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第16話



 毛氈の下敷きが机上へ広げられる。その上へ白紙が置かれ、文鎮が押さえた。

 硯の墨堂へ水差しから数滴が垂らされ、静かな音を立てつつ好みの濃さへ磨られ始める。

 時間を掛け、少しずつ墨池へ墨が溜まっていくと、中筆が取られた。

 筆先に墨を含ませ、まっさらな半紙へサラサラと文字が綴られていく。

 ──遺言書。

 真っ先に綴られたそれの書体や大きさが纏っていると認めた男性──風間俊一は続けて内容を書き連ねていった。


 一。葬儀はなるべく簡素を希望する。

 二。葬儀に際しては自宅ではなく斎場等を利用することを望む。

 三。戒名も拘る必要なし。菩提寺の住職に一任する。

 四。財産分与については長男である風間拓海、次男の風間湊の両名が穏当なる話し合いで解決すべし。

 五。家人の処遇は自宅を相続する長男と次男の良心と決心へ委ねる。希望としては継続雇用を望む。

 六。死亡報告について。防衛省を始めとした関連組織へ報せるか否かは葬儀を取り仕切る長男か次男、或いは家人に任せる。


 他にもいくつかの希望事項を書き連ねた風間俊一は中筆を置いた。次いで小筆を摘み、遺言書を記した期日、自身の姓名を記入。最後に風間の捺印。

 久しぶりにしっかりと書を綴った気分だ。肩が凝った実感がある。習字の練習に写経を続けていたが、ここ数カ月はサボり気味だったのが影響しているのかもしれない。小筆も置き、肩を回すとゴキゴキと音が鳴る。

 机上の隅へ置いていた電波時計、そして和服の袖口から覗く機械式腕時計の針は20時が過ぎた時刻を指し示していた。

 半紙の墨が乾いた頃合いを見て、彼は文鎮を外して遺言書を摘み──障子が開け放たれたままの縁側へ歩を進める。

「──こんなもんで良いか?」

 無造作とも思えるほど遺言書が差し出される。それを摘み取ったのは──和装姿の長男だ。

 長男、風間拓海は縁側へ胡座を掻きつつ片手で摘んだ遺言書を一瞥しながら猪口を傾ける。

「......まぁ、法的には問題ないとは思うが......お前はどうだ?」

 次いでその遺言書は長男の手に摘まれながら別の人物へ差し出された。

 網が掛けられた火鉢の上ではスルメが炙られている。炙り終えたスルメを裂く手を止め、半紙を受け取ったのは──風間俊一の次男である黒無地のスウェットを纏った風間湊だ。

「......こんなもんじゃないか?」

「......父親が遺言書を長男と次男へ渡すんだぞ。もっと畏まるものだと思うんだが......」

 情緒がない──と、遠回しに父親が告げても彼の息子達は揃って肩を竦めるだけ。

「......まったく......随分と偉くなったものだ」

「そりゃそうだ。俺は来週から親父の上司になるからな」

「遺言書も3カ月に一度は更新しているだろう」

 何を当然のことを今更──その意味が含まれた兄弟の言葉を聞いた父親は少しばかり口角を緩めつつ、火鉢の前へ腰を下ろした。

 盆の上へ伏せられていた猪口を摘むと、風間湊は徳利を差し向ける。遺言書は既に長男の手元へ戻ってしまっている。

「──何はともあれ、任務完遂、お疲れ様でした」

「──あぁ、ありがとう」

 急に畏まった口調をする次男へ風間俊一は苦笑いを浮かべる。

 今日、風間俊一は生涯の半分以上を過ごした海上自衛隊の制服を脱いだ。定年退官である。

 最終階級は海将、最終補職が護衛艦隊司令官──肩書きはどうあれ、一自衛官としての役割は果たした。まずまずは良くやった、概ねは可──という演習に対する評価のようなそれを風間俊一は自分自身へ下している。

 その父親へ次男が酌をし、クッと一息に淡麗辛口の日本酒を嚥下する。すかさず二杯目が注がれた。

「──第二の人生は趣味に費やすか?」

「それも悪くはないが......趣味ばかりで過ごすのはどうにもな」

 手元へ戻ってきた遺言書を眺めつつ、長男は裂かれたスルメを口へ運び、手酌で注いだ酒を呷りながら父親へ尋ねる。

 趣味は余暇に楽しむもの──という考えを風間俊一は持っているようだ。それが真っ当なのか、健全かは分からぬが、働いていないと落ち着かない性格の持ち主であろうことは伺える。

 だからこそ、来週からは次男が経営する会社へ籍を置くのだが。と言っても名ばかりの役職である。月に数回の出社がある程度だ。

「......近所の子供達に武道を教えたり、書道を教えたり、か」

「......今時の子供達が進んでやるとは思えんがな」

「そりゃまぁ......そうかもしれないが......将来の可能性を広げる切っ掛けにはなるだろう。......このスルメ、美味いな。何処のだ?」

「長崎だ」

 端的に長男から告げられたスルメの産地。長崎に知人は──いたな、と風間俊一は思い出す。佐世保にある地方総監部の総監は彼の後輩だった。

 噛めば噛むほど味が出る──とは良く言ったものだ。噛み締める度に凝縮されたイカの旨味と塩気が口腔へ広がる。これほどまでに、滋味深い、という言葉が似合う食品はまずないだろう。

 炭火が熾された火鉢の網に置かれ、じっくり炙られたスルメを口へ運び、酌を受けた酒を風間俊一は味わいながら深く一息を吐いた。

「......まさか、退官して良かった、とその日に感じるとは思わなかったな」

 肩肘張らずに過ごせるのだ。深酒をして明日に引き摺る心配をせずとも良い。

 なにより──息子達とこうして美味い酒を酌み交わし、美味い肴を味わえるのだ。悪くはない。

「──親父。ひとつ聞いても良いか」

「どうした?護衛隊群幕僚としての心構えなら──」

「いや、それは別にどうでも良い」

 一応は先達なのだ。幕僚を経験するのは長男の今後の自衛官人生で有益なものとなるだろう。父親もかつては就いた補職だ。老婆心ながら教授しようかと思った矢先に長男から断られてしまった。

 情緒がない奴だ──と風間俊一は考えるのだが、若い頃の自身に似た長男の容姿を認めると、もしかしたら彼自身が当時はこのような物言いをしていた可能性がある点に思い至る。

 これは自己批判し、猛省すべきか──と考える中、長男は父親へ問い掛ける。

「──海上自衛官としての先輩にあたる親父に聞くが、退官してどんな気分だ?」

「どう、とは?」

「......もっと上手く立ち回れたのではないか、まだやり残したことがあった、とかだ。今後の参考にしたい」

「......ふむ......」

 その問いの意味を風間俊一は吟味するが、いまひとつ要領を得ない。曖昧とも取れる。しかしながら返答の選択肢を長男が敢えて限定していない可能性も考えられた。であれば率直な気分を口にすべきなのだろう。

「......お前が言う通り、やりようはあっただろうし、確かにやり残したこともある。......悔いがない、と言えば嘘になるが......」

 父親の猪口が乾いたのを認めた長男が、徳利を摘んで差し出す。酌を受けた風間俊一は清い水面を湛える猪口を緩く見下ろしながら続けた。

「──真っ先に感じるのは......安心や達成感の類だ。──全部、無駄に終わった。それに一番ホッとしている」

 防衛大学校入校から本日に至るまで、戦争有事に備え続けた。錬磨を重ね、牙を研ぎ続けた日々の努力の一切合切が徒労に終わったのだ。これほど喜ばしいことはない。

 あれほど努力した全部が無駄に終わった──それに安堵を覚えているというのは一見すれば矛盾する発言だろう。

「そうか......」

 果たして長男が望む類の返答だったかは分からないが、風間拓海は頷いて肯定の仕草を取る。

 その後、彼は父親を横目に向けながら遺言書へ綴られた項目のひとつを読み上げた。

「──死亡報告について防衛省を始めとした関連組織へ報せるか否かは葬儀を取り仕切る長男か次男、或いは家人に任せる──とあるが、はっきり取り決めてくれないか?」

「......そこは悩んだところなんだが......結局のところ、どっちでも良いんだ」

「......それが一番困る。絹子さんがいつも言っているだろう」

 献立を決めたいのに、なんでも構わないが一番困る──と。

 米に漬物、椀に湯を注がれて出されても文句ひとつ言わずに風間俊一は完食するだろう。間違いなく彼の息子達もだ。その光景が脳裏へ過ってしまうからこそ、家政婦の絹子としては希望の献立を明言して欲しいのだ。いくらなんでもそれは家事全般を預かっている者として看過出来ない。

「......とはいえなぁ。何年後に死ぬか分からんが、とうに退官した海将が死んだだけのことだ。わざわざ報せる必要はないとは思うが、かと言って報告しないのも不義理であるし......」

「結局のところ、どっちが良いんだ?」

 重ねられた長男からの問いに父親は暫く考え込む。

 唸る低い声を漏らしながら考え込んだ末──結局、父親は文面の通りで構わないと返す。

「お前達に任せる」

「......それが一番困る」

 溜め息を漏らした長男が摘む乾いた猪口へ次男は徳利を向かわせつつ肩を竦める。

「喪主は兄貴で頼む」

「......俺が陸おかにいなかったらどうする気だ」

「まぁ、その時は俺が捌くさ。一応はうちの会社の相談役でもあるし」

 短い遣り取りだが、これで風間拓海が海へ出ていなければ彼が、そうでない場合は次男である風間湊が父親の葬儀を取り仕切ることが決まったようなものだ。

 その光景に満足するかの如く、風間俊一は口角を緩めながら次男から酌を受けた淡麗辛口の酒を一息に飲み干した。




「──手加減してくれ」

「──竜也くんは強いわね」

「──おじちゃんよわーい!」

 風間邸の居間には55インチの液晶テレビが存在感を放って鎮座している。基本的にはニュース番組のアナウンサーの生真面目な表情が画面へ映り込む場合が大半だが、家政婦の息子が家庭用据置型ゲーム機を接続するとたちまち画面は賑やかとなる。

 夕暮れが近付く中、竜也はカタリナとアクションレースゲームでの対戦へ興じていたが、稽古後の入浴を済ませてきた拓海の姿を認めると、少年は彼にも対戦相手を願った。

 コントローラーは人数分あるので問題なく遊べるのだが──拓海とカタリナは竜也へ勝つことが出来ないまま数回のレースを終えた。

 居間の畳へ胡座を掻き、腕組みしつつ勝利を掴む為の戦術を練ろうとしている拓海へカタリナが呆れた眼差しを向ける最中、邸宅の奥で固定電話の着信を告げる音が響く。

「......竜也。他のジャンルのゲームはないのか?もう少ししたら親父も帰ってくるだろう。レースは親父に相手をしてもらってくれ」

 結局はゲームのシステム上、回避出来ない仕様となっている──これなら誘導弾ミサイルを迎撃する方が容易くも思ってしまうのか拓海はジャンルの変更を要請した。

 同時に自身が纏う和服の袖口から覗く左手首へ巻いた腕時計へ視線を落とし、父親が風間邸の最寄駅へ到着したと連絡が来る時刻が迫っていると気付く。

 おそらく先程の固定電話の着信は父親が最寄駅へ着いたので迎えを頼む旨を電話で伝えて来たのだろう──などと考えながら拓海は液晶テレビ前に並べられたゲームソフトのケースを吟味する竜也が選び抜いたそれを認める。

「じゃあ、これ」

「......あぁ......CMか何かで見た覚えはあるが、遊んだことがない。操作を教えてくれ」

「私にも教えてくれる?」

「えっとね」

 今度はシューティングゲームだ。とはいえ、レーティングは流血などの残虐な表現がない為、全年齢対象となっている。

 ゲームのジャンルが変更となり、まずはチュートリアルをしつつ拓海とカタリナへ操作方法の教授だ。大人へ物を教えることが滅多にない子供だからか、竜也は得意げなままコントローラーを操作し、画面上でキャラクターを動き回らせた。

 その途中だ。

 忙しない足音が居間へ──その足音の持ち主が家政婦の絹子であると拓海は気付いたが、随分と慌てている印象を受けてしまう。

「──拓海様......!」

「......どうかしましたか?」

 顔面蒼白の絹子が居間へ駆け込んで来た。受話器を差し出す家政婦の手が震えている様子を捉えつつ、拓海はそれを掴んで片耳へ宛てがった。

「──もしもし。お電話、代わりました」

 警察からの電話だった。

 担当の警察官が電話口で拓海へ対して、風間俊一の自宅の電話番号か、そして彼が血縁者かを問う。

「──はい、風間俊一は私の父ですが......何かありましたか?」

〈──非常に申し上げ難いのですが......〉

 沈痛の声音が電話口の向こうから拓海に告げる。

 風間俊一が事故に遭い、運び込まれた病院で死亡が確認された──とのことだった。

「......そうですか。御迷惑をお掛けして申し訳ありません。搬送先の病院を教えて頂けますか?......はい、分かりました。失礼ですが、あなたの官姓名と所属先も教えて頂けますと幸いです」

 傍らに立つ絹子は狼狽し、今にも泣き崩れそうであるが、拓海の口調は淡々としていた。搬送先の病院、そして電話口の向こうで応対する担当の警察官の階級や姓名も尋ねてから静かに電話を切る。

 深い溜め息を漏らしつつ、拓海は腰を上げると絹子へ受話器を手渡した。

「......ありがとう絹子さん。......お手数を掛けて申し訳ありませんが、住職と斎場へ連絡をお願い出来ますか?」

「はい......!はい、勿論ですとも......!この度は......!」

 お悔やみを──と口にしようとする絹子の言葉を拓海は片手を挙げて制する。

「......絹子さんも俺と同じ立場です」

 同じく遺族になる。その旨を告げた拓海に、絹子はとうとう我慢が出来なくなったのだろう。膝から崩れ落ち、滂沱の涙が頬を伝い落ちる。

 その肩へ彼が手を置き、続けて眼差しがカタリナを捉える。

「ドレン少佐。私から目を離す訳にはいかないでしょうから......申し訳ありませんが、少し付き合って下さい」

 電話口の向こうから聞こえる警察官と拓海の応答はカタリナにも漏れ聞こえていた。その要請に彼女は頷き、二人は外出の用意を整えるとカタリナの私用車で示された病院へ向かって風間邸を後にした。
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 毛氈の下敷きが机上へ広げられる。その上へ白紙が置かれ、文鎮が押さえた。

 硯の墨堂へ水差しから数滴が垂らされ、静かな音を立てつつ好みの濃さへ磨られ始める。

 時間を掛け、少しずつ墨池へ墨が溜まっていくと、中筆が取られた。

 筆先に墨を含ませ、まっさらな半紙へサラサラと文字が綴られていく。

 ──遺言書。

 真っ先に綴られたそれの書体や大きさが纏っていると認めた男性──風間俊一は続けて内容を書き連ねていった。


 一。葬儀はなるべく簡素を希望する。

 二。葬儀に際しては自宅ではなく斎場等を利用することを望む。

 三。戒名も拘る必要なし。菩提寺の住職に一任する。

 四。財産分与については長男である風間拓海、次男の風間湊の両名が穏当なる話し合いで解決すべし。

 五。家人の処遇は自宅を相続する長男と次男の良心と決心へ委ねる。希望としては継続雇用を望む。

 六。死亡報告について。防衛省を始めとした関連組織へ報せるか否かは葬儀を取り仕切る長男か次男、或いは家人に任せる。


 他にもいくつかの希望事項を書き連ねた風間俊一は中筆を置いた。次いで小筆を摘み、遺言書を記した期日、自身の姓名を記入。最後に風間の捺印。

 久しぶりにしっかりと書を綴った気分だ。肩が凝った実感がある。習字の練習に写経を続けていたが、ここ数カ月はサボり気味だったのが影響しているのかもしれない。小筆も置き、肩を回すとゴキゴキと音が鳴る。

 机上の隅へ置いていた電波時計、そして和服の袖口から覗く機械式腕時計の針は20時が過ぎた時刻を指し示していた。

 半紙の墨が乾いた頃合いを見て、彼は文鎮を外して遺言書を摘み──障子が開け放たれたままの縁側へ歩を進める。

「──こんなもんで良いか?」

 無造作とも思えるほど遺言書が差し出される。それを摘み取ったのは──和装姿の長男だ。

 長男、風間拓海は縁側へ胡座を掻きつつ片手で摘んだ遺言書を一瞥しながら猪口を傾ける。

「......まぁ、法的には問題ないとは思うが......お前はどうだ?」

 次いでその遺言書は長男の手に摘まれながら別の人物へ差し出された。

 網が掛けられた火鉢の上ではスルメが炙られている。炙り終えたスルメを裂く手を止め、半紙を受け取ったのは──風間俊一の次男である黒無地のスウェットを纏った風間湊だ。

「......こんなもんじゃないか?」

「......父親が遺言書を長男と次男へ渡すんだぞ。もっと畏まるものだと思うんだが......」

 情緒がない──と、遠回しに父親が告げても彼の息子達は揃って肩を竦めるだけ。

「......まったく......随分と偉くなったものだ」

「そりゃそうだ。俺は来週から親父の上司になるからな」

「遺言書も3カ月に一度は更新しているだろう」

 何を当然のことを今更──その意味が含まれた兄弟の言葉を聞いた父親は少しばかり口角を緩めつつ、火鉢の前へ腰を下ろした。

 盆の上へ伏せられていた猪口を摘むと、風間湊は徳利を差し向ける。遺言書は既に長男の手元へ戻ってしまっている。

「──何はともあれ、任務完遂、お疲れ様でした」

「──あぁ、ありがとう」

 急に畏まった口調をする次男へ風間俊一は苦笑いを浮かべる。

 今日、風間俊一は生涯の半分以上を過ごした海上自衛隊の制服を脱いだ。定年退官である。

 最終階級は海将、最終補職が護衛艦隊司令官──肩書きはどうあれ、一自衛官としての役割は果たした。まずまずは良くやった、概ねは可──という演習に対する評価のようなそれを風間俊一は自分自身へ下している。

 その父親へ次男が酌をし、クッと一息に淡麗辛口の日本酒を嚥下する。すかさず二杯目が注がれた。

「──第二の人生は趣味に費やすか?」

「それも悪くはないが......趣味ばかりで過ごすのはどうにもな」

 手元へ戻ってきた遺言書を眺めつつ、長男は裂かれたスルメを口へ運び、手酌で注いだ酒を呷りながら父親へ尋ねる。

 趣味は余暇に楽しむもの──という考えを風間俊一は持っているようだ。それが真っ当なのか、健全かは分からぬが、働いていないと落ち着かない性格の持ち主であろうことは伺える。

 だからこそ、来週からは次男が経営する会社へ籍を置くのだが。と言っても名ばかりの役職である。月に数回の出社がある程度だ。

「......近所の子供達に武道を教えたり、書道を教えたり、か」

「......今時の子供達が進んでやるとは思えんがな」

「そりゃまぁ......そうかもしれないが......将来の可能性を広げる切っ掛けにはなるだろう。......このスルメ、美味いな。何処のだ?」

「長崎だ」

 端的に長男から告げられたスルメの産地。長崎に知人は──いたな、と風間俊一は思い出す。佐世保にある地方総監部の総監は彼の後輩だった。

 噛めば噛むほど味が出る──とは良く言ったものだ。噛み締める度に凝縮されたイカの旨味と塩気が口腔へ広がる。これほどまでに、滋味深い、という言葉が似合う食品はまずないだろう。

 炭火が熾された火鉢の網に置かれ、じっくり炙られたスルメを口へ運び、酌を受けた酒を風間俊一は味わいながら深く一息を吐いた。

「......まさか、退官して良かった、とその日に感じるとは思わなかったな」

 肩肘張らずに過ごせるのだ。深酒をして明日に引き摺る心配をせずとも良い。

 なにより──息子達とこうして美味い酒を酌み交わし、美味い肴を味わえるのだ。悪くはない。

「──親父。ひとつ聞いても良いか」

「どうした?護衛隊群幕僚としての心構えなら──」

「いや、それは別にどうでも良い」

 一応は先達なのだ。幕僚を経験するのは長男の今後の自衛官人生で有益なものとなるだろう。父親もかつては就いた補職だ。老婆心ながら教授しようかと思った矢先に長男から断られてしまった。

 情緒がない奴だ──と風間俊一は考えるのだが、若い頃の自身に似た長男の容姿を認めると、もしかしたら彼自身が当時はこのような物言いをしていた可能性がある点に思い至る。

 これは自己批判し、猛省すべきか──と考える中、長男は父親へ問い掛ける。

「──海上自衛官としての先輩にあたる親父に聞くが、退官してどんな気分だ?」

「どう、とは?」

「......もっと上手く立ち回れたのではないか、まだやり残したことがあった、とかだ。今後の参考にしたい」

「......ふむ......」

 その問いの意味を風間俊一は吟味するが、いまひとつ要領を得ない。曖昧とも取れる。しかしながら返答の選択肢を長男が敢えて限定していない可能性も考えられた。であれば率直な気分を口にすべきなのだろう。

「......お前が言う通り、やりようはあっただろうし、確かにやり残したこともある。......悔いがない、と言えば嘘になるが......」

 父親の猪口が乾いたのを認めた長男が、徳利を摘んで差し出す。酌を受けた風間俊一は清い水面を湛える猪口を緩く見下ろしながら続けた。

「──真っ先に感じるのは......安心や達成感の類だ。──全部、無駄に終わった。それに一番ホッとしている」

 防衛大学校入校から本日に至るまで、戦争有事に備え続けた。錬磨を重ね、牙を研ぎ続けた日々の努力の一切合切が徒労に終わったのだ。これほど喜ばしいことはない。

 あれほど努力した全部が無駄に終わった──それに安堵を覚えているというのは一見すれば矛盾する発言だろう。

「そうか......」

 果たして長男が望む類の返答だったかは分からないが、風間拓海は頷いて肯定の仕草を取る。

 その後、彼は父親を横目に向けながら遺言書へ綴られた項目のひとつを読み上げた。

「──死亡報告について防衛省を始めとした関連組織へ報せるか否かは葬儀を取り仕切る長男か次男、或いは家人に任せる──とあるが、はっきり取り決めてくれないか?」

「......そこは悩んだところなんだが......結局のところ、どっちでも良いんだ」

「......それが一番困る。絹子さんがいつも言っているだろう」

 献立を決めたいのに、なんでも構わないが一番困る──と。

 米に漬物、椀に湯を注がれて出されても文句ひとつ言わずに風間俊一は完食するだろう。間違いなく彼の息子達もだ。その光景が脳裏へ過ってしまうからこそ、家政婦の絹子としては希望の献立を明言して欲しいのだ。いくらなんでもそれは家事全般を預かっている者として看過出来ない。

「......とはいえなぁ。何年後に死ぬか分からんが、とうに退官した海将が死んだだけのことだ。わざわざ報せる必要はないとは思うが、かと言って報告しないのも不義理であるし......」

「結局のところ、どっちが良いんだ?」

 重ねられた長男からの問いに父親は暫く考え込む。

 唸る低い声を漏らしながら考え込んだ末──結局、父親は文面の通りで構わないと返す。

「お前達に任せる」

「......それが一番困る」

 溜め息を漏らした長男が摘む乾いた猪口へ次男は徳利を向かわせつつ肩を竦める。

「喪主は兄貴で頼む」

「......俺が陸おかにいなかったらどうする気だ」

「まぁ、その時は俺が捌くさ。一応はうちの会社の相談役でもあるし」

 短い遣り取りだが、これで風間拓海が海へ出ていなければ彼が、そうでない場合は次男である風間湊が父親の葬儀を取り仕切ることが決まったようなものだ。

 その光景に満足するかの如く、風間俊一は口角を緩めながら次男から酌を受けた淡麗辛口の酒を一息に飲み干した。




「──手加減してくれ」

「──竜也くんは強いわね」

「──おじちゃんよわーい!」

 風間邸の居間には55インチの液晶テレビが存在感を放って鎮座している。基本的にはニュース番組のアナウンサーの生真面目な表情が画面へ映り込む場合が大半だが、家政婦の息子が家庭用据置型ゲーム機を接続するとたちまち画面は賑やかとなる。

 夕暮れが近付く中、竜也はカタリナとアクションレースゲームでの対戦へ興じていたが、稽古後の入浴を済ませてきた拓海の姿を認めると、少年は彼にも対戦相手を願った。

 コントローラーは人数分あるので問題なく遊べるのだが──拓海とカタリナは竜也へ勝つことが出来ないまま数回のレースを終えた。

 居間の畳へ胡座を掻き、腕組みしつつ勝利を掴む為の戦術を練ろうとしている拓海へカタリナが呆れた眼差しを向ける最中、邸宅の奥で固定電話の着信を告げる音が響く。

「......竜也。他のジャンルのゲームはないのか?もう少ししたら親父も帰ってくるだろう。レースは親父に相手をしてもらってくれ」

 結局はゲームのシステム上、回避出来ない仕様となっている──これなら誘導弾ミサイルを迎撃する方が容易くも思ってしまうのか拓海はジャンルの変更を要請した。

 同時に自身が纏う和服の袖口から覗く左手首へ巻いた腕時計へ視線を落とし、父親が風間邸の最寄駅へ到着したと連絡が来る時刻が迫っていると気付く。

 おそらく先程の固定電話の着信は父親が最寄駅へ着いたので迎えを頼む旨を電話で伝えて来たのだろう──などと考えながら拓海は液晶テレビ前に並べられたゲームソフトのケースを吟味する竜也が選び抜いたそれを認める。

「じゃあ、これ」

「......あぁ......CMか何かで見た覚えはあるが、遊んだことがない。操作を教えてくれ」

「私にも教えてくれる?」

「えっとね」

 今度はシューティングゲームだ。とはいえ、レーティングは流血などの残虐な表現がない為、全年齢対象となっている。

 ゲームのジャンルが変更となり、まずはチュートリアルをしつつ拓海とカタリナへ操作方法の教授だ。大人へ物を教えることが滅多にない子供だからか、竜也は得意げなままコントローラーを操作し、画面上でキャラクターを動き回らせた。

 その途中だ。

 忙しない足音が居間へ──その足音の持ち主が家政婦の絹子であると拓海は気付いたが、随分と慌てている印象を受けてしまう。

「──拓海様......!」

「......どうかしましたか?」

 顔面蒼白の絹子が居間へ駆け込んで来た。受話器を差し出す家政婦の手が震えている様子を捉えつつ、拓海はそれを掴んで片耳へ宛てがった。

「──もしもし。お電話、代わりました」

 警察からの電話だった。

 担当の警察官が電話口で拓海へ対して、風間俊一の自宅の電話番号か、そして彼が血縁者かを問う。

「──はい、風間俊一は私の父ですが......何かありましたか?」

〈──非常に申し上げ難いのですが......〉

 沈痛の声音が電話口の向こうから拓海に告げる。

 風間俊一が事故に遭い、運び込まれた病院で死亡が確認された──とのことだった。

「......そうですか。御迷惑をお掛けして申し訳ありません。搬送先の病院を教えて頂けますか?......はい、分かりました。失礼ですが、あなたの官姓名と所属先も教えて頂けますと幸いです」

 傍らに立つ絹子は狼狽し、今にも泣き崩れそうであるが、拓海の口調は淡々としていた。搬送先の病院、そして電話口の向こうで応対する担当の警察官の階級や姓名も尋ねてから静かに電話を切る。

 深い溜め息を漏らしつつ、拓海は腰を上げると絹子へ受話器を手渡した。

「......ありがとう絹子さん。......お手数を掛けて申し訳ありませんが、住職と斎場へ連絡をお願い出来ますか?」

「はい......!はい、勿論ですとも......!この度は......!」

 お悔やみを──と口にしようとする絹子の言葉を拓海は片手を挙げて制する。

「......絹子さんも俺と同じ立場です」

 同じく遺族になる。その旨を告げた拓海に、絹子はとうとう我慢が出来なくなったのだろう。膝から崩れ落ち、滂沱の涙が頬を伝い落ちる。

 その肩へ彼が手を置き、続けて眼差しがカタリナを捉える。

「ドレン少佐。私から目を離す訳にはいかないでしょうから......申し訳ありませんが、少し付き合って下さい」

 電話口の向こうから聞こえる警察官と拓海の応答はカタリナにも漏れ聞こえていた。その要請に彼女は頷き、二人は外出の用意を整えるとカタリナの私用車で示された病院へ向かって風間邸を後にした。
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