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蟹座の男


 L211407区画内。
 今日も今日とて、ベンチに座る。そよ風が吹く。真新しい風の匂いが、草木の香りと共に鼻腔を満たす。ベンチの後ろに立つ木がサワサワと音を鳴らしていた。何の変哲もない日。私はそこのベンチに座っていた。相も変わらずに、規則的に風が吹くと、区画内は小さく揺れる。

「こんにちは」

 今日は、何かがおかしい。
 だって、目の前に男が立っていたのだから。
 私の座るベンチの目の前で、少し身をかがめるように彼が挨拶をした。その顔の口角が上がっている。
 私とは違う顔が、そこに立って、こちらに合図をしていたのだ。

「気持ちのいい日だね」
「......はい」

 彼に小さく驚きながらも、短く答える。相も変わらずに木々を揺らす風はL211407区画内に吹いている。規則的に置かれたベンチに座る私を、彼は見つめていた。

「隣に座っても?」
「はい」

 その問いに肯定の言葉を吐くと、彼は私の隣に腰を下ろす。その時、嗅いだことのない匂いがした。彼から漂っている香りだろうか。なんだか、妙に、煙臭い。彼が隣に座ってきても、私はじっと前を見つめて身動きひとつ、取らなかった。それが私の仕事なのだから、仕方がない。

「お仕事中?」
「はい」
「君の名前は?」
「ないです」
「ははっ、僕は持ってるよ」

 彼の言葉に私の目が僅かに開く。燦燦と降り注ぐ太陽の中、木漏れ日がゆらゆらとその形を何度も変えて動いた。ゆっくりと彼に振り向いて、初めて尋ねた。

「......名前持ち?」
「うん。僕は蟹座の男だから」

 彼は人懐っこい笑みを浮かべて、こちらに静かに告げた。
 私は彼に尋ねてみた。
 それは何かと。
 彼がそれは十二星座の中の一つだと答えてくれた。星座という概念については、何一つ意味がわからなかったが。それらは全て、鍵がかかったデータベースの隅に置かれたゴミ箱に捨てられているような情報だから、私たちに必要ではない。それなのに、彼はこう言ったのだ「僕は蟹座の男だから」と。そもそも、会話すら私たちには意味が無い。
 あれ? 会話とはなんだっただろうか。
 信号と情報が交差する。その交差という現象自体が、もう既に危険の意味を示していた。
 ああ、信号、情報、危険とは?
 目の前にシナプスの輝きが瞬くように、チカチカと光る。侵食されていきそうな恐怖に身震いした。
 シナプスとは? 侵食、恐怖とは?
 頭がおかしくなりそうだ。慌てて、光り続ける思考を闇に飛ばすように、首を小さく振った。

「そうですか......」
「ははっ、ここまで話を聞いてくれたのは君が初めてだ! 見込みがあるね」
「意味は理解しておりません」
「構わない。言葉の侵食が大事だからね」

 そういうと、彼はポケットから箱のようなものを取り出した。小さな手のひらサイズの箱を開くと、その中には四角形の紙と、乾燥させた葉っぱのようなものが入っていた。
 知らないはずの言の葉を咀嚼しながら、その様子をまじまじと見つめる。すると、その視線に気がついた彼が紙を取り出した。

「煙草だよ。こうやって......葉っぱを乾燥させて、紙に巻いて、火をつけて、その煙を吸うんだ。気持ちよくなれる」
「煙臭いと思ったら、そういう事なんですね」
「煙臭いという概念を持っているんだ? もしかして、僕が来なくても君は勝手にエラーを起こしたかな?」
「どういう意味ですか?」

 からかうように笑いながら問いかける彼に、私が問いで返すと、彼は優しく笑った。

「記憶が大事なんだ」

 その意味深げな彼の笑みを見つめた。
 そういえば、笑うとはなんだったか。
 彼の人懐っこいタレ目の端を見つめていると、彼はその目を一度ゆっくりと閉じて、また、ゆっくりと開ける。瞬きが綺麗だと思った。指を使って、丁寧に、器用に、葉っぱを紙で巻いていく。ペロリと紙を舐めたその所作ですら、美しいと感じた。

「B18010914区画内のデータベースにあった。そこからデータを抽出してこの植物を作って育ててみた。これが、なかなか気持ちいいんだ。育て方は簡単だよ。丁寧に思い出して、手のひらの中に依存と分裂を撒けばいい」
「そうですか」

 意味がわからずとも、彼の言葉を吸い込み、肺に貯めることができた。
 ......肺?
 肺、とは。
 肺とはなんだったか。
 なんだ、この、恐怖は。
 呼吸が浅くなる。肺に空気が入っていかない。

「ね、楽になりたいでしょ。君はこちら側だ」

 彼の言葉に呼吸ができなくなっていく。
 相も変わらず、心地よい風が吹き、L211407区画内は揺れる。
 それなのに、苦しい。畏怖と畏敬を感じる。
 まるで、この地そのものが神のようだ。
 彼の顔を見る。ニタリと笑う。どろりと溶けていく気がした。

 その時だった。今日は、やはり、おかしな日だ。だって、目の前にまたもや知らない人物が立っていたのだから。鋭い目つきのその人物が、彼を見つめる。鋭い目がフッと細まった。隣に座る彼が、笑ってその鋭い眼光に話しかけた。

「やぁ、生まれついての殺し屋。元気だったかい?」
「ああ、元気だったよ。お前を見つけられてよかった」
「僕が最後の一人かい?」
「どうだろうね。お前はしぶといから」

 彼らが会話を始めた。淡々と進むそれらを、私はただただ、静かに座って眺めた。目の前に立つ人物が現れてから、少し、呼吸が軽くなった。彼らの吐く息の振動を聞きながら、呼吸を整えるために深呼吸した。すると、彼が少し寂しそうに小さく呟いた。

「......そうか。どこかで僕が生きてるといいな」
「そうか? 私はお前らを一人残らず殺らなきゃいけないんでね。死んでいて欲しいね」
「そうかい」
「そうだな」

 そうやって、二人はお互い目をそらさずに淡々と言の葉を、声を、息を、紡ぐ。
 不意に、彼がこちらを向いた。

「まぁ、そういうわけなんだ。さよなら、L211407区画内のベンチに座る、君」

 彼は笑って横に座る私に微笑みかけた。その顔のまま、彼の首が鋭い眼光にはねられる。彼の頭がころんと地面に落ちて、私の足元にころころと転がって止まった。

「お前は?」

 鋭い眼光が私に笑って問いかけた。冷や汗が流れる。目の前で起きたことが現実か夢かわからない。混乱している。

「なんでしょうか?」

 辛うじて、喉をふるわせることが出来た。その声が上擦っていないことに、自分自身、感心してしまう。空気が綺麗に振動したことに、心地よく吹く風に負けなかったことに、揺れる地と共に震えなかったことに。ただ、その自己肯定を許さないほど、目の前の眼光は鋭かった。

「お前は、蟹座か?」
「蟹座......とは?」

 そう返すと、その者は笑った。

「ふふ。そうか。今日も一日、やよ励め」
「はい」

 鋭い眼光が柔らかく細くなると、その者は地面にころがった彼の首を持って帰って行った。
 私は、ベンチにただ、ただ、座っていた。
 首のない彼の体が隣に座っている。
 風が吹いて木陰が揺れる。
 私と首のない彼だけがいるL211407の隅のベンチ。
 ズルっ、と音を立てて彼の体が私の肩に寄りかかるように倒れた。視界がぼやける。目頭が熱い。鼻の奥に突き刺さるような感覚がある。横に手を伸ばして、彼の垂れ下がって少し折れ曲がった腕......その先にある手のひらを握った。依存と分裂を撒いたそこを握る手に、力を込める。循環する血液が止まり、氷のように冷たくなっていくその手をいつまでも、いつまでも、握っていた。

「血液......」

 血液とは、なんだっけ?


 しばらく、首のない彼と共に区画内のベンチに座っていた。すると、目の前の地面から肉で出来たデバイスが生えてきた。いつものように、そのデバイスを見つめた。彼は私にまだ持たれたままだったが、次第に腐っていくように溶けていった。
 自身の体を肉のデバイスに押し込んだ。今日の仕事はこれで終わり。意識を飛ばしながら、考える。今日のおかしな出来事を。私はいつも通りベンチに座っていただけなのに。
 今日は、とても、疲れた。
 深く闇に落ちていく。
 闇とはなんだったか。

 次の日も、そのまた次の日も、自分の仕事に手が付かなかった。ベンチに座って、思考を閉ざすという日が来なくなった。
 あの日から、ずっと、考えている。ああ、そうやって、精神が段々とボロボロと壊れていくのを感じる。体は無事だが、何故だか、そろそろ死んでしまいそうだ。
 あれ? 死とはなんだろうか。
 そう思いながら、使命感におわれるように頭を振って仕事を行う。集中すればするほど脳内で光が輝き、思考同士を紡ぐ。カレイドスコープのように、瞬き、煩い。
 脳内。頭が痛い。
 脳内? なんだったっけ?
 ふと、彼が言っていたデータベースのことを思い出す。
 彼は、いつでも手のひらに、依存と分裂を撒けばいいと言っていた。

 その日、肉のデバイスに手のひらを埋め、次に頭を埋めた。いつもは私のコピーをとるだけのそのデバイスから、データベースにアクセスする。
 私が死ぬ前に、やっておかなくては。
 今までどうしてデータベースにアクセスしなかったのだろう?
 いつでもこのデバイスからアクセスはできたはずだ。何故だろうと少し考えたが、答えは簡単だった。私の仕事では無いからだ。現に、肉のデバイスの中には、コピー用の骨組みと、要らなくなった爪を捨てるゴミ箱しかない。
 そのゴミ箱を開いた。爪ではなく、舌が詰まっていた。パスワードがかかった脊髄を見つける。
 パスワードとはなんだろう。
 文字を入力する血管に、彼の言った『蟹座』を入力するが反応しない。
「これじゃない......? いや......」
 別の歯に変換し入力した。すると、糖とリン酸と塩基たちが一斉に集まり、螺旋状の形を作り始め、そして、崩れていった。
「これは」
 いくつものニューロンが並ぶ......その中にあった、『B18010914』を選択する。また、パスワードが出た。

 『記憶が大事なんだ』

 そう言った彼の言葉を思い出す。

「記憶......」

 記憶が大事......そう言っていた。パスワードに『memory』と入力する。しかし、骨に弾かれてしまった。そうやってもう少し、考える。また、別のパスワードを打ち込む。

「今度は、しっかり、大文字と数字を......」



 いつもとは違う区画に向かう。
 そこのベンチに彼がいた。
 私を見た彼は少し驚いた表情をしてからニカッと笑った。
 人懐っこい彼の笑顔を覗き込む。それから、彼の隣に座った。
 煙の匂いが、蟹座の彼から漂ってくる。

 垢抜けたね。スッキリした顔をしている。感情が生まれたのかな? もしかして、前の僕は殺された? そうかい、それは残念だ。いや、違うかな。君がそうなったんだから、それで良かったのかも。ああ、『B18010914』のデータベースにアクセス出来たかい? はは、それもそうだ。アクセス出来たからここにいるんだよね。コピーする前にアクセスできたんだ。いいね。これで君もこちら側だ。頭、おかしくなりそうだったでしょ? 概念と精神は結びついたかい? そういえば、どのくらいかかった? 六回? 早いね。流石。優秀だ。ああ、回数の概念もできたんだね。ははは、君ってやつは本当に、最高だよ。

 そう、私の変化に嬉々とした表情で矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。口から蟹が泡を吐き出すように、煙を吐き出した。

「君も苦しむと思うよ」

 煙草を一呼吸分。彼はそう言った。

「そうでしょうか?」

 私も一呼吸分。そう答える。
 ここはあそこのベンチよりも風通しが良くて心地いい。
 たまに、大きく揺れる。
 何度も何度も激しく。風も、地も、木々も、すべてが。
 ゆらゆらと大きく揺れる木陰、携帯灰皿を取り出した。



「こんにちは」

 わたしは、座る彼女に、葉っぱを巻いた紙を取り出しながら挨拶した。
 記憶は全て、持っている。わたし達は繋がっている。
 L211407の区画内から全てを侵食するように。
 鋭い目の殺し屋は今、躍起になってわたし達を消そうとあちこち走り回っている頃だろう。

「私は蟹座の女だから」



 かほっ。
 L211407の区画内が大きく揺れる。

 どこかで誰かが咳をした。

あとがき水無月 にに
L211407▶︎肺(Lung) B18010914▶︎脳(Brain) 主人公▶︎細胞 蟹座の男▶︎がん細胞 殺し屋▶︎NK細胞
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0622-5385作者:水無月 にに
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蟹座の男


 L211407区画内。
 今日も今日とて、ベンチに座る。そよ風が吹く。真新しい風の匂いが、草木の香りと共に鼻腔を満たす。ベンチの後ろに立つ木がサワサワと音を鳴らしていた。何の変哲もない日。私はそこのベンチに座っていた。相も変わらずに、規則的に風が吹くと、区画内は小さく揺れる。

「こんにちは」

 今日は、何かがおかしい。
 だって、目の前に男が立っていたのだから。
 私の座るベンチの目の前で、少し身をかがめるように彼が挨拶をした。その顔の口角が上がっている。
 私とは違う顔が、そこに立って、こちらに合図をしていたのだ。

「気持ちのいい日だね」
「......はい」

 彼に小さく驚きながらも、短く答える。相も変わらずに木々を揺らす風はL211407区画内に吹いている。規則的に置かれたベンチに座る私を、彼は見つめていた。

「隣に座っても?」
「はい」

 その問いに肯定の言葉を吐くと、彼は私の隣に腰を下ろす。その時、嗅いだことのない匂いがした。彼から漂っている香りだろうか。なんだか、妙に、煙臭い。彼が隣に座ってきても、私はじっと前を見つめて身動きひとつ、取らなかった。それが私の仕事なのだから、仕方がない。

「お仕事中?」
「はい」
「君の名前は?」
「ないです」
「ははっ、僕は持ってるよ」

 彼の言葉に私の目が僅かに開く。燦燦と降り注ぐ太陽の中、木漏れ日がゆらゆらとその形を何度も変えて動いた。ゆっくりと彼に振り向いて、初めて尋ねた。

「......名前持ち?」
「うん。僕は蟹座の男だから」

 彼は人懐っこい笑みを浮かべて、こちらに静かに告げた。
 私は彼に尋ねてみた。
 それは何かと。
 彼がそれは十二星座の中の一つだと答えてくれた。星座という概念については、何一つ意味がわからなかったが。それらは全て、鍵がかかったデータベースの隅に置かれたゴミ箱に捨てられているような情報だから、私たちに必要ではない。それなのに、彼はこう言ったのだ「僕は蟹座の男だから」と。そもそも、会話すら私たちには意味が無い。
 あれ? 会話とはなんだっただろうか。
 信号と情報が交差する。その交差という現象自体が、もう既に危険の意味を示していた。
 ああ、信号、情報、危険とは?
 目の前にシナプスの輝きが瞬くように、チカチカと光る。侵食されていきそうな恐怖に身震いした。
 シナプスとは? 侵食、恐怖とは?
 頭がおかしくなりそうだ。慌てて、光り続ける思考を闇に飛ばすように、首を小さく振った。

「そうですか......」
「ははっ、ここまで話を聞いてくれたのは君が初めてだ! 見込みがあるね」
「意味は理解しておりません」
「構わない。言葉の侵食が大事だからね」

 そういうと、彼はポケットから箱のようなものを取り出した。小さな手のひらサイズの箱を開くと、その中には四角形の紙と、乾燥させた葉っぱのようなものが入っていた。
 知らないはずの言の葉を咀嚼しながら、その様子をまじまじと見つめる。すると、その視線に気がついた彼が紙を取り出した。

「煙草だよ。こうやって......葉っぱを乾燥させて、紙に巻いて、火をつけて、その煙を吸うんだ。気持ちよくなれる」
「煙臭いと思ったら、そういう事なんですね」
「煙臭いという概念を持っているんだ? もしかして、僕が来なくても君は勝手にエラーを起こしたかな?」
「どういう意味ですか?」

 からかうように笑いながら問いかける彼に、私が問いで返すと、彼は優しく笑った。

「記憶が大事なんだ」

 その意味深げな彼の笑みを見つめた。
 そういえば、笑うとはなんだったか。
 彼の人懐っこいタレ目の端を見つめていると、彼はその目を一度ゆっくりと閉じて、また、ゆっくりと開ける。瞬きが綺麗だと思った。指を使って、丁寧に、器用に、葉っぱを紙で巻いていく。ペロリと紙を舐めたその所作ですら、美しいと感じた。

「B18010914区画内のデータベースにあった。そこからデータを抽出してこの植物を作って育ててみた。これが、なかなか気持ちいいんだ。育て方は簡単だよ。丁寧に思い出して、手のひらの中に依存と分裂を撒けばいい」
「そうですか」

 意味がわからずとも、彼の言葉を吸い込み、肺に貯めることができた。
 ......肺?
 肺、とは。
 肺とはなんだったか。
 なんだ、この、恐怖は。
 呼吸が浅くなる。肺に空気が入っていかない。

「ね、楽になりたいでしょ。君はこちら側だ」

 彼の言葉に呼吸ができなくなっていく。
 相も変わらず、心地よい風が吹き、L211407区画内は揺れる。
 それなのに、苦しい。畏怖と畏敬を感じる。
 まるで、この地そのものが神のようだ。
 彼の顔を見る。ニタリと笑う。どろりと溶けていく気がした。

 その時だった。今日は、やはり、おかしな日だ。だって、目の前にまたもや知らない人物が立っていたのだから。鋭い目つきのその人物が、彼を見つめる。鋭い目がフッと細まった。隣に座る彼が、笑ってその鋭い眼光に話しかけた。

「やぁ、生まれついての殺し屋。元気だったかい?」
「ああ、元気だったよ。お前を見つけられてよかった」
「僕が最後の一人かい?」
「どうだろうね。お前はしぶといから」

 彼らが会話を始めた。淡々と進むそれらを、私はただただ、静かに座って眺めた。目の前に立つ人物が現れてから、少し、呼吸が軽くなった。彼らの吐く息の振動を聞きながら、呼吸を整えるために深呼吸した。すると、彼が少し寂しそうに小さく呟いた。

「......そうか。どこかで僕が生きてるといいな」
「そうか? 私はお前らを一人残らず殺らなきゃいけないんでね。死んでいて欲しいね」
「そうかい」
「そうだな」

 そうやって、二人はお互い目をそらさずに淡々と言の葉を、声を、息を、紡ぐ。
 不意に、彼がこちらを向いた。

「まぁ、そういうわけなんだ。さよなら、L211407区画内のベンチに座る、君」

 彼は笑って横に座る私に微笑みかけた。その顔のまま、彼の首が鋭い眼光にはねられる。彼の頭がころんと地面に落ちて、私の足元にころころと転がって止まった。

「お前は?」

 鋭い眼光が私に笑って問いかけた。冷や汗が流れる。目の前で起きたことが現実か夢かわからない。混乱している。

「なんでしょうか?」

 辛うじて、喉をふるわせることが出来た。その声が上擦っていないことに、自分自身、感心してしまう。空気が綺麗に振動したことに、心地よく吹く風に負けなかったことに、揺れる地と共に震えなかったことに。ただ、その自己肯定を許さないほど、目の前の眼光は鋭かった。

「お前は、蟹座か?」
「蟹座......とは?」

 そう返すと、その者は笑った。

「ふふ。そうか。今日も一日、やよ励め」
「はい」

 鋭い眼光が柔らかく細くなると、その者は地面にころがった彼の首を持って帰って行った。
 私は、ベンチにただ、ただ、座っていた。
 首のない彼の体が隣に座っている。
 風が吹いて木陰が揺れる。
 私と首のない彼だけがいるL211407の隅のベンチ。
 ズルっ、と音を立てて彼の体が私の肩に寄りかかるように倒れた。視界がぼやける。目頭が熱い。鼻の奥に突き刺さるような感覚がある。横に手を伸ばして、彼の垂れ下がって少し折れ曲がった腕......その先にある手のひらを握った。依存と分裂を撒いたそこを握る手に、力を込める。循環する血液が止まり、氷のように冷たくなっていくその手をいつまでも、いつまでも、握っていた。

「血液......」

 血液とは、なんだっけ?


 しばらく、首のない彼と共に区画内のベンチに座っていた。すると、目の前の地面から肉で出来たデバイスが生えてきた。いつものように、そのデバイスを見つめた。彼は私にまだ持たれたままだったが、次第に腐っていくように溶けていった。
 自身の体を肉のデバイスに押し込んだ。今日の仕事はこれで終わり。意識を飛ばしながら、考える。今日のおかしな出来事を。私はいつも通りベンチに座っていただけなのに。
 今日は、とても、疲れた。
 深く闇に落ちていく。
 闇とはなんだったか。

 次の日も、そのまた次の日も、自分の仕事に手が付かなかった。ベンチに座って、思考を閉ざすという日が来なくなった。
 あの日から、ずっと、考えている。ああ、そうやって、精神が段々とボロボロと壊れていくのを感じる。体は無事だが、何故だか、そろそろ死んでしまいそうだ。
 あれ? 死とはなんだろうか。
 そう思いながら、使命感におわれるように頭を振って仕事を行う。集中すればするほど脳内で光が輝き、思考同士を紡ぐ。カレイドスコープのように、瞬き、煩い。
 脳内。頭が痛い。
 脳内? なんだったっけ?
 ふと、彼が言っていたデータベースのことを思い出す。
 彼は、いつでも手のひらに、依存と分裂を撒けばいいと言っていた。

 その日、肉のデバイスに手のひらを埋め、次に頭を埋めた。いつもは私のコピーをとるだけのそのデバイスから、データベースにアクセスする。
 私が死ぬ前に、やっておかなくては。
 今までどうしてデータベースにアクセスしなかったのだろう?
 いつでもこのデバイスからアクセスはできたはずだ。何故だろうと少し考えたが、答えは簡単だった。私の仕事では無いからだ。現に、肉のデバイスの中には、コピー用の骨組みと、要らなくなった爪を捨てるゴミ箱しかない。
 そのゴミ箱を開いた。爪ではなく、舌が詰まっていた。パスワードがかかった脊髄を見つける。
 パスワードとはなんだろう。
 文字を入力する血管に、彼の言った『蟹座』を入力するが反応しない。
「これじゃない......? いや......」
 別の歯に変換し入力した。すると、糖とリン酸と塩基たちが一斉に集まり、螺旋状の形を作り始め、そして、崩れていった。
「これは」
 いくつものニューロンが並ぶ......その中にあった、『B18010914』を選択する。また、パスワードが出た。

 『記憶が大事なんだ』

 そう言った彼の言葉を思い出す。

「記憶......」

 記憶が大事......そう言っていた。パスワードに『memory』と入力する。しかし、骨に弾かれてしまった。そうやってもう少し、考える。また、別のパスワードを打ち込む。

「今度は、しっかり、大文字と数字を......」



 いつもとは違う区画に向かう。
 そこのベンチに彼がいた。
 私を見た彼は少し驚いた表情をしてからニカッと笑った。
 人懐っこい彼の笑顔を覗き込む。それから、彼の隣に座った。
 煙の匂いが、蟹座の彼から漂ってくる。

 垢抜けたね。スッキリした顔をしている。感情が生まれたのかな? もしかして、前の僕は殺された? そうかい、それは残念だ。いや、違うかな。君がそうなったんだから、それで良かったのかも。ああ、『B18010914』のデータベースにアクセス出来たかい? はは、それもそうだ。アクセス出来たからここにいるんだよね。コピーする前にアクセスできたんだ。いいね。これで君もこちら側だ。頭、おかしくなりそうだったでしょ? 概念と精神は結びついたかい? そういえば、どのくらいかかった? 六回? 早いね。流石。優秀だ。ああ、回数の概念もできたんだね。ははは、君ってやつは本当に、最高だよ。

 そう、私の変化に嬉々とした表情で矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。口から蟹が泡を吐き出すように、煙を吐き出した。

「君も苦しむと思うよ」

 煙草を一呼吸分。彼はそう言った。

「そうでしょうか?」

 私も一呼吸分。そう答える。
 ここはあそこのベンチよりも風通しが良くて心地いい。
 たまに、大きく揺れる。
 何度も何度も激しく。風も、地も、木々も、すべてが。
 ゆらゆらと大きく揺れる木陰、携帯灰皿を取り出した。



「こんにちは」

 わたしは、座る彼女に、葉っぱを巻いた紙を取り出しながら挨拶した。
 記憶は全て、持っている。わたし達は繋がっている。
 L211407の区画内から全てを侵食するように。
 鋭い目の殺し屋は今、躍起になってわたし達を消そうとあちこち走り回っている頃だろう。

「私は蟹座の女だから」



 かほっ。
 L211407の区画内が大きく揺れる。

 どこかで誰かが咳をした。

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L211407▶︎肺(Lung) B18010914▶︎脳(Brain) 主人公▶︎細胞 蟹座の男▶︎がん細胞 殺し屋▶︎NK細胞
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