1・オヒメサマは憂鬱・前編
白いレースのカーテンが調えられた窓辺には、青い花が飾られていた。大きく半楕円に切り取られた白い窓枠に、同色よりは少し柔らかな壁や天井、クリーム色の絨毯が敷かれたそこは、彼女にとって懐かしさを覚える実家の自室に続きの寝室。
身に着けるサテンの淡い青色をしたセミロングドレスの肩口や裾には、細やかなプリーツが施されている。豪奢な天蓋付きのベッドの上に寝そべり、柔らかな肌触りの枕にそっと頬ずりをして、ソフィレーナはひとつ、息を吐いた。
視界の端に、真っ青な色が落ちる。
「あ......」
見れば、鮮やかな青の花弁が二、三枚布団にかかり落ちていた。枕に埋めていた頭を持ち上げれば、また、はらり、と音もなく花弁が散る。
今朝の、庭の片隅で露をまとい、冷たい静寂の中でみずみずしく輝いていた青い花の姿を思い出し、彼女はそっと、その自身の容姿の中で唯一手放しに褒められる、美しい栗色の短髪の頭に挿された花飾りに手をやると、優しい動きで髪から外した。
柔らかな短い髪に絡めるようにして挿してあったせいだろう、曲げられ、所々が濃い緑色に傷んだ黄緑の茎を白い指先で撫で、かわいそうに、と誰にともなく呟く。
私の髪なんか飾らなきゃ、もっと長く、きれいに咲いていられたのに。
茎を無惨にされ、花弁の幾つかを散らせた青い花飾りは、元の美しさからずいぶん色褪せた姿で彼女の手の中にある。
もっとも、こんなに早く部屋に引き返してこなければ、または大人しく椅子にでも座っていれば、花飾りはこうも痛まなかった。今更遅いとは思うけれど、と。
ソフィレーナはベッドから起き上がり、柔らかな光沢を持つセミロングドレスと揃いの淡い青色の布靴に足を通した。
底の浅い入れ物に水差しで水を張り、花弁に水がつかないよう花飾りを生ける。
心なし生気を取り戻した青さに肩の力を抜き、ベッドの脇のテーブルに飾ると、あとは億劫、とばかり横手のベッドに身を投げた。視界の端に、今度はひどく皺の寄った淡い青色のセミロングドレスが引っかかったが、それを脱ぐ気力まではないと、目を閉じる。
静寂。
静寂を割って、にぎやかしい人の音が聞こえてくる。
その音に、ますます彼女の顔は白くなる。傷める花もない栗色の、そこだけは美人ぞろいのダリルの血に相応しい美しさを持つ短髪を乱暴に枕に打ちつけた。
一瞬掻き消えた、人の、パーティー会場から漏れ聞こえていた音は、彼女の平静を待つ間もなく、また蘇る。
無意識、その中に吃音の有無を探し、ソフィレーナは自嘲に醜悪なほど顔を歪めた。
何やってるんだろ? この頃はドクター、ちゃんと話せるようになっていたでしょうに?
受け答えに困ってないかしら、これ見よがしなあてつけを受けてないかしら、また寂しげに笑ってないかしら。浮かぶ心配を自身で嘲って、彼女はベッドの上に身を起こすと、すっかり乱れた淡い青色のセミロングドレスを、ぼさぼさになってなお艶やかに光を弾く美しい栗色の髪を、直すでもなく、気だるげに窓からの高い日差しを見上げた。
いつも通り、夜だけ実家に帰ってくれば良かった、ダリルの直系に特徴的な、一等上質な紫水晶の濃さに下から栗色の煙る色合いの虹彩が、虚ろに瞬いた。
私がいなくちゃドクターが可哀想だなんて、とんだ思い上がりなのに。
私は一体、ドクターをなんだと思っていたのだろう? 自嘲で自問し、ソフィレーナは膝を抱く。パーティー会場から階も部屋数も離れた自室のベッドの上で小さく縮こまると、楽しげな外の音の中、硬く目を閉じた。
瞼の裏に、眩く輝く蜜色の長髪が揺らめいた。老いて尚輝きを失わない長髪を結い上げた、パーティーの副主催者たる自身の母の後姿は、一式整えられた繊細にして華やかな作りの焦げ茶色のドレスと合わせても、マリアーナ・ド・ダリルの後姿、というだけですでに美しい。
そんな母が向かい合っているのは、この日のためにきっちりと助手がアイロンを掛けておいたワイシャツと正式なものよりはラフな紺色が基調のタキシードに、この頃少し白髪の目立ち始めた灰色の頭、この国の者が持たぬ褐色の肌の壮年近い男性。
廊下の角でちらりと横目に見た彼らの姿が、彼女の心に焼き付けられ、濃く暗い影を作っていた。背の高い彼を見上げる母の顔は見えない。
けれど、向かい合う男性の顔は。
ソフィレーナはさらにきつく目を閉じた。部屋に戻る前に焼き付けられた光景を、闇で押し潰そうとする。
美姫だもん。結婚して年老いて、子供が四人いたとしても、元でも。
美姫だもん。蜜色の髪に、皺の形さえ麗しい透き通るような白さの肌。建国神も大概美しい容姿だと伝えられているけど、それに並び立つと謳われるほどの、生きた女神。
仕方がない。勝負にならない。いいえ、勝負と思うことすら、赦されないでしょうに?
瞼も眉間も痛みさえ訴えている。眼球にまで圧力をかけて作り出した闇の中でも尚、よそ行きの格好をした灰色の短髪の、褐色の肌をした壮年近い三白眼の男、ケルッツア・ド・ディス・ファーンの笑みが消えない。
目頭の熱さを知って、ソフィレーナは愕然と、悄然とした。ばかみたいだと唇に乗った言葉は、耳で聞き取るより速く惨めさを誘う。
ついで漏れるは厭に軽い哄笑のかけら。
声ともつかない息の音に押され、彼女は膝を抱いたまま天井を見上げる。真っ白な天井に明るい灰色の影が揺れていた。その様を見ながら気だるげに、姿勢を開きながら背から布団に逆戻りすれば、ドレスのひらりとした袖から伸びる力の抜けた腕がもんどりうって、柔らかな布団の上に人形のような無機質さで投げ出された。
拍子に零れでた涙を拭うでもなく、ソフィレーナは特徴的な虹彩を窓辺から背ける。
ばかみたいだ。
遅れて動いた腕で、瞑った両目を隠した。
ばかみたいだ。
長い睫を濡らし、盛り上がる涙を腕に滲ませ。
あの頃は。
潰れぼやけた視界の端に入り込む栗色の髪は、今の彼女には鬱陶しい程鮮やかにある。
兄や姉達と比べても、肌の色は健康的で眉の線は流麗ではなく優しげ、長い栗色の睫に縁取られた大きな一対の目は紫より栗色の占める割合が高く、見目に奇麗ではない。
鼻筋は通っていても高さが足りない、と。平均よりはまあいいだろう容姿しかない彼女が唯一手放しで褒められていた栗色の艶髪が、四年前までは腰まであったことに軽く苦笑を零すと、ソフィレーナは口元に淡い笑みを刷く。
しゃくり上げそうになる肩を意地で押さえつけ、朧な過去に意識を沈ませていく。
出会ったときは、こんな風に想うときがくるなんて......
ぜんぜん、わかんなかった。
『へ、......え?
あ、あああああああああああああ!?!?!!!!! っお、こ、お、おおおおおおおんな、のこ?』
晩秋からそろ冬に向かおうかという、比較的寒い日だった。
それでもソフィレーナには暑い程暖房の入れられた部屋の中で、部屋の主、否、これから勤める場所での最高責任者、という肩書きにあるはずの男性は、厚手のセーターを着込んだ格好で両手で持った書類と目の前に立つ小柄なソフィレーナを交互に見ながら、そんなことを喚いていた。
酷い吃音と大の大人、総館長という割に情けない表情、何より書類の不備による性別、名前の間違えに、ソフィレーナはこのとき、大変、気分を害している。
落ちこぼれ、と言われていても人の噂に過ぎない、会ってみれば違うかもしれない、と。
そんなことを思い、髪型も図書館業務に腰までの長髪は邪魔だろう、いっそすっきりと、と短髪にし、服装も目上の人への敬意を表し新人に相応しい格好をしてきたソフィレーナは、顔見せ初日にしてのこの扱いに、総館長、という人物の評価をどん底まで叩き落とした。
面接官だった、第二図書館長と、第三図書館長は、会ってみればいい人、と口々に言うものだから、そんなものだろうと思っていたがちっともそんなことはなかった、と。
そんなことも原動力になり、勤め始め一日目にして、彼女は自身の直属上司である総館長のことを、酷く見下した目で見ていた。
その顔に気づいた総館長は。
寂しげに、笑った、のだわ。きっと。
その顔に、そのときは何の感慨も抱かなかった、と、ソフィレーナは記憶の狭間、天井を見上げる。
その書類の不備ですら、彼の所為ではなく彼をよく思わない人間達による嫌がらせだったのだと。そんなことにも気づけず、早く博士資格を取って辞めてやろうと意気込んでさえいたことを思い出し、笑う。今思えばなんて馬鹿で浅はかだったのかと。
皇家の姫という地位に生まれてきた彼女は、たとえ皇家としては落ちこぼれでも、その地位に似合いの矜持を、彼女が気づかない間に身につけていた。
そのことを自覚していない当時の自分が、ソフィレーナは兎角おかしい。
でも、それも変わった......。
仕事始めから丁度数えで一週間たった日の。
その日の、夕方から夜にかけての記憶を思い出すと、ソフィレーナは、まるで咲き誇る前の蕾のように顔を赤らめた。
視線を天井から逸らし、長い睫も伏せがちに波打つ柔らかな布団へと向ける。日差しからさらにさらに逃れるよう横を向き、深く枕に沈みこみ。頬に当たる柔らかな感触にぐずる子供のように頬擦りを繰り返していたが、それも途中で止めると両膝を立て、忙しなく起き上がった。
優しげな眉の線は、左右対称に奇麗な八の字を描いている。
ほんのりと色づいた頬のまま、立てた膝に視線を落としていたソフィレーナは、やがておずおずとベッドから降りると、半円を描く鏡付きのドレッサーの前へと歩み寄った。
ドレッサーの左に一つ、右に五つ重ねられた引き出しの、右の一番下に当たる鍵穴の隠れた鍵付きの取っ手へと右手を滑らせ、鍵穴を隠す留め金を外した。
追うように動くサテンのセミロングドレスの裾を気にしつつもしゃがみこみ、備え付けの椅子の、クッションの下へと白い左腕を伸ばすと、手を差し入れ、指の感触で中の数字鍵を合わせるとかちりと音。指先の動きで椅子の隠し箱に仕舞ってあった引き出しの鍵を取り出す。
右手に持ち替え、引き出しの鍵を開け、奥へと手を差し入れて板を一枚取り出し、その奥、視覚で確認できない鍵穴を指先で辿ると、外した板に挟んでおいた鍵を引き出しの奥の奥の鍵穴へと差し込んだ。
もう一枚板を外し、さらに奥、本当に小さな小箱を取り出す。
小箱の数字をあわせ、そっと蓋を開けると、赤いビロード張りの箱の内には、滑らかな光沢を持った絹のハンカチが、畳まれるにしてはやや不自然な形状で鎮座している。
ソフィレーナは、その不自然な形のハンカチを両手で取り出すと、後生大事に胸元に抱きしめた。
両手で包み持つそれは、温かい。
それが錯覚だと知っていても、ソフィレーナにとって、熱は本物。
これが、全ての始まりだ。
否、これが、私にかかっていたまやかしを、吹き飛ばした。
湧き上がってくる言い得ない激情に、彼女は目を閉じた。じっと、胸元に抱く熱を全身で感じ取る。絹のハンカチの、その中にくるまれたものはどうということもない、熱など持っていない物。
意を決した彼女が柔らかな手触りのハンカチを開いてゆくと、掠れて乾いた音がした。
『......ゴミすらきちんとゴミ箱へ入れられないのかしら...?』
最上階のゴミの収集を進めていたソフィレーナは、最後、総館長専用作業部屋と呼ばれるこぢんまりとした部屋のゴミ箱の前で、あからさまなため息をついた。
彼女の視線の先にはゴミ箱と、無残に床の蒼く毛足の長い絨毯へと散らばった紙くずが数にして三つほど落ちている。白よりはわら半紙色に傾いた色のそれは、ぐしゃぐしゃに丸められて尚薄い罫線が見えることから大層質の悪いノートだとわかった。
罫線にそって、何やら手書きの書き込みがなされているよう。
そういえば、残業で他館の手伝いをしてたここ数日、総館長の部屋の明かりもずっとついていたような。
そんなことを頭の片隅に思い出し、論文投稿でも考えていたのかしら? と。
総館長付きの助手用の服だと支給された茶色のブレザーに同色のベストと白いワイシャツ。
ブレザーと同色のスラックス、革靴、という、男装と見間違えられるような格好で片手に収集用の大きな袋を持ったソフィレーナは、両手を腰に当てるとその三つのゴミをうんざりとした目で見つめた。
しばらく見つめていたがおもむろにもうひとつ、大きな、呆れたようなため息をつくと、拾い上げ、収集用の袋へと投げ込む。
つもりだった。
『......』
ソフィレーナは無言で、てのひらに持ったゴミを見つめている。少し右上がりの奇麗な字と、図形のようなものが書かれた、丸められた紙。
皺の度合いは酷く、激情に任せてその辺に放ったのだろうことは、その場にいなかった彼女にも容易に想像がついた。
そんな状態でさえ。
『きれい......』
ぽつりと呟いた言葉は、彼女の頭蓋骨を伝っただけで空気を震わせはしない。"落ちこぼれ"、"くずれ"などと渾名されているはずの人物の書き込みは、彼女の予想に反して、酷く奇麗で簡潔だった。
ノートはそのままその人の頭の中を表す。
同じ講義を受けていても、頭の整理が下手なものはノートも自然汚く、否、無駄な書き込みが多くなる。
反対に、頭の整理がついているものは、簡潔で無駄のない書き込みしかしない。
それは彼女の、十九年という短い人生の中で生まれた、彼女独自の理論だった。
浅い経験則と言われればそれまでだが、ソフィレーナは、総館長という人物が、後者の、頭の整理がついているノートを描き出していることに不可解さを覚えた。
何の根拠や実績があってだろうか、酷く見下していた相手のノートは、紛れもなく彼女が生きてきた中で見てきた、天才、鬼才、と呼ばれる類の人間が描くものとよく似ている。
似ているどころか。
がしゃりと、紙屑の入ったビニール製の袋が床に落ちた音がした。
ソフィレーナは、ゆっくりと手に持つ紙くずを開いてゆく。人の捨てたものを勝手に見るなど、全く褒められたことじゃない。そうわかっていて尚、彼女はその手を止められなかった。
開いたノートの切れ端には、彼女の予想通り、否、それより遥かにわかりやすく、かつ簡素な論が展開されていた。走り書きの図形は美しく、まるで、無駄の極力省かれた公式のよう。
目で追う理論は、心が震えるほど簡潔。
正直、彼女がこの論の提唱者であれば、嬉々として論文雑誌に投稿しているだろう、そういうレベルで、総館長は論を展開させていた。
それが、ぐしゃぐしゃに丸められ、ゴミ箱の傍に打ち捨てられている。
気に入らないんだ。
もはや両手で支え持つ、皺の伸ばされた、ゴミ屑、を唖然と見ながら、ソフィレーナはひとり立ち尽くす。
こんなに、奇麗な論理なのに。
『捨てちゃうの?』
唇に乗せた声が思いのほか響いたことに、彼女は我に返ると、総館長の捨てたゴミを収集袋に入れようとした。
手が止まる。
読みたい。
しりたい。
どくり、心臓の収縮する音が、耳の中で一際大きく響いた錯覚。可笑しな浮遊感と恐ろしいまでの罪悪感がせめぎあい、彼女を翻弄する。
手にあるものは、ゴミ。廃棄すべきもの。以前に、人のノートを勝手に盗み見るなんて、どれだけはしたない行為だろう。早く手を離そう。
ソフィレーナはてのひらの下にゴミ袋を配置すると、指先の力を、ゆっくりと抜いていった。
小指の力を抜く。
薬指の力を抜く。
中指の力を、抜き、人差し指の力を抜けば、三枚のゴミはてのひらからすべり落ちる。
ごみが落ちる。
紙くずが落ちる。
支えを失ったそれは、はらりと口を開けたゴミ袋の中へまっさかさま。
論理が落ち。
ばさばさ、という音がした。その音が、落下中だった紙束を両手でなんとか掴んだ自分の手から響いていたことに、ソフィレーナは。
......ごめんなさい......。捨てられ、ません。
うなだれ、前髪の影に顔を隠したソフィレーナの唇は、頑なに噤まれ、震えていた。
ごめんなさい、と。口に出さないまでも、前髪の影、今にも泣き出しそうな目は困惑と謝罪を、しわくちゃな三枚の紙へと向けている。
正確には、その紙の先にいる、ケルッツアへと。
欲望。まさにその名が相応しい駄々が、ノートの切れ端を胸元へと押し付けた。大切な、大切な宝物を押し抱くように、ソフィレーナは、総館長にとってのゴミ屑を抱きしめる。
もっと、ちゃんと......。
責任は持つ、その言葉を建前に、否、言い訳に、彼女は素早く三枚のノートの切れ端を奇麗に折りたたみ、スラックスのポケットの中へ滑り込ませた。
頬の火照りは前髪を乱すことで隠し、あとは、機械的にゴミを纏め、最後は禁書庫のダストシュートに放り込んだ。
元がゴミだったものが助手のポケットの中にあることなど、空になったゴミ箱の前では何人も気づかない。最上階のゴミ箱が奇麗に片付けられていることから見ても、助手がゴミをまとめ、ダストシュートに入れたのだと、そういう理由付けが容易だった。
無論、彼女の、無駄に高い矜持に似た意地は、品性にもとる行為をしたための動揺などという表情の変化を許さない。
それから一時間後、ソフィレーナは暖房のよく効いた最上階の総館長専用作業部屋で帰りの支度をしていた。
視界の端で、総館長が、ちらり、ちらと黒く分厚いセーターの背中越しに視線を投げて寄越しているのがわかる。
壮年近いその顔は、手入れも疎かな口ひげの下、口は噤んでいるものの、三白眼も見開き気味、明らかに驚いているようだった。
その視線をほとんど無視しながら、総館長の動揺もわからないではない、と、ソフィレーナはそんなことをうそぶいていた。今まで極力総館長との接触を避けていた助手が、何食わぬ顔で彼のいる部屋へ現れ、平然としているのだから、と。
見ない振りで窺う総館長の様子は、何がしか言葉をかけようか否か迷っているよう。
彼は、振り向きかけ、やめ、しかし珍しいものを見るような視線は向かってくる。
口を開きかけ、やめ。そのうちついには視線をさまよわせ、手を頭に置くと、肩を落とした。そのまま下を向き。
ゴミ箱に目を留め、体の力を、安堵の仕草に似た動きで抜いていた。わずかにこけた頬の線が緩んでいる。前髪から覗く眉は、ほっとしているようだった。
そんなケルッツアの姿に、ソフィレーナは。
本当に。
『あの』
コートのボタンを留めながら出た声は、彼女自身で驚くほど硬くそっけなかった。そのことに無意識眉をしかめ、わずかでも愛想を混ぜたほうがいいかと、ソフィレーナは逡巡、しかし結局はその思考を切り捨てている。
要因は。
助手の心境など知らず、総館長は、ソフィレーナの、助手の発した言葉が自分に向けられたものだということに、優に三秒程経ってから気づいた。
『え? あ、ぼぼぼぼ、...ッぼ、僕?
な、なななに、かね?』
彼は慌てて灰色の、白髪も混じった口ひげをふがふが言わせ、きつい吃音混じりで彼女に答え返す。今まで背を向け、肩越しに振り返るだけだった体は、いまや完全に彼女の方を向いていた。
そんなことを、ちら、と。総館長、ケルッツアにもわかるような角度で振り見たソフィレーナは、目元もきつめに、つっけんどんな言葉を返す。
『ゴミ箱の中身、捨てましたけど、なにか、計算式みたいなの書いた紙、ありましたけど』
一息に吐き出した言葉の羅列は冷たい棘で覆われている。ソフィレーナは、また、もう少し柔らかさを心がけたほうが、と、困惑したが、しかし、彼女のうちにある感情が、それをどうにも許さない。
胸のむかむかするような。
ソフィレーナの視線を受け、ケルッツアは、傍目から見て可哀想なほど動揺した。吃音はより酷さをまし、ほとんど音の羅列と化す。
『あ、え? み、みみみみみ』
『見えただけです。このごろ、机に向かっているようでしたから。なにか、投稿でもなさるのかと』
彼のそんな状態が、少しだけ、彼女の良心を掠った。
無意識、ソフィレーナは総館長の吃音をさえぎるように話を続ける。向けていたきつい視線を正面に戻し、コートのボタンを留め終えて尚、次の動作に移らない。
ケルッツアは、そんな彼女に、慌て、また吃音を繰り出した。
『あああ、......あれは、もういいんだよく、...屑の、どうしようもないものしか、
...かかれてないから』
そう言った。その声には、慌てて吃音の酷い前半に比べ、後半は吃音が酷くない分囁くような、緩い、深い水底の絶望が滲んでいた。
ソフィレーナは、帰りの支度を止めたまま、もう一度、今度はわずか体ごと総館長を見た。
彼女の視線を知ってか知らず、高い背を無下に縮め、肩を落としたケルッツアは、床に視線を落としていた。そのうち、頭に手をやると、緩慢な、否、哀しそうな仕草で髪をかき始める。
その姿に、彼女は。
あれだけの理論を。
彼を見つめるソフィレーナの視線には、ほんのわずかな憐憫と。
ソフィレーナは、口を開く。
『............そうですか。いらないものなんですか』
答えるケルッツアは、顔をあげると、にっこり。いっそ朗らかさが胸に痛い笑みを浮かべた。
満面の笑み。
『うん。......つまらないものだ。
あああああ、...ありがとう。すす、...捨ててくれて』
満面の絶望。
ソフィレーナは。
本当に、あれが、恥ずかしいものだって思ってるんだわ!!!!!
『別に。仕事ですんで。
じゃあお疲れさまでした』
圧倒的な嫉妬が顔に滲む前に、総館長に背を向けた。
唇が震えていた。声が震える。喉も震えた。
肩のいかりは羨望を混ぜた憤怒からだった。
学者を目指す者として、ソフィレーナは今、総館長、ケルッツア・ド・ディス・ファーンに矜持を酷く酷く傷つけられていた。
彼の放った無意識の刃は、彼女のプライドを深く、深く抉り切り裂いてゆく。あれほどの理論を結論がないからとはいえ、屑と言い切り、ゴミ箱に叩きつける。それができるのは、それ以上の理論を生み出すことができる者の特権。
ああっ!!
あああああッ!!!!!
なんてっ!!! なんてッッッ!!!!!!
それでも、ソフィレーナがケルッツアにかけた声には、わずかばかり険が欠けていた。
アレ以上のものを、生み出せる、人。
複雑な感情に揺れる彼女に対し、言葉をかけられた総館長は、ぱ、と。喜ぶ犬のように顔を上げ、大声で吃音も酷く、明るく返した。
『あ、ああああ!!!!! う、うん。うん!!! ......おつかれさまー』
自身の助手に初めてかけられた退勤の挨拶に愛想よく振舞う総館長を無視し、ソフィレーナは鞄を引っつかむと総館長専用作業部屋のドアへ足早に向かう。彼女は、これ以上総館長に時間を割く気はなかった。
ドアノブを捻り、足が止まる。
『..................今日は』
逡巡の末漏れた声が、彼女の思う以上に高く、優しい。
『え?』
ドアのところで足を止め、こちらを見た助手の姿に、声に。ケルッツアは呆けた声をひとつ。
間抜けな顔をした総館長に、ソフィレーナは言葉を続けていた。
『今日は夜、冷え込むそうですから......。
あまり、夜更かしはおすすめしませんよ?』
言い切ると、素早くドアを閉め、あとはわき目も振らず禁書庫の白く塗られた巨大な鉄扉を目指す。
『え? あ! うん!!!! うん!ききき、きみも』
明らかに浮かれた声が背中にかかった気もするが、頬の熱さと共に無視をした。
頬が熱かった。反吐が出そうだった。
今までつっけんどんに扱っていた相手に、急にてのひらを返した対応をしていた自分に。
すごい人だって、わかった途端ッッ!!!!!
なんて現金、ソフィレーナは、己の心情の変化が浅ましくてならない。涙まで滲んでくる矜持からの羞恥を、石畳の階段を段飛ばしで急くことで散らし、逃げるように帰路を急ぐ。
馬鹿にしていた人、歯牙にもかけていなかった人。尊敬も、敬愛も抱けなかった、抱く気もなかった人が、凄いものを持っていると知った途端。
態度を軟化させている自分。
そもそも、何を持って、総館長を馬鹿にしていたのだろうかと。
馬鹿にするだけの何が、私にあったというの?
何も知らない。何も見えていなかった。
そんな己に、ソフィレーナはともかく泣き出しそうだった。切るような夕刻の寒さの中、人気なく雑多と物ばかり溢れた石畳の階段を下階へと必要以上に急ぐ。
吐き出される白い息、苦しいほどの息切れの狭間から、己の未熟さを責める心の声が漏れ聞こえてくる。
いったい、わたしは、なんだったって......?
ねえ? ソフィレーナ・ド・ダリル。
あなたは、なにさまのつもりだったの?
気管の痛む音に、ソフィレーナはついに冷たい石の壁に手を着き、足を止めた。見回せば、一階まではあと少しある。人の気配が近くにないことに安堵すると、溢れ出る涙をハンカチの影に隠し、しゃがみこんだ。
ハンカチを取るときに、ポケットの中で擦れた紙の音。
その存在に、彼女は震え、慄く。
コレ以上のものを生み出せる人。
その紙と真正面から向き合えば、己の未熟さにさらに打ちのめされる。
その理論と真正面から向き合えば、己の無知をより鮮明に思い知る。
その、頭脳と真剣に向き合えば、私は、ただ打ちのめされる、だけ。
そう、わかっていて尚、ソフィレーナはそのノートの切れ端を読まずにいられなかった。
圧倒的な悪寒は、悪寒と知って尚、恐ろしいまでの求心力があった。悪寒に混ざる、えもいわれぬ高揚がそれにさらなる拍車をかける。
乱れた呼吸と涙の跡は矜持を引っ被ることで隠し、ソフィレーナは普段どおりの顔で国立図書館から自身の借りる寮に戻った。
自室に引っ込むなり、ポケットからノートの切れ端を取り出す。
落ちこぼれ、といわれている学者のノートの切れ端を見ることに、天地のひっくり返ったような畏怖と、比べられないほどの歓喜を抱いている自分を、困惑して受け止めていた。
下手したら、好きな論文雑誌の発売日より楽しみにしていると、緩む頬に困った眉を抱えつつ、奇麗に畳んだ切れ端を見つめ、後生大事に机の上に置いた。
ほとんど上の空で暖房をいれ、着替えて食事を摂った後、電話線を抜くと、お目当ての切れ端を持って自室の隣、研究部屋に籠り。
そして。
彼女が生きてきた中では見たことのない、美しい理論は忽ち彼女を思考の世界へと誘った。初めのうちは、簡潔な言葉で語られる仕組みを読み解くことに躍起になっていたソフィレーナは、途中から、その思考を放棄した。
目の前の、たった三枚のノートの切れ端が持っていた世界は、彼女の思考など追いつかないほど、突飛でいて、易く、故に難解。
一見関係のないものを次々と並べ立て、見事に一本の線で繋げてしまう。その論は暴論と極論の狭間を縫って正論足らしめていた。
気の違えた者が紡いだかのような理論は、読み手をめちゃくちゃに振り回し、奇麗に収束を見せる。ソフィレーナは、夢中になった。
夢中に、その先を読み進め。
彼女は、三枚のノートの切れ端を胸に、長い睫の柵からぼろぼろと大粒の涙を零していた。悔しさと遣る瀬無さが同居し、心はぼろきれのよう。
痛みだけは酷く鮮明で、それ以外の感覚は麻痺しているようだった。
もっとも、その痛みは決して彼女のものではなかったけれど。
『どうして......?』
漏れた声は、こぢんまりとした研究部屋の無機質な蛍光灯に掻き消える。ノートの切れ端でしかない紙を胸に押し当て、彼女は途方もない哀しみを、涙として捨てていた。それしか彼女に残された手立てはなかった。
美しい曲線を描き収束を見せていた論は、突如暴走し、詰まった。
そこで、終わり。あとはない。どれほど紙をひっくり返しても、探しても、そこで唐突に理論は終わる。今まで振り回されていたソフィレーナは、振り回されたまま投げ出され、迷子になった。
続きがない。
結論がない。
それは、おそらく彼の中にもないのだろう。ソフィレーナは、壊れた涙腺のまま、そっと、紙の、理論の捨てられた経緯に思いを馳せた。
美しい世界に取って代わったのは、思わず目を背け、できれば耳を視界を潰してしまいたくなるほどの、人智を超えた、惨苦。
美しい論が捨てられたことを、彼女は悲しんだ。
それを覆い狂わす酷い辛苦を、彼女は憎んだ。
ケルッツアの苦患を、ソフィレーナは哀しんだ。
これ以上ないほど深く。
論の完成は誰にもできないだろうと、過ぎた感情を涙として落としながら、ソフィレーナは悟っていた。論の完成は、彼以外の誰にもできない。
このひと以外、その者の一生を捧げても、おそらくは。
その理解は、冷たい、啓示に似ていた。
過ぎた感情は苦痛でしかない。それが己の辛さでないとしても、ソフィレーナは途方もない無気力を涙として捨てる行為を続けている。
蛍光灯の無機質さが、厭に目に痛かった。乾いた唇から零れる息は不釣合いなほど熱を孕んでいる。
唇の薄い皮膚が訴える痛みを、そんなこと、と認識しながら、彼女は泣いた。
『』
このひとは、おちこぼれなんかじゃない。
音は、空気も彼女の耳朶すらも震わせない。このひとを落ちこぼれと呼ばしめるなら、世に言う天才はみんな落ちこぼれだ。
ぽろぽろと零れる熱い涙を拭うこともせず、彼女は時折生理的に瞬き、部屋の光景を眼球に映している。
人智を超えた鬼才。ひとじゃないもの。
ひとを超えているもの。
ソフィレーナは、自身の身に起きている幸運を、幸運が過ぎて辛い、けれど不運とだけは呼べない巡り合せに、次第、歓喜すら。
落ちこぼれなんかじゃない......。
私は、すごい人の助手になったんだ。
静かな狂喜は、空恐ろしい認識を伴って訪れる。この国は、恐ろしいほどの天才を飼い殺している。人間じゃない。越えている。
バケモノ、だ。