2・オヒメサマは憂鬱・後編
そんな天才に対して今まで彼女自身でしてきたことが、次に彼女を責め立てた。
見下し、極力関わりを持たないよう行動してきた。
出勤しても、朝の挨拶どころか、帰りの挨拶すらしない。
彼の気配を感じると、出会わないよう計算して動いた。
声をかけられても返事はつっけんどん。
助手という立場が聞いて呆れる。
彼女は、彼女が予想したとおり、己の矮小さと真正面から向かい合った。己の愚かさと。醜さと。汚さ。
名前を間違えられた、評判が芳しくない、その二点だけで総館長を下に見ていた愚かさに、彼女の矜持が詰問を繰り出す。
それを静かに受け止め、ソフィレーナは空虚に泣いた。
涙は止まらない。総館長の論の、結論のないことを悲しみ、天才の不運を哀しみ、己の愚鈍に、身勝手さに苛烈な炎を向ける。
止まらない涙のまま、ソフィレーナは、ノートの切れ端をきつく抱きしめている。
天才だとわかった途端てのひらを返すのか、そもそも、何の根拠があってお前はその人を見下していたのか、
矜持は重く問いかける。低く重く、絶対の厳しさを持って彼女に問いかけている。
その前に立つ彼女は、うなだれて顔を上げられない。
まばゆい記憶の海から浮かび上がったソフィレーナは、後悔の追体験で零れた眦の涙を静かに拭い、また深くに戻ってゆく。
彼女が彼に冷たい態度を取っていた期間は約一週間。関係修復に乗り出してからも、直接的な態度が軟化していたかは、思い返しても疑問の残ることだった。
顔を見れば罪悪感で、つい、つっけんどん、に返していた。そうだ何かお菓子を作って行こうか? それで茶席を設けて、そこから。そんなことも考えてみたが、総館長を物で釣っている気がして失礼だと思えて、彼女の隠れて無駄に高い矜持が実行の邪魔をした。
だいたい、そもそも。嫌っていた相手に対してすぐに打ち解けた行動など、できない。
結局、総館長を馬鹿にする人物と極力距離を取る、また、件の彼には朝と夕の挨拶は欠かさない、それまでは嫌々来ていた助手の制服もきちんと着込んで出勤・退勤するという、遠回りの方法しか取れなかった、と、回想は止まらない。
後悔。後悔。自分を責め立て落ち込む日々。何故、私はあのひとを馬鹿にしていたの? 私はあのひとの何を知っていたの?
表面上何事もなく過ぎた、ゴミ窃盗事件からの毎日は、いい加減、総館長ケルッツア・ド・ディス・ファーンとの関係修復という目的に行き詰まりを感じ始めていた、そんなときに。
紅茶の香が鼻先を掠めた錯覚に。ソフィレーナの意識は、掠れた記憶に飛ぶ。
勤め始めて二週間程たった日のことだっただろうか。
古い匂いが、やけに甘ったるい紅茶の香に混じって、その、焦げ茶色の木目の壁でできた部屋を満たしていた。晩秋の終わりだったか、季節に対し、部屋の温度はわずか釣り合いが取れていない。
国立図書館二階、隅、第二図書館長テェレル・ド・イグラーンに割り当てられた総館長専用作業部屋より広い室内は、満遍なく暖房の熱が行き渡っていた。
個人所有にしてはそれなりである本の山と、深海の生物として知られる魚類の模型などが雑多と犇いている。
湯気を立てて注がれる紅茶の甘ったるい匂いに、自然、今しがた入ってきたばかりの扉側へとソファーの居場所を変えつつ、助手服の上着も脱がないまま、ソフィレーナは甘くない笑みを黄緑色の絨毯へと落としていた。
この空間に潜むはかりごとは、下心という名前。
頭の片隅が、彼女に緩い警告を与えている。ただ、下心と一口に言ってもいくつか系統がある。有体に、貞操の危機は、招いた部屋の主の性別を考慮すれば不思議ということになるのだろうか、感じない分、別の系統での、高度にして野蛮な学術的はかりごとの上にいると、そんなことを思った。
この人は、採用面接のときの面接官だった人。
確か、総館長を擁護する立場を取っていたはず。思考が、わずかにして微妙な外因的要因に溶かされてゆく。
淹れられた紅茶の香は奇妙なほど甘ったるく、頭の芯を揺らしほぐす効果でもあるかのようだった。
この国の者に似合いの白さの肉々しい指が、見た目とは裏腹、繊細に真っ白なカップとソーサーを差し出す。
砂糖とかはないんだよ、という声に、お気遣いなく、と返し、紅茶の柔らかな光彩に目を細め、礼を述べた後、ソフィレーナは白いカップの縁を唇に触れさせ、気持ち、口内を湿らせた。
向かいの、茶色い一人掛けソファーにどっかりと、横に大柄な体型に似合いの動作で座った、白いワイシャツと赤いベストとこげ茶のスラックスという格好の、薄金色の短髪の男性に、静かな目を向ける。
そんな視線を受け、彼女をこの場に招いた人物、テェレル・ド・イグラーンは、でっぷりとついた肉に邪魔されて尚、長さが窺える睫に切れ長の眦をにっこりと細めた。
『さて、......なんて呼んだらいいのかな、んー...そうだなぁダリル嬢?
何でボクが、ここにきみを呼んだか、見当とか、ついてますか?』
そのときの第二図書館長、テェレルは、今のソフィレーナが思い返しても十分に胡散臭かった。和やかな声は人の良さそうな人相と相まって彼の印象をやわらかく見せていたはずだが、彼女が彼に対する警戒を解いたのは、結局滞在時間の半分を過ぎた頃。
思い返す今も前半は何を話したか大して覚えてもいないので、当たり障りのない毒にも薬にもならない話題だったのだろうと彼女は思っている。
確かめたことはないが当のテェレルの認識も似たようなものだろうと。
本題は、後半に集約されているのだから。
白いカップに残る紅茶も半分を過ぎていた。
最初の一口で何も盛られていないことを確認したソフィレーナは、礼儀としてこのカップを飲み干してから席を立とうと考えていた。
目の前のご立派な体格を有した第二図書館長とは、にこにこと、本題と呼べるものもなく無為な時間を共有しているばかりで、居心地が悪いかと言われればそうでもないが良いかと言われれば決してよくはない。
そろ退室、とソフィレーナがテェレルに目を向けたときだった。
『総館長を嫌うも、好くも、まあ嬢の勝手なんだけどね』
唐突に、彼は言った。視線を彼女に求めることなく、今までの笑みを消し、空色の目も半眼、彼の横にある、黄緑に輝く尾ひれらしき飾りを持った深海魚の模型に顔を向けている。
左手に持ったソーサーから、カップを離し、一口。
『君はほら、やつの助手という職にある訳だから、ちゃんとした判断材料が必要かなって。
............やつが、ゲールッセッテ主席だったってハナシ、知ってる?』
そう言って、ちら、とだけソフィレーナに視線を寄越した。
ソフィレーナは、わずかに変わった空気の質に、今まで緩みがちだった認識を覚醒させる。紅茶の香で満たされた空間に、張り詰めた糸が張られた錯覚。
ゆっくりと思考を巡らせ、総館長について言われることを一通り頭の中で浚った。
『はい。存じております』
目当ての記憶を引っ張り出し、答える。
『じゃあ、テュフィレ受賞者だったってことは?』
『......聞いたことが、あります』
間髪入れず繰り出される質問に、英知を表す花に準えた賞のあらましや、噂などを思い出し、答える。
うんうん、と。向かいの第二図書館長は、相変わらず黄緑の魚に頷いていた。
ひたと、彼女に、その奇麗な空色の目を向け。
『............賢者の称号を、持っているってことは?』
その場の時間が、確実に止まった。
『............しりま、せん』
止まったときに呆け、すぐさま記憶をひっくり返した彼女は、ぽつり、とその言葉を落としている。視線はもはやテェレルから外れることはなく、顔の歪みですらコントロールを忘れていた。
どういうことだ? どういうこと? 左の耳に右の耳に、頭の中に、疑問の声が渦巻いている。そんなこと、......だってでも、そんなこと。
ワイズレッテッティス、賢者の称号、それは何年に一度か必ず選ばれるという類のものではなかった。最後の賢者は、二百二十年前を最後に一度として選ばれていない。彼女は少なくとも、そう聞いている。
否、聞いていた。
助手の明らかに取り乱した様子に、テェレルは軽く、諦めたような色合いの息をつく。
『やっぱりね。
やつ、正式に任じられたんだけどねー。......取り消されてもないんだけど、まあ、人の口には上らないんだよね』
穏やかに諦めを語るテェレルに、ソフィレーナの低い声が続いた。
彼女は美しい栗色の前髪の影に目元を隠し、もう一度、同じ言葉を発する。
『どうして』
ソフィレーナの見やる先、テェレルは今度こそ、海洋生物の模型から彼女に向き直り、真っ白なカップの中身を見ている。
揺れ動く紅茶の赤みがかったまるい輪郭から顔をあげ、空色の虹彩になんとも複雑そうな光を乗せて彼女を見た。
ソフィレーナの頭上に、理不尽な理解が、現実味を帯びて染み渡る。ああ。曰く、この国の生まれじゃないから。ゲールッセッテ時代に主席で、テュフィレ賞までとっていたものが、崩れたのだもの。羨望はやっかみも生む。
それらの、対象だから。
か、と。臓腑に火でも付けられたかのような熱さが、彼女の中に渦巻いた。
その激情のままにテェレルを見ると、彼はソフィレーナから顔を背けた。
テェレルは、独り言のように呟く。
『嬢はやっぱり、ダリル家の直系だねぇ。
......――――畏い』
彼の言葉に怪訝な顔をした彼女は、少し考え、出された紅茶を嚥下する。共に、渦巻いていた憤怒をおさめた。
目の前にいる人物にその目を向けるのはお門違いだろう、と、くすぶるものも宥めにかかる。
その様子を見ていたか、テェレルは彼女に向き直った。
『まあね、そんな経歴も持ってる訳ね。ケルズ、ケルッツア、...ボクの友達は。
で、やつを好くも嫌うもホントに嬢の勝手なんだけど――――ボクはやつの友達だからさ、嬢にも、あんまりやつを嫌ってほしくない訳。口で頼んでも嬢は賢い。きっと当たり障りのない返答でごまかしちゃうと思うのね。それだと意味がない。
ねえ、嬢?』
一息。故意に一息置いたあと、テェレルは挑むような視線をソフィレーナに向ける。
『賢者の論文、読みたくない?』
ぞくり、と。ソフィレーナの背が震えた。
あのひとの、完成された論。
エゴという名の傲慢な知識欲が、読みたい、知りたいとすぐさま声を上げる。その声を密かに無駄に高い矜持で押し留め、彼女は何食わぬ顔で紅茶を胃に落とした。
『それを拝読したら......私が、総館長の味方につくと?』
冷静さを持って響いた言葉とはうらはら、すでに、彼女は紅茶の味がわからない。
そんな状態のソフィレーナを、知ってか知らず、テェレルは天井へ向かい開けっぴろげに続ける。
『それはやってみなくちゃわかんないなぁ。やつを嫌う人たちの中には、やつのヒーローッぷりからの転落が許せない、ってひともいる。
嬢がその中に入っちゃう可能性も、無きにしも非ず。
でも、ボクは、......ボクとマルス、マーロルサース第三図書館長は、うまくいくんじゃないかって、思ってる』
うそぶくなかで、その空色の目だけが彼女を捉え、笑っていた。
対し、彼女の口は即座に疑問を紡ぐ。
『根拠は?』
何故、助手は大丈夫だと感じているのか、ソフィレーナの思考は巡った。信頼にしては、助手として勤めている期間が短すぎる、第一そんな信用を寄せてもらえるような態度を、この助手は今も尚総館長へ取れていないではないか。
ソフィレーナは、疑問というより疑惑に近い心境の中、探るような視線でテェレルを見据えた。
スラックスのポケットの中に、奇麗に折りたたまれた紙の感触が蘇り、消えない。ばれるはずはない、と、自身でも気づかないうちに呼吸を制限し。
ソフィレーナの真剣な目に、テェレルはそっと嘆息した。何かを計るように天井を眺め、紅茶を一口。
と、彼女へ、にっこり。裏表のなさそうな顔でこう言った。
『それを言っちゃうとね、嬢をいじめちゃう気がするんだよ。ボクは別にそういう趣味はないし、嬢のコト責めるつもりもない。
......どっちかっていうと、やつの一番身近にいることになる分、助手の子はやっぱり味方に引き入れたかったから、ボク達にしたらラッキーだったのね。
にしても、ケルズってば、ちょっとはお馬鹿のケが戻ってきてるってことだよねぇ......?
あ、奴はなーんも気づいてないから。言ってないし。安心してね』
嬉しそうな声と空色の目だけが、言外に彼女に語りかける。一週間で態度変えたもんね。なんかあったんだろうなー、やつが気づいていないことなら......論文前の考察ノートでもみたんかなー、ぐらい察しつくって。
幻聴としか思えないその声なき声に、ソフィレーナは唖然とし、長いこと沈黙のまま目を見開いていたが。
『............。拝見、させてください』
顔を真っ赤にして緩く髪を乱すと、小さく、本当に小さな声で、テェレルにそう伝えていた。
そんな総館長の助手に。
『うん。素直で宜しい』
と、第二図書館長はあっけらと返した。
その後、"賢者の論文"が投稿された雑誌を第二図書館長から数冊借り、何事もなく図書館業務をこなした後、ソフィレーナは帰宅するなり三枚の紙くずを読んだときと同様の処置を取った。
電話線も切った小さな研究部屋の中で、結論のある論に感嘆し、感動し、酷く打ちのめされて陶酔。
それでも。
不思議なことにソフィレーナは、その論文を読み終えた後でも、三枚のノートの切れ端の方に、より多く、心を砕いている。美しい論、完成された論理は確かに素晴らしいが、それは彼女にとって、それだけでしかない。
今でも。
記憶から返ってきた彼女は、そっと、大切な元ゴミ屑であった三枚の紙切れを胸元から離し、また、丁寧に、丁寧に隠した。
ドレッサー用の背もたれのない椅子を窓辺に寄せ、淡い青色のセミロングドレスに気を使って腰掛ける。
窓を開ければ深緑の風が心地よいだろう季節の吉日に、陽光は陰ることもなく柔らかく、気だるい午後の部屋を照らしていた。
宴の気配は、自室の窓を閉じていても尚漏れ聞こえてくる。穏やかな音楽。歓談の声。著名人を招いて開かれる、ダリル家主催の立食パーティーは楽しげに続いているようだった。
楽曲からしてワルツならば、踊りだす者もいるだろう。男女で仲よく手を取って、二人輪になり花のように朗らかに。
落ちこぼれじゃなくなった総館長にも、柔らかな手が伸びるはずだ。一曲踊っていただけますか?
ソフィレーナは、薄青の靴のつま先で絨毯の毛足を撫で、笑った。
完成されない論。結論のない理論。そこに滲む苦悩。
さみしく笑う、彼。
もう一つ、靴で絨毯を撫でる。
声を、思い出した。
斜め横手から見下ろすくたびれた灰色の前髪、そこから覗き見える三白眼の目元は涼しげだった。総館長の迫力に、反対者は、押されたように席に戻る。
それは、彼女が初めて総館長の助手として、国立図書館の月一会議に参加したときのことだった。
そのとき審議されていた案の内容は、図書館業務の効率化を図った、電子系統の改善についてだった。やたらと瑣末なことにケチをつけ、廃案に追い込もうとしていた者が何人かいたことを覚えている。
ソフィレーナは総館長付きの助手の服装で総館長の左隣に立って、そんな者達の姿を顔には出さず呆れ半分で見ていたが。
何をとち狂ったか。思い返す今でさえ、彼女はそう思う。その者達は、その場を取り仕切る総館長の人格否定までし始め、彼が総館長に相応しくないと、会議の席をめちゃくちゃにする暴論を吐いた。
流石に憤怒を覚えた助手が前に乗り出し、何か言う前に。
彼女の目の前に、す、と。くたびれたスーツの腕が差し出される。総館長を見る助手の視線に応えず、彼は落ち着き払い、こう言った。
『感情論は結構です。
......この案を棄却するに、足る、自明な根拠をお願いします』
しん、と。その場が静まり返り、そこから先、落ちこぼれ、崩れと馬鹿にされているはずの人間が、完全に会議の場を支配した。
彼は、食い下がる反論者を、その涼しげな三白眼で、老いて尚澄んだ瞳で見据え、反論には全て正論をぶつけ、最終的にはその案を満場一致で通していた。
会議が終われば、総館長はいつもの吃音、弱気に戻っていた。
しぶしぶ賛成側に回った者がこれ見よがしに悪態を、嘲笑を投げつけても、仕方がない、と寂しく笑う老学者の背は、会議のときの彼と酷い乖離を見せ、ソフィレーナの心をざわつかせた。どうして、あれほどのことをやってのける人間が、そんなに寂しく笑うのか。
いつの間にか、彼女は、その総館長の笑みを酷く気にするようになっていた。
またあんな顔をしていないだろうかと、気づけば、特徴的な虹彩には彼が映り込んでいる。
その中で、総館長という人間が、控えめで、温厚だということを知った。そのくせ、一度決めたことは頑として譲らず、何を言われてもされても、通してしまうということも、知った。
真っすぐな目をするとき、涼しげな三白眼の、灰色の虹彩が澄み切って奇麗なことも。
興味のあることには、灰色の三白眼の瞳孔が開いて、目が漆黒に見えることも。
時折零れ落ちる、彼の持つ矜持が美しいことも。
味覚や仕草が子供っぽいことも。無邪気なことも。食に関心がなく、不摂生の常習犯でよく倒れるということも。
彼女が見つけ出した、総館長、ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、いつの間にか、ソフィレーナにとって魅力的な人物になっていた。
彼の生み出す論以外に、その人柄そのものにまで、彼女は惹かれていった。
それは、ときを経た今も尚、ソフィレーナの中で変わらない。
だから、そんなひとだからこそ。
ソフィレーナはひとつ、瞬きをした。
世間でバカにされているのが、どうしたって許せなかった。
椅子に座って外を見る。穏やかな初夏に傾く春の空は雲ひとつなく、よく晴れ渡っている。その光景を見る彼女の目は、また、わずかに潤み、歪み。
ソフィレーナは、そっと俯くと、口元に笑みを刻んだまま窓辺を辞した。部屋の奥、乱れたベッドへと身を投げだす。真っ白なシーツの冷たい感触に頬ずりをして、ドレスの皺も気にせず、ベッドの上に丸まった。
彼女は、本当にもう、彼に寂しく笑ってほしくなかった。
その顔を見るのは嫌だと、だから、そんな顔をさせないように動き、一昨年に至っては、栄えある試験を受ける気概が湧くよう振舞ったのだと、ソフィレーナは自白する。
決して、ケルッツアのためではない、自分のためだと思い返す事実は苦い。
総館長は、そんな我がままな助手の要求を、受け入れてくれたに過ぎない。だからこの結果はこの痛みは。
自業自得だわ。
当然の帰結だった。
彼女の脳裏に、母の顔や、嬉しそうな総館長の顔が浮かぶ。その周りに沢山の人が集まってくる幻想。
彼に自信がつけば、元来総館長は申し分ない人だ。ソフィレーナは笑った。人が寄ってくるだろう、もっと、本当に優しくて器量のある女性の目にも止まるだろう。
ぽろぽろと落ちる涙は落ちたそばから白いシーツに染み込んでゆくが、ソフィレーナは知らない振りをした。もともとの認識が間違っていただけ。傷つくのは可笑しい。
矜持が彼女を諫め、訴えている。
顔を整えよ、服を整えよ。宴の間だからといって人が来ないとは限らない。その者に、たとえ家族でもその者に、こんなみっともない姿を晒す気か。
だけど、心のどこかで、私だけのものだと、思ってた。
矜持の影から、隠れていたソフィレーナが、そっと囁く。彼女は、その小さな声にうなずき、湿って熱を孕んだ吐息と共に唇を震わせた。
ばかだなぁ。声は掠れ、彼女の耳朶にしか響かない。耐えていた嗚咽が喉から零れ落ちた。その音を皮切りに、ぐしゃりと、笑みが、顔が歪む。
あのひとは、本当は、とてもすごい人なのに。それに、みんな気づいただけなのに。
酷い慟哭にぐらぐらと揺さぶられ、とうとう彼女は静かに泣き崩れた。声だけは布団の陰に殺し、薄く施した化粧などは剥げ落ちるだろう程の嗚咽で喉を嗄らし泣く。
ベッドが汚れるだろう。そうしたら使用人に何を推測されるものか。瞼も赤く腫れ上がり、平均よりはまあ良い程度の顔が、かなり酷くなるのは目に見えていた。
腕に口元を押し付けて、泣き止もうとするが自制が利かない。
落ちる涙はとめどなく、湧き出る感情もとめどなかった。哀しい悲しい寂しい酷いどうしようもない醜い酷い我がまま自分勝手最低最悪悲しい悲しい悲しいあのひとはわたしの。
わたしだけのものだなんて、どのくちがのたまうの。
酷い耳鳴りと頭痛の中、遠くで惨めな声がした。引き攣り、苦しげに吐き出される息に混じって、情けない嗚咽の音がしていた。
遠く、とおくの認識。
引き攣れるように跳ね上がる肩を遊ばせて、ソフィレーナは今、自室のベッドの上で虚ろに宙を眺めている。いまだ掠れた視界に、涙の気配を残した吐息と鼻をすする音だけが時折生まれては消えていった。
ワルツの音が漏れ聞こえてくる。人の笑い声が途切れ途切れ、消えることはない。
彼女は苦しい息の中から、安堵を零した。それでいい、と酷く腫れた瞼で朗らかに笑う。
生まれたときより王臣から外され、そのために春の宴に参加できないダリルの末姫が泣いているなどと宴の参加者に思われた日には、堪ったものではないのだから。
そんなことで、心を乱している訳ではない。ソフィレーナは、自嘲して、拍子にまた一つ二つ、涙を零した。
あのひとは、プロフェッサー・ディム・ゲールたる資格を得た。
だから、栄えある者として、母が、そして現在当主である彼女の二番手の姉が、かの有名な"春の宴"に招いた。その事実を、ソフィレーナは正しく受け止めている。
泣き疲れ、だるさの残る思考の片隅、二つの声が、微かに響いていた。
ドクターにはもう二度と、寂しく笑ってほしくなかった。これは本当のこと。
でも、あのひとは私のものだと。
思っていたのも本当のこと。
なんて、醜く愚かなソフィレーナ。