インクルージョン
紺野みずか。それが彼女の名前だった。
必要な時以外は滅多に口を聞かない、空気女子。ごわつき感のある癖っ毛を結べる程度に伸ばしている。一つに結んだ髪の束は広がって手に負えなさそうだ。肌は白くて綺麗だったし、長身でスタイルも良く、鼻筋の通った顔立ちも、ムスッとしていなければ美しい部類だろう。
中学二年のクラス替えで彼女と同じクラスになる前から、わたしは彼女を知っていた。学年でも有名な空気女子だったから。
極度に無口で人と交流しないだけで、迷惑なことをするわけではなかったから、学年中から嫌われているとまではいかなかった。それでもあまりにも無口すぎるから不気味に思っていた子は男女問わず多かった。
空気なのに有名と言うのもおかしな言い方だ。
「紺野みずかです。鉱石が好きです」
彼女がこの短い自己紹介をしたのは、一学期の初日。鼻にかかったようなアルトの声で発された、鉱石が好きと言う言葉が、同じく鉱石好きのわたしの興味を引いた。
――どんな石が好きなんだろう。
わたしたちが住むこの町は水晶の産地として有名だ。水晶以外の石もわずかながら採れる。天然石の細工職人も多い。だからどちらかと言えば、わたし個人の印象ではあるけれど、鉱石なんて見飽きてると言う人間の方が多い。それで少々寂しい思いをしていたわたしは、同じ嗜好を持つ者に初めて出会えて少し感激した。
そうかと言って親しげに接近しないのがわたしだ。相手が人を寄せ付けない空気女子だからと言うのも大きかったと思うけれど、わたしだって、大勢の人と仲良く出来る人間ではない。新しいクラスで出来た友人は二人。いずれも女子で、読書やイラスト描きやお菓子作りが好きな、少なくとも周囲から見ればおとなしい子だった。この二人――柿塚美羽と矢野汐里も、紺野みずかのことはまるっきり空気のように思っていた。
でもたまに話題に上がったことはある。
この中学では、進級最初の一か月はお昼のお弁当は出席番号順に机を寄せて、班のようになって食べると言う決まりだった。
五十音順の出席番号にしたがって、美羽が紺野みずかと同じ班でお弁当を食べることになったのだ。初めの頃の美羽はそのことを別に嫌がりはしなかった。
食べ終わると机を元の配置に戻して、自由にしていい。
四月最後の週のある日、自由になったわたしは汐里と一緒に美羽の机を囲んだ。
耳の下までの長さの、ゆるく波打った茶色がかった髪。おっとりした印象の優しい顔立ちの小柄な子が汐里。
腕の付け根まであるまっすぐな黒髪と、切れ長の一重瞼の目がシャープな感じを与える勝気そうな子が、美羽。
「ね、この絵見てくれる? 」
ニコニコした汐里がスカートのポケットから出した紙を広げて、わたしたちに差し出した。
「いやぁー! すごい! 」
見た瞬間、美羽が両手を口に当てて叫んだ。
「あれ? これ、わたしだよね? 」
受け取った紙に目を凝らして、わたしはボケてみた。
「いやあたしでしょ。真希奈、こんな髪長くないし」
「ふふん」
美羽とわたしの掛け合いが、汐里を更に笑わせた。
A4サイズの紙に描かれた長い黒髪の美少女は、髪の長さで言うなら確かに、毛先を軽くしたボブヘアのわたしより美羽に近い。
背景はない。色彩もない。鉛筆だけで描かれた少女。ペルシャ風と言うのだろうか、アラベスク模様で縁取られたヴェールを抑えるように、その裾を軽く掴んでいる。長い黒髪は後ろに軽く靡いている。まるで、強い風でベールが飛ばされそうになるのを抑えたその瞬間で時を止めたような、そして少し目を見張って遠くを見つめているような、可憐な少女の胸像が描かれている。首には豪華な宝石をあしらったネックレスが幾重にも巻かれ、肩を包む衣装は羅紗のように透けていた。
身に付けているもの以外はペルシャ風の要素がない。顔立ちは、少女漫画的な可愛い顔。なのに薄っぺらい感じはしなかった。
描こうと思えば、デジタルで描ける時代。生まれた時からデジタルと共に生きてきたのがわたしたち。それなのに汐里は敢えてアナログで描く。デジタルで描ける環境も整ってているし、たまにはそれで描いてくるのに。
描いていると言う実感が湧くのは、汐里にとってはアナログの方であるそうだ。
「いつも言うけどさ、ほんと上手いよね。汐里」
「ちょこっと、シルクロードを想像して描いたんだ」
汐里は美羽に答えた。
「うん。分かる。アラビアンナイト思い出した」
「わたしは正倉院にある水差し思い出した。歴史の資料集に載ってる、ラクダの絵が描いてある奴」
「何それ」
わたしの言葉に、美羽がクスッと笑って呟いた。
「だって、シルクロード通って日本に到来したものだって書いてあったし......」
「真希ちゃん、頭良いから発想が違うよね」
汐里が面白そうに言ってくれた。
わたしは少し調子に乗って、言った。
「わたしが好きなのは、碧瑠璃杯の方だけど」
「だから、分からないって」
美羽が苦笑してわたしの手をポンと軽く叩いた。
――分からないってことあるのかな。資料集に載ってるのに。それ、見てないの?
なんて言わない。何でも、分かっているから偉いってわけでもない。
「あー、もうすぐゴールデンウィーク! 」
両腕を上げて背中をのけぞらせながら、美羽が言った。
「美羽ん家、どこ行くんだった? 」
わたしは訊いた。
「北海道。......って、そこじゃなくて。言いたいのは」
美羽はそれとなく周りを窺うように目を走らせた。そして声を潜めて続けた。
「ゴールデンウィークが明けたら、やっとこの三人でお昼食べれるなあって......」
「あぁ......」
そういうことか。短い返答をしたわたしは、汐里と目配せし合った。
「場所、変える? 」
汐里が言った。
「そうだね」
答えると同時に立ち上がった美羽と、わたしたちは廊下に出た。
お昼休み中の廊下は色んなクラスの生徒が行き交っていた。けれども誰もが、自分たちのことしか気にしていない。わたしたちは誰も溜まっていない窓際に陣取った。
「......紺野さんのことだよね? 」
わたしはおずおずした声で美羽に訊いた。この頃までに、美羽はぽつりぽつりと紺野みずかのことを愚痴っていたから。
「うん。ほんとに口きかないし、笑いもしないんだもん。怖いよ」
良く通る澄んだソプラノを、半分程度のボリュームに抑えて美羽は言った。
「授業とかなら、喋るのにね」
「だから余計、なんかムカつく。あたしたちとは喋りたくないんだ? 」
そう思われても仕方のない態度だと、わたしも思った。
「こんなこと言うと悪いけど、あの人、バッグとかダサいよね。お弁当箱も、どこに売ってあるの? って訊きたくなるような古ぼけた白いので、変な絵柄だよ。他のを持ってきてるの見たことない。おうち貧乏? 」
「美羽。言い過ぎ」
「放置子みたいな感じはするよね......」
穏やかな声。遠慮がちな口調で、汐里が言った。
「そうなんじゃない? 」
棘のある口調で美羽は答え、
「中島さんから聞いたんだけど、小学校の頃からあんな感じだって。靴なんて、男の子が履くようなスニーカー履いてきてたり、とにかく変な感じだったんだって。それを思えば、ムカつくけど、むしろ関わらなくていい相手なのかもね」
一気に吐き出した。この時までは『苦手なんだよね。』『気が重い......』と本当にポツリポツリ程度のことしかこぼしていなかったのに。美羽がここまで誰かを悪く言うのも珍しい。紺野みずかの存在がよほどストレスになっているのだろう。
美羽の剣幕に汐里と一緒にビックリしながら、でもわたしは何とか答えた。
「でももう、いいじゃん。同じクラスにはいるけど、同じグループでお弁当食べることはないし」
「そうだね。もう言わないでおく。二人ともありがと」
さっと切り上げて微笑んで見せた美羽に、あたしも汐里も安堵の笑みを返した。一言発したきり、美羽の迫力に圧されて黙っていた汐里は、あたし以上に安心しただろう。
それにしても、極度の無口に加えて、放置子疑惑。
話を聞いただけでも分かる。
紺野みずかはきっと、あまり良い環境にはいない。
紺野みずかの評判はそれとして、わたしは彼女が持っているある物に惹かれていた。
デンドリティッククォーツ。透明な水晶の瑕に浸み込んだ地中のミネラル分が、樹木やシダ植物のような模様を形作っている石。その石を紺野みずかは通学用のリュックにキーホルダーにして下げていた。
チョークの半分ぐらいの長さでチョークより一回り太いぐらいの大きさの原石を恐らくそのままの形を生かして研磨して、金色のパーツをねじ込んだキーホルダーだ。水晶の内包物である、ハートの形の小さな葉っぱが連なったシダ植物のような可愛らしい模様がはっきり見えた。
こんなに素敵なのに、誰も目に留めない。
目に留めていても、相手が相手なだけに、気軽に誉め言葉をかけられないのかも知れない。わたしがそうだった。
それでも六月のある日、とうとう声をかけてしまった。
梅雨の晴れ間の放課後。
汐里は美術部、美羽は調理部に行ってしまって、わたしは一人で帰っていた。部活には入っていない。学校のすぐ近くに市立図書館があり、休館日以外はそこに入り浸っていた。
その日もそうするつもりだった。
美羽と汐里を見送って、靴箱の並ぶ昇降口に行くと、靴を履き替えた紺野みずかが外に出て行くところだった。わたしは少し構えてしまったけれど、彼女は人に危害を加えるわけではなし、別に構える必要はない。そう思い直して、靴を履き替えて外に出た。
紺野みずかも登下校時に正門は使わないようだ。わたしはまるで尾行するように、紺野みずかの後をついて行く形になってしまった。
彼女の後ろ姿でまず目を引くのは、水色のヘアゴムで一つに束ねられたごわついた髪の毛。伸びたスチールたわしみたいと、口の悪い誰かが言っていた。その誰かに対してわたしは嫌な印象しか受けなかった。あなたこそ頭も性格も悪いくせに。そう思ってしまうのだった。でもそんな風に思ったからと言って、自分がその誰かより良い子だとは思わない。
紺色のプリーツスカートから伸びた紺野みずかの脚は結構骨太い。全体的な体つきのわりにがっしりしている。白いブラウスに包まれた上半身は華奢なのに。
何の飾りもない、ただの白いスニーカー。
緑色のキャンバス地のリュックの横で揺れているキーホルダーの金具が陽光を受けてキラキラ光っている。
野球部とサッカー部、ハンドボール部が野太い掛け声を上げながらそれぞれ練習を始めているグラウンドの脇を通って東門に着いた。それまでは砂利の地面だったのが、アスファルトに変わった。小石で少し滑るようだった靴裏の感触が、平坦なものに変わった。
東門を出ると、紺野みずかもわたしもまっすぐ進んだ。わたしは一人の時は歩くのが割と早いもので、もう少しで紺野みずかに追いつきそうになる。
そのまま追い越して行っても良かったのだ。
なのに頭の中で、「今しかない。言ってみたら? 」ともう一人のわたしが言った。わたしの、本心が。
「紺野さん」
振り向いた紺野みずかは、いつもと同じ不機嫌そうな顔をしていた。いつも口角が下がっているのだ。その表情も人から遠ざけられる一因になっている。もっとも彼女自身、人を求めていないのかも知れない。移動教室も、お弁当も、いつも一人でさっさと済ませる。
心の中で臆しながらも、わたしは後に引けなかった。いや引きたくなかった。
「わたし、同じクラスの」
「小城さんよね。小城真希奈さん」
あの特徴のある声で紺野みずかは答えた。警戒していることがよく分かる、硬い口調だった。それでも彼女が名前を知っていてくれたことが、わたしを多少安心させた。
「いきなり声かけてごめんなさい」
「別に良いけど」
結構フツーに受け答えする。授業中みたいに。それで更に安心して、わたしは続けた。
「あの、そのリュックにつけてるキーホルダー。デンドリティッククォーツだよね? 」
「......そういう名前らしいね」
「わたしも鉱物が好きで。だから紺野さんのそれ、すごく気になってて。良かったら、じっくり見せてもらえたらなと思って、声かけたの」
「良いよ」
紺野みずかはあっさりリュックを降ろして、キーホルダーを外してわたしに差し出した。そこまでしてくれなくても、と内心遠慮の気持ちがあったが、手に取らせて見せてもらえるならそうさせて欲しい気持ちが勝った。
「ありがとう」
そっと受け取ったキーホルダーは、梅雨の暑気が浸透していないような、石特有の冷たさがあった。間近で見ると、小さなハート型の葉が連なったシダ植物のような模様の他に、キラキラした銀色の粉のようなものも見えた。雲母だろうか。
透明度の高い氷砂糖みたい。口に入れても甘くないのは分かってる。
「いいな......こういうの、ストーンショップに行っても見つけられないし、あったとしてもすごく高いの」
「これから、うちに来る? 」
「え? 」
わたしは紺野みずかをまじまじ見つめた。彼女は相変わらず不機嫌そうな表情だった。けれども、それまでの不機嫌度が一〇〇%だったなら、この時のそれは八十%ぐらいに減じていた。
「ちょっと歩くし、都合が悪いなら、いいけど」
「ううん。大丈夫だけど......お邪魔していいの? 」
「裏山なら良いよ。家の中は、止めといた方が良い」
何だか気になる言い方だった。家に他人を上がらせたくないお宅もあるけれど。
裏山って言うのは?
紺野みずかの家にはやはり何かあるのかも知れない。彼女のバックグラウンドを一部でも見てみたい。そんな好奇心が、わたしを答えさせた。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「分かった」
紺野みずかはわたしに手を差し出した。その手の意味するところはすぐ分かった。わたしはその手に、デンドリティッククォーツのキーホルダーをそっと載せた。
確かにちょっと歩く距離だった。部活をしている生徒なら自転車通学が認められるぐらいの距離だと思う。わたしたちが通う中学は、部活生と帰宅部生で自転車通学が認められる距離が違う。優遇されているのは当然、部活生だ。
そう言えば、この時間に帰っていると言うことは紺野みずかも帰宅部なのだと、ようやく思い当たった。
紺野みずかと一緒に向かった先は、街外れの、片側一車線の道路沿いだけれども山手に近い場所。
水晶細工のお店は、今はビルや新社屋を構えて街中に移っているところも多い。
「うち、そこ」
紺野みずかが指さした先には、白い塀でぐるりと囲まれた、かなり広大な敷地をうかがわせる場所があった。塀の上に鈍色の瓦ぶきの屋根がてっぺんを覗かせている。
灰色の石の門柱には、確かに『紺野』と言う表札がはめ込まれていた。
「どうぞ、入って」
門扉を開けて、わたしを先に中に入れてくれた。
敷石の歩道が玄関まで続く、立派な日本家屋だ。
南天やいぬまきの木が植えられ、他にもわたしが名前も知らない樹木が綺麗に手入れされて植栽されている。庭師さんに頼まないと、ここまでの手入れは出来ないだろう。
紺野みずかは玄関を開けて、「ただいま。」と中に声をかけた。
返事はない。
「喉、渇いてない? 」
そう訊かれて、正直わたしは救われた気になった。実は喉がカラカラに渇いていた。
「アイスコーヒーか、ペットボトルの麦茶しかないけど」
「麦茶、いただいていい? 」
「いいよ。そこに座ってて」
紺野みずかは上がり框を指さして、家の奥に入っていった。
行儀が悪いけど、わたしは一般的なそれより広い玄関の中を見回した。玄関は玉石敷きで、靴底を通して玉石の凸凹が伝わる。頑丈そうな木製の靴箱に、水晶細工の昇り龍の置物が飾ってあり、壁には葡萄畑を描いた風景画が架かっている。誰かは知らないけれど、素人の絵でないことはわたしでも分かった。玄関の隅に置かれた傘立ては陶器製で、わたしの祖母が好んで集めている有田焼とか九谷焼を思わせる豊かな色彩で雲や楼閣が描かれていた。
貧乏どころか、かなり裕福そうな。
足音がした。リュックを降ろした紺野みずかが五百ミリリットルのペットボトルの麦茶を持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
わたしがひんやりしたペットボトルを受け取ると、紺野みずかはまた家の奥に入っていった。そして戻ってきた時には、折りたたみ型のプラスチックのコンテナを持ってきていた。
「じゃあ、裏山に行こう」
「う、うん」
わたしは紺野みずかの後について、家の裏手に回った。途中、松が植わったごく小さい庭園や、母屋の広縁が目に入った。あの広縁にロッキングチェアを置いて、それに身を預けて本を読んだら楽しいだろう。飽きたらあの庭園を眺めて。そんな妄想をしてしまった。
家の裏手まで敷石の歩道が作られていた。そしてその歩道は、小山の前で途切れていた。
つい見上げてしまった。厳重な金属製の柵で囲まれた、雑木林の小山。それが裏山であるらしかった。柵の扉には閂がかけられ、大きな南京錠が下がっている。紺野みずかはスカートのポケットから鍵を出し、南京錠と閂を外した。
「足下に気を付けて入って」
扉を開けて、注意してくれた。
「いいの?入って」
「大丈夫。あたしの家の持ち物だし、あたしは一人で何度も入ってる」
そうなんだ。こんな雑木林に一人でなんて、どうして。
わたしが思う間に、紺野みずかはコンテナを組み立てて、地面に置いた。
「良かったらこの中に置いて。リュック」
「あ、ありがとう」
気遣いが行き届いてる。良い人なのに、どうして学校ではこういう自分を出さないのだろう。
リュックを降ろすと肩が一気に軽くなった。
改めて山中を見ると、ごろりとした岩がたくさん目に付いた。
一応、落ち葉や小枝を両脇に掃き集めて確保された、地面剥き出しの歩道がある。道を通せない薮の向こうには学校で習った柱状節理のような、切り立った岩が崖のようなものが見える。
湿った土の匂いと、青々とした草の匂いに、どことなく炭っぽい木の香り。名前も知らない数種類の草が群生した薮のところどころに、露草の青い小さな花が顔を覗かせている。
湿度のある風が、わたしの肌や髪に鬱陶しくまとわりついて吹き抜けていった。
「小城さん。これ」
しゃがみこんだ紺野みずかが歩道の脇から拾い上げて見せたのは、土がこびりついた乳白色の小石だった。
「水晶の原石」
「嘘!? 」
わたしだって鉱物好きなのだから、磨かないと透明にはならないことは知っている。だから驚きの声を上げてしまったのは、紺野みずかの家が所有する山で水晶が採れることだった。考えてみればここは水晶の産地なのだから、鉱脈のある山はいくつかあるのだけど。まさか紺野みずかの家にもあったなんて。
「透かしてみたら、割と透明感あるよ」
「......ほんとね」
紺野みずかが陽に透かした小さな原石は、確かに先端が少し透明だった。
「よく探さなくても、結構ある。好きなだけ拾って持って帰っていいよ。たまに、シトリンとかローズクォーツも見つけられるし、ポイントになってるのもあるっちゃある」
ポイント。水晶と聞いてかなりの人が思い浮かべるだろう、六角柱。
「あなたのお家のものなのに、勝手にもらって帰っていいの? 」
「大丈夫。小さいものだし。父親は、歩道の掃除と、バイヤーさんが大きな石を買いに来た時しか入らないし、そもそも原石の棚卸しなんて出来ないから。そのままポケットに入れたくなければ、これに包んで」
紺野みずかはスカートのポケットから、緑色のギンガムチェックのハンカチを出して差し出した。
「全然使ってないから大丈夫。今はどこも、ペーパータオルだもんね」
紺野みずかは楽しそうで、学校での態度が嘘みたいに饒舌だった。ほのかな笑みを浮かべてもいた。端だけが淡く桜色に染まったソメイヨシノの花弁のようなその表情が素敵で、見惚れてしまった。
原石のような人なのだ。磨けばすごく綺麗になる。
「使ってないのを、汚したら悪いから......ポケットに入れるから大丈夫」
「そう」
紺野みずかはあっさりハンカチを引っ込めた。そして平坦な岩に腰を下ろした。
「この岩も原石だよ。鑿とハンマーがあれば、割って見せられたんだけど」
「そうなんだ。ふつうの岩みたいなのに」
「だよね。どうぞ、原石採集を始めて」
「......うん」
わたしはコンテナにリュックと一緒に入れておいた麦茶を一口飲み、地面をくまなく見つめた。そうしながら、考えた。この山は水晶の原石の採集場で、水晶細工の会社の人が石を買いに来る。それが紺野みずかの家の生業なのかは分からないが、恐らく暮らしに困ることはないだろう。
それなのに、紺野みずかの持ち物の貧相さは何だろう。ハンカチは可愛かったけれど。
けれどもそんな疑問を抱きながらも、わたしは原石を見つけては喜んではしゃいでいた。
紺野みずかが言った通り、白い石英質の先端が黄水晶......シトリンになっている物もあったし、煙ったような半透明の原石もあった。煙水晶......スモーキークォーツだ。小さなポイントの塊もあった。
こんなに見つけられるなんて。
「デンドリティッククォーツもあるかな」
「もっと奥に行ったら、ある可能性は高い。でも危ないよ。猿や鹿がいるし、猪だっていないとは言えないからね。山を囲んでる柵は、害獣除けでもあるの」
「見たことあるの? 猿とか鹿」
「夜になると、鹿がキューキュー鳴いてる。猿は一度だけ、高い木に登ってるのを見た」
「でもあなた、そこまで奥に行ったってこと? そこで、デンドリティッククォーツを見つけたってこと? 猪だっているかも知れないのに?」
「そう」
「何でそんな危ない所に行ったの? 」
「......」
紺野みずかは脚をパタパタ動かして、その動きを眺めるように目を伏せた。
「デンドリティッククォーツを見つけたかったの? 」
「見つけたのは偶然。去年の秋だった。最初は普通の水晶だと思ったんだけど、中に何かあるって気付いて。......だから......」
「だから......? 」
わたしの鸚鵡返しの問いに、紺野みずかは答えなかった。何度か瞬きをして、わたしの視線を避けるように俯いた。
わたしは頭の中を整理した。わたしが紺野みずかに訊きたかったのは、危険だと分かっているのにどうしてわざわざ行ったのかと言うことだった。デンドリティッククォーツを見つけたかったのなら話は分かる。だけど紺野みずかは、そういう理由で危険なところに行ったのではない。
何か思うところがあって危険な場所に入った。すると偶然、デンドリティッククォーツをみつけた。だから......だから?
人がわざわざ危険な場所に向かう理由って、何があるだろう?
唐突に、以前ネットの事件系の動画で聴いたことがある事件を思い出した。
熊の牧場に入って、熊に襲われる形で自死した人の事件。
まさか、紺野みずかも――死にたかった?
「――どう?結構集められた? 」
顔を上げてそう言った紺野みずかは、立ち上がってわたしに近づいた。
「......うん。こんなに」
「あ、ルチルがある。すごいじゃん」
紺野みずかはわたしの掌の上にある原石の中で、金色の針のようなものが入った石を指さした。わたしも、見つけた瞬間歓喜の叫びを上げそうになった石だ。
「ルチルも、なかなか見つけられないよ。運が良かったね」
「そうだよね。紺野さんのおかげ。ありがとう」
「もう良さそう? 夜に近づけば近づくほど危ないから、そろそろ出た方がいい」
「ローズクォーツ、見つけたかったけど」
「......危ないよ」
ちょっと図々しいことを言ってしまっただろうか。紺野みずかの素っ気ない返答を聞いて、わたしは思った。でも出してしまった言葉は取り消せない。
紺野みずかに素直に従って山を出た。施錠を確認した後、折りたたんだコンテナを小脇に抱えた紺野みずかは、問わず語りに話し出した。
「あのデンドリティッククォーツね。見つけた時、すごく嬉しかった。滅多に見つけられないものだから。何だか、まだいなさいって言われたような気がしたの」
いなさいって、どこに?
見つけた場所に?それともこの世界に?
浮かんだ疑問を、しかしわたしは口に出せなかった。代わりにこんな言葉を出した。
「神様みたいな存在から何か言われたような気持ちになる事って、あるよね。特別なことがあった時って」
「......うん」
数瞬の沈黙の後、紺野みずかは頷いて、話を続けた。
「それで山を出て、その足で、うちと取引がある水晶の加工所に行って、お尋ねしたの。これを研磨してキーホルダーにしてもらうなら、工賃は幾らぐらいになるのかって。加工所の社長さんも出てきて、鑑てもらったら結構いい石だって。そして、あたしが取引先の娘だからか、千円で加工してくれたの」
「それって安いの? 」
「国産のいい石なら、千円では無理でしょうね。サイズが大きければもっとかかる」
「ふうん......」
本当は、こんなことを言いたいんじゃない。紺野みずかだって、そんな話をしたいのではないだろう。いや彼女は話そうとしたのかも知れない。
話を曲げた方向に押しやったのはわたしだった。
紺野みずかは玄関先にコンテナを置いた。
「小城さんのお家、何町? 」
「......K町」
「バスで帰った方が良くない? バス停まで送るよ」
学校からここまでも結構遠かったのを思い出した。自宅に帰るには、それよりもっと長い距離を歩かなければいけないのだった。
「そうね。そうする」
「うん」
「お邪魔しましたって、お家の人にお伝えしておいてくれる? 」
「そんなちゃんとしなくていいよ。そんなの気にしない人だから」
少し斜に構えた微笑みを見せて、紺野みずかは言った。家までお邪魔しているのに、彼女の親にしろ、いるのなら兄弟姉妹にしろ、家族と言うものの気配が全く感じられないのが不思議だった。紺野みずかが、何となく邪険な言い方をしたことも。
シャツの胸ポケットに入れた原石たちが、擦れ合って小さな音を立てた。
五分ぐらい歩くとバス停についた。時刻表を見ると、いくらも待たないうちに、わたしが住む町の最寄りのバス停を経由するバスが到着する頃だった。
例え待ち時間があったとしても、わたしは紺野みずかといるのが気詰まりで、彼女に帰ってもらったに違いない。自分から声をかけて、原石まで拾わせてもらった癖に。
気詰まりしそうだと思ったのは、紺野みずかへの嫌悪感なんかではなく、触れてはいけない領域に触れてしまいそうで怖かったからだけど。
「そんなに待たなくて済みそうで良かった」
紺野みずかは呟いて、「ねえ、小城さん。」と続けた。
「明日からも、今まで通り、あたしのことは空気扱いでいいから」
「え? 」
「今日みたいなことがあって、明日からあたしに変に気を遣ってくれるかも知れないけど、あたしのことは気にしないで。その方があたしも楽なの」
紺野みずかはまっすぐわたしを見つめて言った。本当にそうして欲しいのだと、全体の雰囲気で伝わった。
明日から紺野みずかにどう接するかなんて考えてもいなかった。けれども、怖れる気持ちもありながら、一方で、もしかしたら今後少し関係性が良くなるかも知れないと期待していた部分もあった。このことに気付かされた。
ヘッドライトを点けたバスが近付いてきた。
「じゃあ、あたしはこれで。気を付けて」
紺野みずかはわたしの返事を待たずに踵を返した。
わたしはどんな表情をしていただろう。
言葉に出来ないもどかしい思いを紛らわすように、襟に結んだ制服のリボンに手をやって弄った。バスが停まり、プシューッと音を立ててドアが開いた。
席は結構空いていて、わたしは二人掛けの席の窓際に腰を下ろした。
――原石の小山の中で、紺野みずかは確かに、その心の裡を覗かせてくれた。いつも包み隠している心の中を。わたしになら明かしてもいいと思ってくれたのだ。でもわたしは、逸らした。逸らさなければ彼女はもっと何かを覗かせてくれたのだろう。
逸らされたことを、紺野みずかも感じ取った。そして、わたしには自分の内包するものを受け止められないと判断した。
こうなるしかなかったと思う。
心の裡を明かされたところで、きっとわたしには何も出来ない。
紺野みずかも、わたしに期待し過ぎてしまいそうなのが不安で、自分から断ち切る事を選んだのかも知れない。
胸ポケットが急に重たく感じられた。
この重さが今の自分には合ってる。
そう思えた。
紺野みずかとの交流は、本当にそれきりだった。
三年生になるとクラスも別れた。
その年の秋、紺野みずかの母親が自殺したことを聞いた。噂好きの保護者や生徒はいるものだ。ずっと精神的な病気を患っていて、紺野みずかがいわゆるヤングケアラーであったこと、彼女の母親が彼女をほとんど構わなかった、いや構えなかったこと、更には不安定な精神の捌け口にしていたことなど、色々耳に入ってきた。それだけ噂が回ったのは、同級生の誰もが、紺野みずかと言う存在を敬遠していながら、実は興味津々でもあったからだと思う。
それでも紺野みずかは変わらなかった。
そのままわたしたちは中学校を卒業した。
紺野みずかの進路先は、わたしは敢えて知ろうとしなかった。あの時だけ進んだ道が交差した相手。それで良かった。
それでも机の引き出しの奥で、あの時の原石たちが小さな赤いビロードの巾着袋に眠っている。これからも取っておくのか、いずれ手放す気持ちになるのか分からない。まだそれを決める時期ではないと思う。あの小山での時間を記憶の端に置いておきたい、こんな気持ちがまだあるうちは。