プロローグ
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古、太祖はかく勅せり。血胤によらず、器量によりて選ぶべし、と。
その勅を守りしは、かつて一つの生き物なりき。梟の翼を持ち、狼の四肢を持つ、名もなき守り手にして、玉座の陰にありて、人知れず王を衛りたり。
されど、いつの頃よりか、翼と四肢とは、二つに分かれたりと伝いけん。
彼の二つ、幾代を経てなお、当邦のいずこかに潜みて息づけり。
されど、露ほども知らず。
泥濘の巷に生を享け、名もなき者として光陰を盗みに費やす娘。
玉座よりもっとも遠き場所にて、疎まれしまま光陰を送る王女。
いずれも、己が何者なるかを、夢にだに弁えず。
やがて、二つの道は交わり、王家の理そのものが相克の渦中に立たされん。
されど、その時の来たるを、語る者とてなし――
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狭い路地裏に放置された木箱は、雨風に晒されてその色を失っていた。かつては何色だったのかも分からないほど、灰と黒の染みが木目に食い込んでいる。人目を憚るようにして、少女がそのうえで膝を抱えて、カビだらけの円パンを貪っている。それは、彼女にとって三日ぶりの食事だった。
噛むたびに、酸っぱさより先に土くれた匂いが鼻を突く。それでも顎は止まらない。空腹は誇りより先に胃の腑へ届く。指先の爪の間に染み込んだ黒い垢を舐め取るようにして、パン屑の最後の一粒まで拾い上げた。
路地の向こうから、ぬかるんだ土を踏む足音が近づいては、また遠ざかっていく。誰かがこちらを見た気がして、少女は木箱の陰に肩を縮めた。この裏路地では、目が合うことそのものが厄介事の始まりだった。物乞いに絡まれるか、あるいは自分より幼い子供の飯を奪う羽目になるか――どちらにせよ、良いことなど一つもない。
空はまだ低く、鉛色の雲が屋根の隙間から覗いていた。雨の匂いがする。降り出せば、この木箱の下に潜り込んで一晩をやり過ごすことになるだろう。それも慣れたものだった。濡れた布切れを身体に巻きつけ、歯を鳴らしながら朝を待つ。凍えて動けなくなった仲間を、これまで何人も見てきた。誰も名前を覚えていない。覚える必要もなかった。
少女の名はエナ。この裏路地では誰もその名を呼ばない。呼ばれるとすれば「ドブ鼠」か、あるいはもっと汚い言葉だった。物心つく前に親の顔も名も忘れ、物乞いと盗みだけで生き延びてきた。大人たちの脛を蹴り、懐から掠め取った銅貨で飢えを凌ぐ日々。それしか、生きる術を知らなかった。
市場の喧騒が、遠くで波のように寄せては返している。威勢の良い呼び込みの声、荷車の軋み、誰かの笑い声。あの明るい場所には、決して足を踏み入れられない。踏み入れれば最後、衛兵の警棒か、あるいは商人の怒声に追い立てられる。エナはただ、その音を背中で聞くことしかできなかった。
ふと、頭上で羽ばたきの音がした。見上げれば、灰色の鳩が一羽、崩れかけた屋根の縁に留まっている。丸い目でこちらを見下ろす鳩に、エナは小石を拾って投げつけた。当たりはしなかったが、鳩は羽音を立てて飛び去っていった。
――どこにでも行けるくせに。
誰に言うでもなく、そう呟いた声は、自分の耳にすら小さく響いた。地面に張り付いた爪先の感触だけが、やけにはっきりしていた。飛ぶということがどんな感覚なのか、思い描く糸口さえ見つからなかった。
木箱の隙間から差し込む陽の筋が、わずかに傾いた。夕暮れが近い。夜になれば気温はさらに落ち込み、腹の虫よりも寒さの方が命取りになる。痩せた両腕で自分の肩を抱き、乾いた唇を舐めた。今日はもう、これ以上何かを口にできる当てはない。
遠くで、教会の鐘が鳴った。時刻を告げるためのものではない。誰かの葬式か、あるいは礼拝の始まりを告げる音だった。この裏路地に住む者たちには関係のない、遠い世界の音だ。その音が鳴り止むまで、じっと膝の間に顔を埋めていた。
鉛色の空から、ぽつりと雨が落ちてきた。エナは木箱の下に潜り込み、体を丸めて目を閉じる。
――いつか、ここを出る。
寝物語のように、幾度となく繰り返してきた言葉だった。市場の隅で聞きかじった、冒険者という荒くれ者たちの噂。腰に剣を下げ、遺跡の奥で財宝を担いで戻ってくる者もいるのだという。運が良ければ、盗賊としての手先の器用さも役に立つと聞いた。それが本当かどうかも分からない。ただ、この路地裏よりはましだろうと、それだけは確信できた。
金さえあれば、腹を空かせずに眠れる。金さえあれば、誰にも「ドブ鼠」と呼ばれずに済む。大それた夢ではない。ただ、この冷たい木箱の下から、一歩でも遠くへ行きたかった。
明日もまた、同じ一日が来るだけだ。そう思いながらも、エナは瞼の裏で、剣を提げた自分の姿を思い描いていた。