幕間「お風呂事件」
夕食を終えた美月達は、大きくなったリビングでしばらく食休みをしていた。
新しい家で初めて囲んだ食卓。
偶蹄魚を煮込んだビーフシチューもどきは綺麗に平らげられ、卓の上には空になった器だけが残っている。
「あー、美味かったな」
ジャジーが満足そうに背もたれへ身体を預ける。
「うむ。美味でござった」
鳳も穏やかに頷いた。
「よかったぁ~!あり合わせだけど、なんとかなるもんだね!」
東「いやマジで美味かった!美月はいい女だな!」
美月「もー、ありがと♡」
美月はエプロンをつけたまま、嬉しそうに微笑んだ。
その瞬間。
ズギュゥン。
「......撃ち抜かれた」
東が真顔になる。
胸元を押さえたまま微動だにしない。
「すでに穴だらけだろ」
ジャジーが半目になる。
「蜂の巣でござる」
「誰が蜂の巣だ!」
即座に東の声が返った。
癒凪はそのやり取りを静かに眺めていたが、以前のような呆れ一色の顔ではない。
ほんのわずかに口元が緩んでいる。
そして、しばらく経った頃。
「じゃあ私、東と鳳が入れてくれたお風呂入ってくるね」
美月が立ち上がり、エプロンを外した。
「俺も入る!」
東も勢いよく立ち上がり、そのまま当然のように美月の隣へ並んだ。
「だめに決まってるでしょぉ!」
美月の顔が驚愕に染まる。
「なんでだ!?」
東は本気で分かっていない。
「男女が一緒に入るのは......その......!」
美月の頬が一気に赤くなる。
「恋人になることが最低ラインで......っ」
言いながら自分で恥ずかしくなったらしい。
視線が宙を泳ぎ始める。
「女性側の心の準備があるのだろう」
癒凪が淡々と助け舟を出した。
「お前達は無理に入るんじゃない」
東が癒凪を見る。
「お前は美月と入りたくねぇのか?」
「一人でいい」
その返事は一秒もかからなかった。
その横で、ジャジーが何かに気づいたように目を細める。
「でもよ。さっきの美月の言い方なら、俺と鳳ならいいってことだよな?」
すっと立ち上がった。
「だめに決まってるでしょぉ!」
二回目の怒号が、高い天井へ響く。
「今、『恋人になることが最低ライン』っつっただろ!」
「許可する側の匙加減もあるので!」
「結局答えはお前次第ってことじゃねぇか!」
「そういうこと!じゃあ行ってきます!」
美月は勢いよく背を向ける。
これ以上この議題を続ける気はないらしい。
「分かった!ゆっくりしてこいよ!」
東はあっさり諦め、再び腰を下ろした。
「うむ。疲れを癒やすとよい」
鳳も軽く手を上げる。
「はーい!」
美月は入湯の準備を整えると、ぱたぱたと浴室へ向かっていった。
その背中を見送り、ジャジーがふと眉を寄せる。
「つーか、お前らよく風呂なんか用意できたな」
東と鳳が同時に顔を向けた。
「なんでだ?」
「何を申しておるのでござる」
きょとん、と。
目を丸くしたままジャジーを見る二人。
ジャジーの背へ、嫌な悪寒が這い上がる。
「......お前らにとっちゃ、美月の風呂の温度なんか熱湯になるんじゃねぇのか?」
ジャジーの言葉に、二人は揃って首を傾げる。
「......熱湯?」
「いや、ちょうど良いと思うでござるが......」
今度は癒凪が怪訝そうに東を見る。
「お前、湯に浸かったことはあるのか」
「ねぇ」
即答。
癒凪は眉間に皺を寄せる。
次に、視線を鳳へと滑らせた。
「お前は」
「川で水浴びなら」
その瞬間。
嫌な予感が、形を持ち始める。
「......おい」
ジャジーの頬がひくりと動いた。
「じゃあ、お前らの言う“湯”って......」
その時だった。
「ノワァァァ......ッ!!」
浴室から、妙に情けない悲鳴が響いた。
「美月......!」
癒凪の姿が消える。
―――否。
消えたように見える速度で浮遊したのだ。
そして。
―――バンッ!
癒凪の手が、勢いよく浴室の扉を開いた。
「イヤァァァァァ!!」
今度は先ほどとは種類の違う悲鳴が上がった。
完全なる二次災害。
美月はフェイスタオル一枚で必死に前を隠している。
目は見開かれ、頬は真っ赤。
そして次の瞬間。
ヒュン......ッ!
美月が手にしていた洗面器が飛ぶ。
スコォンッ!
「ッ......!」
被害が飛び火する。
見事な軌道で、洗面器は癒凪の額へ直撃した。
神格を持つ男が、その場へ尻もちをつく。
「早く閉めてぇ!」
「す......すまない......!」
ぱたん。
ようやく扉が閉まった。
直後から、浴室内に勢いよくシャワーの音が響き始める。
その頃になり、ようやくジャジー、鳳、東の三人が脱衣場へ到着した。
ジャジーは床へ座り込んだ癒凪を見る。
白から濃灰ばかりの身なりの中に、異様に目立つ色を見つけると、視線を移した。
額に、真っ赤な丸。
「デジャヴ!」
つい数刻前、管理所でまったく同じものを見たばかりだった。
鳳も目を丸くする。
「美月殿の身を守る福徳が、洗面器へ乗ったのでござるな......」
鳳は洗面器を拾い上げ、冷静に分析をする。
「じゃなきゃ洗面器を寸分狂わねぇ角度で投げた挙句、神に一発入れるとか無理だろ」
東が腕を組み、妙に感心している。
ジャジーは癒凪の前へしゃがみ込んだ。
「つーか、あれだけ“女性の心の準備がある”とか言ってた奴が何してんだよ......」
癒凪は気まずそうに顔を逸らす。
「......悲鳴を聞いた瞬間、すべて霧散した......」
「お前も鳳と同じで、美月のことになるとポンコツになるタイプかよ!」
「ポンコツではござらぬ!」
なぜか鳳が被弾した。
被害が拡大していく。
三人が話す中、東は浴室の扉へ向かって声を張った。
「美月!大丈夫か!?熱すぎたか!?」
やはり湯加減についてまったく分かっていない様子。
「すまぬ!美月殿の好む湯の知識まで身についておらなんだ......!」
鳳も申し訳なさそうに続ける。
しばらくして。
「うん......ありがと......。気持ちはすごく嬉しいよ......」
湯気と一緒に消えそうな声が返ってきた。
「声に活力がねぇ!」
「美月!湯加減どうだったんだよ!」
ジャジーが訊ねる。
「うん......」
美月は考え。
「夏の海みたいな湯加減だったよ......」
「.........」
癒凪が口元を押さえて黙る。
「それもう水だろ!」
「妙に詩的になっていることに胸が痛むでござる......」
鳳の顔が曇る。
癒凪も静かに呟いた。
「温かさが、“夏”にしか存在していないな」
「足先から急に体が冷えて、一瞬、“あれ?さっき私ビーフシチュー食べたっけ?”ってくらい温度が消えた錯覚に陥ったよ......」
美月の声がシャワーの音とともに流されていく。
「マジで悪ぃ!」
「美月殿、大丈夫でござるか......?」
二人の申し訳なさげな声が浴室へと届く。
「今シャワーの方で温まってるから大丈......っくしゅっ!」
「大丈夫じゃねぇな」
ジャジーは複雑な顔を浴室へ向ける。
「あとで王蜜入れたホットミルク飲むから大丈夫! このお湯......お湯?は東と鳳で使ったら流してね!」
「分かった!」
「申し訳ござらぬ......」
そして四人はリビングへ戻った。
しばらくして、美月も浴室から上がってくる。
熱めのシャワーでしっかり温まった身体は、頬から首元まで、ほんのり桜色に染まっていた。
東の視線が吸い寄せられる。
「東?どうしたの?」
頭にタオルを乗せた美月が首を傾げる。
「......美味そう」
「.........」
「.........」
「.........」
「.........」
空気が死んだ。
「『美味そう』!?」
美月の声が裏返る。
「違ぇ!えっと......その、あれだ!褒め言葉だ!」
「食いもんとしての褒め言葉を番候補に向けんのかよ!」
「食いもんとしての『美味そう』じゃねぇ!」
「余計に良くないだろう」
癒凪が淡々と止めを刺した。
美月は深く息を吐いたあと、その癒凪の隣へ腰を下ろす。
「癒凪。さっきはごめんね。痛かった?」
「痛かった」
正直だった。
「自業自得だろ!」
ジャジーの声が飛ぶ。
「自分の責任であることと、痛みを主張することは別問題だ」
「妙に正論!」
美月はくすくす笑いながら、癒凪の額へ手を伸ばした。
温かな小さな指が、赤くなった部分をそっと撫でる。
「っ......」
「あ、ごめん。触らない方が良かった?」
「いや」
癒凪は一瞬だけ視線を逸らし。
「......触れていい」
「欲まで主張し始めたぞ」
ジャジーが目を細める。
東も癒凪を眺めていたが、ふと口元を緩めた。
「......神さんよ」
「なんだ」
「よく喋るようになったじゃねぇか」
癒凪の目がわずかに細くなる。
「......誰のせいだと思っている」
「“せい”じゃねぇ。“おかげ”だろ」
東はニカッと笑った。
数秒。
癒凪は小さく息を吐く。
「......そういうことでいい」
「よし!」
東は満足げに立ち上がった。
「じゃあ俺らも入るか!」
「不本意ではあるが、拙者らの湯加減は同じであるゆえ、仕方ないでござる」
鳳も腰を上げる。
「いってらっしゃい!ゆっくりしてきてねー!」
「おう!」
「行って参る」
二人が浴室へ消えていく。
美月は癒凪の額から手を離し、軽い足取りでキッチンへ向かった。
「さて!ホットミルク飲も〜♪」
うきうきと美月がミルクと王蜜を取り出した時だった。
「......美月」
背後から、ジャジーの声。
「なぁに?」
振り返る。
ジャジーは顔を引きつらせていた。
「お前......」
口元がヒクついている。
「......シャワーの温度、何度にした......?」
「............」
美月の動きが止まった。
先ほど。
冷えきった身体を温めるため、思い切り温度を上げた。
「............あ......」
美月のシャワーの温度。
「......四十、二度......」
その直後。
「うわっちゃァァァァァ!!!」
家を震わすほどの絶叫が響き渡った。
おそらく、先に東が蛇口を捻ったのだろう。
人間でいう四十二度の湯は、水生妖怪にしてみれば。
五十度から六十度ほどの熱湯。
事故が、さらに飛んだ。
美月はホットミルク用のカップを持ったまま固まる。
ジャジーは額を押さえ。
癒凪は静かに目を閉じた。
数秒の沈黙。
「......新居一日目から、お風呂でこんな事故ることある......?」
「今起きてんじゃねぇか」
「いやぁぁぁごめん東ぁ......。ごめん鳳......」
美月は、二人が煮魚と煮河童にならぬよう。
手を合わせ、祈るのだった。
幕間「お風呂事件」
→第8章 ???編 - 第1話
「未定」へ