第1話 雨宿り
──ピンポーン。と、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、雨で濡れている日暮祥平がふくれっ面で立っていた。
「何だよ、祥平。濡れてんじゃねえか」
「うるせえ。いいから部屋の中に入れろ」
「分かった分かった。その前に、俺の服、貸してやるよ」
「いらねえ」
「ここで駄々こねんな」
ムスッとしている祥平に、俺はタオルをかけてやった。
ふわふわのタオルに、目を細める祥平。
「玄関先にいたら雨に濡れるだろ。そろそろ部屋入れ」
「ん、分かった」
今日に限って妙に素直だ。なんだか気が狂う。
もっと暴言吐いてくるのかと思ったけど、意外とそれどころじゃないらしい。
祥平も一人暮らししてるというのに、今日は俺に頼ってくるなんて珍しい。本当に珍しい。
「何があったんだよ」
「何もねえ」
「いや、本気で悩んでるから俺んとこに来てんだろ?」
「そうじゃねえ。別に悩んでねえ」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
「......」
「何も言えねえじゃねえか」
「るせぇ」
納得いっていないのか、俺にそっぽを向きながらも勝手に俺の服を着ている。
いったい何があったというのか。祥平は昔からこうだ。何かあると黙り込む。黙って、不機嫌になって、限界まで一人で抱え込む。
そのくせ、本当にどうしようもなくなると俺のところに来る。
「コーヒー飲む?」
「いらねえ」
「じゃあ、なんか食う?」
「いらねえ」
「風呂」
「入らねえ」
「わがままだな、お前」
「うるせえって言ってんだろ」
ようやくいつもの調子が戻ってきた。少し安心してしまった自分がいる。
俺は祥平の隣に腰を下ろした。
「で?」
「......」
「何があった」
「だから何もねえって」
「何もねえ奴は、土砂降りの中びしょ濡れになって友達んちまで来ねえよ」
「......散歩」
「嘘つけ」
「散歩だよ」
「傘も差さずに?」
「途中で降ってきた」
「天気予報、大雨だったけど」
「......」
祥平の眉間に皺が寄った。
「お前さ」
「ん?」
「そういうとこ、マジで嫌い」
「何が」
「変なとこだけ頭回るとこ」
「褒めてんの?」
「死ね」
はいはい、と適当に流す。
しばらく雨の音だけが部屋に響いていた。窓を叩く雨粒は思っていたより激しい。
祥平はソファの端に座ったまま、借りた服の袖を握っている。俺の服だから少し大きい。指先まで半分くらい隠れていた。
いつもなら勝手にテレビをつける。冷蔵庫を漁る。
人のベッドに寝転がって、ここは俺んちだと言わんばかりにくつろぐ。なのに今日は、何もしない。
「祥平」
呼ぶと、肩が僅かに揺れた。
「......何」
「俺に言えないこと?」
「......」
「だったら聞かねえけど」
祥平が顔を上げた。ほんの一瞬だけ、ひどく寂しそうな顔をした。
けれど、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻る。
「聞けよ」
「どっちだよ」
「察しろよ、馬鹿」
「無茶言うな」
「......お前なら分かるだろ」
そんなことを言われても困る。俺は超能力者じゃない。
祥平が何を考えているかなんて、全部分かるわけがない。ただ。
「分かんねえから聞いてんだよ」
そう言うと、祥平は黙った。
「お前が何考えてんのか、俺に全部分かるわけねえだろ。でも、お前が何かあった時に一人で抱え込む馬鹿なのは知ってる」
「......馬鹿って言うな」
「じゃあ言え。言いたくなるまで待ってやるから」
祥平の指が、また袖を握った。ぐしゃ、と布地に皺が寄る。
「今日」
「うん」
「仕事で、ちょっとやらかした」
ようやく出てきた言葉は、思っていたより普通だった。
「ミス?」
「......俺のせいじゃねえと思ってた」
「うん」
「でも、俺のせいだった」
「そっか」
「それで先輩に怒られて。上司にも呼ばれて」
ぽつり、ぽつりと祥平が話す。
「別に、怒られんのはいいんだよ。俺が悪かったんだから」
「うん」
「でも」
そこで言葉が止まった。唇を噛んでいる。
「『お前は一人で仕事してるつもりなのか』って言われた」
祥平が俯いた。
「困ったなら頼れって。勝手に判断すんなって」
「......」
「それ聞いたら、なんか」
小さく息を吐く。
「お前の顔、浮かんだ」
思わず祥平を見る。
「俺?」
「見るな」
「いや、俺の話してんだから見るだろ」
「見るなっつってんだろ」
「はいはい」
仕方なく前を向く。隣から、祥平の声だけが聞こえてきた。
「俺さ」
「ん」
「人に頼んの、嫌いなんだよ」
「知ってる」
「弱いって思われんのも嫌だし」
「知ってる」
「迷惑かけんのも嫌だ」
「それも知ってる」
「......でも」
祥平の肩が、俺の肩に触れた。偶然なのか。わざとなのか。
分からない程度の、小さな接触だった。
「今日だけ」
「うん」
「ちょっと、ここにいていい?」
俺は何も言わなかった。代わりに、少しだけ祥平の方へ身体を寄せた。
「......何だよ」
「別に」
「近えよ」
「嫌なら離れろよ」
離れない。だから俺も、そのままにした。
「泊まってけよ」
「は?」
「どうせ雨止まねえし」
「別に帰れる」
「じゃあ帰れ」
「......」
「ほら」
「......泊まる」
「素直じゃん」
「うるせえ」
少し間を置いて、祥平が俺の肩に額を預けてきた。
重みなんてほとんどない。それでも俺は、動かなかった。
「なあ」
「ん?」
「今日だけだからな」
「何が?」
「......こういうの」
何を指しているのかは聞かなかった。
「分かったよ」
「絶対誰にも言うなよ」
「言わねえよ」
「笑うなよ」
「笑ってねえって」
「声が笑ってんだよ」
「気のせいだろ」
「ムカつく」
「元気出てきたじゃん」
「死ね」
肩に額を押しつけたまま、祥平が悪態をつく。
いつもの祥平だ。だから俺は、ようやく安心して。濡れたままだった祥平の髪を、タオル越しに乱暴に撫でた。
「頑張ったな」
祥平が黙る。
「今日はもう、頑張んなくていいよ」
「......うるせえ」
声が、少しだけ震えていた。聞かなかったことにしてやる。
外ではまだ、雨が降っている。今夜くらいは止まなくてもいいか、となんとなく、そう思った。