高校生の記憶
内なる裁判の開廷と、罪悪感という名の『自己保身』
高校生の記憶
高校へ進学してから、私は以前よりよく笑うようになりました。人間というものは、随分と簡単なものです。笑うべきところで笑い、驚くべきところで驚き、相手が楽しそうなら自分も楽しそうな顔をする。それだけで、周囲の人間は私を「明るい人間」だと思ってくれました。今思えば、起きた悲劇から犯した罪から無意識に逃げていたのかもしれません。私は、それを否定しませんでした。むしろ、ありがたいと思っていました。Yがいなくなってから、私は一つのことを学びました。人間は、他人のことを深く知りすぎない方がいい。
知らなければ、失わずに済む。
期待しなければ、裏切られずに済む。
踏み込まなければ、傷つけずに済む。
私はそれを、以前よりも強く信じるようになっていました。高校では、なるべく人と深く関わらないようにしました。
話しかけられれば話す。
誘われれば、時々断る。
頼まれれば、必要なことだけする。
誰かの悩みを聞いても、以前のように「分かる」とは言わない。
「そうなんだ」
それだけにしました。それが一番安全でした。私は、自分の中に小さな柵を作ったのです。
人間はそこまで入ってこない。私も、そこから出ない。そうすれば、誰も傷つかない。少なくとも、私はそう思っていました。
しかし、私には一つだけ、どうしても捨てられないものがありました。Yのことです。私は高校に入ってからも、時々Yの夢を見ました。夢の中のYは、いつも同じでした。私の隣に座っている。窓の外を見ている。そして、何でもないような顔で笑っている。私は夢の中で、何度もYに謝りました。
ごめん。
ごめん。
ごめん。
けれどYは、何も言いません。ただ笑っている。その笑顔が、私には何よりも恐ろしかったのを覚えています。叱られた方がまだ楽でした。「お前のせいだ」と言われた方が、まだ納得できたでしょう。けれど、Yは何も言わない。何も言わないからこそ、私は空白を自分の言葉で埋めるしかありませんでした。そして、どれだけ否定しようとしても、最後には同じ考えに戻ってきました。
―私のせいなのではないか。
もちろん、そんな証拠はありません。Yが私と話すようになったこと。昔のことを思い出すようになったこと。家で苦しんでいたこと。そして、その後に死んだこと。それらが近くに並んでいただけです。それだけです。それだけのはずなのです。私は何度も、順番をほどくように自分へ言い聞かせました。
「それだけだ」
「偶然だ」
「お前のせいではない」
けれど、頭で並べた言葉は、胸の奥まで届きませんでした。理屈では無罪でも、感情だけが私を手放さない。その感情は、考えている間だけのものではありませんでした。毎日の生活の中にまで入り込み、私は自分の何気ない行動さえ、Yの死と結びつけて考えるようになっていました。私は、自分の中で裁判を始めていました。
裁判官も私。被告人も私。証人も私。そして、判決を聞く人間まで私でした。証拠を出すのも私なら、それを退けるのも私です。それでも判決だけは、いつも同じでした。
『有罪』
私は毎晩、その日の自分を一つずつ取り調べました。
今日は笑った。
―罪だ。
今日は友達と話した。
―罪だ。
昼休みに楽しいと思った。
―罪だ。
何かで笑ってしまった。
―Yはもう笑えないのに。
そうやって一日を振り返るたび、胸の奥に細かな砂を詰め込まれていくようでした。息を吸うたび、胸骨の裏側がざらつき、深く吸おうとすると喉の奥まで乾いて痛みました。食事の時間になっても箸が止まり、口に入れたものを何度も噛み直しているうちに、冷めたご飯が舌の上で紙のようになりました。飲み込むと、胃の底に重い塊が落ちていくのが分かりました。最初は、ただ後ろめたいだけでした。けれど、その後ろめたさは、少しずつ私の動きを縛っていきました。やがて、笑う前にためらうようになりました。誰かが冗談を言うと、口元まで上がった笑いを慌てて押し戻し、代わりに咳払いをしました。頬の筋肉が引きつったまま戻らず、鏡を見ると、笑顔を途中で壊したような顔をしていました。楽しいと感じた瞬間には、その感情を打ち消そうとしました。胸の中に明かりがつくたび、すぐに手で覆い隠すように、別のことを考えました。Yの最後の顔。あの日の声。自分が言った言葉。そうしていると、せっかく浮かんだ気持ちは、罪悪感の底へ沈んでいきました。幸福になること自体が、Yを置き去りにする行為のように思えたのです。
Yがいないのに、私だけが笑っている。
Yがいないのに、私は学校へ通っている。
Yがいないのに、私は飯を食べ、風呂に入り、眠り、朝になればまた学校へ行く。
私は、あまりにも普通に生きていました。
その「普通」が、次第に耐えがたいものになりました。朝、目覚ましが鳴ると、布団の中でしばらく目を開けられませんでした。起きなければ遅刻する。遅刻すれば誰かに理由を聞かれる。そんな当たり前の考えが浮かぶだけで、胸が締めつけられました。それでも私は制服に袖を通し、洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分に「おはよう」と言いかけて、口を閉じました。学校へ向かうだけのことが、ひどく大きな決断のように感じられる日もありました。教室で誰かと目が合えば、笑わなければならない気がしました。けれど笑えば、Yを忘れている証拠になる。だから視線を逸らし、必要以上に話さず、休み時間には独りでいる場所を探しました。そうして日常から少しずつ身を引くほど、胸の中の罪悪感だけが、逃げ場を失って濃くなっていきました。
ある日の昼休み、友人が私に言いました。
「今日、なんか楽しそうじゃん」
私は笑いました。
「そうかな」
「うん。なんかいいことあった?」
私は少し考えてから、
「別に」
と答えました。本当に何もありませんでした。ただ、その日の天気が良かっただけです。窓から入ってくる風が気持ちよかった。それだけでした。けれど、その小さな心地よさを自覚した瞬間、胃の奥が冷たく縮みました。背中に薄い汗がにじみ、指先から血の気が引いていきました。さっきまで軽かった呼吸が急に浅くなり、笑った口元だけが、自分のものではないように残りました。こんなことで楽しいと思っていいのか。Yはもういないのに。私は笑顔を作った自分を、見つけてしまったような気がしました。私はトイレへ行き、個室に入りました。鍵をかけたあとも、何度もノブを確かめました。誰も入ってこないと分かっているのに、指が勝手に動きました。しばらく便座に座ったまま、何も考えませんでした。いや、何も考えないようにしていました。膝の上で手を握り、爪が皮膚に食い込む痛みだけを追いました。水道の音、換気扇の低い唸り、隣の個室から聞こえる紙の擦れる音。その一つ一つが妙に大きく聞こえ、耳の奥で膨らみました。すると、押し込めていた言葉が、頭の中で形を持ちました。
『人殺し。』
私は思わず耳を塞ぎました。誰もいないのに。誰にも言われていないのに。その声だけが、私の中で何度も響きました。耳を塞いでも消えず、頭蓋骨の内側を直接叩くように、同じ言葉が繰り返されました。私は口を開けて息を吸いましたが、空気が喉の途中で引っかかり、うまく入ってきませんでした。私は考えました。
もし私がYと出会わなければ。
もし私がYに話しかけなければ。
もし私がYの悩みを聞かなければ。
もし私がYの家へ行かなければ。
もし、あの時、もっと遠い人間でいられたなら。
Yは生きていたのでしょうか。
答えは分かりません。分からないのに、私は「はい」と答えそうになりました。その瞬間、疑いはただの不安ではなくなりました。私は、自分を犯人の位置に置いていたのです。何の証拠もないまま、自分の行動を一つずつ凶器に変えて。あの日の言葉を、視線を、沈黙を、何度も頭の中で並べ替えました。もっと違う言い方ができたはずだ。もっと早く気づけたはずだ。もっと強く引き止められたはずだ。過去の場面を思い出すたび、そこに新しい刃物を見つけました。私は、Yを殺した人間になろうとしていました。その方が、まだ筋が通るように思えたからです。
犯人ならば、理由がある。
罪人ならば、罰がある。
罰があるのなら、いつか終わる。けれど、私には罪状すらありません。だから、罰の終わりもありませんでした。私はそのことに気づきました。罪がないから苦しいのです。罪があるなら、償えばいい。許されないと分かっていても謝ればいい。裁かれればいい。けれど私には、誰に謝ればいいのか分からない。誰に償えばいいのかも分からない。Yはもういないのですから。その日の帰り道、私は空を見上げました。昔と同じ空でした。晴れている。青い。何も知らない顔をしている。私は昔、この空が嫌いでした。自分の心とは反対の色をしているから。けれど今は、少し違いました。空は何も知らないのではなく、何も裁かないのだと思いました。人間だけが、勝手に裁く。
他人を。
自分を。
そして、死んだ人間まで。
私は歩きながら考えました。
罪とは、法律に書かれているものだけなのでしょうか。誰かを傷つけたこと。誰かを見捨てたこと。誰かの苦しみに気づきながら、見なかったことにしたこと。あるいは、何もしていないこと。それらのどこからが罪なのでしょう。私は分かりませんでした。けれど、一つだけ分かることがありました。私はYの死を、自分の人生から切り離すことができない。それは罪なのかもしれません。あるいは、ただの記憶なのかもしれません。私はその区別さえ、つかなくなっていました。その夜、私は机に向かいました。昔のように、手紙を書くためです。けれど、相手は未来の自分ではありませんでした。私は、Yに向けて書きました。何を書けばいいのか分かりませんでした。
謝ればいいのか。
ありがとうと言えばいいのか。
恨んでいると言えばいいのか。
生きていてほしかったと言えばいいのか。
結局、私は一行しか書けませんでした。
「私は、あなたを殺したのでしょうか。」
書いてから、その文字をしばらく見つめていました。答えはありません。当然です。Yはもういない。私はペンを置きました。そして、また一行を書きました。
「もし違うのなら、誰か私にそう言ってください。」
それを書いたところで、私は嗤ってしまいました。誰が言うというのでしょう。死んだ人間は、何も言えない。生きている人間は、私のことなど知ったことではない。結局、私を裁くのも私。私を許すのも私。そして私は、自分を許す方法だけを知らない。私はその夜、初めて思いました。もしかすると、人間にとって一番重い罰とは、牢獄でも死刑でもないのかもしれません。自分自身から、一生逃げられないことなのかもと。
私は幼少期より退屈になったのでしょうか。
私は小学生の頃より笑えているのでしょうか。
私はYと出会う前より良い人間になったのでしょうか。
私は何度もこの問いを自分に投げかけました。答えが出ても次の日にはまた問いかける。私はそのうちおかしくなりました。そう表すしかない答えを出したからです。
『Yが悪い。Yが全てを狂わせた。』
私は、思わず自分を殺しそうになりました。この答えを出したのは私の中の違う人格。悪魔のような人格。私は、そう思いました。もし、人間に表と裏があるならこれは裏の自分だ。そう考えました。他人に見せている自分が表。内面にいる自分が裏。こう思った時、私はゾッとしました。私は、他人と居るときは仮面をつけている。なのに、表。私は私を恐ろしく感じました。卑怯な人間だと思いました。Yと話していた時の自分は裏だったのかと一瞬だけ脳によぎったからです。私は、その考えを振り払おうとしました。違う。Yが悪いわけではない。そう言い聞かせました。けれど、言葉にするたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいきました。否定しているはずなのに、その言葉は自分の中で少しも軽くならない。むしろ、喉の奥に引っかかり、呼吸をするたびに存在を主張してくるのです。けれど、一度頭の中へ入り込んだ考えというものは、追い出そうとすればするほど、妙に居座るものです。
Yが悪い。
その言葉は、私が否定するたびに、別の形になって戻ってきました。
Yが悪いのではない。
では、私は悪いのか。
その問いが浮かんだ瞬間、胃のあたりが重くなりました。私は答えを出したくありませんでした。けれど、答えを避けようとすること自体が、何かを認めているようにも思えました。私が悪くないのなら、誰が悪い。
父親か。
母親か。
姉たちか。
弟か。
学校か。
社会か。
それとも、Y自身か。
私は一人ずつ頭の中に並べていきました。まるで、犯人を探している刑事のようでした。誰か一人を指差せば、少なくとも自分だけはその輪の外へ出られる気がしたのです。けれど、指を伸ばそうとするたび、胸の奥で別の声がしました。
―本当に、それでいいのか。その声を聞くたび、逃げ道のはずだった名前が、手の中で崩れていきました。誰かを責めれば自分が軽くなると思ったのに、実際には、責める相手を探すほど自分の足元が狭くなっていったのです。けれど、考えれば考えるほど、妙なことに気づきました。私は、Yを裁こうとしているのではありませんでした。自分を無罪にするために、Yを裁こうとしていたのです。その事実に気づいた瞬間、背中に冷たい汗が流れました。私は自分の中に、見たくなかったものを見つけてしまったのです。Yを責めたいわけではない。そう思っていたはずなのに、私の思考は、Yを責めることでしか自分を守れない場所まで追い詰められていました。それに気づいた瞬間、私は自分自身がひどく醜い人間に思えました。
Yはもういない。
死んだ人間に向かって、私は今さら罪を着せようとしている。それが許されるはずがありません。私は机の上に置いてあったスマートフォンを手に取りました。指先がわずかに震えていました。画面を点けるだけのことなのに、そこにYの痕跡が残っていると思うと、触れることさえためらわれました。Yとの昔の会話を開きました。何度も読んだ文章でした。
「今日学校疲れた」
「漫画の続き読んだ?」
「明日学校行きたくない」
そんな、どうでもいい言葉ばかりでした。私は画面を指で何度も遡りました。文字を追っているはずなのに、内容はほとんど頭に入ってきませんでした。ただ、Yがそこにいた時間を、指先でなぞっているような気がしました。画面の向こうにいるYへ、もう一度触れようとしているようでした。そして、ある文章のところで指が止まりました。
Yが私に、
「君と話してると楽」
と送っていたのです。
私は、それを見つめました。たった二文字の言葉が、暗い部屋の中で異様に明るく見えました。胸の奥に、少しだけ温かいものが戻ってきました。冷え切っていた指先まで、その温度が届いたような気がしました。やっぱり、私は間違っていなかった。Yは私といることで、少しでも楽になっていた。私はそう思いました。そう思いたかったのです。その考えにしがみつけば、私はまだYのそばにいた人間でいられる。Yにとって意味のある存在だったと、信じていられる。けれど、その温かさは、安心と呼ぶにはあまりにも脆いものでした。指先で少し触れただけで崩れてしまいそうな、薄い膜のようなものだったのです。
次の瞬間には、別の考えが浮かびました。
―本当に?
私は画面を見つめたまま、動けなくなりました。胸の中で、さっきまでの温かさが急速に冷えていきました。指先から力が抜け、スマートフォンが滑り落ちそうになりました。「楽」という言葉は、いったい何を意味しているのでしょう。
私と話すことが楽しかった。
私と話すことで家のことを忘れられた。
私なら何を言っても怒らないから楽だった。
それとも。
私には何を話してもどうせ理解できないから、楽だった。
同じ二文字なのに、意味はいくらでも変わります。私は以前、それを知っていました。人間の言葉には表と裏がある。笑顔にも裏がある。「大丈夫」にも裏がある。だから私は、人間を観察してきた。なのに。なぜ私は、Yの言葉だけを疑わなかったのでしょう。いや。疑わなかったのではありません。疑いたくなかったのです。その答えが浮かんだ瞬間、胸の奥が鋭く痛みました。私はずっと、自分だけは冷静に人間を見ているつもりでした。誰の言葉も鵜呑みにせず、表情や声の調子から本音を読み取っているつもりだったのです。けれど、Yのことになると、私は見たいものしか見ていなかった。私は初めて、そのことに気づきました。
Yだけは信じたかった。
Yだけは、私を裏切らないと思いたかった。
私はYを理解していたのではない。
Yを理解できる自分でいたかったのです。
その瞬間、あの日の記憶が少しずつ形を変え始めました。
Yが笑っていた。
Yが話していた。
Yが私の隣に座っていた。
私は、それを全部「安心している証拠」だと思っていました。しかし、それは本当だったのでしょうか。Yは、本当に笑っていたのでしょうか。それとも、私に合わせて笑っていただけだったのでしょうか。私の前でだけ素顔を見せていたのではなく、私の前でも仮面を被っていたのではないでしょうか。そう考えると、あの日々のすべてが急に不確かなものになりました。記憶の中のYの笑顔が、少しずつ輪郭を失っていきました。私は何度もその表情を思い出そうとしましたが、思い出そうとするほど、そこに自分の願望が重なっているように感じました。私は椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回りました。足の裏が床に触れる感覚だけが、かろうじて現実につなぎ止めてくれていました。歩いていなければ、私はその場に崩れ落ちてしまいそうでした。
Yは私を信じていた。
いや、信じていなかった。
私に救いを求めていた。
いや、ただ逃げ場所にしていただけだった。
私を必要としていた。
いや、誰でもよかった。
私は何度も考えました。
けれど、どの答えにも証拠がありません。そして、証拠がないということが、私には何より恐ろしかった。証拠があれば、私はそれにすがることができました。間違っていても、少なくとも一つの答えを選ぶことができる。けれど今の私は、どの記憶にも確信を持てませんでした。Yの声も、表情も、言葉も、すべてが私の中で揺らいでいました。私はこれまで、人間を観察することで傷つかないようにしてきました。
誰が誰を嫌っているのか。
誰が誰を好いているのか。
誰が嘘をついているのか。
誰が本音を隠しているのか。
そうやって、人間の裏側を読むことができれば、私は安全だと思っていた。しかし、Yの死によって、その自信は粉々になりました。私は、一番大切だった人間の心さえ分からなかったのです。その事実を認めるたび、胸の奥に穴が開いていくようでした。私は人間を理解できると思っていたからこそ、誰にも近づかずにいられたのです。分かっているつもりでいれば、傷つけられる前に逃げられる。そう信じていました。では、今まで私が見てきたものは何だったのでしょう。
教室で笑っている人間も。
先生に媚びている人間も。
友達と楽しそうに話している人間も。
私を心配してくれた人間も。
全部、私の勝手な解釈だったのではないでしょうか。そう思い始めると、教室にいる人間が急に恐ろしくなりました。みんな笑っている。けれど、本当に笑っているのでしょうか。私に「大丈夫」と言う。けれど、本当に大丈夫なのでしょうか。私に「友達だよ」と言う。けれど、本当にそうなのでしょうか。もしかすると、みんな私を嫌っている。ただ、嫌っていることを私に知られたくないだけなのではないか。そんな考えが、次々に浮かびました。考えたくないのに、頭の中で勝手に膨らんでいきました。誰かの笑顔を見るたび、その裏側を探してしまう。優しい声を聞くたび、そこに隠された苛立ちや軽蔑を想像してしまう。私は人間の顔を見ることが怖くなりました。以前なら、顔を見れば何となく分かったはずでした。
怒っている。
困っている。
退屈している。
私を嫌っている。
けれど今は、何も分からない。いや、分からないどころか、すべてが疑わしく見える。私は、自分の得意だったものに裏切られたのです。
人間を読むこと。
人間を理解すること。
それが、私を守ってくれるものだと思っていました。しかし、本当は逆だったのかもしれません。人間を疑えば疑うほど、私は人間から遠ざかっていった。そして最後には、自分のことさえ疑うようになった。私は鏡の前に立ちました。そこには私がいました。少し疲れた顔をして、こちらを見ている。目の下には薄い影があり、唇は乾いていました。見慣れた顔のはずなのに、どこか他人のように見えました。私は、その顔を見ながら考えました。この人間は、本当に私なのでしょうか。私は笑いました。
鏡の中の私も嗤いました。けれど、その笑顔を見た瞬間、私はぞっとしました。頬の筋肉が動き、口元が形を作っている。それだけのことなのに、その表情が自分の意思で生まれたものなのか分かりませんでした。この笑顔も、偽物なのではないか。私はもう、自分の顔すら信用できなくなっていたのです。私は鏡から目を逸らしました。そして、ふと思いました。Yも、こんな気持ちだったのでしょうか。
自分の性別を否定され。
家族から名前を決められ。
学校でも決められ。
人間から決められ。
最後には、自分自身まで疑うようになった。もしそうだったのなら。私はYの苦しみを理解していたつもりで、何一つ理解していなかったのではないでしょうか。その考えに触れた瞬間、胸の奥が締めつけられました。Yの苦しみを分かっているつもりだった。Yの味方でいるつもりだった。けれど私は、Yの痛みそのものではなく、痛みを理解している自分の姿に酔っていただけなのかもしれません。私はそこで、また一つの疑いを抱きました。
―もしかすると、Yは私に助けを求めていたのではないか。
そう思った瞬間、胸が苦しくなりました。息を吸っても、肺の奥まで空気が届かないようでした。もし本当に助けを求めていたのなら、私はそれを見落としたことになります。もし見落としたのではなく、見ないふりをしていたのなら、私はYのそばにいた意味さえ失ってしまいます。私は、その問いを何度も頭の中で繰り返しました。
助けて、と。
Yは私にそう言ったことがあったでしょうか。ありません。少なくとも、言葉では。
では、態度では。
沈黙では。
笑顔では。
私は分からなくなりました。そして、分からないということが、また私を苦しめました。私は、Yが何を考えていたのかを知りたい。けれど、もう聞くことができない。その事実が、何度考えても現実のものとして受け入れられませんでした。聞けば答えてくれると思っていた。いつかまた、何でもない顔で話しかけてくれると思っていた。けれど、その「いつか」はもう永遠に来ないのです。だから私は、過去を何度も掘り返しました。
Yの言葉を一つずつ。
表情を一つずつ。
沈黙を一つずつ。
まるで、死んだ人間の心を発掘するように。けれど、掘れば掘るほど、そこから出てくるのはYではありませんでした。私自身でした。私はYを探していたのではなく、私が納得できるYを探していたのです。
優しいY。
私を信じていたY。
私といることで救われていたY。
私を必要としていたY。
そんなYであってほしかった。なぜなら、そうでなければ、私は自分の過去を許せないからです。そして、そこまで考えた時、私は初めて恐ろしいことに気づきました。私はYの死さえ、自分のために利用しているのではないか。Yの死を悲しんでいるのではなく、Yの死を使って、自分を罰している。自分を罰することで、私は「Yを大切にしていた人間」でいようとしている。その考えを認めたくなくて、私は何度も首を振りました。けれど、否定すればするほど、そこにある醜さがはっきりしていきました。悲しみさえ、自分を飾るために使っているのではないか。罪悪感さえ、自分を守るための形に変えているのではないか。
もし私が本当にYを愛していたのなら。
もし本当にYを大切にしていたのなら。
私はYの死後も、こんなふうに自分のことばかり考えているのでしょうか。私はそこで、何も言えなくなりました。
罪人になりたい自分。
無罪でいたい自分。
Yを責めたい自分。
Yを守りたい自分。
Yを忘れたい自分。
Yを忘れたくない自分。
それらが全部、私の中にいました。互いに矛盾しているはずなのに、どれも嘘ではありませんでした。どれか一つを消そうとすると、別の自分が強く抵抗しました。私は自分の中で、何人もの人間が同時に叫んでいるような感覚に襲われました。私はそのどれが本当の自分なのか分かりませんでした。もしかすると、全部が私なのかもしれない。そう思った時、私は初めて理解しました。人間には、表と裏があるのではない。表も裏も、どちらも自分なのです。そして、そのどちらを本当の自分と呼ぶのかを決めることなど、私にはできないのでした。私は見えている世界が頗る恐ろしくなりました。「生きていく」という言葉が常に私の胸を突き刺していました。
そんな罪と葛藤をかけたまま十八歳の誕生日を迎えました。今日は雲一つのないい空模様です。私は、いつもより早く起きました。学校の準備をします。私はこの最後の頁にこう記しました。
「Y、いってきます。」
あとがき宵崎 朔
最後までページをめくっていただき、本当にありがとうございました。
この物語は、私がこれまでの人生で実際に肌で感じ、胸の奥底に抱え続けてきた感情や記憶——その事実の断片を骨組みにして書き上げた、初めてのフィクション作品です。
自分を守るために被った冷たい仮面。
愛されたいと願うほどに刻まれた不条理な傷。
そして、本当の自分をさらけ出すことができた唯一の存在・Yの喪失と、逃れられない罪悪感。
作中で描いた息苦しさや「内なる裁判」の暗闇は、単なる作り事ではなく、私自身がかつて世界と向き合う中で必死にもがいていたリアルな痛みそのものでもあります。自分は被害者なのか、それとも加害者なのか。罪悪感すらも自分を守るための自己保身ではないのか——そうした逃げ場のない問いに向き合い、削り出すようにして言葉を紡ぎました。
壊れてしまった自意識の果てに、主人公が澄み渡る青空の下で残した最後の一行。
「Yへ、いってきます。」
この選択が救いだったのか、あるいはただの逃避だったのか、私にも明確な答えは出せません。けれど、事実と創作の狭間で生まれたこの結末に、彼と、そして私自身の十八年間のすべてを込めました。
もしこの手記が、誰にも言えない孤独や生きづらさを抱えているあなたの心に、ほんの少しでも寄り添うことができたなら、著者としてこれ以上の幸せはありません。
最後に、この過酷で静かな記憶の旅路を最後まで見届けてくださったあなたに、心からの感謝を捧げます。
本当に、ありがとうございました。