エスメラルダ2
次の日から、ローレンスの敬語が消えていった。私が求めたからではない。ローレンス本人が自分の意思で口にしているのだ。
そんなことをされると、余計にこの国を離れがたくなってしまうのに。私の恋は衰えるどころか、心を燃やし始める。
一方で、式の日取りは無情に決まった。私が十九になる誕生日に、ということで隣国からの申し出があったらしい。
それまでに、私が自分の運命を切り開かねば。絶対にローレンスと離れたくない。
季節は冬を越え、春を迎える。私の誕生日まで、あと一ヶ月――何か手を打たなくては。
廊下を歩きながら、唇を噛む。私が考えたところで、逃亡以外の方法なんて思いつかない。それはローレンスが望んでいない。
「王女殿下」
ふと、私の名を呼ぶしゃがれた女性の声が聞こえた。顔を上げてみると、そこには紫のローブを被った老女が佇んでいたのだ。
「何の用です?」
「王女殿下は隣国入りを望んでおられるのですかな?」
声を荒げる私に、老女は嫌な笑みを浮かべる。
望んでなどいるわけがない。この人は何が言いたいのだろう。澄ましたままで目をしかめる私に、老女は更に続ける。
「隣国行きを逃れる方法があるとしたら、私の話を聞いてくださいますかな?」
まさかの発言に、私の口は半開きになってしまった。縋れるものなら何でも縋りたい。脇目も振らずに老女に詰め寄った。
「どんな方法なのです? 私にもできるのですか?」
「エスメラルダ殿下、こちらへ」
老女は細く伸びる通路へと私を誘う。これも私とローレンスの未来のためだ。怪しかろうと何だろうと、やってみせる。
無言で進む老女に、私もついて歩く。窓もなくなり、薄暗くなったのにも気付かないほどに私は焦っていた。ローレンス、もう少しだから。もう少しだけ、悲しみに耐えて。拳を握り、口を引き結ぶ。
「ここですよ」
老女が息ついたのは、私も知らない部屋だった。太陽の光は届かず、蝋燭の火が怪しく部屋を照らしている。その中で、紫に光る本が目に飛び込んできたのだ。テーブルの上に乱雑に置いてあったそれに視線が釘付けになる。
「あの本は?」
「あれは『魔導書』さ。王家秘蔵のね」
「魔導書......?」
そんなもの、私は聞いたことがない。父王は私を駒として見るだけではなく、秘密までもを抱えていたのだろうか。益々、父王が信じられなくなる。
「それが何になるのです?」
「殿下がお嫌いな国王も、城も、隣国への嫁入りもなかったことにできるのですよ」
試さないわけがない。本に近寄り、左手で表紙に触れた。魔法陣のような何かがその手を通り、身体の中に入ってきたように感じられたのだ。
怒り、憎しみ、悲しみ――そんな感情が増幅されたようだ。わけもわからず、両目から涙が零れ落ちる。
すると、本に宿っていた光が消えたのだ。効力がなくなってしまったのだろうか。そう思ったのだけれど、勘違いだったらしい。
「これで、魔導書の魔力は殿下のものになりましたよ。後は魔導書を読むだけ。ただし......」
「ただし?」
私が首を傾げると、老女はすっと私を見る。
「この魔法は、隣国へ行く直前にお使いください。それまでは、その魔導書の存在を知られてはなりません」
「どうして?」
「それが殿下のためです」
質問の意味が返ってきていない。文句を言おうと口を開こうとしたものの、瞬きをした瞬間には老女の姿がなくなっていたのだ。これが魔法、というものなのだろうか。
魔法なんて、本の中でしか見たことがない。本当にこの世に存在するのだろうか。でも、私は消えた老女を見てしまっている。受け入れる他にはなかった。
とぼとぼと来た道を引き返しながら思う。こんな薄気味悪いところまで足を踏み入れていたなんて。それだけ私も必死なのだ。自分を言い聞かせ、肩を震わせる。
その日から、私は魔導書の世界に引き込まれていった。まず、魔法は古代に失われた秘宝であること、それをティンブロ国王家が大事にしまってきたこと、魔法を使えるのはティンブロ国王家の血筋が必要であること――これは私に使えと言っているようなものだ。
そこからは魔法陣の仕組みや文字の意味、魔法の使い方などがこと細かく記されていた。しかし、肝心の『魔法を使ったらどうなるのか』が書かれていない。私はローレンスといつまでも一緒にいられるようになるのだろうか。
そこへ、部屋のドアがノックされる。
「エスメラルダ殿下」
「......ローレンス! 入るなら入ると言ってください!」
慌てて魔導書をベッドの下へと隠し、テーブルに置いてあったティーカップに口を付ける。
「それに、『殿下』は止めてと言っているでしょう?」
「そうだった。ごめんなさい」
ローレンスは苦笑いをすると、私の向かいの席へと腰を下ろす。
「何の用ですか?」
「エスメラルダ様の声を聞きたくなった。それでは駄目?」
口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになる。ローレンスがあまりにも優しく微笑むので、説教はしないでおくことにした。
「嬉しい限りです」
素直に囁くと、視線を落とす。ティーカップの中で、紅茶がゆらゆらと波を立てていた。