第七茶番 びんびん小町
「そうか」
ホシの手にしたコーヒーカップから湯気がふわりと揺れ、帰ってきたカヨナを静かに迎えるように、二人の間を温かく漂っていた。
そのときだった。
バンッ!!
筆頭室の扉が勢いよく開いた。
「ギャハハハハハ!!」
「嬢ちゃーーーん!!」
「えっ!?」
飛び込んできた女が、カヨナへ一直線に突っ込んでくる。
長い黒髪をなびかせた、艶やかな女性だった。
そのままカヨナの頭を両腕で抱え込み――。
「生きてたじゃねぇか!!」
わしゃわしゃわしゃわしゃ。
「わっ!? ちょっ!?」
「よく帰ってきたなぁ!!」
「髪! 髪がぐちゃぐちゃになります!!」
再会から僅か数秒。
カヨナの黒髪は、早くも大変なことになっていた。
「相変わらず可愛いなぁ!! 嬢ちゃん!!」
「やめてくださぁぁぁい!!」
「ゆかり。騒ぎすぎだ」
ホシが低い声で呼ぶ。
「あぁ!?」
ゆかりがカヨナを抱えたまま振り返った。
「感動の再会だろうが!」
「静かに喜べ」
「なんでだよ!!」
ユウカが小さくため息をつき、カヨナの髪を容赦なく掻き回している手を掴む。
「ゆかりさん。カヨナさんが困っています」
「いいじゃねぇか! 十年ぶりだぞ!」
「だからといって髪を巣にする必要はありません」
「巣!?」
どうにか解放されたカヨナは、乱れた髪を両手で直しながら周囲を見渡した。
ヒロがいる。
ユウカがいる。
ホシがいる。
そして、今しがた自分の頭を巣にしようとした女性がいる。
騒がしい。
ものすごく騒がしい。
なのに。
「......ふふっ」
笑ってしまった。
理由は、まだ上手く説明できない。
ただ。
懐かしかった。
「さて」
ユウカの声が変わった。
「陽主様」
「......なんだ」
ヒロの眉が僅かに動く。
ユウカは美しく微笑んだ。
「少々、お話があります」
「断る」
「まだ何も申し上げておりません」
「嫌な予感がする」
「奇遇ですね。私もです」
「......」
ヒロの瞼が閉じられる。
どうやら観念したようだ。
◇
それからしばらくして。
床に散らばっていた報告書も片付き、一同は筆頭室へ腰を落ち着けていた。
ユウカは手元の記録へ目を落としながら、今日カヨナに起きたことを一つずつ確認していく。
葦原界へやって来たこと。
酒場へ入ったこと。
そこで三人の男と出会ったこと。
そして――飲み物へ薬を入れられたこと。
「なるほど」
ユウカが記録を取りながら頷いた。
「普段のカヨナさんなら、絶対について行きませんものね」
「そうなんですか?」
「はい」
「知らない男性について行くなど、以前ならあり得ません」
「そうなんですね......」
カヨナは苦笑した。
十年前の自分が、どんな人間だったのか。
記憶は多少戻ったとはいえ、まだすべてを順番通りに取り出せるわけではない。こうして皆の話を聞いていると、今の自分とは少し違うところもあったらしい。
ユウカは手元の記録へ視線を戻したが、やがて何かに引っ掛かったように指を止めた。
「ですが......少々、腑に落ちませんね」
「何がだ?」
ホシが尋ねる。
「睡眠薬です」
ユウカの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
研究者の顔だった。
「確かに、あれは私が調製したものです。人体への悪影響はなく、薬効も安定している。そして――無味無臭です」
「え?」
カヨナが瞬きをする。
「でも私、変な匂いがしたから......」
「そこです」
ユウカがカヨナを見る。
「そこがおかしいんです」
部屋から、音が消えた。
カヨナは無意識に、自分の鼻元へ指を添える。
思い違いではない。
あのとき確かに感じたのだ。
飲み物に混じった、僅かな違和感を。
けれど――。
「気付く方がおかしいのです」
ユウカの声は静かだった。
だからこそ、その言葉だけが妙に重く残った。
「カヨナさんの身体に、何か――」
「......一つ、言っておくことがある」
突然。
ヒロが口を開いた。
全員の視線が集まる。
「なんですか?」
ユウカが尋ねる。
「その薬の件だ」
「はい」
ヒロは腕を組んだ。
何故か視線を合わせない。
「......惚れ薬を入れてしまった」
「「「は?」」」
カヨナ。
ホシ。
ゆかり。
三人の声が綺麗に重なった。
ユウカだけが、こめかみに手を当てた。
「陽主様」
「なんだ」
「最初から説明してください」
「あぁ」
ヒロの長い長い言い訳がはじまった。しかし本人は至って真面目だった。
「実験だった」
「何のですか!?」
「効果の確認だ」
「誰に!?」
「俺に」
「なんで!?」
カヨナの声が裏返った。
ヒロは不思議そうに首を傾げる。
「カヨナを迎えに行く前に調合した」
「えっ」
「念のためシャワーも浴びた」
「なんでシャワーまで浴びたんですか!?」
問い返しながら、カヨナの頬がみるみる赤くなっていく。
「陽主様」
ユウカが額を押さえたまま手を差し出した。
「その惚れ薬とやらを見せてください」
「あぁ」
ヒロが懐から小瓶を取り出す。
妙に艶やかな装飾の施された瓶だった。
ユウカが受け取り、全員でラベルを見る。
そこには。
――びんびん小町――
「......」
誰も喋らなかった。
ホシが目を閉じる。
ゆかりが二度見する。
カヨナは両手で顔を覆った。
「おい」
ゆかりが震える声で呼ぶ。
「筋肉ォ!」
「なんだァ?」
「てめぇ、これどこで買った」
「二丁目の雑居ビル三階」
「店の名前は?」
「ミラクル兄貴」
ホシが額へ手を当てた。
「馬鹿か......」
ちなみに。
ここまでヒロ・アシハラは、すべて真顔である。
困ったことに、本人の中では今のところ何一つ面白いことは起きていない。
「えっと......」
カヨナが赤い顔のまま、指の隙間からヒロを見る。
さっきから、別のことが気になっていた。
惚れ薬。
自分を迎えに行く前のシャワー。
そして。
十年前、自分とこの人は――。
「その......ヒロさんと私は......」
視線が泳ぐ。
聞いていいのだろうか。
でも。
ものすごく気になる。
「そういう関係だったん――」
「違います」
ユウカが即座に遮った。
「......え?」
「そこ嘘つくんじゃねぇ」
今度はゆかりが即座に突っ込んだ。
「ええっ!?」
カヨナの目がさらに大きくなる。
ユウカの頬が僅かに引きつった。
「とっ、とにかく! これは研究のため没収します。悪しからず」
「おぉい!」
ゆかりが身を乗り出す。
「ちょっと貸せ、嘘つき姫ぇ!!」
「誰が嘘つき姫ですか!」
ひょいっ。
「あっ」
小瓶がユウカの手から消えた。
「ゆかりさん!」
止めるより早く、ゆかりは栓を抜いた。
ゴクッ。
飲んだ。
「「「あーーーーーーっ!!!」」」
ヒロ。
ユウカ。
カヨナ。
三人の絶叫が筆頭室を揺らした。
ホシだけは腕を組んだまま、微動だにしない。
――数秒後。
全員がゆかりを見る。
ゆかりは肩をぐるりと回し、続いて首を左右へ倒した。
ゴキッ。
ゴキッ。
そして。
「ギャハハハハハ!!」
豪快な笑い声が弾けた。
「ただの栄養ドリンクじゃねぇか!!」
「......は?」
「タウリン一〇〇〇ミリグラムってとこだな!!」
再び。
静寂。
ホシが無言でコーヒーへ口をつけた。
「フン。下らん」
カップを置く。
「明日、令状を取る。薬事法違反とその他余罪がありそうだ。家宅捜索だ。」
「待て」
「なんだ」
「俺は定期購入してしまった。クーリング・オフだ」
「なお悪い」
「なんで!?」
どうやら。
カヨナが、本来は無味無臭のはずの睡眠薬に気付いた理由については、まだ調べる必要がありそうだった。
しかし――。
今この場では。
その重大な疑問さえも、『びんびん小町』の前にすっかり霞んでしまっていた。
この辺りは、非常に重要なので間違えてはいけない。
「まったく......」
ユウカが小さく息を吐く。
それから。
ふと、カヨナを見た。
視線が合う。
「......」
ユウカの口角が、ほんの僅かに上がった。
「ところで、陽主様」
「なんだ」
声が柔らかくなる。
ユウカはヒロのそばへ歩み寄り、その肩へそっと手を添えた。
「本当に、何もなかったのですか?」
「何がだ」
「カヨナさんと、です」
耳元へ顔を寄せる。
「十年前も......本当に?」
「......」
ヒロが固まった。
「なっ......」
カヨナの目も大きくなる。
ユウカは楽しそうに微笑んでいる。
どう考えても、わざとだった。
分かっている。
分かっているのに。
カヨナの視線は、ヒロの肩へ置かれたユウカの手から離れなかった。
胸の奥が、妙にざわつく。
さっきまでの懐かしい温かさとも違う。
再会できた嬉しさとも違う。
理由なんて分からない。
ただ。
嫌だった。
――ヒロさんに。
カヨナの眉が、僅かに寄る。
――近寄らないでよ......。