口中調味料
料理の味を変えるのは、自由か、冒涜か。
「――それでは、半期お疲れ様でした。来期も引き続き、よろしくお願いします。乾杯」
村上課長のありきたりな乾杯の音頭とともに、我らが営業二課とその周辺部署による合同打ち上げは始まった。みんながグラスを傾けるのに合わせて、俺もビールに口をつける。
グラスが鳴り、泡が減り、俺の前を空いたジョッキが通り過ぎた。誰かがさっそく「すみません、生ひとつ追加で」と店員を呼んだ。サラダの皿は手早い誰かによって人数分に崩され、唐揚げの皿はなぜかテーブルの中央へ押し出された。会社の飲み会では、人間だけでなく料理にもなんとなく配置がある。
かく言う俺の配置はというと、長テーブルの真ん中より少し端、若手の輪にも上司の島にも属さない、いちばん扱いに困る場所に収まっていた。新卒で入社してから、流されるように働き続けるうちに、何年経っただろう。いつの間にか中堅どころと呼ばれてもおかしくない年齢になっていた。新人のような初々しさはとうに失われ、かといって役職持ちのような貫禄もない。可能性に酔ってしまえるほど若くはなく、ありきたりな現実に黙って腰を落ち着けられるほど醒めてもいない。中途半端。それが俺の配置だった。明太アヒージョだの炙りチーズつくねだのといった創作料理や、枝豆や刺身盛りなどの定番料理に押し出されるようにして回ってきたたこわさの皿に、妙な親近感を覚える。俺はたこわさと自分との紐帯を確かめるかのように箸の先でつついた。
最近の会社の飲み会ではすっかり定位置となった場所に座りながら、しかし今日の俺はずっと落ち着かなかった。意味もなくたこわさをつつき続けながら、ちらりと隣の席を見る。
今日の俺の隣には、白石さんがいた。
彼女は営業企画部の人間で、厳密には我らが営業二課の所属ではない。部署は違えど案件で二課と関わることが多く、若くしてそつなく仕事をこなす彼女に助けられた者も少なくない。加えて社内でも指折りの美人であった。当然二課の中で彼女を意識する者は多く、彼女が場にいるだけで男性陣は色めき立つ。今日の飲み会でも、密かに彼女とお近づきになりたいと画策している者は多いはずだった。
そんな白石さんが、なぜか俺の隣で静かにグラスを傾けている。意識しまいとしても、箸を持つ手に自然と力が入った。他の二課の男どものことを言えたものではない。浮かれて白石さんに余計なことを口走らないようにたこわさを飲み下す。たこわさはたこわさらしく、過ぎた主張はしないに限る。俺はそう自らを戒めた。
「え。藤堂さん、口中調味料入れてるんですかぁ?」
男どもの嫉妬や羨望の視線を浴びつつ、白石さんの横でぎこちなく料理を口に運ぶことしばらく。そんな素っ頓狂な声が、若手社員の席の一角から不意に飛んできた。
「いやぁ」
見ると、話題の中心となった人物――我らが二課の若手のホープ、藤堂が、照れたような、得意になったような笑顔を浮かべていた。声の主は、藤堂の隣を当然のように確保していた猪熊さんだった。
「正式には味覚補正用口腔内インプラントって言うらしいんですけど。まあ、口中調味料っすね。前から興味があったんで、先週の休みにちょちょいっとね」
「マジ?」
「日帰りでできんだ」
「高くないの?」
こともなげに答える藤堂に若手を含む周囲の社員が食いついた。
味覚補正用口腔内インプラント。
奥歯の裏に小さな端末を埋め込み、甘味や苦味の感じ方を調整する技術らしい。もともとは、先天的に味覚に障害のある人や、治療の副作用で味がわかりにくくなった人のために開発されたものだと、何かのニュースで見た。詳しい仕組みも解説されていたように思うが、文系の俺にはよくわからなかった。そのニュースでは、この技術が本来の目的を外れて、お手軽な人体改造手術として若者たちの間で妙な広がりを見せていると報じていた。
口中調味料。
誰が言い始めたのか、そんな俗称が広がり始めていた。
日本の食文化には口中調味という、飯とおかずを口の中で合わせて味を作るという考え方がある。だが今やそれは奥歯の裏に埋め込む小さな機械へと行き着いたらしい。
「今これ、唐揚げをレモン強めにしてます」
藤堂はそう言って、皿の中央に押し出されていた唐揚げをひとつつまんだ。
「え、レモンかけてないのに?」
「口の中で足してる感じっすね。あと黒胡椒も少し」
「すご。未来じゃないですか」
猪熊さんが、藤堂の腕でも触りそうな距離で身を乗り出す。
藤堂はますます照れたように笑い、今度は枝豆を口に放り込んだ。
「枝豆は、ちょっと焼きとうもろこし寄りにできます」
「何それ、楽しそう」
「刺身もいけますよ。醤油なしで、醤油濃いめ」
「もう意味わかんないです」
猪熊さんはそう言いながら、実に楽しそうだった。
俺はそれを見ながら、藤堂らしいなと思った。口中調味料のような新しいものに物怖じせず挑戦するのもそうだが、それでなくても何かと場を盛り上げて、気づけば話題の中心になるやつだった。少し軽薄なところはあるにせよ、藤堂を見ていると、それもむしろ人生を明るくする美徳に思えてくる。
そんな俺の感慨をよそに、なおも藤堂は口中調味料の実演を続けていた。その一つ一つに猪熊さんが、「すごぉい」などといちいち大袈裟に持ち上げている。隣の席をがっちりと陣取っていることもあって、露骨なほどである。もはや猪熊さんが藤堂に好意を寄せているのは誰の目にも明らかなのだが、当の藤堂は先ほどからちらちらとこちらを伺っていた。より正確にいうと白石さんの方を、だ。口中調味料の話を足がかりに、白石さんへ話を振る隙を探しているのかもしれない。それをさせじとしてか、猪熊さんがことさら大袈裟に合いの手を入れる。会社の飲み会とは、とかく様々な人間模様が渦巻くものなのだ。
俺は隣の白石さんの様子を見た。すると彼女は料理をつまむ箸を止めて、藤堂たちのやり取りを興味深そうにじっと眺めていた。気になった俺は、決してたこわさの分を超えないように気をつけながら声をかけた。
「白石さん、ああいうの興味あります?」
白石さんははっとしたようにこちらを向いた。
「えっと。どうでしょう」
そう言って曖昧に笑った。その反応を不思議に思い、言葉を続けようとする俺を、一際大きな笑い声が遮った。見ると、藤堂が大量のワサビとマヨネーズを盛ったパイナップルを、うまそうに口いっぱいに頬張っているところだった。
口中調味料がなければ、ただの罰ゲームである。軽薄は美徳かもしれないとした先ほどの評価は訂正しよう。決して、白石さんとの会話を邪魔された恨みとかではない。
酒宴が進むにつれ、藤堂のパフォーマンスは少しずつエスカレートしていった。それに釣られて、周囲の輪も大きくなる。
その輪の端で、ずっと面白くなさそうな顔をしていた二課の若手の一人、三谷が黙ってグラスを置いた。
三谷は藤堂の同期で、決して仕事ができないわけではない。むしろ丁寧で堅実な方だ。ただ、藤堂の活躍の隣では、どうしても影が薄く見える男だった。
「それ、料理に失礼じゃないか」
ひやりとした三谷の一言に、すっかり温まっていた場の温度が、すっと下がった気がした。誰かの箸が止まり、猪熊さんの笑い声だけが半拍遅れて消えた。
「え、何が?」
藤堂はまだ笑っていた。口の中に残ったパイナップルを飲み込んで、空になった串を皿に戻す。
「その食べ方だよ。店が出した味を、そんなふうに変えて遊ぶのは失礼だろ」
「いや、変えてるって言っても、俺の口の中だけだし。誰にも迷惑かけてなくない?」
「そういう問題じゃない」
三谷の声は大きくなかった。けれど、妙に通った。一瞬、気まずい沈黙が流れる。よくない方向に向かっている。誰もがそう感じた。
「でも、卓上に七味とか醤油とか置いてあるじゃん。あれも味変だろ」
藤堂は、そんな空気はどこ吹く風というようにヘラヘラと軽く答えた。この場の空気を察せない男のはずもなく、わざとだろうことは見てとれた。
「それは店が許してる範囲だろ。お前のは、店の味をなかったことにしてる」
しかし三谷はなおも食い下がった。あるいはそんな藤堂の余裕ぶりが、余計に癇に障ったのかもしれなかった。
「でも、まずそうに食べるより、楽しく食べてる方がよくないですか?」
猪熊さんが、藤堂の隣から明るく口を挟んだ。たぶん、藤堂を助けるつもりだったのだろう。だが、三谷にはそれこそ火に油だった。
「味を変えておいて、うまいって言うのは嘘だろ」
三谷は猪熊さんではなく、藤堂を見たまま言った。
「うまく感じてるんだから、嘘じゃないだろ」
「そういうところだよ」
「どこ?」
藤堂は本当にわからないという顔をした。悪気のないその態度に、ますます三谷は苛立ちを募らせているようだ。
「そもそも、味覚をいじったら、傷んでるものに気づけなくなるだろ」
「腐敗臭とか危険な味は消せない仕様だって。安全フィルターあるし」
「ニュースの受け売りかよ」
「いや、使ってる本人が言ってんだけど」
ここで三谷が初めて言葉に詰まった。藤堂を言い負かそうという気持ちが勝つあまりに出た自らの発言の迂闊さに、遅れて気づいたようだった。反論に窮した三谷が、一瞬ちらりとこちらを見た気がした。より正確に言うと白石さんの方を、だ。俺は、ははぁ、と思った。やけに藤堂に食ってかかるのには、そういう理由もあったのか。
「体に機械を入れてまで、そんなに自分好みにしたいのかよ」
吐き捨てるように言って、再び三谷が切り込んだ。それに対して藤堂より先に猪熊さんが声をあげる。二人の言い争いは周りを巻き込んでどんどんエスカレートしていた。しかし、俺にはそんなことよりも気になることがあった。三谷が言葉を発したその瞬間、白石さんの箸が一瞬、隣にいた俺だけが気づけるくらいほんの一瞬止まった気がしたのだ。俺の視線の先で、何事もなかったかのように食事を続ける彼女はしかし、先ほどよりも心なしかほんの少し俯いているように見える。それは悲しんでいるようにも、落ち込んでいるようにも、口元を隠そうとしているようにも見えた。そんな彼女の様子を見ていると、俺はなぜだか、たこわさの分をほんの少しだけはみ出してみる気になった。
「......人がどう味わってるかなんて、外からはわかりませんしね」
俺は藤堂たちの方を見たまま、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。白石さんがこちらを見る。
「同じ青って色を見てても、俺の青と白石さんの青が本当に同じかなんて、誰にも確かめようがないじゃないですか。味も、たぶんそういうものなんでしょうし」
言いながら俺は少し後悔していた。静かに俺の話に耳を傾けている白石さんの沈黙が痛い。何が言いたいんだこのおっさん、というような冷めた視線が返ってきはしないだろうかと不安になった。
だが、白石さんは少し目を伏せると、ふっと笑って言った。
「......そうかもしれませんね」
彼女の柔らかな声に、俺は少し肩の力が抜けた。
その一方で、藤堂たちの方では議論がまだ続いていた。
「便利なら何でも入れるのかよ」
「コンタクトとか歯列矯正とかと何が違うんだよ」
「飯だぞ」
「目だって歯だって体だろ」
藤堂は相変わらず軽い調子だった。だが、三谷の方は酔いもあってか完全に目が座っている。三谷は一瞬、藤堂の周りにできた輪を見た。猪熊さんがいて、他の若手がいて、その少し先に白石さんがいる。その全部が、三谷には藤堂の味方に見えているようだった。
「そうやって、何でも自分の好きな味に変えるんだな」
三谷の声が少しだけ低くなった。これにはさすがの藤堂も鼻白らんだようで、笑みを引っ込めて聞き返した。
「どういう意味だよ」
しかし三谷はそれ以上何も言わなかった。
藤堂の顔から余裕が消え、猪熊さんに至っては今にも爆発しそうである。いよいよ場が険悪な雰囲気になってきて、止めた方がいいよな、と周りの社員が顔を見合わせ始めたその時であった。
「その辺にしときなさい」
乾杯の音頭以降、お通しの枝豆がごとくすっかり背景へ没していた村上課長の声が響いた。その意外な介入に、全員が驚いて視線を向ける。
「藤堂くん」
「はい」
課長はみんなの視線を受けながらまずは藤堂に語りかけた。口調は穏やかだ。
「藤堂くん。君はなんでも楽しめる。新しいものでも、変わったものでも、まずは試して楽しんでみることができる。それは素晴らしい才能だ。でもどうだろう。君は、君のお母さんや君の大事な人が作った料理にも、そんなふうにワサビやらマヨネーズやらごちゃ混ぜにかけて食べるだろうか。それを見て、君のお母さんや大事な人は喜ぶと思うかな」
課長の話を聞いて藤堂は、しっかりとその言葉を受け止めるように一拍置いて答えた。
「――思いません。俺が軽率でした」
そこで一度言葉を切って、ちらりと三谷の方を見やる。
「三谷の言うとおり、失礼な振る舞いでした」
それを聞いた課長は、うんと一度頷き、今度は三谷の方へ向き直って言った。
「三谷くん」
「......はい」
バツが悪そうに三谷が答える。
「三谷くん。君はなんでも真面目に受け止める。普通の人が流してしまいそうになることでも、一度立ち止まってきちんと考えることができる。それも他の人にはなかなかできない。まだ若いのに、本当に立派だ。そんな君だからこそ、考えてみてほしい。君の目から見て藤堂くんは、人の作ったものを馬鹿にしたり、笑ったりして楽しむ人間だろうか。これまで一緒に仕事をしてきて、そんなふうに感じたことはあっただろうか」
三谷は一瞬ぐっと言葉に詰まったが、やがて絞り出すように課長の問いに答え始めた。
「......思いません。そんなふうに感じたことは。......一度もありません。藤堂は」
三谷はそこで何かを振り切るようにふう、と深い息を吐いて藤堂を見た。
「藤堂はいい奴です。人の好意や善意を踏みにじったり、嘲笑ったり、そんなことをする奴じゃありません」
そう言うと三谷は藤堂に向かって素直に頭を下げた。
「すまん。......熱くなった」
藤堂が照れたように笑った。
「いいって。俺も調子に乗りすぎた。......ありがとな」
そんな二人の様子を村上課長はうんうんと、柔和な顔で見守った。ほう、と周りから安堵とも感嘆とも取れる声があがった。
「さあ。言い争いはこのくらいにして、酒と料理を楽しもうじゃないか。ただし、せっかく同じ席で食べてるんだ。人の食べ方にあまりケチはつけず、とはいえ節度は守ってな」
そんな課長の言葉に、決まり悪そうに藤堂と三谷が顔を見合わせて、周囲から軽く笑いが漏れる。ふっと場の空気が軽くなったのを感じた。
少し離れた席から、俺は感心の面持ちで村上課長を見ていた。正直、意外な一面だった。村上課長といえば、これといって目立たない人だった。思い浮かぶ姿といえば、いつも笑ってうんうんと頷いているところくらいで、部署内でも背景のような人、というのが二課での共通認識だった。
それが、こんなふうに見事な采配で場を収めてしまうとは。
わだかまりが解けて照れたように素直に笑い合う藤堂と三谷の姿を見て、柄にもなく俺までちょっと感動してしまった。藤堂が持つリーダーシップに三谷の慎重さが加われば、案外この二人がこれから会社を背負って立つ名チームになるかもしれない。そんなふうに考えて、ほんのり胸が熱くなるのを感じた。
「ちょっと意外でしたね」
場の熱に当てられて、俺はちょっと浮かれていたのかもしれない。自然に隣の白石さんに話しかけていた。
「ええ。でもたまにこういう時があるみたいです」
白石さんも笑って答えた。心なしかさっきまでよりも距離が縮まった気がする。
そこに学生らしいバイトが、焼き鳥の盛り合わせを運んできた。気をよくした俺は、それを受け取りながら、白石さんと会話を続ける。
「白石さん、ここの焼き鳥食べたことあります? デカくて食いでがあって、これがなかなかいけるんですよ」
「本当ですか? ぜひ食べてみたいです」
白石さんが目を輝かせるのを見て、俺はますます浮かれて、たこわさの分をいつの間にか忘れてしまっていた。みんなが食べやすいように、という体で白石さんが食べやすいように、焼き鳥を串から外しにかかった。
「本当は七味をかけるとなお、いいんですが。見当たらないな。ちょっと待ってください、店員に言って――」
「あ。七味なら私、大丈夫です」
席を立とうとする俺を、白石さんが優しく制した。え、と思い顔を向ける俺に、白石さんが悪戯っ子のような笑みを浮かべて、自分の奥歯の方を指す仕草をした。それから俺にこっそり秘密を打ち明けるように、冗談めかして耳打ちの真似をした。俺と白石さんの距離がわずかに縮まり、ふわりと甘い酒の香りが鼻をくすぐった。俺の胸がどきりと跳ねる。
「でも面白半分ってわけじゃないんです。実は私――」
「おい。そこ。何してる」
白石さんが何事か囁きかけた、その時だった。突然の怒声に、俺たちの会話は遮られた。見ると、先ほどまで柔和な表情で飲み会の様子を見守っていた村上課長が目を三角に吊り上げて、同じ人かと疑うほどに険しい表情でこちらを見ていた。より正確に言うと白石さんの方を、でもなく、俺の手元でバラバラに解体された焼き鳥を、だ。
「それだよ、それ」
課長が、焼き鳥を指さして言う。
「焼き鳥を、串から、外すんじゃない」
俺は課長の豹変に驚いて、しどろもどろになりながら弁解した。
「あ。いや。これはみんなが食べやすいようにと――」
「そういう問題じゃない」
にべもなかった。
俺は隣の白石さんと目を見合わせた。
かくして、今夜二度目の議論が始まった。
議題は、焼き鳥を串から外すことが、焼き鳥への冒涜にあたるかどうかだった。
俺は村上課長の話に、はい、とか、あぁ、とか、すいません、などと答えながら、すっかり味のしなくなったビールを口にした。
口中調味料があれば、こんな時でも美味しく酒を飲めるのだろうか。今度こそ白石さんに聞いてみようか。そんな益体もないことを考えた。