エピローグ
日付が変わる直前。
誰もいない道を、足早に歩く人影。
下町のある家の前に着くと、小さく扉を叩いた。
待っていたのだろう、家人がそっと開いた扉に、身を押し込める。
「夕飯は、食べましたか?」
いつもと変わらぬ口調で、タエ子が尋ねた。栄助はあぁ、とも、いい、とも聞こえるような、曖昧な声で返事をする。
いつものちゃぶ台の前に座ると、握り飯が乗った皿が、蚊よけの下に置いてあった。
茶を入れにいっているタエ子に確認するまでもない。栄助はそれを頬張った。
※
「ワシを越えようなんざ百年早いわ」
師匠はカラカラと笑った。兄弟子のお叱りと、師匠の圧倒的な存在感。
栄助はただ、頭を下げる。
「ま、栄助らしくていいんじゃねぇか。元気で跳ねっ返りで何より。ワシの目の黒い内は思う存分、しごけるってわけだ」
覚悟しておけよ、と言う師匠の声は優しく、栄助の胸に落ちる。
「これからも勉強させていただきます。師匠、兄さん」
「任せときぃ!」
菊助がドンと胸を叩く。
「しかしよう、その面、なんとかならんかったのかい? 頬がコケて目だけランランと輝いて。一応、男前ということで客を引っ張ってるんだからよう。それなりの身なりをしてもらわにゃ、おまんまの食い上げちまう」
師匠のおちゃらけで、場が和む。栄助はやっと顔をあげることができた。
「そっちも頑張ります。得意ですから」
※
「なぁ、タエ子」
「はい」
茶を飲みながら、栄助は口を開いた。いつものように穏やかに答えるタエ子。
「おめぇは、いつまで俺の前で糸を垂らしてくれるんだい?」
「いつまでも」
「そうかい」
何を愚問を、というように小首をかしげるタエ子。
そうだ、無駄な質問だ。タエ子にとっては。
栄助が落語を究めようとする限り、彼女はこうして待つのだろう。
飯と寝床を用意して。
誰のためでもない、栄助のためだけに。
屈折している自分を、包み込むように。
母親が子どもを、安心させるかのように。
栄助はゴロンと転がり、タエ子の膝に頭を載せる。
しばらく寝てない。あっという間に、まぶたが落ちてくる。
「タエ子」
「はい」
「眠い」
「はい」
そっと糸が、垂らされる。
どうぞ、こちらに戻ってきてください、とでもいうように。
栄助はしばし、落語の深淵の世界を見渡す。
暗闇の中、もっと漆黒の闇が現れる。
タエ子の糸の光により、より鮮明になる落語の深み。
今は立ち向かう体力、気力は、残っていない。
仕方無しに栄助は、タエ子の糸をつかんだ。
自分はあと何回、この糸を上るのだろうか、と自問しながら。
糸は、幸いにも途中で切れることはなかった。
(終)