第一茶番 長い長い茶番のはじまり
風吹けば 涙ぞ落つる なにゆゑと
問へど心は 君を待ちけり
風が吹くと、なぜか涙がこぼれる。なぜなのだろうと。
自分に問いかけても心だけは知っていた。私はずっと あなたを待っていたのだと。
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私は――神の声。
またの名を、地の文と申します。
なんとも、地の文風情が物語の冒頭から自己紹介を始めるなどという茶番にお付き合いいただき、恐縮至極にございます。
本来であれば、私は情景を語り、登場人物たちの心の内をそっと読者諸氏へお伝えするのが役目。
表舞台へしゃしゃり出るなど、言語道断。
...なのですが。
どうやら、この物語とは長い付き合いになりそうです。
ならば読者諸氏とも、これから先、随分と長い旅路をご一緒することになるでしょう。
そこで、物語を始める前に。
私から一つだけ、質問をさせていただきたい。
――もし、人の感情が、実際にエネルギーとして観測できたなら?
喜び。
悲しみ。
怒り。
恐怖。
そして――誰かを愛するということ。
私たちが当たり前のように抱きながら、決してその手で触れることのできないもの。
それらがもし、目に見える力となり。
人を立ち上がらせる勇気も、誰かを守りたいと願う想いも。
あるいは、人を壊してしまうほどの悲しみさえも。
本当に、世界を動かす力になるのだとしたら――。
この物語の世界では、それは空想でも、詩的な比喩でもありません。
感情は、力です。
人々は、その最小単位を――
『感情素子』
と呼びました。
...おっと。
初対面だというのに、少々喋りすぎましたかな。
詳しいことは、物語の中で追々お話しいたしましょう。
ただ、一つだけ。
これから読者諸氏が目にする、
長い、長い茶番が――
最後まで茶番のまま終わるのか。
それともいつの日か、
『キセキ』
となるのか。
それを決めるのは、私ではありません。
物語の中心にいる彼らが泣き、笑い、傷つき、それでも歩いた、その先にあるのでしょう。
そして願わくば。
読者諸氏にも、その行く末を見届けていただきたい。
それでは――。
長い、長い物語の始まりです。
◇
統一歴一二八年。
夜の葦原界首都――。
無数の灯りが、夜の街を照らしていた。
軒を連ねる酒場。
湯気を立てる屋台。
仕事帰りの会社員たち。
頬を赤くした酔客の笑い声に、観光客の楽しげな声が重なる。
軒先では古めかしい行灯が柔らかな橙色を灯し、その向こうでは、感情素子の供給を受けた街灯が白い光を大通りへ落としている。
生まれた時代の違う灯りが、同じ夜を当たり前のように照らしていた。
その人波の中を。
一人の女性が歩いていた。
群青色の短い外套。
腰には、紫色の鞘に納められた一本の刀。
高い位置で結ばれた長い黒髪が、歩くたびに夜風へ揺れる。
女性は時折、足を止めては辺りを見回していた。
行き交う人々。
店先から漂う匂い。
どこか遠くで聞こえる笑い声。
その一つ一つを確かめるように眺めてから。
小さく呟く。
「懐かしいなぁ...」
十年ぶりの葦原界だった。
ただし。
十年前からこれまでの記憶は、ほとんど残っていない。
この街を歩いたことがあるのか。
誰かと笑ったことがあるのか。
どこかの店で食事をしたことがあるのか。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
なのに。
女性は胸元へ、そっと手を添えた。
そこだけが、妙に温かい。
まるで。
遠い昔から知っていた場所へ、ようやく帰ってきたような――。
「変なの」
女性は小さく笑った。
「初めて来たみたいな気もするのに」
答えは返ってこない。
ただ夜風だけが、長い黒髪を揺らして通り過ぎていった。
「...まぁ、いっか」
女性の口元が、ふっと緩む。
考えても分からないものは、考えても仕方がない。
せっかくの休日なのだ。
ましてや十年ぶりの葦原界。
今日は楽しもう。
それでいい。
そう決めた女性の足取りは、先ほどより少しだけ軽くなった。
◇
数十分後。
居酒屋『夕凪』。
木造を基調とした店内は、仕事帰りの客たちで賑わっていた。
杯を交わす音。
弾む笑い声。
炭火で焼かれた魚の香ばしい匂い。
それに混じって漂ってくる、ほんのり甘い酒の香り。
先ほどまで街を歩いていた女性は、一人で卓を囲みながら上機嫌に杯を傾けていた。
「おいしー」
頬が緩む。
杯の中に残った酒を眺め、もう一口。
喉を通る柔らかな熱に、幸せそうに目を細める。
葦原界の酒は、やはり美味い。
――やはり。
そう思ったところで、女性は一瞬だけ首を傾げた。
「...?」
なぜ『やはり』なのだろう。
しかし、その疑問も長くは続かなかった。
「ま、いっか」
本日二度目である。
どうやら彼女は、分からないことを深く考え続ける性分ではないらしい。
二杯目を飲み終えた頃だった。
「お姉さん。一人?」
不意に声を掛けられ、女性が顔を上げる。
そこに立っていたのは、三人の男だった。
年齢は三十代ほどだろうか。
服装もごく普通。
表情も柔らかい。
街ですれ違ったところで、翌日には顔を忘れてしまいそうなほど、どこにでもいそうな男たちだった。
女性は彼らを見上げる。
「はい」
一人の男が、人当たりの良い笑みを浮かべた。
「よかったら、一緒に飲みません?」
別の男も続ける。
「旅先で一人っていうのも、寂しいでしょう?」
「んー...」
女性は少しだけ考えた。
本来なら、断るところだった。
見知らぬ男について行くほど、警戒心がないわけではない。
むしろ普段なら、こうした誘いにはほとんど応じない。
けれど今夜は。
十年ぶりに訪れた葦原界。
理由も分からない懐かしさ。
美味しい酒。
そして、胸の奥にまだ残っている妙な温かさ。
どうやら、いつもより少しだけ気持ちが緩んでいたらしい。
女性は三人を見比べる。
そして――。
にこりと笑った。
「じゃあ、少しだけ」
男たちも嬉しそうに笑った。
その夜。
彼女が感じていた懐かしさの正体を知ることになるまで――。
あと、もう少し。