序章 奴隷少女は夢を見る
勇気さえあれば、勇者だろ。
勇者、と言うらしい。
その者は天から一振りの剣を授けられ、魔王を討つ使命を与えられる。
誰よりも勇敢で、心優しく、民を心から愛す、世界の寵愛を受ける者。
万人を助け、悪を挫く者。
正義の味方。
どれもこれも、私には縁のない話だと思った。
生まれてこの方、身体を鎖で繋がれ続けた私が、そんな大層な人と会う機会なんてあるわけがない。
物心ついた時には既に孤独だった私に、そんな奇跡が起こるわけがない。
だから、これは私の幻想だと思った。
餌も満足に貰えず、飢餓で動くこともままならなくなった私の、最後に見る都合の良い幻想だと。
檻の中から光が差して、刹那。鉄格子が袈裟斬りにされ、漸くそこに誰かがいることに気付いた。
光を背に受け、影で顔も見えなかった彼は私にすっと手を伸ばし、私の身体を軽々と抱き上げた。
そこで私は初めて、彼の顔を見ることができた。
泣いていた。
傷なんて一つもない。どこか痛むところがあるわけでもない。なのに彼は泣いていた。
確か、涙は苦痛を感じる時に出るものではなかったか。
ではなぜ、この男は私に微笑みかけて来るのだろう。助けたのは自分であるはずなのに、まるで救われたのは自分であるかのような顔をしているのはなぜなのだろう。
見ず知らずの私を、優しく抱き締めるのはなぜなのだろう。
私は、その時の彼の気持ちを未だに理解できないでいる。
「ぺディ!」
そう呼ばれて、私は振り返る。川の中流ほどで、筋骨隆々の大男が右手に銛、左手に大魚を掴みながら、私に笑い掛けている。
「見ろよこの身がたっぷりと詰まった大魚! 今日は大漁だぞ!」
男が川を上がりながらこちらへ近付いてくる。その太い脚のせいか、はたまた引き締まった筋肉のせいか、男が歩く度に水面が波のように蠢いていた。あんな状態で漁なんてしては簡単に獲物に逃げられそうなものだが、それをものともしない膂力が男にはあった。何故なら、この男は勇者なのだから。
「そう」
「そうって......うちの子は素っ気ないなぁ」
苦笑しながら、しかしそれ以上何も言うことはなく、男は黙々と火を熾し始める。
男の名はヒロ。王家に任命された勇者である。しかし、それ以上のことは知らない。知ろうともしないし、ヒロも積極的に言うつもりはなさそうなので、私たちの距離感は出会った時のまま。あの夜から、全く変わらないのだ。
奴隷小屋から解放された私含め奴隷たちは皆、この勇者の手によって無事に家族の元まで送り届けられた。
しかし、私に家族はいない。帰る場所のない私に、勇者は尋ねた。
「行く場所がないなら、俺と一緒に来ないか?」
勇者は膝を着くと、私の前にゆっくりと手を差し出した。勇者の瞳は僅かな歪みもないほど真っ直ぐだった。この人はきっと、責任だとか大層なものを自分に課しながら、こんなことを私に提案しているのだ。
何の利益にも成りはしないというのに、彼は私を許容している。
人生で一度も感じたことのない、不思議な感覚だった。
「お前みたいなゴミ屑に、生きてる価値なんてないんだよ」
ふと、私を躾けていた奴隷商の言い放った言葉が頭を過った。
私の足が、自然と一歩下がる。理解できなかった。もっと言えば、怖ろしかった。
彼が今何を考えているのか。どうして慈しむように私を見るのか。そんなこと、今の私には到底理解できなくて。
――それでも。
「うん。いいよ」
心地良かったから、もっと知りたくなってしまった。この感覚の正体が、一体何なのか。
勇者の手にそっと自分の手を重ねる。そしてこの勇者は、なぜか安心するように笑うのだった。
それから、私たちはずっと一緒に旅を続けている。
旅の目的は何かとヒロに尋ねたことがあるが、笑って「ないよ」と返され、拍子抜けしたのを覚えている。
そんなわけがないのだ。王家から直々に任命されたような者が何の役目も持たないなんて、そんなことがあるわけがない。
しかし私は、そのことについて問い質そうだなんて思わなかった。何か軋轢を生んで見放されてしまっては、私一人に生活を営む能力なんてものはない。すぐに野垂れ死んでしまうだろう。だから私は、いつまで経ってもこの謎を解決することができていない。
「ねぇ」
「ん? どうした?」
「次はどこに行くの?」
「サードライに行こうと思う。暫く野宿が続いてたし、そろそろちゃんとしたベッドで休んだ方が良いだろ」
「私はそんなのどうでもいい。どんなところでも、あの牢屋よりはマシだから」
「ペディ。良い加減、奴隷の時の常識はなくしてくれ。いつも言ってるだろ。ペディがどれだけ我儘を言ったとしても、俺はそれを全部聞くつもりだって」
我儘は全部聞く――そんな言葉を鵜呑みにできるほど、私は馬鹿じゃないし無知でもない。
私はヒロの発言を聞き流すように焼き魚に齧り付いた。
噛んでも噛んでも何も感じない。ただ、口に入れたら噛み砕き、喉に通りそうになったら飲み込むだけの単純作業。
「美味しい」とか「不味い」とか、私はそんな感覚を覚えたことがない。食事は生きるための作業でしかないし、それで幸福を感じるなんてことはない。
これが一般的な感覚でないことは、旅を始めてすぐに知った。なので、隠すことにした。普通じゃないということは大抵不利益しか齎さないからだ。
ヒロからの評価を下げてはならない。
それが、私がヒロと旅をする上で自らに設けたルールだった。
「美味いか?」
「うん。美味しいよ」
そんな当たり障りのない返事を返す。
ふとヒロの顔を覗き込むと、私の食べる姿を楽しそうに見つめていた。
なんだかばつが悪くなって、私は目を逸らす。
きっとヒロは、私の欠点を理解していない。だから、傍に置いている。
でも、いつまで――私は、ここにいられるのだろうか。
最近は、そんなことばかり思い耽ってしまうのだ。