序章 - 第0話「顔のないジョーカー」
―――ここは、一体どこなのだろうか。
辺りは、真っ暗だった。
なんてことない日だった。
咲は、仕事を終え、帰路についていた。
街灯の明かりが、やけに眩しい。
なのに、自分の足元だけが、妙に暗く見える。
時折すれ違う人は皆、帰る場所がある顔をしていた。
でも。
咲だけは、同じ場所をぐるぐると回っているような、そんな感覚だった。
「......疲れた」
今日も、提出した資料の手柄は、外面が良いだけの上司のものになった。
そのくせ、取引先からの苦情だけは、咲の責任になった。
苦情相談窓口に送ったメールは、当たり障りない定型文の返信だけで終わった。
「転職、しようかな......」
しかし、咲には突出したスキルがない。
高学歴でもなければ、有利になる資格を持っているわけでもない。
かといって、なりたいものもない。
路頭に迷うとは、まさにこのこと。
街灯に照らされた自分の影が、さらに沈んだ気がした。
「私の影まで、落ち込まないでよ......」
そう呟いて、自分自身を嘲笑した。
そんな時だった。
穏やかだった空気が変わり、強い風が吹く。
一瞬にして思考が飛ばされるような、不思議な風。
「きゃ......っ」
思わず身を屈める。
すると。
空から一枚、何かが落ちてきた。
紙が落ちる時のような、ひらひらとした読めない動きではない。
不自然に、まっすぐ咲のもとへ落ちてきた。
「......トランプ?」
抽象的な柄が、四隅を飾る。
決して可愛いとは言えない、不穏さを帯びた裏面。
思わず、カードを拾い上げる。
指先に、妙な冷たさが残った。
紙のはずなのに、まるで濡れた金属に触れたような感覚。
面を返してみる。
「ジョーカー?」
それは、赤と黒の衣装を纏った、ジェスターが描かれたトランプだった。
顔は、ない。
真っ黒に塗りつぶされている。
ふと、空を見上げる。
そこには、いつもと変わらない空が広がるだけ。
しかし、このジョーカーを手にしたことで、いつもの空すら、薄気味悪く感じた。
「よりによって、ジョーカー......」
不吉な予感に、思わず肩をすくめる。
拾うんじゃなかった。
だが、拾ってしまったものを、そこら辺に捨てるわけにもいかない。
「家に帰ったら、捨てよう」
ジョーカーを胸ポケットに入れた。
刹那。
そこだけが、じんわりと熱を持った。
「......気のせいだよね?」
そう思おうとした。
視線を、帰路に戻す。
その瞬間。
すれ違っていたはずの足音が、ふっと消えた。
車の走る音も、遠くの信号機の音も。
まるで、世界ごと息を止めたみたいに。
そして。
足が、浮いた。
いや。
“地面がなくなった”、という感覚の方が近い。
そのまま、突如出現した穴に、咲は真っ逆さまに落ちていく。
声も出せず、周囲を気にする余裕もない。
そんな中でも。
近くで、烏の鳴き声が聞こえた。
カァと、一声。
その直後、地面に打ち付けられるような衝撃も、痛みも、そんなものは来ないまま。
気がつけば、真っ暗な世界に立っていた。
そして。
暗闇の奥で、誰かが笑った気がした。
胸ポケットの中で、顔のないジョーカーがまた、小さく熱を持った。
【序章 - 第0話「顔のないジョーカー」 - 完 -】
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