笑顔でいる理由。
誰か来た?」
開店前の居酒屋で、店長が言った。
仕込みをしていた美里が顔を上げる。
店の入口の引き戸が、ゆっくりと開いていた。
けれど、そこには誰もいなかった。
美里はしばらく入口を見ていた。
――数週間前。
「長所は?」
面接で店長に聞かれ、美里は少し考えた。
いや、本当は考える必要などなかった。
「はい。笑顔が長所です」
「まあ、接客には向いてそうだね」
「はい。どんなことがあっても、笑顔で日々を送っています」
そう言って、美里は笑った。
店長も笑った。
それで採用になった。
働き始めて一週間ほど経った昼だった。
ランチタイムの店内は、会社員や近所の主婦で賑わっていた。
美里は、一人で来ていた年配の女性のところへ注文を取りに行った。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
女性はメニューから顔を上げ、美里を見た。
しばらく見ていた。
「なにか?」
「無理に笑うの、やめなさい」
「え?」
女性は何事もなかったようにメニューを閉じた。
「いつものちょうだい」
「......いつもの?」
厨房から店長が顔を出した。
「刺身五点盛りとお茶漬け!」
「あ、はい」
美里は伝票に書き込んだ。
「刺身五点盛りとお茶漬けですね。はい、喜んで」
女性はもう美里を見ていなかった。
数日後の学校。
教室に入ると、自分の机に紙が貼ってあった。
『八方美人』
美里は黙って剥がした。
これが初めてというわけでもなかった。
少し離れた席で、三人の女子生徒がこちらを見ながら笑っている。
今日こそは。
美里は紙を握って立ち上がった。
「あのさ」
三人のところまで歩いていく。
「なんで、こんなことするの?」
一人が眉をひそめた。
「はぁ? なに?」
「これ」
紙を見せる。
「あたしらがやったって言いたいわけ?」
「だって......」
「証拠あんの?」
「......」
周囲の何人かがこちらを見ている。
美里は紙を握りしめた。
それから、笑った。
「......ごめん。勘違い」
「ほんと感じ悪」
「ごめん、ごめん」
笑いながら自分の席へ戻った。
椅子に座る。
机の下で、紙を小さく、小さく折り畳んだ。
数日後。
「いらっしゃいませ!」
例の女性だった。
いつもの席に座る。
美里が水を持っていくと、女性はまた顔を見た。
「まだやってる」
「何がですか?」
「無理に笑うの」
「......」
「可愛いのは可愛いんだから、そんな頑張らなくてもいいのよ」
「今日のお薦め、何ですか?」
美里は話を変えた。
女性も追及しなかった。
「じゃあ、それ聞こうかしら」
「梅しそ巻き天ぷらの定食です」
「あら、美味しそう。じゃ、それ」
「はい、喜んで」
美里は伝票を書いた。
一歩離れてから、振り返った。
「私......別に無理してませんから」
女性は水を一口飲んだ。
「そう」
それだけだった。
その夜。
閉店間際の店内で、美里はテーブルを拭いていた。
厨房の方から声がする。
「店長さん、チーフマネージャーから聞いたんだけど。本当なんですか?」
「うん」
「元々、体調良くなかったんでしょう?」
「らしいな」
「心配よねえ。うちの姉が城下町中央病院の看護師なんだけど、入院してるって」
美里の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
また布巾を動かす。
聞いていない。
聞こえていない。
そういう顔でテーブルを拭いた。
数日後。
「店長」
「ん?」
「ランチのテイクアウトって、大丈夫でしたっけ?」
「ああ。金さえ払ってくれりゃ構わんけど」
美里は時計を見る。
「じゃあ、注文して取りに来ます。十五分くらいで戻りますから、準備お願いします」
「お前、今からどこ行くんだ?」
「今回の分、私の給料から引いといてください」
「いや、それはいいけど......おい、美里!」
もう美里は店を出ていた。
城下町中央病院。
病室の前で、美里は一度息を整えた。
それから扉を叩いた。
トントン。
「失礼します」
ベッドの女性が顔を向けた。
「あら」
「入院先、ここだって聞いて......すみません」
「なんで謝るのよ」
女性は少し身体を起こした。
「私、店員さん呼んだかしら?」
「......呼ばれてません」
「そうよね」
少し間があった。
「まあいいわ。いらっしゃいませ」
美里が顔を上げる。
女性は笑っていた。
「今日は私が迎える側になっちゃったわね」
美里は持ってきた包みを差し出した。
「あの......これ」
「なに?」
「梅しそ巻き天ぷらです」
女性が目を丸くした。
「私、頼んでないわよ」
「知ってます」
「頼んでもないのに病院まで持ってくるなんて、ずいぶん変わった店ね」
「店じゃなくて、私が勝手に持ってきたんです」
「なおさら変わってるわ」
美里は椅子に座った。
「次は、自分で頼みに来てください」
女性は包みを見た。
「そうできたらいいんだけどね」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「......聞いていいですか?」
「なに?」
「最初に会ったとき」
「うん」
「なんで、私が無理して笑ってるって思ったんですか?」
女性は窓の外を見た。
「私も昔、そんなんだったからよ」
「そうなんですか?」
「旦那が早くに死んでね」
女性は淡々と言った。
「店はある。子供はいる。お金も稼がなきゃならない。悲しいからって寝てるわけにもいかないでしょう」
「......はい」
「あの店ね、旦那が建てた店なの」
美里が女性を見る。
「あの居酒屋ですか?」
「そう」
女性は少し得意そうな顔をした。
「旦那が死んで、一番弟子が『俺に店を継がせてください』って。経営権だの何だの、面倒なものは全部渡したわ」
「じゃあ......今の店長は」
「その弟子の、そのまた後よ。もう私なんか口出す筋合いないの」
女性は笑った。
「なのに毎日のように来てるんですか?」
「毎日じゃないわよ」
「結構来てます」
「あら、見てたの?」
「店員ですから」
「そうね」
女性は窓の外へ目を戻した。
「ランチで一番に行くのは味見」
少し考えて、
「いや、毒見ね」
美里が思わず笑った。
「ひどい」
「旦那の店だからね。変なもの出してないか見張ってるのよ」
そして、小さく息を吐いた。
「......厨房に旦那の面影を追ってるのかもしれないけどね」
女性は自分に呆れるように首を振った。
「いつまで追ってるんだか」
美里は何も言わなかった。
「誰が悪いでもないのよ」
女性が言った。
「旦那が死んだあとね、自分を励まそうと思って、ずっと笑ってたの」
「......」
「子供の前でも、お客さんの前でも。大丈夫、大丈夫って」
女性は自分の頬に触れた。
「笑ってると、気が紛れるような気がしてたのよ」
美里は膝の上の自分の手を見た。
「でもね」
女性が言った。
「そのうち誰かに会うだけで笑う癖がついちゃって」
美里は顔を上げた。
「笑いたくなくても?」
「そう」
「悲しくても?」
「そう」
「......」
女性は笑わなかった。
「死んだ人間は、笑ってても帰ってきません」
美里が言った。
「そうね」
「だったら......」
美里は少し考えた。
「自分のために笑えばいいじゃないですか」
「それがね」
女性は困ったような顔をした。
「自分のために笑おうと思ったら、今度は笑えなくなっちゃったのよ」
「面倒くさいですね」
「そうなのよ。人間って面倒くさいの」
「フッ」
女性の口から、息が漏れた。
美里が見る。
「今、笑いましたよ」
「え?」
「笑った」
女性は少し考えた。
「......そうね」
そして自分でもおかしくなったのか、もう一度笑った。
「久しぶりに笑ったわ」
美里も笑った。
女性が美里を見る。
「あんたも、その方がいいわよ」
「何がですか?」
「今の笑い方」
美里は答えなかった。
帰る時間になった。
「じゃあ、私、そろそろ」
「わざわざありがとうね」
美里は立ち上がった。
それから女性へ手を差し出した。
「また来てくださいね」
女性は差し出された手を見た。
「約束します?」
「するよ」
「じゃあ、指切り」
「子供じゃあるまいし」
そう言いながら、女性はゆっくり手を上げた。
けれど、小指を絡めるところまで手が動かなかった。
美里の手に触れる。
女性はもう片方の手も添えた。
そして、美里の手を両手で包んだ。
美里は笑った。
「約束ですからね」
「はいはい」
「絶対ですよ」
「しつこいねえ」
二人とも笑った。
美里は、その手を握り返した。
病室を出るとき、美里はもう一度振り返った。
女性が小さく手を上げた。
美里も手を振った。
次に店へ来たら、何を薦めよう。
そんなことを考えながら、美里は廊下を歩いていった。
病室に一人残った女性は、しばらく閉じた扉を見ていた。
それから、自分の手を見た。
美里の手を包んでいた両手。
その手を、ゆっくりと重ねる。
何度か、撫でた。
数週間後。
「よーし、オープンするぞ!」
店長の声が店内に響いた。
美里はカウンターで箸を揃えていた。
カラカラ――。
入口の引き戸が、ゆっくりと開いた。
美里は反射的に振り返った。
「はい、喜んで! いらっしゃいませ!」
誰もいなかった。
開いた戸の向こうに、いつもの通りが見えるだけだった。
厨房から店長が顔を出した。
「誰か来た?」
美里は答えなかった。
開いた入口を、じっと見つめた。
そして、小さく笑った。
「いらっしゃいませ......」
完