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協定違反の末の疑問、互いの立場を尊重した結果

2036年6月7日 午後12時02分

 天空てんくうに《炎天》を使用させたことで、監督役であった伏見ふしみに厳重注意を受けた狗飼いぬかいは、校舎外周の走り込みを命じられていた。

「つらい、つらいよぉ」

 魔力を使用しての走り込みであれば、何の苦もなくマラソン選手以上の記録を出せる狗飼いぬかいであるが、現在は伏見ふしみから魔力の使用を禁じられている。愚痴をこぼす狗飼いぬかいを、隣で並走する天空てんくうが見張っていた。

「お嬢様、まだ走り出してから5分です」
「そうはいってもさぁ。わたくしってば、肉体労働って苦手じゃない?」
「それをわかっているから、伏見ふしみ先生は走り込みを命じられたのでは?」
「もぉぉぉ、やだぁぁぁ」

 己の境遇を嘆く狗飼いぬかいに対して、一切容赦をしようとしない天空てんくうは、隣で走る速度を徐々に上げる。

「待って、天空てんくう。待って待って」
「何でしょう、お嬢様? 授業終了まではまだ時間があるとはいえ、校舎外周を三周するのですから、ある程度急ぎませんと」
「死ぬんだよ? 人間はそんな速度では走り続けられないの」
「死にません。人間の可能性に蓋をしているのは、お嬢様です」
「やぁだぁ。つらいぃぃ」
「とはいえ、そうですね。そういわれては従者としては応えないわけにはいかないでしょう」
「え!? 見逃してくれるの?」

 天空てんくうの思わぬ言葉に、狗飼いぬかいの顔がぱっと輝く。

「登下校時に走り込みをしましょう。慣れてしまえば、苦にならないはずです」
「脳筋っ!! 発想が脳筋のそれだよ! 期待して損した! 返してっ! わたくしの期待!」
「そうですか、残念です。では処置なしですので、文句言わずに走りましょう。そうですね、一周15分として45分――つまり、12時50分までに完走できなければ、登下校時の走り込みを追加ということで」
「やめてよ! あれ? 冗談だよね? 天空てんくうってば優しいもんね?」
「......」
「否定してっ!?」
「この天空てんくうは優しくはありません」
「そっちは肯定してほしかったぁぁ!!」
「まだ話すだけの余裕があるとは、さすがはお嬢様――」
「ちぃがぁうぅ!! わたくしは――ってどしたの、天空てんくう?」

 狗飼いぬかいに並走していた天空てんくうは、その視線を彼女から外し、虚空を眺めていた。

「天空てんくう?」
「お嬢様。この天空てんくう、少々用事ができました」
「ふぅん。送ろうか?」
「はい。体育館の入り口前までお願いします」
「体育館? なんで、また? ――《天空召喚》」

 天空てんくうの奇妙な注文を狗飼いぬかいは疑問に思ったものの、すぐさま天空てんくうだけしか通り抜けることのできない召喚門を展開した。

「では、お嬢様。あと43分ですので、お忘れなきよう」
「あっ、そっちは継続してるのね」
「何かあればお呼びください。眼は残しておきますので」
「......サボるなってことぉ?」
「はい」

 天空てんくうはニッコリと微笑んでそう告げると、門を通り、狗飼いぬかいの前から姿を消した。

 2036年6月7日 午後12時07分

「待った」

 体育館に向かっていた天乃あまのは、腕を引く遊上ゆがみと手を握る英莉えりを呼び止め、体に力を入れる。天乃あまのが足を止めたのは、目の前の空間から魔力の反応があったからだ。まるで門のような形だと天乃あまのは思った。
 遊上ゆがみは天乃あまのが急に力を入れたことでバランスを崩したが、すぐに持ち直した。英莉えりは天乃あまのの声を聞いた直後に立ち止まり、正面の空間を見据えている。

 三人が見守る中、空間が歪み、中空から一人のメイド姿の女性が現れた。

「メイド?」
「あれは天空てんくうちゃんね。狗飼いぬかい朱音あかねって子が使役している召喚体よ」

 訝しむ天乃あまのに対し、遊上ゆがみはこっそりとその名前を告げた。天乃あまのは視線を天空てんくうに合わせる。
 天乃あまのの魔眼で見る限り、天空てんくうの魔力は一定の周期で揺らぎが発生しており、身体から離れた魔力が空中に滞留し、まるで彼女の周囲を覆うように旋回するなど奇妙な動きをしていた。

(なんだ? あの不規則な魔力の動き。召喚体特有の何かか? 攻撃の兆候には見えないけど、気になるな)



 天空てんくうを覆う魔力の層は、彼女が知る天乃あまのに対する最大限の対策を講じた結果であったのだが、天乃あまのが召喚体を見るのはこれが初めてであるため、そのように勘違いしたのである。

「......少々、予想外です」

 いつまで経っても緊迫した空気にならないことに疑問を覚えた天空てんくうは、油断することなく天乃あまのを見据えつつも、考えを改める必要性に気付く。天空てんくうの認識では、ここが戦場となってもおかしくはなかったのだ。
 だが天乃あまのからは敵意が全く感じられず、拍子抜けしたのである。それでも、状況を把握するために対話から入れるというのは、天空てんくうとしては願ったり叶ったりであった。

「何か用か? わっちらはこれでも急いでおるのじゃが」

 天空てんくうに初めに声をかけたのは、英莉えりであった。道を塞ぐように現れた天空てんくうに何らかの意図があることは察しているが、それが不明なため、とりあえず問い掛けたのだ。

「......いえ、なんといいますか。そう、ですね。なんと問うたものでしょうか」

 天空てんくうは、天乃あまののそばにいる英莉えりと遊上ゆがみを見て逡巡した後、少し呆れたような様子で口を開く。

「天乃あまの様は、この天空てんくうの忍耐を試しておいでなのですか?」

 英莉えりの問いに対し、天空てんくうは迂遠だとは思いつつも天乃あまのに質問を返した。もっとも、この場でそれに答えられる者はいなかったのだが。

「回りくどすぎて何を言わんとするのか、さっぱりわからん。わかるか、主殿?」
「いや、さっぱりだ。だが、わかったこともある。この人が例の視線の一つだよ」

 例の視線とは、休憩時間に天乃あまのを見張っていた監視のことである。

「ほお、こやつがのぉ」

 訝しげに英莉えりが天空てんくうを見遣る中、天空てんくうは噛み合わない会話に本格的な疑問を抱き始めていた。

「天乃あまの様、少々お尋ねしたいことがあります」
「待ってほしい」

 天空てんくうが疑念を口にする前に、天乃あまのはそれを止める。

「先に言っておくことがある。多分、その方が混乱しない。オレは、記憶喪失だ。今年の5月以前の記憶が一切ない。ここまでは大丈夫か?」
「――なるほど。............なるほど」
「アンタはオレを知ってるみたいだけど、オレはアンタを知らない。その上で、質問があるなら聞くぞ?」

 天空てんくうはしばらく黙考してから口を開いた。

「わかりました。この天空てんくうは、天乃あまの様の立場を尊重します」
「それはどうも」
「そのうえで、いくつか訊きたいと思います。まずは、前提から。ここには何用で?」
「授業だよ。四限は見学なんだ」
「協定のことは?」
「何のことだ?」
「――なるほど、覚えているはずもなし、ですか。では、もう一つ。なぜこの20分ほどでしょうか――位置情報を偽装されていたのでしょう?」
「......身に覚えのない話だ」

 天空てんくうはそれだけ問うと、再び黙考する。

「わかりました、天乃あまの様。先ほどの天乃あまの様のお話を前提とすると、こうなります。天乃あまの様は、今年の5月以前の記憶を失った。その結果、今年の4月にこの天空てんくうとの間で結ばれた協定の存在を忘却した。
 その協定の内容は、天乃あまの様が月初めの魔術実習の見学に訪れないことを条件に――この天空てんくうが天乃あまの様に危害を加えないというものです。天乃あまの様は、その協定を忘却したために、この時間に体育館にやってきてしまった。ここに矛盾はありません。なにせ、記憶を失った天乃あまの様は協定のことなど知らないわけですから、授業のカリキュラムに従ってここを訪れることをどうして責められましょうか」
「なんなんだ、その変な協定は? 互いに、何のメリットがあるんだ?」
「――そう、記憶を失っているから、この協定の価値もわからない。ええ。問題ありません。天乃あまの様の立場を尊重しますとも。
 次です。これは、客観的な証拠が存在するわけではありませんので、あくまで、この天空てんくうの視点からみた事実ということでご容赦ください。そう、次は天乃あまの様にこの天空てんくうの立場を尊重して頂きたいのです」

 そう言って天空てんくうは言葉を切った。天乃あまのが無言で頷くと、天空てんくうは続きを話し始める。

「まず、記憶喪失であるという天乃あまの様の立場を尊重するのであれば、前提としていくつか説明しなければなりませんね。この天空てんくうは、先の協定に基づき、この学校にいる間、天乃あまの様の位置情報を把握してもよいという許可を天乃あまの様より頂いておりました。これは、不意の遭遇を回避するためです。同じ校舎内にいる以上、予期せぬ接触はあり得ることですからね。この天空てんくうがさりげなく誘導すれば、そのような接触は避けられます」
「それが監視魔術ってこと?」

 そう口を挟んだのは遊上ゆがみである。

「その通りです。ご挨拶が遅れましたね。その外見から察するに、お名前は『遊上ゆがみ様』で間違いないでしょうか?」
「そうよ」
「初めまして。お姉さまには、日頃より大変お世話になっております」
「......続きをどうぞ」
「そうですね、続けましょう。次に、この天空てんくうはこの学内における天乃あまの様を監視しておりました。ですので、ええ、確かに。5月末ころから昨日まで、天乃あまの様が学校を休まれていたことは、この天空てんくうも把握しております。天乃あまの様の主張とは、すなわち、この休んでいた期間に記憶を失ったということでしょうか?」
「まぁ、正確には5月29日以降の記憶しかない。昨日まで入院してたんだ」
「なるほど、確かに矛盾はしませんね。話を続けます。本日のことです。いつもの通り、この天空てんくうは天乃あまの様を監視しておりました。この天空てんくうの監視術式――『天眼てんげん』は、狙いを定めた監視対象の位置情報を取得するだけのものです。意識を向ければ目視することもできますが、常在で魔術を行使し続けるだけでも相当に消耗いたしますので、対象を目視し続けることは滅多にありません。
 ここからが、この天空てんくうの経験したことであり、客観的証拠の提示ができない部分なのですが、よろしいですか? この天空てんくうの監視術式は、天乃あまの様の位置情報を常に獲得していました。そしてその情報によると、天乃あまの様は本日午前11時50分ころ、教室から移動を開始し、学外に出て行ったのです。この時点で監視術式は、再び天乃あまの様が索敵圏内に入るまでスタンバイ状態となりました。そして先程、午後12時06分ころ、突如として監視術式が再起動し、天乃あまの様が体育館に向かっていることが判明しました。そこで、この天空てんくうは天乃あまの様の意図を問うために、こうして駆けつけてきたという次第なのですよ」
「――なるほど。............なるほど」
「お分かりいただけましたか?」

 天空てんくうが薄い笑みを浮かべ、天乃あまのに話しかける。天乃あまのの額に嫌な汗が伝う。物腰こそ柔らかいが、目の前の召喚体はいわば臨戦態勢なのだ。
 そのことを理解しているかと、天乃あまのが傍らにいる英莉えりにちらりと目を向けると、彼女は既に話に飽きてタブレットを弄っていた。

(――こいつ、本当に話が長いとすぐ飽きるな!!)

 天乃あまのが即座に反対側に目を向けると、そこにいた遊上ゆがみは話の流れは大体理解しているようだが、我関せずという感じでストレッチに励んでいた。

(こいつはこいつで逃げる気かよ)

 下手な返答は己の首を締めかねないことを理解した天乃あまのは、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「天空てんくうさんの立場を尊重するなら――」
「この天空てんくうの身は召喚体なれば、敬称は不要ですよ?」
「――天空てんくうさんの立場を尊重するなら」

 天乃あまのは敢えて天空てんくうの申し出を無視し、敬称を付けたまま言い直し、言葉を続ける。

「つまり、オレは、何かしらの目的をもって位置情報を改竄することで天空てんくうさんを欺き、協定を破って実習が行われている体育館に侵入しようとした現行犯ということだ。そして、現場を押さえられたオレは、苦し紛れに記憶喪失だという俄かには信じがたい嘘を吐いている、と。こんな感じなのかな?」
「ええ。この天空てんくうの立場を尊重して頂いて感謝いたします」

 天空てんくうの生来の性格なのか、「何か申し開きはありますか?」とは直接は尋ねられてはいないが、天乃あまのは事実、進退窮まっていた。潔白を証明する手段がないのである。
 天空てんくう風にいうのであれば、「天空てんくうの立場を尊重した結果」、彼女の視点での出来事を否定できる事実が何一つない。むろん、天乃あまのは何一つ嘘は言っていないのだが、真実こそが最も荒唐無稽であるという事実に、何も言い返せない状態が続く。
 その様子を見ていた天空てんくうは、ふと口を開いた。

「ふむ。ですが、そうですね」

 天乃あまのが言葉を発するより前に、天空てんくうが話し始める。

「この天空てんくうの知る限り、天乃あまの様は信頼に値する非常に優秀な詐欺師でいらっしゃいます。そういった意味で、決して吹けば飛ぶような軽い一時凌ぎの言葉などは口にしない方だと確信しております。故にこそ、天乃あまの様の言には、一定程度以上の真実を含むものであると推測いたします」

 天乃あまのは無言を貫き、先を促す。ここは下手に口を挟まないほうがよいとの判断である。

「そうであれば、天乃あまの様の協定破りというのは、こちらの早合点という可能性もあながち否定できません。先程、天乃あまの様がおっしゃったとおり、記憶喪失であるとの主張は些か突拍子がないものではありますが、改めて振り返ってみると、客観的事実と何ら矛盾しておらず、この天空てんくうにはそれが明確な虚偽であると断定することができないのです。ならばこそ――」
「――オレの立場を尊重するなら、ってことか?」
「ええ、この天空てんくうは初めから申しております。天乃あまの様の立場を尊重します、と。ならば、我々は今回の不幸な事故については、最悪の事態を未然に防止し得たものとして、再び手を取ることができるのではないかと。そう思う次第なのですよ」

 そう言うと、天空てんくうは天乃あまのに微笑みかけ、手を差し出した。

「つまり、今回の件は不問にするってことか?」
「ええ。その上で、協定を遵守して頂ければ、この天空てんくうとしては文句はありません。今回は不幸な事故だったということで」
「こっちもそれに異存はないよ」

 天乃あまのとしては揉め事が起こらないならそれに越したことはないので、天空てんくうの手を握り、提案に乗ることにした。

「ありがとうございます。ですが、そうなると今後、協定はいかがいたしましょうか?」
「ええっと」
「ああ、天乃あまの様の立場を尊重するのであれば、この協定に関する説明が必要ですね。なにせ記憶にないのですから。この協定の目的ですが――」
「待て、そこな召喚体」

 話をまとめに掛かろうとしていた天空てんくうに対し、英莉えりが声をかける。天空てんくうは天乃あまのの手を放し、英莉えりのほうに向き直った。

「はい? ええっと、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「そこは今は重要ではない。それより、お主には主殿の立場を尊重する心が不足しとるようじゃの」

 どうやら英莉えりはタブレットで遊んでいただけではなく、ちゃんと話も聞いていたようである。

「はて? といいますと?」
「主殿の立場を尊重した場合、一・体・誰・が・主・殿・の・位・置・情・報・の・偽・装・を・し・た・のじゃ?」
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Replica ― Amphitheatrum Ideale ―作者:根岸重玄
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協定違反の末の疑問、互いの立場を尊重した結果

2036年6月7日 午後12時02分

 天空てんくうに《炎天》を使用させたことで、監督役であった伏見ふしみに厳重注意を受けた狗飼いぬかいは、校舎外周の走り込みを命じられていた。

「つらい、つらいよぉ」

 魔力を使用しての走り込みであれば、何の苦もなくマラソン選手以上の記録を出せる狗飼いぬかいであるが、現在は伏見ふしみから魔力の使用を禁じられている。愚痴をこぼす狗飼いぬかいを、隣で並走する天空てんくうが見張っていた。

「お嬢様、まだ走り出してから5分です」
「そうはいってもさぁ。わたくしってば、肉体労働って苦手じゃない?」
「それをわかっているから、伏見ふしみ先生は走り込みを命じられたのでは?」
「もぉぉぉ、やだぁぁぁ」

 己の境遇を嘆く狗飼いぬかいに対して、一切容赦をしようとしない天空てんくうは、隣で走る速度を徐々に上げる。

「待って、天空てんくう。待って待って」
「何でしょう、お嬢様? 授業終了まではまだ時間があるとはいえ、校舎外周を三周するのですから、ある程度急ぎませんと」
「死ぬんだよ? 人間はそんな速度では走り続けられないの」
「死にません。人間の可能性に蓋をしているのは、お嬢様です」
「やぁだぁ。つらいぃぃ」
「とはいえ、そうですね。そういわれては従者としては応えないわけにはいかないでしょう」
「え!? 見逃してくれるの?」

 天空てんくうの思わぬ言葉に、狗飼いぬかいの顔がぱっと輝く。

「登下校時に走り込みをしましょう。慣れてしまえば、苦にならないはずです」
「脳筋っ!! 発想が脳筋のそれだよ! 期待して損した! 返してっ! わたくしの期待!」
「そうですか、残念です。では処置なしですので、文句言わずに走りましょう。そうですね、一周15分として45分――つまり、12時50分までに完走できなければ、登下校時の走り込みを追加ということで」
「やめてよ! あれ? 冗談だよね? 天空てんくうってば優しいもんね?」
「......」
「否定してっ!?」
「この天空てんくうは優しくはありません」
「そっちは肯定してほしかったぁぁ!!」
「まだ話すだけの余裕があるとは、さすがはお嬢様――」
「ちぃがぁうぅ!! わたくしは――ってどしたの、天空てんくう?」

 狗飼いぬかいに並走していた天空てんくうは、その視線を彼女から外し、虚空を眺めていた。

「天空てんくう?」
「お嬢様。この天空てんくう、少々用事ができました」
「ふぅん。送ろうか?」
「はい。体育館の入り口前までお願いします」
「体育館? なんで、また? ――《天空召喚》」

 天空てんくうの奇妙な注文を狗飼いぬかいは疑問に思ったものの、すぐさま天空てんくうだけしか通り抜けることのできない召喚門を展開した。

「では、お嬢様。あと43分ですので、お忘れなきよう」
「あっ、そっちは継続してるのね」
「何かあればお呼びください。眼は残しておきますので」
「......サボるなってことぉ?」
「はい」

 天空てんくうはニッコリと微笑んでそう告げると、門を通り、狗飼いぬかいの前から姿を消した。

 2036年6月7日 午後12時07分

「待った」

 体育館に向かっていた天乃あまのは、腕を引く遊上ゆがみと手を握る英莉えりを呼び止め、体に力を入れる。天乃あまのが足を止めたのは、目の前の空間から魔力の反応があったからだ。まるで門のような形だと天乃あまのは思った。
 遊上ゆがみは天乃あまのが急に力を入れたことでバランスを崩したが、すぐに持ち直した。英莉えりは天乃あまのの声を聞いた直後に立ち止まり、正面の空間を見据えている。

 三人が見守る中、空間が歪み、中空から一人のメイド姿の女性が現れた。

「メイド?」
「あれは天空てんくうちゃんね。狗飼いぬかい朱音あかねって子が使役している召喚体よ」

 訝しむ天乃あまのに対し、遊上ゆがみはこっそりとその名前を告げた。天乃あまのは視線を天空てんくうに合わせる。
 天乃あまのの魔眼で見る限り、天空てんくうの魔力は一定の周期で揺らぎが発生しており、身体から離れた魔力が空中に滞留し、まるで彼女の周囲を覆うように旋回するなど奇妙な動きをしていた。

(なんだ? あの不規則な魔力の動き。召喚体特有の何かか? 攻撃の兆候には見えないけど、気になるな)



 天空てんくうを覆う魔力の層は、彼女が知る天乃あまのに対する最大限の対策を講じた結果であったのだが、天乃あまのが召喚体を見るのはこれが初めてであるため、そのように勘違いしたのである。

「......少々、予想外です」

 いつまで経っても緊迫した空気にならないことに疑問を覚えた天空てんくうは、油断することなく天乃あまのを見据えつつも、考えを改める必要性に気付く。天空てんくうの認識では、ここが戦場となってもおかしくはなかったのだ。
 だが天乃あまのからは敵意が全く感じられず、拍子抜けしたのである。それでも、状況を把握するために対話から入れるというのは、天空てんくうとしては願ったり叶ったりであった。

「何か用か? わっちらはこれでも急いでおるのじゃが」

 天空てんくうに初めに声をかけたのは、英莉えりであった。道を塞ぐように現れた天空てんくうに何らかの意図があることは察しているが、それが不明なため、とりあえず問い掛けたのだ。

「......いえ、なんといいますか。そう、ですね。なんと問うたものでしょうか」

 天空てんくうは、天乃あまののそばにいる英莉えりと遊上ゆがみを見て逡巡した後、少し呆れたような様子で口を開く。

「天乃あまの様は、この天空てんくうの忍耐を試しておいでなのですか?」

 英莉えりの問いに対し、天空てんくうは迂遠だとは思いつつも天乃あまのに質問を返した。もっとも、この場でそれに答えられる者はいなかったのだが。

「回りくどすぎて何を言わんとするのか、さっぱりわからん。わかるか、主殿?」
「いや、さっぱりだ。だが、わかったこともある。この人が例の視線の一つだよ」

 例の視線とは、休憩時間に天乃あまのを見張っていた監視のことである。

「ほお、こやつがのぉ」

 訝しげに英莉えりが天空てんくうを見遣る中、天空てんくうは噛み合わない会話に本格的な疑問を抱き始めていた。

「天乃あまの様、少々お尋ねしたいことがあります」
「待ってほしい」

 天空てんくうが疑念を口にする前に、天乃あまのはそれを止める。

「先に言っておくことがある。多分、その方が混乱しない。オレは、記憶喪失だ。今年の5月以前の記憶が一切ない。ここまでは大丈夫か?」
「――なるほど。............なるほど」
「アンタはオレを知ってるみたいだけど、オレはアンタを知らない。その上で、質問があるなら聞くぞ?」

 天空てんくうはしばらく黙考してから口を開いた。

「わかりました。この天空てんくうは、天乃あまの様の立場を尊重します」
「それはどうも」
「そのうえで、いくつか訊きたいと思います。まずは、前提から。ここには何用で?」
「授業だよ。四限は見学なんだ」
「協定のことは?」
「何のことだ?」
「――なるほど、覚えているはずもなし、ですか。では、もう一つ。なぜこの20分ほどでしょうか――位置情報を偽装されていたのでしょう?」
「......身に覚えのない話だ」

 天空てんくうはそれだけ問うと、再び黙考する。

「わかりました、天乃あまの様。先ほどの天乃あまの様のお話を前提とすると、こうなります。天乃あまの様は、今年の5月以前の記憶を失った。その結果、今年の4月にこの天空てんくうとの間で結ばれた協定の存在を忘却した。
 その協定の内容は、天乃あまの様が月初めの魔術実習の見学に訪れないことを条件に――この天空てんくうが天乃あまの様に危害を加えないというものです。天乃あまの様は、その協定を忘却したために、この時間に体育館にやってきてしまった。ここに矛盾はありません。なにせ、記憶を失った天乃あまの様は協定のことなど知らないわけですから、授業のカリキュラムに従ってここを訪れることをどうして責められましょうか」
「なんなんだ、その変な協定は? 互いに、何のメリットがあるんだ?」
「――そう、記憶を失っているから、この協定の価値もわからない。ええ。問題ありません。天乃あまの様の立場を尊重しますとも。
 次です。これは、客観的な証拠が存在するわけではありませんので、あくまで、この天空てんくうの視点からみた事実ということでご容赦ください。そう、次は天乃あまの様にこの天空てんくうの立場を尊重して頂きたいのです」

 そう言って天空てんくうは言葉を切った。天乃あまのが無言で頷くと、天空てんくうは続きを話し始める。

「まず、記憶喪失であるという天乃あまの様の立場を尊重するのであれば、前提としていくつか説明しなければなりませんね。この天空てんくうは、先の協定に基づき、この学校にいる間、天乃あまの様の位置情報を把握してもよいという許可を天乃あまの様より頂いておりました。これは、不意の遭遇を回避するためです。同じ校舎内にいる以上、予期せぬ接触はあり得ることですからね。この天空てんくうがさりげなく誘導すれば、そのような接触は避けられます」
「それが監視魔術ってこと?」

 そう口を挟んだのは遊上ゆがみである。

「その通りです。ご挨拶が遅れましたね。その外見から察するに、お名前は『遊上ゆがみ様』で間違いないでしょうか?」
「そうよ」
「初めまして。お姉さまには、日頃より大変お世話になっております」
「......続きをどうぞ」
「そうですね、続けましょう。次に、この天空てんくうはこの学内における天乃あまの様を監視しておりました。ですので、ええ、確かに。5月末ころから昨日まで、天乃あまの様が学校を休まれていたことは、この天空てんくうも把握しております。天乃あまの様の主張とは、すなわち、この休んでいた期間に記憶を失ったということでしょうか?」
「まぁ、正確には5月29日以降の記憶しかない。昨日まで入院してたんだ」
「なるほど、確かに矛盾はしませんね。話を続けます。本日のことです。いつもの通り、この天空てんくうは天乃あまの様を監視しておりました。この天空てんくうの監視術式――『天眼てんげん』は、狙いを定めた監視対象の位置情報を取得するだけのものです。意識を向ければ目視することもできますが、常在で魔術を行使し続けるだけでも相当に消耗いたしますので、対象を目視し続けることは滅多にありません。
 ここからが、この天空てんくうの経験したことであり、客観的証拠の提示ができない部分なのですが、よろしいですか? この天空てんくうの監視術式は、天乃あまの様の位置情報を常に獲得していました。そしてその情報によると、天乃あまの様は本日午前11時50分ころ、教室から移動を開始し、学外に出て行ったのです。この時点で監視術式は、再び天乃あまの様が索敵圏内に入るまでスタンバイ状態となりました。そして先程、午後12時06分ころ、突如として監視術式が再起動し、天乃あまの様が体育館に向かっていることが判明しました。そこで、この天空てんくうは天乃あまの様の意図を問うために、こうして駆けつけてきたという次第なのですよ」
「――なるほど。............なるほど」
「お分かりいただけましたか?」

 天空てんくうが薄い笑みを浮かべ、天乃あまのに話しかける。天乃あまのの額に嫌な汗が伝う。物腰こそ柔らかいが、目の前の召喚体はいわば臨戦態勢なのだ。
 そのことを理解しているかと、天乃あまのが傍らにいる英莉えりにちらりと目を向けると、彼女は既に話に飽きてタブレットを弄っていた。

(――こいつ、本当に話が長いとすぐ飽きるな!!)

 天乃あまのが即座に反対側に目を向けると、そこにいた遊上ゆがみは話の流れは大体理解しているようだが、我関せずという感じでストレッチに励んでいた。

(こいつはこいつで逃げる気かよ)

 下手な返答は己の首を締めかねないことを理解した天乃あまのは、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「天空てんくうさんの立場を尊重するなら――」
「この天空てんくうの身は召喚体なれば、敬称は不要ですよ?」
「――天空てんくうさんの立場を尊重するなら」

 天乃あまのは敢えて天空てんくうの申し出を無視し、敬称を付けたまま言い直し、言葉を続ける。

「つまり、オレは、何かしらの目的をもって位置情報を改竄することで天空てんくうさんを欺き、協定を破って実習が行われている体育館に侵入しようとした現行犯ということだ。そして、現場を押さえられたオレは、苦し紛れに記憶喪失だという俄かには信じがたい嘘を吐いている、と。こんな感じなのかな?」
「ええ。この天空てんくうの立場を尊重して頂いて感謝いたします」

 天空てんくうの生来の性格なのか、「何か申し開きはありますか?」とは直接は尋ねられてはいないが、天乃あまのは事実、進退窮まっていた。潔白を証明する手段がないのである。
 天空てんくう風にいうのであれば、「天空てんくうの立場を尊重した結果」、彼女の視点での出来事を否定できる事実が何一つない。むろん、天乃あまのは何一つ嘘は言っていないのだが、真実こそが最も荒唐無稽であるという事実に、何も言い返せない状態が続く。
 その様子を見ていた天空てんくうは、ふと口を開いた。

「ふむ。ですが、そうですね」

 天乃あまのが言葉を発するより前に、天空てんくうが話し始める。

「この天空てんくうの知る限り、天乃あまの様は信頼に値する非常に優秀な詐欺師でいらっしゃいます。そういった意味で、決して吹けば飛ぶような軽い一時凌ぎの言葉などは口にしない方だと確信しております。故にこそ、天乃あまの様の言には、一定程度以上の真実を含むものであると推測いたします」

 天乃あまのは無言を貫き、先を促す。ここは下手に口を挟まないほうがよいとの判断である。

「そうであれば、天乃あまの様の協定破りというのは、こちらの早合点という可能性もあながち否定できません。先程、天乃あまの様がおっしゃったとおり、記憶喪失であるとの主張は些か突拍子がないものではありますが、改めて振り返ってみると、客観的事実と何ら矛盾しておらず、この天空てんくうにはそれが明確な虚偽であると断定することができないのです。ならばこそ――」
「――オレの立場を尊重するなら、ってことか?」
「ええ、この天空てんくうは初めから申しております。天乃あまの様の立場を尊重します、と。ならば、我々は今回の不幸な事故については、最悪の事態を未然に防止し得たものとして、再び手を取ることができるのではないかと。そう思う次第なのですよ」

 そう言うと、天空てんくうは天乃あまのに微笑みかけ、手を差し出した。

「つまり、今回の件は不問にするってことか?」
「ええ。その上で、協定を遵守して頂ければ、この天空てんくうとしては文句はありません。今回は不幸な事故だったということで」
「こっちもそれに異存はないよ」

 天乃あまのとしては揉め事が起こらないならそれに越したことはないので、天空てんくうの手を握り、提案に乗ることにした。

「ありがとうございます。ですが、そうなると今後、協定はいかがいたしましょうか?」
「ええっと」
「ああ、天乃あまの様の立場を尊重するのであれば、この協定に関する説明が必要ですね。なにせ記憶にないのですから。この協定の目的ですが――」
「待て、そこな召喚体」

 話をまとめに掛かろうとしていた天空てんくうに対し、英莉えりが声をかける。天空てんくうは天乃あまのの手を放し、英莉えりのほうに向き直った。

「はい? ええっと、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「そこは今は重要ではない。それより、お主には主殿の立場を尊重する心が不足しとるようじゃの」

 どうやら英莉えりはタブレットで遊んでいただけではなく、ちゃんと話も聞いていたようである。

「はて? といいますと?」
「主殿の立場を尊重した場合、一・体・誰・が・主・殿・の・位・置・情・報・の・偽・装・を・し・た・のじゃ?」
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Replica ― Amphitheatrum Ideale ―作者:根岸重玄
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