、まずいない。塔の上では、飛んでくる鳥の糞からエンジュを守るくらいしか、普段はすることがない。
それでも翡翠宮の大神殿はエンジュの近接護衛としてロタラを指名し、ロタラの家門である珊瑚宮はそれを毎回引き受けていた。
『大神殿は、なぜ毎回、私を指名するのですか』
一度だけ、ロタラは父親に尋ねたことがある。
ロタラの兄弟姉妹は、それぞれの技量を活かして国のために働いている。
それでも、珊瑚宮第一守衛団の団長という役職は軽くはなかった。
『お前に適性があると言っていた。それが何か我々にもわからないが』
父親はそれだけ答えた。
『友人だから便宜を図っているのではなければいいのです』
ロタラはそれ以上、理由を知ろうとはしなかった。
私は若宮司を守るのだ。
任務を言い渡されるたびに、ロタラは拳を固く握りしめていた。
夕暮れの塔に、エンジュの声が落ちる。
「どこにいるんだろう」
相変わらずふわふわした声だ。
「ひとりぼっちなのかな」
こいつの言っていることは全くわからない。
だが自分が理解する必要はない。
「怖くないのかな」
他の誰にも見えないものを見る。それが若宮司なのだから。
理解はできなくても、エンジュ自身を守ればいい。
簡単な話だ。
ロタラは風に吹かれるエンジュの背中を見ていた。
エンジュが少しだけ俯いた。
「......僕は怖いよ」
絞り出すような声だった。
「会いたくない」
欄干を握るエンジュの手に力がこもったのを、ロタラは見逃さなかった。
「いなければいい」
吐き捨てるように言ったあと、エンジュは顔を上げた。
深緑の髪が夕日に照らされて赤く染まる。
エンジュは薄れゆく空を見上げながら、その声を風にのせた。
「でも、わかってあげられるのは僕しかいない」
風にのって、その身体ごと飛んで行きそうだった。
――行かせない。
ロタラの身体はすでに動いていた。
エンジュの腕を掴むと、塔に吹き付ける風に押されるように、エンジュが身体ごと振り向いた。
背中に夕日を受けて、エンジュの顔には影が落ちていた。
ロタラはエンジュの両頬を、そっと両手で包んだ。
翡翠の瞳がどこまでも澄み切っている。
美しすぎる。
エンジュの頬を包んだまま引き寄せ、ロタラは自分の額をエンジュに近づけた。
赤く燃えるような瞳がエンジュを射程に捉えた。
「エンジュ......!」
「......ロタラ?」
焦点の合わない翡翠の瞳がかすかにロタラを見出した。
鼻先が触れる、その瞬間。
――ゴッ。
潔い音が空気を止めた。
「......ったぁ」
再び空気を動かしたのはエンジュの気の抜けた声だった。
ぶつかり合った額がゆっくりと離れていく。
それでも風になびく深緑の髪と橙色の髪は少しだけ絡んでいた。
エンジュは額をさすった。
「急に何するのさ」
「君が体感した通り、頭突きだ」
「......痛かったよ」
「それはそうだ。でなければ意味がない」
ロタラはエンジュの頬から手を離して、背筋を伸ばした。
「君を連れては行かせない」
熱い瞳が真っ直ぐにエンジュを見ていた。
「なんのこと?ロタラ、どうしたの?」
ロタラは表情も姿勢も変えない。
「私は君と違う。見えないものは見えない」
風が止んだ。日没前、風向きが変わるほんの短い時間だ。
「だが、目に見えるものは見落とさない」
ロタラの目にはエンジュが映っていた。
「足元と背後は私に任せろ」
射抜くような目が、そこでほんの少し緩んだ。
「だから君は、好きなだけ遠くを見ていればいい」
「......またよくわからないロタラ理論かぁ」
額から手を離さないまま、エンジュが笑った。
「奇遇だな。私も君の理論は全くわからない」
ロタラは笑った。
白い歯が夕日を受けて眩しく輝く。
「じゃあ、降りよっか。お腹空いた」
「日光を受けてもやっぱり腹は減るのだな」
ふたりは夕日を背中に受けて歩き出した。
「おでこ、まだ痛いよ」
「奇遇だな。私もだ」
「そこは一緒なんだ」
北の空には山へ帰っていく鳥の群れが飛んでいた。