8.雲隠れ
一難去ってまた一難。
赤毛の女の子は何事もなかったかのような顔で旅支度を完了させようとするハトリ氏に詰め寄りました。
「行くんですね、師匠!」
いつの間に旅支度を終えていたんだとか、なんで先に言ってくれなかったのだとか、あと、青年の姿に変じたのも旅支度のうちですかとか、言いたいことは山ほどありましたが、とりあえずは「旅」の確認だけはとりました。
「ここを出ていくんですね?」
念を押すように、女の子は尋ねました。ハトリ氏は黙って、女の子から目をそらしました。そしてそれは「肯定」を意味しています。
「もしかしてわたしを置いていくつもりじゃないでしょうね?」
ハトリ氏はため息をつき、そっけなく答えました。
「雲隠れの旅だから、あてのない旅になるだろう。誰にも追いつけないよう、遠くへ」
「ひとりで行くつもりなんですか?」
「......ついてくることはないさ。ここは君の生まれた町だろう? 戻ってこられるかわからない。そういう旅だ」
放浪の旅には慣れている、とハトリ氏は言いました。今までそうしてきた。たまに長く居つく土地もあるが、もとは「流れ鳥」なのだと、自嘲めいた笑みがハトリ氏の口元に浮かんでいました。
流れ者のハトリ氏は、同じ土地に長くは居つけない。
ここだって、借りの塒のひとつなのだ。
ハトリ氏がこの地に流れ着いた時、赤毛の女の子はやっと生れたばかりでした。どこからかやってきた不思議な流れの砥ぎ師。正体不明のハトリ氏は、ときどき行方不明になって消息を絶った......かと思うと、皆がハトリ氏を忘れた頃にひょっこり現れるのです。赤毛の女の子だけがハトリ氏をずっと憶えていて、ずっと待っていたのです。
「また、行方不明になるつもりなんですね?」
女の子が訊くと、ハトリ氏はゆっくりと瞬きをし、真剣な弟子の顔を見やりました。そして、切なげに微笑みました。
「もう、うんざりなんだ......」
ハトリ氏の言葉は、あまりに重いものでした。
女の子も、言葉が出ず唇を噛みました。
ハトリ氏が、どれほど傷ついていたのか、それに気づけなかった自分が歯がゆく、情けなくもあったのです。
ハトリ氏は、噂をたてられたそのことにではなく、噂の根底にある人の心の暗い願望にこそ、ハサミトギ氏は落胆し、そして失望したのです。
――人が、人を殺してしまいたいと願う、その思いの強さと深さ。
かんたんにハサミで切れてしまうからこそ、人はそれを願うのだ。
「その願いの強さゆえに、噂が瞬く間に広まったんだよ。――ハトリ氏が特別に砥いだハサミは、人の命を切ることができる、とね」
もちろん、噂を広める際にあの山猫も関与していたでしょう。ハトリ氏の居所を触れて回ったのも、おそらく山猫でしょう。
噂に、悪意のある尾ひれがついたにしても、「事実」は確かに存在していたのです。
ハトリ氏が砥いだハサミの切れ味は、たしかに素晴らしく良いものなっていたのですから。
不審に思いながら、あの女の人のハサミを砥いでしまった愚かな自分の行動が、今にして悔やまれます。
「もしかして空き巣の犯人って......」
弟子の女の子は山猫が去っていった方に目をやりながらつぶやきました。
「私の砥ぎ道具を盗ろうとしたんだろうね。山猫が実行犯ではないだろうが」
研ぎ道具だけ盗んだところでどうしようもなかったろうにね、とハトリ氏は歎息しました。
「これからもこういったことはあるだろう。山猫のひろめた噂が、とこまで拡がったかもわからないし、さらに酷い尾ひれがついているかもしれない。だから、おまえはこの家を出た方がいい。今回は空き巣で済んだが、もっと危険な目に遭うかもしれないからね。まあ、おまえなら大丈夫だとは思うけれど......」
ハトリ氏は、弟子が背負っている『魔断ちのハサミ』を見やって言いました。
それは、かつてハトリ氏が特別に作ったものでした。自分の持つハサミと対になっているハサミです。一振りのはずがいつの間にか二振りになってしまった、特別なハサミです。もう一振りのハサミは、今、ハトリ氏の傍らに立てかけてあります。やはり、銀の月を模った美しいハサミです。
「分りました」
言うと、弟子の女の子は踵を返しました。後頭部で結わえられた長い尻尾のような赤毛が、ふわりと弧を描きました。
ハトリ氏は目を瞬かせました。弟子の返事に、ちょっと拍子抜けしてしまったのです。
叱られるかごねられるか、ともかく「わかった」などと言うはずないと考えていたからです。
けれど、ハトリ氏の考えは、やはり当たっていたのです。
「わかりましたから、五分待ってください! すぐに旅支度整えますからっ!」
「――?」
「ちゃんと待っててくださいよ、師匠!」
一度振り返って念を押すし、女の子は自室に駆けこみました。
――ほんとうに、勝手なんだから!
何もかも一人で決めてなんにも相談してくれないで!
そのくせ、あーしろこーしろって命令ばっかりしてくるんだから!
そう悪態をつきながらも、女の子は手早く荷物をまとめました。荷物で膨らんだ麻布の鞄を掴むと、大急ぎで師匠のもとに戻りました。実を言えば、大掃除のあとだったこともあるし、ちょっと「予感」があってすでに荷物はまとめてあったのです。大きな鞄に急いでつっこんだものは、大半は携帯食や水に調味料などでした。
ハトリ氏が呆れるほどの早さで身支度を整えて、女の子は「さあ、いいですよ」と意気込みました。急ぐあまり、ちょっぴり息は上がっていました。
「......おまえを連れていくとは」
「何言ってるんですか、師匠!」
女の子はハトリ氏ににじり寄り、憤然として言いました。
「そのハサミを使うんですよね、師匠! 特別なハサミを使ってでしか出かけられない旅へ」
「......そう、だが」
「誰にも追いつかれないように、時空を超える旅に!」
「............」
弟子の言う通りでした。
ハトリ氏は弟子に気おされて、困り顔でした。
青年の姿になっているハトリ氏は、今は弟子の女の子より背もうんと高いのです。女の子だってうんと首を伸ばさなければ、ハトリ氏を睨みつけることもできません。それでも弟子に気おされて、ハトリ氏はなんだか縮こまってしまっています。たじろいで、うまく言葉も出てきません。
「師匠のハサミ、『時空断ちのハサミ』は、『魔断ちのハサミ』と対になってるんでしょう?」
「......そうだが......」
「なら、二つのハサミは離れ離れになっちゃいけないんです。『時空断ちのハサミ』は師匠しか使えないし、『魔断ちのハサミ』もわたししか使えません。だからわたしと師匠も離れちゃいけないってことなんです!」
「では、そのハサミを」
「返しませんっ!」
ハトリ氏の言葉を、女の子はばっさりと切って落とします。
「作ったのは師匠ですけど、『魔断ちのハサミ』はわたしにしか使えません。そう言ったのは師匠でしょう?」
その通りでした。
魔を断つためのハサミは、ハトリ氏には重すぎて使えないのです。砥ぐことはできても、刃をおろして切ろうとするとなぜかうまくいきません。今、『魔断ちのハサミ』を使いこなせるのは、赤毛の女の子だけなのです。赤毛の女の子のためにあつらえたかのような、そんなハサミなのです。
「時空を渡るのは危険なんですよね? 魔物に遭遇することもあって、すごく危険なんだって師匠言ってたじゃないですか!」
これもまた、弟子の言う通りでした。
ハトリ氏は幾度か時空を渡る旅をしてきましたが、それはもう危険で、命からがら時空の隙間に逃げ込むことはしょっちゅうで、それに付かれて現在の土地に長逗留しているくらいです。
「魔物対策としてこのハサミをつくったんですよね? ハサミだけど、お守りだし、盾にもなるって」
またしても、事実でした。女の子の口からは、ハトリ氏の口を閉じさせる事実しか出てきません。反論などしようもありませんでした。
「魔物と遭遇するとは限らない。安全な時空もある」
「遭遇することもあるわけですよね? そうなったら、師匠はあっという間に魔物の餌食です」
「そうなる前に私だって逃げるさ」
「師匠の逃げ足なんてナメクジ並みの速度なんだから、全然だめです」
「今までは逃げきれたんだ......」
「ギリギリですよね?」
「身を隠すことくらいはできる」
「全身隠してハサミ隠さずなのが目に浮かびます」
こきおろされっぱなしのハトリ氏でしたが、女の子の言うことにどれも思い当たる節があって、否定しきれないのです。「ぐうの音も出ない」とはこういうことかと、我ながら滑稽でもありました。
「師匠!」
女の子は、ハトリ氏の冷たい手をがっしりと掴みました。
「わたしは師匠を守るって決めてるんです! 昨日も言いましたよね! わたしの覚悟はこのハサミをいただいた時に、とっくに決まってます! 師匠、師匠らしくさくっと決断してください!」
「いや、しかし......」
こんなに言われても、まだハトリ氏は煮え切りません。
「いいですか、師匠! わたしみたいな、可愛いうえに家事全般こなすしっかり者で、しかも『魔断ちのハサミ』を使いこなせる優秀な弟子を旅に同行させないなんて、ありえませんよ!」
「............」
相変わらず自己評価が高いことだね、という皮肉も、今はハトリ氏の口からは出てきません。
――まあ、事実ではあるかな。と、本心では思っていますし。
「これも役得だと思って、俺について来い、くらいのこと言ってくださいよ!」
時には「俺様」を気取っても笑いませんから! と、弟子は必死に言いつのります。
こうまで言われては、さすがに拒み切れません。
そもそも、ハトリ氏はすでに「覚悟」していたのです。
運命の女神が言っていたように、弟子の女の子を連れて行った方が良いのです。
「どうせダメだといっても、ついてくる気だろう?」
と、ぼやいてから、ハトリ氏は何度目になるかもうわからないため息をつき、『時空断ちのハサミ』を手元に引き寄せました。
「わかった。好きにしなさい」
素っ気ない口調で、ハトリ氏は弟子の同行を許しました。
もし置いていったとしても、きっとこの弟子は何らかの手段を用いて、追いかけてくるでしょう。
「おまえからは逃げ切れる気がしないよ」
「そりゃ、師匠の足じゃ逃げ切るなんて無理な話ですね」
「......師匠を敬いなさいと、何度言ってもきかないね......。まあ、いい。荷物を頼むよ。私はハサミを使わねばならないからね」
「はぁい」
と、朗らかに返事をした女の子でしたが、荷物を肩にかけてから、ちょっとむっとしたような顔をして文句をつけました。文句というより、嬉しくなっての軽口でもありました。
「か弱い女の子に荷物持ちさせるとか! いま師匠の方が大きいじゃないですか!」
「か弱い......ねぇ......」
くすりと、ハトリ氏は小さく笑いました。
なんだか、今までのやりとりが可笑しくなってきて、緊張もすっかりほどけてしまいました。『時空断ちのハサミ』も片手で握る大きさに縮みました。透明に見える、細長いハサミはとても軽く、時空に跡を残さぬほどきれいに切れそうです。
ハトリ氏は弟子の女の子の背中にある『魔断ちのハサミ』を見やり、使う出番が少ないことを内心で祈りました。
「旅の安全を考えるのなら、荷物はおまえが持っていた方がいいだろう」
「それもそうですね。師匠に荷物持たせたら、わたしが師匠ごと背負わなくちゃいけなくなって、かえって面倒ですもんね」
まったく、弟子の癖に遠慮がない。
文句をつけたいのはハトリ氏の方でしたが、それも今更という気がしたし、気楽なのもほんとうなので、あえて反論はしませんでした。
「さっ、準備万端です! いきましょう、師匠!」
女の子は右腕を力強くあげ、笑いました。
まるでハイキングにでも出かけるかのような口ぶりです。楽天的な弟子は、旅への不安などこれっぽっちも感じていませんでした。もちろん、師匠を護ろうとする決意は新たにしていましたけれど。
「はいはい」
ハトリ氏は『時空断ちのハサミ』を掲げました。透明な羽が、ハトリ氏の背にきらめいて見えました。
ゆっくりと、刃を開きます。
上向けて開かれたハサミの刃先が、銀色に光りました。
「じゃ、行こうか。遥かに、時を越える旅に」
「はいっ!」
そして......――
時空が切られて、閉じて。
ハトリ氏とその弟子は旅立ちました。
――時空の狭間に、銀河の果てに、幻影の彼方に。
「――かくして。ハトリ氏とその愛弟子との愛の逃避行は、始まったのです。襲いかかる困難にもめげず、互いを守りあいながら、愛を育てて――」
「このばか弟子! 捏造するんじゃない!!」
「えー......。いいじゃないですか、こういうエンディングの方が」
「どこがどう『愛の逃避行』なんだ? エンディングでもなんでもないだろうに! 寝言は寝てから言いなさい!」
「こーんな可愛い女の子との旅路なんですよ? 借金取りから逃げるみたいな言い方されるよりずっといいじゃないですか。浪漫がないなぁ、師匠は」
「......くだらないことばかり言っていると、時空の隙間にねじりこんで、置いていくよ」
「わっ、待ってくださいよ、師匠!」
いつ終わるともしれない、長い長い旅路。行く当てもなく、ゴールもない、時空渡りの旅。
ハサミを砥いで欲しい人達の願いを置き去りにして、ハトリ氏は雲隠れ。
けれどもしかしたら、遥かな旅のその途中――
いつの日か、あなたの町にもハトリ氏は現れるかもしれません。
大きなハサミを背負っている、赤毛の女の子を伴って。