第15話
昨日の懇親会へ参加後、風間俊一は海自OB達と共に二次会まで行動を共にした。
久しぶりに随分と深酒をしたのは思い出話が弾んだからに他ならない。
古強者共が年甲斐もなく、はしゃぎ過ぎた──第二の人生を歩んでいる、或いは余生を過ごす者達にとって数少ない楽しみ。こればかりは大目に見て貰いたいものだ。
その翌日──ホテルでコーヒーや朝刊を楽しみ、彼は宿泊先をチェックアウトする。
都内へ足を運ぶのは、次男の経営する会社へ再就職しているのもあって度々あるが、所詮は名ばかりの役職だ。月に一度か二度である。それほど頻度は多くない。
東京観光はしないが──代わりに彼は千代田区九段北へ足を運ぶ。
東京地下鉄の九段下駅で降り、構内に設けられたロッカーへ手荷物を預けてから地上へ上がると風間俊一の足は自然と向かうべき場所を目指した。
花崗岩大燈籠、狛犬が左右へ並び、右手にはさざれ石や複数の像や碑がある。
仰ぎ見る程の、それこそ天を突くような高さの大鳥居の手前で彼は立ち止まり、深く一礼の後、参道の中央を避けて進み始める。
筒袖羽織と短袴を纏い、左手に双眼鏡を持った大村益次郎銅像を視界の中へ捉えながら、彼の足は慰霊の泉と題された彫刻の前へ向かった。
そこで風間俊一は暫し立ち止まり、黙祷を捧げる。
次いで戦跡の石──国内外の激戦地から収集された各地の石の前でも立ち止まり、暫しの黙祷を捧げてから彼の足は再び進み始めた。
休憩所を横目に、外苑から内苑へ。
第二鳥居の前でも立ち止まり、深く一礼を。そして足を踏み入れた先にある大手水舎で手と口を清め、神門、中門鳥居の先にある拝殿へ。
列をなす参拝者の中へ混ざり、順番が来ると彼は前へ進み出た。
姿勢を正し、二拝二拍手一拝がなされる。
拍手の音が鳴り響き、深い一礼が長く続いた。
参拝の後は──喫煙所へ向かう。屋内のそれではなく、木々に囲まれた屋外の喫煙所だ。
参拝がてら煙草を口にする者達の姿が幾人か見える。
その中へ混ざった彼は纏った背広のスラックスから10本入りの紙巻き煙草を取り出す。
普段は葉巻か、もしくはシガリロか。紙巻き煙草は愛煙していないが、ここに来ると無性にこれが吸いたくなる。
青い外装へ金色のオリーブの葉を銜えた鳩が描かれた意匠のそれの包装を解き、内箱を滑らせて中身を露わにすると一本の両切り煙草を引き抜いた。
鼻先へ寄せ、ヴァージニア葉の豊かで華やかな香りを嗅ぎ、唇の端へ引っ掛ける格好で銜えた彼は小振りのマッチ箱を握る。
マッチ箱の側面へ擦り付け、パンと軽やかに弾かれた頭薬が細い軸の先端へ火を灯す。
紙巻き煙草を遠火で炙り、香り高い紫煙が漂う中、手首を軽く振っただけで消火したマッチ棒を喫煙所へ備え付けられた灰皿へ投げ捨てる。
ゆっくりと、急がず紫煙を燻らせる。
ここで吸う両切り煙草は、いつもながら格別だった。
「──最近の玩具って高いんだな......」
昼下がりの都内。玩具量販店の自動ドアを抜けて街路へ出てきたボストンバッグと商品が収められたショッパーを握る老人は驚愕を込めた呟きを漏らす。
同居する家政婦の息子──竜也から懇親会へ赴く前に頼まれた玩具がショッパーには入っていた。
店員からは孫への土産を買い求めに足を運んだ老人に映っただろう。
戦隊ヒーロー物のそれらしいが、生憎とその方面の知識に疎い為、忙しそうな店員へ助力を願った程だ。
微笑ましそうに応対されたのは、それほど悪い気分でもないが。
いずれにせよ、頼まれていた物も購入出来た。爾後は自宅へ帰路へ就くのみである。
駅へ向かう途中の交差点へ設けられた横断歩道の信号機が赤になった。
立ち止まった風間俊一は青の表示へ変わるまで待つこととなる。
目が不自由な人物の往来に対応した音響式信号機だ。青になってから鳥の囀りを響かせ、その補助をしている。幸いにも横断歩道を渡る歩行者の中にそれが必要な者はいないようだ。
ふと彼の視界の端へ小柄な人影が入り込んだ。老若男女の歩行者の中に竜也と同世代だろう少年の姿を風間俊一は認めた。少し大振りのリュックを背負っている。今日は土曜日。外出か、お使いか、それとも友人達との待ち合わせ先へ向かう途中か。
少年の姿を無意識に追っていると、彼の眼差しはそ向の奥へ向いた。
1台の乗用車が──減速せずに、いやむしろ加速しながら交差点へ進入しようとしている。
残り100mやそこら。
暴走車、だろうか。
運転手の顔は生憎と見えない。高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えたのだろうか。
異変に気付いた人々が我先に横断歩道から退避する最中、少年がただ一人だけ取り残される。突然の異変に足が竦んだのかもしれない。
それを認めた風間俊一は──手にしていたボストンバッグ、竜也から頼まれた玩具が収められたショッパーをその場へ投げ捨てた。
全ての自衛官は、入隊に際して、ひとつの宣誓をする。服務の宣誓、と呼ばれるそれは紙一枚の薄っぺらいそれへつらつらと文言が書き連ねられ、最後に自身の姓名を綴り、印鑑を押す様式となっている。
──私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し──
風間俊一の脳裏に在りし日に宣誓した言葉が蘇った訳ではない。
ただ身体が動いた。
──常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり──
退官して早数年の老いた肉体は、皮肉にもこの時ばかりは若かりし頃の時の如く動いてくれた。
ただ一人だけ取り残された少年の元へ駆け付けた風間俊一の伸ばした腕が、背負われたリュック越しに強く押す。
横断歩道の向こう、対岸へと押しやった少年の小柄な体躯が転倒しながらも歩道に辿り着く。
それを認めた風間俊一は細く、短く、しかし無性の安堵の溜め息を漏らした。
──事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います──
ドンッと鈍く、重い音が響き渡った。