幕間「喧嘩祭り?」
バァンッ!
けたたましい音とともに、勢いよく玄関扉が開いた。
「美月!来た!」
居間に響いた大声に、美月の肩が跳ねる。
「んぇええ!?東!?」
卓を囲んでいた面々が、一斉に玄関へ顔を向けた。
「は?」
ジャジーが露骨に眉を寄せる。
鳳は何も言わず、ただ東を見た。
癒凪だけが、初めて見る大柄な海の怪異を静かに眺めた。
「......客か」
その一言で。
東の目が癒凪へ向いた。
「は!?てめぇ誰だ!なんで美月の家にいやがる!」
「いやいやいや待って!」
美月が慌てて二人の間へ割って入る。
「東、妖力文は!?」
「送ったぞ?」
東はきょとんとした。
「日が沈む数刻前によ」
「え!?」
美月は目を見開くと、慌てて部屋の中を見渡した。
卓、窓辺、棚の上。
そして。
「......あれじゃね?」
ジャジーが指を差す。
「......ほんとだ......」
オーブンの近くに、淡い光を帯びた妖力文が、ふよふよと浮いたまま漂っていた。
美月がそれを視認した瞬間。
潮の香りが、一気に鼻腔を抜けた。
「うわっ、今来た!」
いや、今来たのではない。
ずっとそこにあったのだが、見た瞬間に嗅覚が海に飲まれた。
「指切ったの気づかないで、傷見た瞬間に痛くなるやつと一緒だ...」
果物の甘い香り。
料理の匂い。
焼けたスポンジの香ばしさ。
生クリーム事故。
譚生日会の準備に浮かれた気分。
癒凪の過去を聞いたあとの、まだ少しだけ残る感傷。
意識が向いていたものが多すぎた。
全員が妖力を持っているからといって、周囲のすべてを無条件に感知できるわけではない。
「ごめん東!」
美月は勢いよく頭を下げた。
「ちょっと色々立て込んでて、全然気づかなかった!ほんとごめん!」
「お、おう......」
あまりにも本気の謝罪だったため、東の勢いが一気に萎む。
鳳も妖力文へ視線を向けた。
「......一瞬、潮の香りがしたような気はしておったが」
少し言いづらそうに目を逸らす。
「ちょうど、あのくりぃむの件と重なっておったゆえ......拙者も失念しておった」
「別に、そんな気にすることじゃ......」
「東。すまぬ」
鳳は静かに頭を下げた。
「美月殿は忙しなく動いておった。気づかぬのも是非もなし。拙者が報告を怠ったことも一因にござる」
東は目を瞬くと、困ったように頬を掻いた。
「......そんな謝られるたぁ思ってなかった」
「そりゃ謝るよ!」
美月は顔を上げる。
「だって私が『先に妖力文送って』って言ったんだよ!?東はちゃんと守ってくれたのに、私がそれをぞんざいに扱っちゃダメでしょ!」
真剣そのものの顔。
東はしばらく美月を見ていたが、やがて視線を逸らした。
耳の先が、ほんの少し赤い。
「......そーかよ」
「うん」
「......いい」
東は口元をわずかに緩めた。
「美月に会えた。それで十分だ」
「東......」
少しだけ柔らかくなった空気。
―――だが。
「......ただよ」
東の目が、再び癒凪へ向く。
一瞬で空気が変わった。
「俺が必死に求愛してる中、新しい男がいるっつーのは、どういう状況だ?」
その言葉に、美月が固まる。
「あ...」
癒凪は東の視線を正面から受け止めた。
見た目だけなら、圧倒的に東の方が、強そうだった。
大柄な身体に物騒な牙。
海の怪異としての濃い気配。
対して癒凪は、痩せた身体に灰色の着物。
疲弊が滲むような三白眼。
一見すれば、東の方が雄として優位に見える。
だからこそ。
なぜこの男が自分より先に、当然のように美月の家へ居座っているのか。
東には、純粋に理解できなかった。
「......私は、癒凪」
癒凪は淡々と告げる。
「今日から、美月の家でしばらく世話になる」
「はぁ!?」
東の牙が、むき出しになる。
明確な威嚇だった。
「祝いの席で戦闘を始めるでない!」
鳳が即座に声を張る。
「喧嘩祭りとかシャレになんねぇぞ!」
ジャジーも立ち上がった。
「待って東!ちゃんと理由があるの!」
しかし。
興奮した東には、まだ届いていない。
「“ゆなぎ”だぁ......?」
東が癒凪を睨む。
「名前までずいぶん弱ぇ響きだな」
「......なんだと」
次の瞬間。
空気が落ちた。
「っ...な...!?」
東の顔から余裕が消える。
「おい、マジかよ......ッ!」
ジャジーの金色の目が見開かれた。
「癒凪殿!神威を止めてくだされ!」
鳳の声が飛ぶ。
以前よりも、明らかに重い。
滝の水を天井から一気に落とされたような圧が、家中へ満ちる。
柱がミシッと軋み、同時に。
胸を押さえつけられたように呼吸が浅くなり、体までが悲鳴を上げた。
「ぅ......けほっ......」
「美月!」
「美月殿!」
その声に。
癒凪が、弾かれたように美月を見た。
目の前には、彼女が胸を押さえてうずくまっている。
「っ......すまない!」
神威が消える。
癒凪はすぐさま美月へ駆け寄った。
「大丈夫か」
「あ...はは、大丈夫......。ちょっと誤嚥した時みたいになっただけだから」
「神の圧を誤嚥にすんな!」
「それより、みんな大丈夫?」
「美月殿は自身の心配をされよ!」
呆然と、床へ片膝をついていた東も、ゆっくり身体を起こした。
「......悪ィ、美月......」
東は眉を下げる。
「俺、ちっと頭に血ぃ昇っちまって......」
それでも。
癒凪へ向ける視線には、まだ警戒が残っていた。
美月は癒凪の隣へ立つ。
「癒凪」
癒凪が俯いていた顔を上げる。
美月はその顔を見上げた。
「私があげた名前を貶されたから、怒ってくれたんだよね」
「......あぁ」
短い返事。
けれど癒凪は、すぐに目を伏せた。
「......だからといって、私を迎え入れてくれた者達を巻き込んでよい理由にはならない」
癒凪は拳を握る。
「......やはり、私はここにいない方が―――」
言い切る前だった。
美月の人差し指が、まっすぐ癒凪の唇へ触れた。
「言わせないよ」
「......」
「“癒凪”。あなたの名前」
「......あぁ」
「そういうネガティブ思考も少しずつ凪いでいきますようにって願ったんだから」
美月は癒凪を真っ直ぐ見る。
「“癒凪”って名前を完成させるのは、癒凪なの」
美月は少しだけ笑う。
「その変化だって、ここで一緒に過ごして見せてもらわないと、困る」
癒凪の瞳が、わずかに揺れた。
「......すまない」
「謝るのは私にじゃないよ」
美月は東へ向き直る。
「東も、大丈夫?」
「......あいつの名前」
東が癒凪を見る。
「美月がやったもんなのか......?」
「うん。そう」
「......悪ィ」
今度は、はっきり頭を下げた。
「お前が考えた名前......俺、弱そうだっつった」
いつもは釣り上がっている眉が、見るからに下がっている。
美月は困ったように、少しだけ笑う。
「別に、それは否定しないよ」
「......は?」
東が顔を上げる。
「そう聞こえたなら仕方ないし。名前が弱そうに聞こえることと、その人自身が弱いかどうかは別でしょ?」
美月は人差し指を立てた。
「そう思うのは自由。でも、その人が大事にしてるものを、本人の前で貶すのはダメ」
「......」
「こういう、“思うだけならいいこと”と、“口に出しちゃダメなこと”っていうのが、陸にはあるの」
東は少しだけ考え、そして。
「......わかった」
「ふふっ」
美月は柔らかく笑うと、東の鼻先をつついた。
「今日でまた一つ、学べたね」
その笑顔に。
東も、いつものように大きく笑った。
「......そうだな!」
そして。
東の表情が、笑顔から真剣なものへと変わり、癒凪へ向いた。
「悪かった」
東は真っ直ぐ癒凪を見る。
「俺ぁ今、美月の番として認めてもらえるように求愛中だ。だから見たことねぇ男が美月ん家にいて、カッとなっちまった」
言い淀まない。
言い訳もしない。
「すまねぇ」
癒凪も静かに頭を下げた。
「......私も、すまない。名を侮られ、少し腹が立った」
「少しってレベルじゃねぇぞ」
ジャジーが即座に突っ込む。
鳳も重々しく頷いた。
「うむ。五臓六腑がまろび出るところであった」
「譚生日会中にグロいこと言わないでよ!」
「“たんじょうびかい”?」
東が首を傾げる。
美月の顔がぱっと明るくなった。
「うん!癒凪の譚生日会!東も一緒に食べよう!」
「おう!」
東は謎単語の“譚生日会”について詰めることはしない。
ただ美月と一緒にいられる。
一緒に食事ができる。
それが、東にとって一番の楽しみだった。
そしてようやく。
中断されていた宴が、再び始まった。
全員が卓へつく。
東は料理を眺めたあと、ふと首を傾げた。
「つーか陸事情は知らねぇけどよ」
「うん?」
「名前って、そんな簡単にやれるもんなのか?」
「相手がちゃんと受け取ってくれればね。ただ、意味はかなり重たいみたいだけど」
「意味?」
美月は何でもないことのように答えた。
「うん。“一緒に生きてほしい”って言うことと同じらしいよ」
「“一緒に生きてほしい”ぃ!?」
東が勢いよく立ち上がる。
ジャジーが額を押さえた。
「これ、第二波来んじゃねぇか」
「次は屋根が飛ぶでござる」
「飛ばさない」
癒凪が淡々と言う。
「おい癒凪ってやつ!調子乗んじゃねぇぞ!」
「乗っていない」
「俺の方がお前より先だかんな!」
「お前より私の方が先にいるだろう」
「あんだとてめぇ表出ろ!」
「喧嘩しない!」
美月の声が響く。
その瞬間。
三人分だった騒がしさに、もう一つ声が増えた。
東が来たことで、縁はまた一つ広がった。
その縁は、さらに大きな円となり。
卓を囲む人数が増えた分だけ、宴もまた。
昨日より、かなり賑やかなものとなっていた。
癒凪は、自分に食ってかかる東と、それを止める美月。
面白そうに眺めているジャジーと、眉間を押さえている鳳を順番に見る。
そして。
ほんのわずかに、口元を緩めた。
「......本当に、この家は騒がしいな」
幕間「喧嘩祭り?」
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