第三茶番 誰それ?
最初に動いたのは、鴉壱だった。
地を蹴ると同時に腰を低く沈め、細い路地を一直線に駆ける。踏み込みは鋭い。それでいて上体にはほとんど揺れがなく、足、腰、肩までがひとつの動きとして繋がり、僅か一息の間にカヨナとの距離を奪っていく。
速い。
戦いに慣れた者であっても、一瞬反応が遅れるほどの踏み込みだった。
それでも鴉壱は、刀を抜かない。
捕縛。
それが、筆頭から下された命令。
そして何より――絶対に傷付けるな。
その言葉が、今も耳の奥に残っている。
「失礼します」
一言断り、鴉壱がカヨナの懐へ飛び込んだ。
その瞬間。
カヨナの姿が、視界から滑り落ちた。
「なっ――」
消えたのではない。
沈んだ。
無理に身体を折ったわけでも、慌てて屈んだわけでもない。高いところから低いところへ水が流れるように重心を落とし、そのまま鴉壱の懐深くへ入り込む。
ドスッ――!
鈍い衝撃が、狭い路地へ響いた。
「ぐっ!?」
鴉壱の呼吸が止まる。
カヨナの右膝が、鳩尾へ深々と突き刺さっていた。
鋭く研ぎ澄まされた、槍のような膝蹴り。
「がっ......!」
鴉壱の身体が数メートル後方へ弾き飛ばされる。
だが、カヨナは追わない。
蹴り上げた右脚を地面へ戻す勢いのまま身体を回し、長い黒髪が夜の中へ大きな円を描く。その背後では、まるでその動きを待っていたかのように鴉弐が間合いへ踏み込んでいた。
「そこだ」
完全な死角。
――のはずだった。
カヨナは振り向かない。
背後を見ることすらなく、回転の流れを殺さぬまま腰を捻る。
黒いタイツに包まれた長い脚が、夜気を裂いた。
後ろ回し蹴り。
しなやかな脚が一本の鞭のようにしなり、鴉弐が構えた腕へ正確に叩き込まれる。
バシィッ――!
「うおっ!?」
腕が弾かれた。
衝撃が手首から肩まで一気に駆け抜け、握っていた刀が宙を舞う。
カラン――。
乾いた音を立て、石畳へ落ちた。
「......嘘だろ」
鴉弐は痺れの残る腕を見下ろした。
背後。
しかも見ていない。
それでもカヨナの蹴りは、刀を握る腕だけを正確に捉えていた。
柔軟性だけではない。
間合いも、速度も、相手の動きを読む感覚も、身体へ染み付いている。
そして。
残るは一人。
鴉参。
「化け物かよ......」
思わず零れた言葉とは裏腹に、仮面の下では口元が緩んでいた。
――懐かしい。
本当に、懐かしい。
十年前。
何度も見た動きだった。
目の前にいる女性は、自分たちのことなど覚えていない。それでも、身体へ刻み込まれた戦い方だけは何ひとつ失われていない。
鴉参は静かに刀を抜いた。
鞘を滑った銀色の刃が、路地へ差し込む月明かりを受けて白く光る。
「行きます」
声色が変わった。
今度は、本気。
それを察したのだろう。
カヨナの柔らかな表情も、静かに消えた。
右手が腰へ落ちる。
紫色の鞘。
その中に眠る一振り――姫鶴一文字。
指先が紫色の柄へ触れ、確かめるようにそっと握る。
カチリ。
鯉口を切る音がした。
たった、それだけ。
なのに鴉参は、本能的に息を止めた。
来る。
そう思った次の瞬間。
カヨナが消えた。
「――ッ!?」
抜刀してから踏み込んだのではない。
踏み込んでから抜いたのでもない。
その境目そのものが、存在しなかった。
爪先が地を蹴る。腰が走る。肩が開き、腕が伸び、その動きのすべてが刃先へ集約されていく。
腕が刀を振るっているのではない。
身体そのものが、一振りの刀となって走った。
銀閃。
キィン――。
夜気を裂く乾いた音。
鴉参の刀が弾き飛ばされる。
「......!」
気付いたときには、もう遅い。
喉元。
あと数センチ。
そこに姫鶴一文字の切っ先があった。
月明かりを映した刃が、鴉参の喉元で静止している。
誰も動かない。
路地へ流れ込んだ夜風が、カヨナの長い黒髪を揺らした。
その瞳に殺意はない。
むしろ。
不思議そうだった。
「......え?」
張り詰めた空気に似つかわしくない、どこか間の抜けた声が落ちる。
カヨナは姫鶴一文字を突きつけたまま、僅かに首を傾げた。
「なんか......」
もう一度、三人を見る。
「手加減されてる? 私」
沈黙。
三人は、揃って絶句した。
鴉壱は鳩尾を押さえながら、どうにか身体を起こす。鴉弐は痺れの残る腕を軽く振り、鴉参は喉元の刃を見つめてから、ゆっくりと距離を取った。
そして。
三人は、ほとんど同時に笑った。
「やっぱりだ」
「あぁ」
「間違いない」
カヨナは、ますます訳が分からないという顔をする。
だが三人にとっては、それで十分だった。
懐かしい。
十年経っても変わらない。
姿だけではない。
足運びも、間合いも、戦い方も。
そして、自分が圧倒しているくせに、相手が手加減していることを先に気にするところまで。
間違いない。
――あの人だ。
海神界最強の剣士。
元・感情保安庁警察部特務隊副長。
そして。
筆頭が、十年間探し続けた人。
鴉壱はまだ鳩尾を押さえながら、それでもどこか嬉しそうにカヨナを見た。
十年ぶりに見つけた、かつての仲間。
その名を噛み締めるように口にする。
「やっぱり、カヨナさんだ」
「......?」
カヨナは、きょとんとした。
自分を指差す。
「誰それ?」
三人の笑顔が、固まった。