第8章 本格始動編 - 第1話「答え」
あのあと。
二人はどうにか煮物にならずに済んだ。
さすがは東というべきか。
四十二度の熱湯が頭上から降り注いだ瞬間、反射的に浴槽へ飛び込み、全身が茹で上がる事態だけは回避したらしい。
東より後に浴室へ入った鳳は、熱湯を被ることは免れていた。
出しっぱなしになったシャワーの前へ水の妖力で膜を張り、温度を下げてからシャワーを浴びることが出来たということだった。
「っははは!火傷するところだったな!」
笑い事ではないはずなのだが、東は豪快に笑っていた。
「熱湯を浴びたあと、すぐに浴槽へ飛び込み、妖力で回復しておった。今は問題ないでござる」
鳳もそう告げる。
本人も少しばかり疲れた顔はしているが、まったく外傷はない。
「ごめん二人とも......」
しょも......、と美月の肩が落ちる。
すると東は、気にするなと言わんばかりに大きく笑った。
「いい!俺らが美月にやったことが返ってきただけだ!」
「うむ。何も言えぬでござる」
結果として、初日の風呂は全員が痛み分けとなった。
そして結局。
夕食が始まった際に東が聞きそびれていた鳳の補給についても、しっかり話すことになった。
「拙者の回復は、美月殿の血でござる」
先ほどジャジーに素直に伝えるべきだと言ったのは鳳自身だ。
だからこそ、言い淀みはなかった。
「............は?」
東が固まった。
「まぁ、だろうな」
「ジャジーよりもっと直接的だしね......」
ジャジーと美月は、どこか達観した顔で東を見る。
「......血?」
「うむ」
「飲むのか......?」
「飲む」
「川魚の内臓も、血合いすら綺麗に洗って食ってたお前が......?」
信じられない、という顔だった。
鳳は自分の手へ視線を落とす。
「......今は川魚の血など、妖力の足しにもならぬ。むしろ、体が受け付けぬゆえ」
「それほど、僵尸の混ざり方の方が強いということだろう」
癒凪が表情を変えず、視線だけを鳳へ向ける。
ジャジーも眉間へ皺を寄せた。
「表面は九千坊河童。だが、妖力から本能、嗜好の方までは、中身がまるっと僵尸になったってことか」
「そういうことでござるな」
鳳は静かに頷く。
「俺ぁ、お前が生きてたんならいいと思ってたが......」
東が止まる。
先ほどまでの豪快さが少しだけ影を潜め、視線が落ちた。
「俺が知らねぇ間に、ずいぶんすげぇことしてたんだな......」
鳳は東を見て、ゆっくり首を振った。
「よい。過ぎたことでござる」
そして、その視線は自然と美月へ向かう。
「今は、美月殿が拙者を支えてくれておる。拙者はそれを、恋人として支え返すだけでござる」
「ふふっ。ありがとう」
美月がいつもの笑顔を返すと、鳳も穏やかに目を細めた。
そうして、新居一日目の夜は静かに更けていった。
翌朝。
大きくなった窓から朝日が差し込み、昨日までとは少し違う広い台所を柔らかく照らしていた。
「よし。朝ごはんの準備しようかな」
美月はまだ寝静まっている家の中で一人、魔冷庫を開ける。
「偶蹄魚は......あと少しあるね。あとは野菜と......」
袋に入れて保存していた野菜を取り出そうと、奥へ手を伸ばした。
その時。
ず......。
ず......。
「......え?」
何かを引きずるような音がした。
ずる......。
ずるる......。
袋をガサガサと漁っていたため、気づくのが遅れた。
美月は野菜を抱える。
そして、魔冷庫の蓋を閉めた瞬間だった。
「よぉ」
「イ゛ァァァア゛!!」
美月の絶叫が朝の新居へ響いた。
驚きのあまり腰が抜け、その場へ尻もちをつく。
魔冷庫の蓋を閉めると同時に現れた大きな影。
目の前には。
なぜか下半身が魚体になったままの東がいた。
「驚かせてすまねぇ!だ、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないよぉ......!」
涙目の美月が胸を押さえる。
「急に日常がホラーになったぁ......」
「わ、悪ぃ......」
その騒ぎを聞きつけ。
家のあちこちから、扉の開く音が続いた。
「どうした!」
最初に現れたのは癒凪だった。
昨日よりも明らかに反応が早い。
その後ろから、ジャジーが飛ぶように現れる。
「美月!何があった!?」
続いて鳳も、忍者のような速度で駆け込んできた。
「何事でござる!」
三人は同時に状況を見る。
床へ座り込み、涙目の美月。
その正面にいて、美月へ手を伸ばそうとしている魚体の東。
数秒の沈黙。
「......まさか、本能が“辛抱堪らん”、みてぇな感じか?」
ジャジーの目が細くなる。
完全に引いていた。
「違っ......!いや、違わねぇけど......!いや違ぇ!!」
「どちらでござる」
鳳の目が、完全に東をゴミを見る目になった。
癒凪は額へ手を当て、短く息を吐く。
「......簡潔に話せ」
東は口を開き、閉じる。
それを何度か繰り返したあと、ようやく絞り出した。
「......返事......」
「......返事?」
美月が座ったまま首を傾げる。
東は真っ赤になり、視線を逸らした。
「......明日っつったから、美月が起きたと同時に、来た......」
沈黙。
「......なぜ、朝一なのでござる......」
鳳まで額を押さえた。
「寝れなかったんだよ!」
東が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「遠足の前日に寝れなくなった小学生みたいになってる......!」
それまで涙目だった美月が、とうとう吹き出した。
「俺の妖生にとっちゃ最大のイベント日だ!」
東は本気だった。
癒凪が疲れた顔で、今度は下半身へ視線を落とす。
「......それで、なぜ魚体なんだ」
「妖力が上手く使えなかったんだよ......!」
「妖力乱れるほどそわそわしてたのかよ!」
ジャジーが腹を抱えて笑い始めた。
「うるせぇ......」
東は完全に俯き、魚体の尾だけが気まずそうに床へ伏せられている。
「東」
だが、美月の声にはすぐ反応した。
顔を上げる。
先ほどまで床へ座り込んでいた美月は、もう立っていた。
柔らかく微笑みながら、東の目の前へ立つ。
「ふふ。なんか、また待たせちゃったみたいで、ごめんね」
「いやっ......!美月のせいじゃねぇ!俺が待ちきれねぇせいで......」
戻りかけていた勢いが、みるみる萎んでいく。
美月はそんな東へ、数歩近づいた。
びくり、と。
大きな身体が、わずかに跳ねる。
「......あのね」
柔らかな声だった。
東の喉が鳴る。
昨夜、眠れないまま何度も考えた。
もし、答えが“否”なら。
大人しく身を引く。
大地主大神が作ってくれた海路も、癒凪を通じて埋め立ててもらうつもりだった。
あの広い海の部屋だって、雨に濡らさず育てた方がいい植物を置く場所にでもすればいい。
そして、環境改変届をまた出さなければならなくなることも、ちゃんと頭へ入れていた。
当然、断られたくはない。
陸のマナーを覚えた。
妖力文も覚えた。
服も着た。
触れる前に聞くことも覚えた。
畑仕事では、褒めてもらった。
けれど。
それを理由に、恋人ではなくてもここへ置いてくれと願えば、自分の本能がきっと勘違いする。
ずっとここにいていいのだと。
いつか、美月の気持ちが変わるかもしれないと。
それは海の男として、あまりにも未練がましい。
断られたなら、潔く去る。
そう決めていた。
それでも、もし。
この家にいていいと。
恋人として、美月の側にいていいと言われたなら。
きっと今日という日は、自分の長い妖生の中で、いちばん忘れられない日になる。
「東?」
美月の声で、思考が現実へ戻った。
「ぁ......悪ぃ......」
美月はじっと東を見る。
いつも勢いよく笑う目が、今だけは不安に揺れていた。
相当、いろんなことを考えていたのだろう。
「......心配しなくていいよ」
美月が右手を伸ばす。
小さな手のひらが、東の頬へ触れた。
そして。
「私の恋人に、なってくれる?」
その瞬間。
東の世界が、一気に明るくなった。
美月の背後から差し込む朝の光が、美月の輪郭を柔らかく縁取っている。
東は、そんな美月に魅入っていた。
数秒の沈黙が続き、そして。
「......そこは、俺にも言わせてくれよ......」
東も、美月の頬へ右手を伸ばした。
許可を取っていないままの大きな手が、美月へ触れる直前。
美月は、それを望んでいたかのように、空いている左手をその手の上へそっと重ねる。
「......美月」
いつもの大声ではない。
海が凪いだ時のような、穏やかな声だった。
「俺の、恋人になってくれ」
美月の目が、わずかに潤む。
「っ......うん......っ......」
柔らかな笑顔。
少し離れた場所では、ジャジーも、鳳も、癒凪も。
誰一人、言葉を挟まなかった。
それぞれが穏やかな表情で、二人を見守っている。
「......あぁ......」
東が、心底満たされたように笑った。
そして。
美月の頬に触れている、右手の親指で。
壊れ物を扱うよりも、もっと大切そうに、ゆっくりとその頬を撫でた。
「今の美月は......」
目を細める。
「今まででいちばん、綺麗だ」
朝の光の中。
美月の頬が、ゆっくりと赤く染まっていった。
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「答え」
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