白詰草
君は紛れもなく見返り美人だった。その後ろ姿にだけ心は一切の留守を許した。刹那に現れる艶めかしさを白詰草という名前に隠し、心の中に置いた。靴を履き左の踵を覗き込むように君が身を捩るとき、魔性は顕わになった。
浴衣なら、雪駄なら、素足なら。君の装いをくまなく想像した。
でもやはり、真っ白いスニーカーに汚れがついているのではないかと覗き込む姿が別嬪だった。
必ず真っ白いパーカーを着込んで、緑色の字がある胸元をかすかに覗かせるのだ。ヘッドホンを首元に下げていた。身を捩るたびに短い髪は、はらはらりと揺れた。
眼は円ら。注ぐ目差しはきりりとしていた。
眦に黒子があった。足元は白く、唇は赤かった。
ここまで語りながら俺は、恋心というものを持ち合わせているつもりはなかった。
妖艶な美しさの虜になった。ただ、それだけ。美術的な魅了のはずだった。
でも、君を艶めかしいと認めてしまったときから運命は、きりきりくるりと舞い始めていた。
今年、君と東京の美容室で再会を果たした。
俺は客として、君はスタイリストとして。予約した時点で君の名前は分かっていたはずなのに、気づけなかった。
かつて、坂上由香という女性は三重の高校生で、髪はショートヘアだった。また、俺も同じ高校だった。
髪長く麗しい女性に変貌した君を、同姓同名の他人と解釈した。昔の君はどこか、物憂げなところがあったのに、今や陰りは微塵もなかった。
いくら観察しても名残りはない。だから人違いなのだと思った。
そんな初対面のような接し方だったためか、君は会計のときに、
「楠木くん。もしかして、まだ気づいていないの?」
と告げられた。これは再会だった。君は俺を憶えていたのか。なら、最初から教えてくれればよかったのに。
俺は嘘偽りなく、
「気がつかなかったよ。だって凄い変わったから。それにしても、髪が伸びたね」
と投げかけた。
「でしょ、ありがとう。結構自慢なの」
と、君は穏やかに返した。
綺麗になった。とても美人で、大人になった。まるで金銀のように光っていた。万遍なく四方へ。
でも俺は、金銀のような輝きに惚れたのではなかった。昔の君は、草木が帯びた露みたいだった。これが時折、きらりと光った。
それが、四葉を見つけるようで何よりも幸せだった。君の後ろ姿こそ幸いだった。
別れ際、
「楠木くん。また今度、会いましょ」
と愛想よく君は笑った。デニムパンツと白いTシャツという出で立ち。なのに、クリムトの描いた女のように煌びやか。
ヘッドホンを首から下げていた頃の君に余計に会いたくなった。あまりにも別人だったから。
その夜、雷鳴を聞いた。のち、雨音を。いわゆるゲリラ豪雨だ。
この雨に古風な名前を付けてみようと不意に考え始めた。偏に、君のことを考えるのは、夜明かしのまじないそのものだったから。
この雨は急に現れて、散々に雨を打ち付けて、頃合いを見て撤収する。
大昔の野盗みたいだから、野盗雨はどうだろう。三島なら、川端なら、芥川なら。この日本語をなんて評するだろうか。そんなことを考えながら眠った。そんな風にして枕上で君を忘れた。
三週間ほどたった夜分、メッセージが届いた。
『ちょうど連休が取れました。楠木くん、もし時間があるのなら遊びませんか?』
スタンプが一つ添えられていた。そういえば、こっそりと連絡先を交換していた。
俺には帰省する場所がない。両親は既に死んだ。だから実家も畳んでしまった。代わりの予定もない。
『俺は、ゆっくり珈琲でも飲みながら話がしたいかな』
『うんいいよ。場所はどこにする?』
少しためらったが、正直に入力した。
『銀座。ちょっと見たい店があるんだ』
『わかった! いいよ!』
その後のやり取りで、お互いに都合のつけやすい八月十日の十一時に、有楽町駅の改札前で待ち合わせをすることを決めた。スタンプに、絵文字に、言葉遣い。久しぶりに彩りのあるやり取りをした。
スマホを傍らに置く。たった一人の空間へ、たった一つ、呟いた。
「白詰草」
君の姿につけた名前だった。
かつてこの言葉に君の姿を隠した。その姿が四葉のクローバーのように幸せをもたらすと信じて。
もう一度、
「白詰草」
と口にした。
見知る人が、かつてより美しくなったことで、喪失の憂いを抱えることになるとは思いもしなかった。俺が美しいと思ったものは絶え果てた。
きっと君は、君が抱く美しさを求めたのだろう。あらゆる人間は一所懸命に生きている。だから、君は自分の場所のために美しくなった。
きっと、そうなんだろう。
所詮、俺の美意識は他人の我儘だ。
眠気で意識が落ちそうになったとき、この夜に強い雨足を聞いた。紛れもなく野盗雨の襲来だった。
八月十日。九時半と早めに到着したが、既に酷暑だっだ。
空いていた店に入り、考えごとをした。ひたすら考えた。
君に会うまでの時間。これは君の変化に思い巡らす時間だ。どうして? という言葉を多用する時間でもある。
俺には彼女の変化が理解できなかった。
ありのままでいて欲しかった。
金箔を贅沢に使った美術品のようになって欲しくはなかった。たとえ、かつての君が簡素な木でできた日用品だったとしても、自然体であって欲しかった。時折光るくらいが別嬪だった。
君ならば既に、齢十八を一つの体に押し込めたあの姿が、俺を揺り動かす美だった。
短髪でも、パーカーでも、スニーカーでも。君の姿のせいで心は騒がしかった。本当に、ヘッドホンがとても似合っていた。朝露が刹那、輝き落ちるかのように君は振り返った。その刹那が一番美しかった。
君は今、どうやって音楽を聴くのだろうか。
君と約束通り落ち合ってから、別の店で話を始めた。君はアイスティーを、俺はまた珈琲を注文した。
大きな窓がいくつも並べられた店だった。高校を卒業してからの話も含めて、お互いのことを話題にした。今の仕事や趣味の話を中心にするつもりだった。
ところが話題は段々と高校生の頃へと遡り、俺は本当に苦しくなった。伝えたいことはあった。でも、口にすることは心遣いのないことだ。
けれど、昔に流行った音楽の話を君がしたせいで、ついに堪え切れなくなった。
ヘッドホンをした昔の君をありありと思いだした。
後ろ姿もさることながら、ヘッドホンをしてぼんやりと空を仰ぐ横顔を、今まで思い出せなかった角度からの君を思い出した。
君は紛れもなく意中の人だった。
故に言葉が零れた。
「昔みたいに髪をさ、ショートにしないの? すごい、似合ってたんだよ」
髪の長さと美人図。
何もかも塗り替えられた君の要素の中で何故、俺は髪を取り上げたのか。根拠が不明瞭だ。
でも、今の洗練された君の中でも長髪は一等品の宝石みたいだった。
まるで、この先の人生で常にカメラが回っていることを意識して生きる女優のようでもあった。演じ続けて死ぬ。
君の花は土の遥か上では咲かないのに。
全ての植物に花が咲くわけではない。でも、花が咲かないからといって劣等ではない。
「今の私は、似合ってないかな?」
君の言葉に首を横へ振った。
「すごく綺麗だよ。美術館の絵みたい。でも、高校のときの、ショートヘアだった君を後ろから見ていると白詰草みたいだった」
「白詰草って?」
俺は君に説明をしようとして、日陰に置いた言葉を日向に引っ張り出した。
俯きをやめて顔を上げた。結果、まじまじと君の顔を見つめている。
眼は円ら、眼差しはきりり、眦には黒子、唇には真っ赤な口紅。
白状しなければならない。
「四葉のクローバーみたいに幸運の象徴だった、瑞々しかった。姿を追うたびに、美しい人から好きな人になっていた。でも好きになった君は、今の君とは違うんだ」
人の言葉は、いつか思わぬ方向へ流れ出てしまう。眼前の君に、俺は告別したのだ。
すると、君から言葉が紡がれた。
「楠木く」
ためらい、かぶりを振り、のち君は紡ぎ直した。
「渉くん。私のことが好きだったの?」
俺は短く頷いた。君は俯いた。無言に俺は耳を傾けた。
「私ね、あの頃は自分のことをダサい女だと思ってた。それで高校を卒業した後、私が名古屋の専門学校に行っているとき、渉くんは東京の大学へ行ってしまった。私は今の話を奇妙に思うの」
彼女はアイスティーを一口含んだ。
「不思議なの。私あなたが好きで告白されることを待っていた。でも、あなたに振り向いて欲しかったのに何もしなかった。聞く限り、ちゃんと伝えればきっとうまくいったのに」
俺は軽蔑されるだろうと思ったのに。寝耳に水だ。
「臆病で失敗した昔の自分が嫌いだった。とにかく反対側になろうとした。服装を変えた。社交性を磨いた。東京で就職した。髪を伸ばした。そして私は全てを改めて、あなたに話しかけた。でも裏目に出た。それが奇妙なの」
君は押し黙って俺を見つめる。
「今、渉くんは馬鹿だった昔の私を幸運の象徴と呼んでくれた。ならそれでいい、いいの」
円らな瞳で問われる。
「ショートヘアが、好きなんでしょ?」
ここまで来てお世辞は禁句だ。
「一番似合ってます」
と告白した。
「だったら」
君は少し前のめりになって、
「きっと、あなたと出会うために長い髪が必要だっただけなんだと思う。そう思えばいい。短い髪であなたと一緒にいられるのなら、私はこの髪を切っても構わないから」
突然のあまり、君が大きく身を乗り出したことに反応できなかった。
気付けば、〇・五秒の口付けのあと。
君は何事もなかったかのように席に着いた。
「だからショートになっても驚かないでね」
外は激しく雨が降っていた。だから、お互いに店を飛び出すようなことはなかった。
や、から始まる雨だった。
銀座を選んだ理由を君に打ち明けると後日、俺はまたそこへ呼び出された。
君の髪は首元ではらはらりと揺れていた。先を歩く君の言い分は、
「ヘッドホン、見に行くんでしょ。行こ」
だった。
すらりと立った白詰草が目抜き通りで身を捩る。ワンピースにスニーカーの装い。
君は紛れもなく見返り美人だった。