昼の空にある月
「『あ』はそなたのものにあらず」
幼き頃に、父から言われた言葉だ。父は縁側で優雅に扇子を顎に当てながら、遠くを見て呆けていた。
当時の私には、その真意が分からなかった。だって、『あ』は私を見てくれていたのだから。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に転んでは立ち上がる。そんな幼少期を過ごしていた。
ところが、事態は変わっていった。私が十四の時、『あ』の婚姻が決まったのだ。相手は私ではない。私の父よりも位の高い、月城の姫君だ。
最近、懇意となった姫君――くれなと貝合わせをしていても、身が入らない。
「はなの、どうなさいました?」
「いえ、お気になさらず」
笑みを浮かべられない私の異変に気づいたのだろう。くれなは首を傾げる。
「ただ、焦がれた殿方が遠くに行ってしまいそうなのです」
私が視線を下げると、くれなは遠くを見る。まるで、あの時の父のように。
「早々に忘れるべきなのでしょう。ですが......心は思う通りにいかないものですね」
くれなに小さく頷いてみせる。忘れられたらどんなに楽だろう。私にとって、『あ』と過ごした日々は忘れ難き思い出なのだ。些細な一瞬でさえも、覚えていたいと思ってしまう。
「忘れることは......ないでしょう」
小さな呟きは、春の風に掻き消えた。
* * *
祝言の場には行かなかった。招かれてはいたのに、勇気が出なかったのだ。父と母に、代わりに『あ』の美しき姿を目に焼き付けてもらおう。私は熱で伏せっていると、『あ』には嘘をついた。縁側で『あ』の屋敷のある方角を見詰めながら、手に力を入れる。
胸騒ぎがして止まない。私の想いとは裏腹に、祝言の成功を祈ってしまう。
茂みの奥から、ふと灰色の煙が上がったような気がした。しかし、それは思い違いではなかったのだ。
「はなの様、大変でございます......!」
一人の女房が、私の元へと血相を変えて走り寄ってきた。
「なにごとがあったのです?」
「祝言のお屋敷から......火の手が......!」
「えっ......!?」
女房を押し退け、袿姿のままで縁側から屋敷へと飛び出していた。顔に煤がついた者とすれ違いながら、『あ』の屋敷へと駆ける、駆ける。
どうか、みなが無事でいてください。祈りながら、息を切らす。
屋敷の前には人集りができていた。避難した者や、ただの野次馬――そのどちらもが炎を上げる屋敷を見詰めていた。
「はなの! こちらです!」
「私たちは無事じゃ」
声のする方を見てみれば、華やかな装束を着た両親が立っていた。装束や顔のところどころに黒がある。
「父上、母上......! あの方は......!?」
「案ずるな。一緒に逃げてきておる」
その後方で、束帯姿の『あ』が消火の指示をしていた。会いたいのに、会いたくなかった。でも、声を掛けて無事を確かめたい。
「ご無事ですか!?」
私の声だと分かったのか、煤まみれの『あ』はこちらに振り向く。元々つぶらな瞳は、さらに丸くなる。
「はなの......か? 私は無事じゃ。しかし、熱を出して寝込んでいたのではなかったのか?」
「そのようなことを申しておる場合ではございませぬ!」
『あ』が無事だった喜びと、祝言を壊した炎への憎しみで、自然と涙が溢れてしまう。
「泣くこともないではないか。まあ、これも世の摂理よ」
そう言いながら、『あ』の隣には静かに涙を流す月城の姫君がいた。『あ』はその背中を撫でながら、そっと彼女に微笑みかける。
貴方の隣に立つのは私でありたかったのに。涙は悲哀も混じり、止まることはなかった。
* * *
『あ』の屋敷の火事は不審火――噂は風に乗って、私の元へとやってくる。今日もくれなと貝合わせをしながら、穏やかな時を過ごそうとしていた。
「聞きました? 先日の火事は不審火らしいのです」
私がそう切り出すと、くれなが持つ二つの貝が音を立てる。
「私も聞きました。どなたが、あのように正気を失ったようなことをしたのやら......」
くれなは歯切れの悪そうな物言いをし、ぐっと口を噤む。
「月城の姫君の花嫁道具が焼けてしまったことが、私の心を一番に掻き乱すのです」
『あ』が危険に晒されたことではなく、月城の姫君の胸中を案じていることに驚いた。
くれなは私の言葉を聞くと、はっと小さく口を開けた。
「......そう、ですね。門出を壊された憎しみ、いかばかりでしょう」
くれなも月城の姫君に思いを馳せたのかもしれない。その眼が潤んだように見えた。
翌日、その翌日と、くれなが姿を現すことはなかった。その知らせが届いたのは、日が傾き始めた頃だ。縁側で母と談笑をしていると、女房が走り込んできた。
「大変でございます! くれな様が......!」
女房は切らした息を整えようと、何度か深呼吸をする。
「くれな様が......不審火の罪で捕らえられました......!」
悲鳴が出るよりも、否定が頭を支配する。女房は嘘を申しているのだ。くれなはそのような女子ではない。誰にでも笑顔を向けられる、心優しい女子だ。人を傷つけるような真似なんて――。
脇目も振らずに立ち上がり、縁を飛び降りた。
「はなの、待ちなさい!」
遠くで母の声も聞こえるけれど、止まれはしない。
全速力でくれなの屋敷を目指す。そこには罵声を浴びせたり、石を投げつける者の姿があった。
「なんてこと......」
女房の言葉は本当だったのだ。こんな状態では、くれなの屋敷には近づけない。しばらくの間、木陰に身を隠して涙を流すしかなかった。
くれなは公衆面前のもと、火あぶりとなった。くれなは最後まで己の罪を認めていたらしい。
刑罰の後、こんな噂が立った。
『火をつけた女子は、懇意の姫君の恋を助けたかっただけだと』
『若君が姫君の恋心を無下にしたらしい』
まるで、その罪が私にあるかのような噂だった。
その話が真ならば、私がくれなを殺したことになる。私が『あ』と月城氏を苦しめたことになる。全てが私のせいだ。
もう『あ』には会わない方がいい。一人で結論を出し、私は他の殿方の縁談を受けることにした。顔合わせで会ったその人はキツネ顔の涼やかな男性――『あ』とは似ても似つかぬ人だった。
* * *
歳月は流れ、私にも二人の子ができた。私の名『はなの』と私の夫『好秋』の頭文字を取り、『好朝』と『はやか』と名付けた。仲睦まじい私たちのようになって欲しいと願いを込めたのだ。
「なあ、はなの」
「どうなさいました?」
縁側で星空を見上げながら、好秋は細い目をさらに細める。
「三人目の子はどちらだろうな」
「私は女子だと思っております」
私の腹には、三人目の子が宿っている。もう、腹を蹴ってくれるまでに成長した。この胎動なら、女子だろうか。
「名はどうする?」
「好秋様、それは気が早うございます」
「早くはないだろう? あと数日もすれば産まれてくる」
「それもそうですね」
では、どんな名がよいのだろう。一瞬、『あ』の名前が頭を過ぎった。あの方の名前は、どんな者でも光に照らしてくれそうな力強さがある。そこからいただいても――いいのだろうか。
「『あかり』は......どうでしょうか」
「何故、あかりと?」
「明かりは闇を照らしてくれます。どんな者にも明かりを灯してくれるような......そんな子になって欲しいのです」
好秋は少しだけ考えたものの、笑顔で大きく頷いてくれた。
「いい名だ。女子が産まれたら『あかり』にしよう」
「はい」
二人で小さく笑い合い、私の腹を擦る。すると、あかりが腹を蹴ったのだ。驚くと同時に、私たちの愛情に応えてくれたのだろうか、と心が温かくなった。
「これは元気に産まれてきそうだ」
「そうですね」
早くあかりに会いたい。願いは日に日に強くなっていった。
七回、日が昇り、昼時を迎えた頃だった。腹部に違和感を覚えたのだ。
「陣痛......でしょうね」
今までの経験からして、恐らくそうだ。慌てて女房を呼び、産室へと急ぐ。
「はなの、気を強う持て。私も共におるからな」
「はい」
まだ笑う余裕はある。好秋を産室から遠ざけると、いよいよ私の戦いの時だ。
下腹部を締め付けるような痛みが波のように、強さを増して襲ってくる。これは予想通りだと思っていた。しかし、全てが思い通りにはいかないらしい。
「......逆子にございますな」
産婆が声を上げる。その一言で、部屋の空気が変わった。この子だけでも、どうか無事に産まれてきておくれ。襲い来る痛みと共に、息を止める。
「大丈夫にございます。私が取り上げますゆえ」
私の手を握る産婆に、目を潤ませながら何度も頷いた。
何度か意識が遠のく。その度に、好秋と『あ』の顔が交互に浮かんでくる。
「好秋様......。明光様......」
何度か、うわ言のように呟いていたらしい。産婆や女房たちは、何も聞かなかったかのように振る舞ってくれた。彼女たちが黙っていてくれるなら、好秋に知られることはないだろう。
それでも、罪悪感は湧いてくる。
三歳になったあかりは同い年の男子とよく遊んでいる。その光景が、私と『あ』を見ているようだった。
「『あ』はそなたのものにあらず」
好秋が男子に呟いた。男子は小さく首を傾げる。
確かに、『あ』は私のものではない。そうだとしても、『あ』は私の中で輝いている大切な存在だ。
幼いこの子たちに幸がありますように。そう願って止まない。