Episode 7 — Northbound
結局、荷物を持たずにノアはホテルを飛び出した。
街は既に逃げ惑う人の姿で溢れかえっていた。
皆が各々の思う方向へ駆け、そこかしこで悲鳴が上がり混乱が起きている。
「まあ、こうなるよな......!」
ノアは舌打ちを漏らす。
自宅へ急ぐ者。シェルターを目指す者。
誰かの名を呼んでその姿を探す者。
恐怖に震えて道端に座り込む者までいる。
人々の傍らには、主に付き従おうと走る機械人形の姿も多くあった。
「あんたはどうするの?」
ノアの隣に立つエイトが尋ねた。
その両手首にはまだ手錠が嵌められ、更にはノアの命令に縛られて自由一つないというのに、動揺の欠片もない。
皮肉なほどに暖かな朝の陽射しの下で、今から散歩にでも出ようとするかのような落ち着きだった。
ノアは一瞬眉根を寄せるが、すぐに視線を逸らす。
エイトの冷静さは当然の話だ。
戦場の最前線に出るべく造られた存在が、この程度で取り乱している方がおかしい。
金の瞳は何かしらの命令が下るのを待っているようにも見えた。
「ここから......」
言いかけて、ノアは口を噤む。
本来ならば迷わず軍の本部を目指して南へと移動するべきだ。
本意ではないとはいえ、今は仮にも魔導科学局の局長代理という立場だ。
事が大きく動くのであれば、そこに居合わせる義務がある。
だが、即答出来ない理由があった。
ノアは自身のこめかみに指を押し当て、再度通信を試みるが結果は変わらない。
数秒の間瞼を伏せ、静かな溜息と共にゆっくりと視界を開く。
「――北へ向かう」
そして、そう告げた。
エイトは緩慢な瞬きを挟んでから薄く唇を開く。
「軍の本部は南だ」
「分かってる。だが行くのは北だ」
端的に繰り返すと、エイトはそれ以上何も言わなかった。
「分かった」
そう短く答え、踵を返したノアの背を当然のように追う。
その場を去る間際、一度だけエイトが南へと振り返ったことに、ノアは最後まで気が付かなかった。
*
混乱の中で捨て置かれていた車両をハッキングし、北の方角へ向かう。
道中、どこからか現れた軍用車に囲まれた。
中から現れた兵士の持つ銃口は全てノアの運転する車へと向けられていた。
「ま、来るよな......」
最悪の予感が的中し、ノアはげんなりとぼやく。
だが。
それから一分も経たない内に、兵士は全員地に伏せていた。
装甲を纏った車は大きく変形して噴き出す炎に包まれ、生き残った兵士の一人はまさに今、地面に膝をついた兵器の腕に固く抱擁されていた。
「............」
ノアは黙ってその光景を眺めていた。
エイトの腕の中で、時折そこから垂れた手が跳ねる。
だが、鋭い牙が肉を食い千切った後は、指の一本さえも動かなくなった。
やがて、口元を真っ赤に染めたエイトが立ち上がり、振り返る。
「......満腹になったか?」
「うん」
「口、拭っとけ」
「ん」
エイトはすぐに従い、手の甲で口元を擦る。
だが肌を汚した液体が伸びるばかりだった。
結局、車の中にあった適当な布でそれを拭わせるまで、ノアの瞳はずっとエイトへ向けられたままだった。
それから半日。
既に日は暮れて、空には月が昇っていた。
辿り着いた研究所はこの混乱で既に放棄されたらしく、人の姿はない。
都市部と違い、半ば田舎に足を突っ込みかけているような場所に建っている建物だ。
緊急時に命を賭して守る必要性もない。
当然と言えば当然の話だ。
非常事態の中でも正面口はしっかりと施錠されていたが、それはノアの持つ魔導科学局長の権限で問題なく開く。
病院のように白い壁ばかりが続く建物の中を、非常灯の明かりのみを頼りにノアは急ぎ足で進んでいた。
「ここは......」
ノアの数歩後ろを歩きながら不意にエイトが呟いた。
「通称、第八研究所だ」
「第八......」
静かすぎるほどの通路の中で、ノアの言葉が復唱される。
ノアは後ろを振り返らないまま小さく鼻で笑った。
「第八。お前と同じだな」
返る言葉はなかった。
ノアはふと傍らの壁へと視線を向ける。
建物の壁も、床も、扉も。天井さえ、真っ白な金属のような素材で出来ていた。
歩きながら壁の一部を指で叩き、コンコンと音を鳴らしてみせる。
「エイト。お前、この素材が何かは知ってるか?」
「......感応鋼」
「そうだ」
ノアはもう一度真っ白な壁へと目を向けた。
感応鋼。
十数年前、この物質が発見されてからこの国の文明は大きく変化した。
今や他の国を遥かに凌ぐ科学技術を得られたのも、ひとえにこの物質の功績だと言っていい。
軽量かつ硬質。決まった手段を用いれば加工するのも容易で、更に特殊なエネルギーに反応する。
ゆえに感応鋼と名付けられた。
今や国の重要な建築物はほとんどこの素材に置き換えられている。
この研究所もその一つだ。
「ここは別に特別な研究をしてるわけじゃない。設備だって、どこにでもあるようなモンしか備えていない」
そう言いながら、ノアは廊下の突き当たりで立ち止まる。
左右の壁には他の部屋へ続く扉があるが、正面の壁には何もない。
行き止まりであることを示すかのように、観葉植物の鉢植えが一つ置いてあるだけだった。
「――表向きはな」
だが、ノアがその壁に手を翳し数秒待つと、突然白い壁に光の筋が走った。
脳に埋め込まれた脳機接続端子が送る暗号化された信号に反応した光が何度か点滅した後、壁が左右に開き新たな通路が生まれる。
その先の空間は更に薄暗かった。
二人が先へと進むとその後ろで再び壁が閉まり、戻る道も失われる。
だがノアが振り返ることは一度もなかった。エイトもまた、ノアの背だけを追う。
そうして細い廊下を越えた先には一つの部屋があるだけだった。
長細い机の上に置かれた薄い機械からいくつもの立体映像が宙に映し出され、その青白い光だけが部屋を照らしている。
周囲の棚には薬品や本が整頓して置かれているが、しばらく触れられた形跡はなかった。
ノアは迷わずデスクから椅子を引き出し腰を下ろすと、宙に映し出されているディスプレイを指先で引き寄せる。
何度か操作を繰り返した先で、実体のない光は飾りのない画面の中にとある一文を映し出した。
『終焉の霧計画――待機状態』