1.序
こんな噂があるんですって。知っているかしら?
ハトリ氏の砥いだ刃物は何でも切れて、その上何でも願いが叶うようになるんですって!
なんでも切れて、なんでも叶う?
不思議なハトリ氏の砥ぎ技に、みんなが注目しているんです。
だからみんなハトリ氏を探しているのです。
どこにいるのかも今は分からない、海の底、空の彼方、はたまた時空の間......
遠いどこかに逃げ出してしまった、ハトリ氏を。
え?
どうしてハトリ氏は逃げているのか、ですって?
それはね。
古代の海より、深淵の底より、深い深い理由があるんです。
もっともそれは、ハトリ氏がそう言っているだけのことなのだけど。
その日、ハトリ氏ときたら、地中に埋もれてめり込んでしまいそうなくらい、すっかり落ち込んでいました。
「もうっ、いいかげん機嫌直して、しゃきしゃき歩いてくださいよっ、師匠!」
ハトリ氏の腕を掴んで、町を行く赤毛の女の子が言いました。ハトリ氏はもう引きずられているといってもいいような状態です。
そろそろ北風が冷たくなり始める頃ですが、赤毛の女の子は生成りのシャツの袖は捲り上げられ、はいているパンツも膝丈です。寒さなど、これっぽっちも感じていないようでした。元気溌溂、ハトリ氏にはっぱをかけていますが、効果はないようです。
赤毛の女の子は、町中でひときわ目立っていました。それは薄着のせいでも赤毛のせいでも、引きずってるハトリ氏のせい......これはちょっとありましたが......でもなく、女の子の背中に斜めにかかっている大きな刃物のせいでした。大きな刃物、それは女の子の身長くらいはありそうな、三日月を模った銀色のハサミでした。
すれ違う人々はくすくす笑いながら赤毛の女の子と、引きずられていく男の子......ハトリ氏を眺めています。微笑ましい、いつもの光景です。
けれど町行く人たちの影のさらに影、奥できらりと光る瞳がありました。それはとてもひそやかで、風に紛れてすぐに消えてしまいました。
赤毛の女の子はしかたなく、いったん足を止めました。そしてハトリ氏と向かい合います。
「ちょっと手間取ったけど、こうして無事出てこれたんだからいいじゃないですか! ほら、しゃんとしてくださいよ」
「......無事ってね......私はまったくの無実なんだよ? それがどうしてこんな目に遭わなくちゃならないんだい?」
しょぼくれた顔で、ハトリ氏はぼやきます。腕を引っ張られ、しかたなく歩き出しましたが、足はとっても重たくて、鉛がくっついているみたいでした。
ハトリ氏は、赤毛の女の子と同じ年ごろの男の子に見えるけれど、本当のところの年齢は分かりません。もしかしたら本人でさえ、もう年齢を憶えていないのかもしれません。
ごく普通の男の子に見えるよう、ハトリ氏は姿をつくっています。けれどもうそれも面倒だ、という顔をしていました。ひどくくたびれた老人のような面持ちでがっくりとうなだれてします。薄緑色のシャツはすっかり皺がよって、ちょっとほつれていたズボンはさらに薄汚れて、とってもみすぼらしい格好です。銀色とも金色ともつかないくせっ毛も櫛を通していないせいで、ぼさぼさです。
もはや歩く気力もないといったようで、赤毛の女の子に半ば引きずられるようにして、仕方なく足を動かしているのでした。
「もう、師匠! いつまでも済んだことをぐちぐちと! 貴重な体験ができたと思えばいいじゃないですか!」
「他人事だと思って、おまえは」
「何言ってんですか、こうしてちゃんと迎えに来たじゃないですか。他人事じゃないです」
もうっ、と勢いづけて赤毛の女の子は振り返り、「師匠」たるハトリ氏を睨みつけます。頭の後ろで結んでいる尻尾みたいな長い赤毛が、鞭のようにしなって、ハトリ氏は思わず身を竦ませました。
「ハクがついてよかったと思えばいいんですよ、師匠」
「......こんな箔はいらないなぁ......」
「拘置所に入るなんて、なかなかできない経験ですよ! たった二日間だけだったんだから、楽しむくらいの余裕を持たなくっちゃぁ!」
「おまえじゃあるまいし」
「こうして優秀な弟子が保釈金を持ってきたからこそ、出てこれたんだし」
「......だからね、私は無実なんだ。保釈金なんて必要のないものだよ、本来」
「保釈金で出してもらえたんだから、まだいいじゃないですか!」
赤毛の女の子の言い分は、ハトリ氏にもわかるんです。この町では、保釈金さえきちんと用意すれば無罪放免になる、そういうちょっとだけ無法な町なんだと。つまり、保釈金がなければどうなっていたか......
「悠長に無罪放免の日なんか待ってたら、それこそ何年かかるかわかったもんじゃないですよ! 商売に差しつかえます」
「......そっちの心配かい......?」
はああっと大きくため息をついて、ハトリ氏はさらに肩を落としましたが、女の子はまったく気に留めず、再び歩みを速めました。
「さー、ちゃっちゃと歩いてくださいよ、師匠! 予約のお客様が来ちゃいますからね!」
赤毛の女の子は大股でずんずん歩いていきます。町を出て、曲がりくねった道を進んでいくと、こんもりとした緑に覆われた小高い丘が見えてきます。その中腹にハトリ氏の工房があるのです。ハトリ氏はのろのろとナメクジのように女の子の後ろをついていきます。足元の土がちょっぴり湿っていて、小さな水たまりもできています。そこに足をとられて、ハトリ氏はさらにぐったりした気分になってしまいました。
「仕事する気分じゃないんだけどなぁ......」
「何言ってんですか、師匠! 保釈金がけっこう掛かっちゃったんですよ、せめてそれくらい取り返すつもりじゃないと!」
「頼んだ憶えはないんだけど」
「弟子の心遣いを無碍にすると、罰が当たりますよ!」
弟子だというけれど。弟子にした憶えは......ないんだけどな。
そう言おうとして、ハトリ氏はやめました。
またどやされるに違いないからです。
ハトリ氏の弟子を自称する赤毛の女の子は、刃物研ぎの腕前はイマイチなのですが、ハサミを含めた刃物を振るう技術と腕力は相当なものなのです。背中にしょった銀のハサミも、いまでは赤毛の女の子にしか振るえません。
かないっこないことは、ハトリ氏はよく知っているのです。
そこそこ長い付き合いでもありますしね。
ハトリ氏はまた一つ、大きなため息をつきました。