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4話 手の中の現実

 あまり遅くなっても物騒なので、後ろ髪を引かれた様子の山梨ちゃんを無理やり帰らせ、喫煙所で煙草を咥える。相変わらず何の味も匂いもしない。

 満点の星をたたえる夜空に向かって伸びる煙を眺めながら、今日の騒動を反芻する。

『人殺し!』
『あんたのせいで』
『あの人を返してよ!』

 この仕事をしていて何度も何度も叩きつけられた言葉だ。いつだって、右から左に聞き流してきた。なのに、どうしてこんなに耳に残っているんだろう。

 三木優也――トマトみたいに潰れた顔で『これで自由になれる』と笑って死んでいった客。山梨ちゃんの報告書によると、三木は異世界に行く前に身の回りのものを全て処分していたらしい。唯一残したメモにはただ一言、『もう疲れた』と書いてあったそうだ。

 疲れた。それでやっと俺は三木の気持ちがわかった。そう、人生に疲れたんだ。生きるというのは、常に溺れているようなもんだ。苦しくて、辛くて、それでも泳ぎ続けなければ水面に出られない。

 中には生まれつき酸素ボンベを背負わせてもらっているやつや、ボートで運んでもらうやつもいるが、そんなのは少数派だ。大抵の人間は、泳いで、泳いで、泳ぎ疲れて死んでいく。

 俺も、山梨ちゃんも、いずれは死ぬ。冷たい海世界の中で。

「もう泳ぎたくねえなあ......」

 口から離した煙草から灰がこぼれ落ちた。視界の先には切れかけの電灯に照らされたハニーちゃんがいる。何十人、何百人も屠ってきたとは思えないぐらい綺麗だ。でも俺の手は? たとえ何度洗ったって、この作業着の袖に染みついた血痕みたいに消えやしない。

 ......そういや、創作ではトラックの運転手が異世界に行ったやつもあったな。ハニーちゃんに乗って電信柱に衝突すれば、俺も向こうに行けんのかな。

 誘われるようにハニーちゃんに乗り込み、エンジンをかける。体に伝わる振動と重低音。それは、まるで心臓の鼓動のように思えた。

「向こうに着いてもトラックの運転手やってたりしてな」

 その時はまたハニーちゃんと仕事するか、と嘯いてアクセルを踏み込む。電信柱まで十メートル、五メートル......。衝撃に備えて目を瞑ろうとしたその時、暗闇の中から小さな影が飛び出してきた。

「やめてください!」

 咄嗟にハンドルを切り、急ブレーキをかける。日頃念入りに整備している成果か、ハニーちゃんは俺の命令を忠実に聞いて、あわやというところで大惨事を免れた。

 シートベルトの下の心臓がバクバクしている。ブレーキにかけた足が震えている。固まった手をハンドルから何とか引き剥がして、飛び降りるようにハニーちゃんの外に出た。

「何してんだ! 危ねえだろうが! 車の前に飛び出すなって、ガキでも知ってることだぞ!」

 我ながらガラの悪い怒声にも怯まず、山梨ちゃんは一直線に俺に向かってきて汗臭い胸に飛び込んだ。そのまま涙と鼻水だらけの顔を擦り付け、「よかった。間に合った」と何度も呟く。

「異世界に行くなんてやめてください。お願いです。ここからいなくならないで......」
「お前に関係ねえだろ! 死ぬのは権利だってさっきも言ったじゃねえか!」
「それでも! それでも嫌なんです! 轟さんが死ぬなんて嫌!」

 ぶんぶんと首を振って叫ぶ山梨ちゃんに、徐々に頭が冷えてくる。次に生まれたのは戸惑いだ。俺と山梨ちゃんはそこまで親しいわけでもない。それなのに、どうしてここまで嫌がるのかわからない。

「なんでそんなに? 俺がいなくなっても、別に困らねえだろ? 人手不足だって言っても、また補充されるだろうし、次に来るやつの方が仕事がやりやすいかもしれないぞ」
「轟さんがいいんです。轟さんじゃないと嫌なんです。私、私、轟さんのことが......」

 その続きは聞こえなかった。

 ひっ、ひっ、と激しくしゃくり上げるたびにぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、大粒の真珠みたいだ。この仕事についてから......いや、物心ついてから、こんなに綺麗なものを見たことがあっただろうか?

 恐る恐る、震える頬に手を伸ばす。勇気を出して涙を拭っても、山梨ちゃんは血で汚れたりしなかった。

 人生は苦しくて辛い。また泳ぐのやめて、向こうに行きたくなる日が来るかもしれない。

 けれど、今は。今ばかりは、確かな現実が――人生がここにあった。
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異世界(へ送る)トラック運転手ですが、人生に疲れています作者:遠野さつき
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 あまり遅くなっても物騒なので、後ろ髪を引かれた様子の山梨ちゃんを無理やり帰らせ、喫煙所で煙草を咥える。相変わらず何の味も匂いもしない。

 満点の星をたたえる夜空に向かって伸びる煙を眺めながら、今日の騒動を反芻する。

『人殺し!』
『あんたのせいで』
『あの人を返してよ!』

 この仕事をしていて何度も何度も叩きつけられた言葉だ。いつだって、右から左に聞き流してきた。なのに、どうしてこんなに耳に残っているんだろう。

 三木優也――トマトみたいに潰れた顔で『これで自由になれる』と笑って死んでいった客。山梨ちゃんの報告書によると、三木は異世界に行く前に身の回りのものを全て処分していたらしい。唯一残したメモにはただ一言、『もう疲れた』と書いてあったそうだ。

 疲れた。それでやっと俺は三木の気持ちがわかった。そう、人生に疲れたんだ。生きるというのは、常に溺れているようなもんだ。苦しくて、辛くて、それでも泳ぎ続けなければ水面に出られない。

 中には生まれつき酸素ボンベを背負わせてもらっているやつや、ボートで運んでもらうやつもいるが、そんなのは少数派だ。大抵の人間は、泳いで、泳いで、泳ぎ疲れて死んでいく。

 俺も、山梨ちゃんも、いずれは死ぬ。冷たい海世界の中で。

「もう泳ぎたくねえなあ......」

 口から離した煙草から灰がこぼれ落ちた。視界の先には切れかけの電灯に照らされたハニーちゃんがいる。何十人、何百人も屠ってきたとは思えないぐらい綺麗だ。でも俺の手は? たとえ何度洗ったって、この作業着の袖に染みついた血痕みたいに消えやしない。

 ......そういや、創作ではトラックの運転手が異世界に行ったやつもあったな。ハニーちゃんに乗って電信柱に衝突すれば、俺も向こうに行けんのかな。

 誘われるようにハニーちゃんに乗り込み、エンジンをかける。体に伝わる振動と重低音。それは、まるで心臓の鼓動のように思えた。

「向こうに着いてもトラックの運転手やってたりしてな」

 その時はまたハニーちゃんと仕事するか、と嘯いてアクセルを踏み込む。電信柱まで十メートル、五メートル......。衝撃に備えて目を瞑ろうとしたその時、暗闇の中から小さな影が飛び出してきた。

「やめてください!」

 咄嗟にハンドルを切り、急ブレーキをかける。日頃念入りに整備している成果か、ハニーちゃんは俺の命令を忠実に聞いて、あわやというところで大惨事を免れた。

 シートベルトの下の心臓がバクバクしている。ブレーキにかけた足が震えている。固まった手をハンドルから何とか引き剥がして、飛び降りるようにハニーちゃんの外に出た。

「何してんだ! 危ねえだろうが! 車の前に飛び出すなって、ガキでも知ってることだぞ!」

 我ながらガラの悪い怒声にも怯まず、山梨ちゃんは一直線に俺に向かってきて汗臭い胸に飛び込んだ。そのまま涙と鼻水だらけの顔を擦り付け、「よかった。間に合った」と何度も呟く。

「異世界に行くなんてやめてください。お願いです。ここからいなくならないで......」
「お前に関係ねえだろ! 死ぬのは権利だってさっきも言ったじゃねえか!」
「それでも! それでも嫌なんです! 轟さんが死ぬなんて嫌!」

 ぶんぶんと首を振って叫ぶ山梨ちゃんに、徐々に頭が冷えてくる。次に生まれたのは戸惑いだ。俺と山梨ちゃんはそこまで親しいわけでもない。それなのに、どうしてここまで嫌がるのかわからない。

「なんでそんなに? 俺がいなくなっても、別に困らねえだろ? 人手不足だって言っても、また補充されるだろうし、次に来るやつの方が仕事がやりやすいかもしれないぞ」
「轟さんがいいんです。轟さんじゃないと嫌なんです。私、私、轟さんのことが......」

 その続きは聞こえなかった。

 ひっ、ひっ、と激しくしゃくり上げるたびにぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、大粒の真珠みたいだ。この仕事についてから......いや、物心ついてから、こんなに綺麗なものを見たことがあっただろうか?

 恐る恐る、震える頬に手を伸ばす。勇気を出して涙を拭っても、山梨ちゃんは血で汚れたりしなかった。

 人生は苦しくて辛い。また泳ぐのやめて、向こうに行きたくなる日が来るかもしれない。

 けれど、今は。今ばかりは、確かな現実が――人生がここにあった。
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