ホーム›【悲報】彼女いない歴=年齢の俺、入社式で一目惚れした子と付き合えるが1年後に死なれると60年後の自分に教えられた 〜何度やり直しても救えないので、告白した5分後にプロポーズします〜›ネクスト・ジャーニー 〜若き日の俺へ〜
目次

ネクスト・ジャーニー 〜若き日の俺へ〜

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。

 佐藤さとう大輝だいきが82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これが初めてだった。

  ◇

 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。

 朝の散歩コースにしている遊歩道。朝日に押し負けたホログラムの広告が、宙で薄く滲んでいる。すれ違う青年の首筋では接続端子ポートが淡く光り、前を歩く婦人の左腕は、肘から先が鈍い銀色をしていた。

 脇の車道を、音のない車が滑っていく。
 そして、その空に、黒い球体が1つ浮いていた。

 全天球型の撮影ドローンだ。
 レンズがぐるりと回り、大輝の顔を舐めるように捉えた。

(迷惑系の配信屋か)
 大輝は顔を伏せ、足を速めた。年寄りをからかって笑いを取る手合いは、60年前から手を替え品を替え湧いて出る。

「すみません、今よろしいですか!?」

 呼び止められて、大輝は一瞬、身構えた。
 追いかけてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。息を切らしながら、それでも笑顔を崩さない。

 このところニュースを賑わせている手口が、脳裏をよぎった。
『不同意コミュニケーションで警察に突き出されたくなければ、今すぐ電子マネーで示談金を払え』──そうやって独り歩きの老人を脅す、典型的な美人局つつもたせ。

「触っていない。近寄ってもいない」
 大輝は反射的に両手を上げた。
「金もない。年金暮らしのジジイだ。搾り取るなら他を当たれ」

「えっ、あの」
 女が目を白黒させる。
「怪しい者じゃないんです。ほら、これ」

 差し出された手のひらの上に、小さな光の板が展開した。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』──社員証のホログラムには、女の顔写真と、見覚えのない局名が並んでいる。

「テレビ局?」
 大輝は思わず足を止めた。
「すみません、テレビはもう長いこと見てなくて」

 女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いレトロなのが逆に新しいって」

 そういうものか、と大輝は鼻を鳴らした。

「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
 女がドローンを指差す。
「若い視聴者へのメッセージも兼ねて、ご年配の方に同じ質問をして回っているんです」
 女が、ふと思い出したように付け足した。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「......佐藤大輝」
「佐藤さんですね。ありがとうございます」

 そして、女は姿勢を正した。

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 風が、桜の花弁を1枚、2人の間に落とした。

 1人分の朝食を作り、1人分だけ洗い、誰も待っていない部屋を出てきた朝だった。

 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。

「......年寄りの与太話でいいのか」
「もちろんです。カメラを、真っ直ぐ見てくださいね」

 大輝はレンズを見据えた。

「大輝」
 喉の奥から、声を絞り出した。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合える」

 若い女スタッフが、おや、という顔をした。

「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
 大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇ちゅうちょするな。すぐにしろ」

「......なぜなら彼女は」

「付き合って1年後に死ぬ」

 横で、息を呑む音がした。

 声がかすれた。
「それから俺は、彼女を忘れられないまま、82歳の今になってもずっと独身だ」

 握った拳が、震えていた。

「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」

 涙と鼻水が溢れ出していた。

「さ、佐藤さんっ、あの、大丈夫ですか!?」
 女が慌ててドローンを手で払い、遊歩道の脇へ大輝の背を押した。
「すみません、わたし、こんな質問を......。あちらにベンチがありますから、少しお掛けになってください」

 腰を下ろすと、背骨が軋んだ。
 桜を揺らす風。ホログラムの電子音。機械の駆動音。若い娘の、おろおろとした声。
 2085年の朝が、耳の中で混ざり合っている。

 大輝は、ゆっくりと目を閉じた。

  ◇

 軋む音がした。

 背骨ではない。安物のパイプ椅子が、身じろぎひとつで鳴く音だ。

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 マイク越しの声。壇上には、まだ髪の黒い人事部長が立っている。
 白い蛍光灯。折り目の硬いスーツ。同期の背中が、前に何列も並んでいる。

 大輝は、自分の手を見た。

 染みひとつない、皮の張った若い手だった。
 膝の上には、紙の会社案内。ページを繰ると、インクの匂いがした。
 隣の男が弄っているのは、折り畳みも巻き取りもしない、ただの薄い板のスマホだ。
 壇上の脇には、白い文字を並べた垂れ幕が下がっている。

(......2025年4月1日 入社式)

 心臓が、胸の内側を殴りつけていた。

 膝が痛くない。腰も。朝起きるたびに悲鳴を上げていた肩も軽い。
 記憶まで鮮明に思い出せる。

 夢か、死に際の走馬灯か。どちらでもよかった。
 大輝は、3列前の席を見た。

 黒い髪。まっすぐな背筋。

 隣の同期が何か囁いたらしい。その横顔がわずかに傾いて、ヒマワリが咲くみたいに笑った。

 鈴木すずき陽菜ひな。22歳。

(......ああ)
 60年ぶりだ、という言葉が、声にならずに喉で潰れた。

 1度目の人生で、大輝はこの入社式で彼女に一目惚れした。
 そして3ヶ月、まともに話しかけられなかった。目が合えば逸らし、飲み会では離れた席を選び、廊下ですれ違うたびに心臓だけがうるさかった。7月頃から徐々に会話するようになって、ようやく交際が始まったのは、10月。
 その1年後、彼女は死んだ。

──1秒も無駄にするな。

 自分の声が、耳の奥で反響している。

 式が終わり、司会が解散を告げたその瞬間、大輝はもう立ち上がっていた。

「鈴木陽菜さん」
 フルネームで呼びかけると、彼女は目を丸くした。
「え、はい。......すみません、以前にどこかでお会いしましたっけ?」

「いえ、名簿で見て覚えただけです。俺は佐藤大輝です」
 大輝は自分のパンフレットの表紙を、指の背で軽く叩いてみせた。
「このあと懇親会でしょ。よかったら一緒に回りません? 今日のうちに、同期の顔と名前を全部覚えたくって」

「......全部、ですか」
「同期は120人だから、2人なら60人ずつ。いや、59人ずつかな」

 陽菜は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「変な人ですね、佐藤さん」
「よく言われる」

 何十年ぶりに聞く笑い声だった。
 22歳の心臓が、みっともないほど跳ねた。

  ◇

 懇親会は、大輝の独壇場になった。

 緊張で名刺入れを取り落とした同期の背を叩き、部長の前で固まっている女子の皿に料理を取り分け、輪の外にはみ出した男を引っぱり込む。80歳で定年退職するまでの宴席の記憶は、新卒の懇親会を攻略するには、いささか過剰な装備だった。

 もっとも、大輝が拾いきれなかった1人は、先に拾われていた。
 壁際でグラスを持て余していた男の隣に、陽菜がいつのまにか立って、名前を聞いていた。しばらくすると、男の顔がほどけた。

「佐藤さん、すごいですね」
 紙コップを両手で持ったまま、陽菜が感心したように言った。
「同期っていうより、なんだか......お兄さんみたい」

「そうか?」
「そうです。落ち着きすぎです」

「年の割に老けてるんだ」
「浪人か留年かしてるってこと?」
「いや、同い年の22だよ」

 大輝は笑って誤魔化した。

 そして、狙っていた場面は、思ったより早く転がり込んできた。

「佐藤さん」
 呼ばれて顔を上げると、大輝を含めて3人が同時に振り返っていた。営業の佐藤主任。総務の佐藤さん。そして、新入社員の佐藤大輝。
「あ、すみません、営業の佐藤さんのほうです」
 残りの2人が、揃って会釈して、向き直る。

 隣では、陽菜も同じ目に遭っていた。
「鈴木さん、これ集めといて」
 押しつけられた会費袋を反射的に受け取ろうとして、彼女の手が止まる。宛名は、経理の鈴木課長だった。

「......これ、今後も続きそうだね」
 耳まで赤くして戻ってきた陽菜に、大輝は笑いを噛み殺した。
「佐藤と鈴木だぞ。来年以降の後輩とも絶対被りそう」

「じゃあ、どうすれば......」
「提案がある」
 大輝は紙コップのウーロン茶を置いた。
「仕事で紛らわしいから、お互い下の名前で呼ばない? 社内でもやってる人、けっこういるらしい」

「え」
 陽菜が、目をぱちぱちとさせた。
「し、下の名前、ですか」
「鈴木さんは陽菜さん。俺は佐藤じゃなくて大輝。......あくまで、仕事上の都合ってことで」

 建前としては、完璧なはずだった。
 だが口にした瞬間、自分の頬がわずかに熱を持った。

(......82まで生きて、これか)

 陽菜はしばらく唇を結んでいたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。......大輝さん」
「さんもいらない」
「それは、まだ無理だよ」

 笑いながらもきっぱりと言い切る律儀さが、彼女らしかった。

 1度目の人生で名前を呼び合えるようになったのは、付き合ってからだ。
 それが入社式の当日に届いた。胸の奥が、ひりつくほど嬉しかった。

  ◇

 告白したのは、その1週間後だった。

 2025年4月8日。定時で上がった帰り道、川沿いの桜はもう散りかけていた。花弁が、暗い水面を流れていく。

「陽菜」
 呼びかけると、彼女が振り向いた。
「俺と付き合ってほしい」

 回りくどい前置きも、保険の冗談も、ひとつも挟まなかった。
 82歳の男に、駆け引きの時間はない。

 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、首筋まで赤くなった。
「......早くない?」
「早い」

「認めるんだ?」
「1秒も無駄にしたくないんだ」

 彼女は息を吸って、吐いて、ヒマワリの顔で笑った。

「はい」

 そして、少しだけ照れたように付け足した。
「......じゃあ、大輝くん、って呼んでもいいですか」
「まだたまに敬語になるね」
「これでも、頑張ってるんです」

  ◇

 そこからの1年半は、恐ろしいほど順調だった。思い出すたびに、息が詰まる。

 仕事は面白いように回った。60年分の失敗を、大輝はすべて知っている。どの資料を先に作れば誰の機嫌が直るか、どの案件が半年後に燃えるか。「新卒とは思えない」と言われるたび、大輝は曖昧に笑った。

 陽菜は毎日、昼休みに屋上へ来た。
 夏には海へ行った。陽菜が日焼け止めを塗り忘れ、茹だったような肩をして大輝に叱られた。
 秋には、2人で少し広い部屋の間取り図を眺め始めた。

 11月、彼女が熱を出した。おかゆを作りに行くと、玄関先で「見ないでください」と真っ赤な顔をされた。それでも粘って上がり込み、卵を落として食べさせた。

「大輝くんって、なんでも先回りするよね」
 熱でぼんやりした声だった。
「気持ち悪いか」
「ううん」
 彼女は布団から手を出して、大輝の袖を掴んだ。
「安心する」

 幸せだった。
 その幸せが、ずっと続いてほしいと願っていた。

  ◇

 2026年10月11日。日曜日。

 1度目の人生で、陽菜は21時過ぎ、駅前の横断歩道で信号を無視したトラックに轢かれた。
 だから大輝は、今日やることを決めていた。

 朝から彼女を連れ出し、車道のない河川敷を歩いた。昼は公園のベンチで食べた。夕方は2駅離れた、歩行者専用の商店街へ回った。
 そして21時、大輝は駅から3キロ先の裏通りで、スマホの時計を見つめていた。

 21時00分。
 21時05分。
 21時10分。

 何も、起きなかった。

「大輝くん、さっきから時計ばっかり見てる」
 陽菜が横から覗き込んでくる。
「お腹すいた?」

「......いや」
 全身から、力が抜けていくのが分かった。
 勝った。歴史を、変えた。
「なんでもない。帰ろうか」

「あ、待って。お茶買ってくる」
 陽菜が自販機へ駆けていく。
 その背中に、大輝は笑って手を振った。

 温かいペットボトルを2本抱えて、彼女が戻ってくる。歩道の、真ん中を。

 甲高いモーター音がした。

 角を曲がってきた電動キックボードが、歩道に乗り上げた。
 陽菜を避けようとした若者がハンドルを切り損ね、車体が横滑りする。

 大輝の身体は、動いていた。
 1度目のときは、その場にいなかった。知らせを受けたのは病院からの電話で、着いたときには、もう白い布が掛かっていた。
 今度は違う。踏み込んで、手を伸ばして、指先が彼女のコートに触れた。

 触れた、だけだった。

 ペットボトルが2本、歩道を転がって、縁石で止まった。
 どちらも、まだ温かかった。

「──陽菜」

 抱き起こした腕の中で、彼女は何が起きたのか分かっていない顔をしていた。口が動く。音は出ない。
 やがてその瞳から、光がゆっくりと引いていった。

 視界が、白く灼けた。

  ◇

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 パイプ椅子が軋んだ。また、あの日に戻っていた。

  ◇

 3度目の2026年10月11日、大輝は彼女を連れて逃げた。

 1週間前から有休を取らせ、飛行機で北の牧草地へ渡った。車の少ない土地。高い建物のない町。窓の外に何もない宿。電動キックボードも自転車も居ない。
 その日の午後、宿の裏手を散歩していて、彼女は転んだ。柵もない、20センチの段差だった。打ちどころが悪かった、と医者は言った。

 4度目。
 大輝は彼女をどこへも行かせなかった。都心のホテルの1室を丸1日借り切り、食事はすべて部屋に運ばせ、窓には近寄らせず、朝から手を握って過ごした。
 夕食を食べ終えた頃。談笑の途中で、陽菜は言葉を切った。
 胸を押さえ、不思議そうに大輝を見て、そのまま崩れ落ちた。急性心不全。23歳の、健康な女性の。

 外が駄目なら、内から。
 その程度のことは、平気で起きた。

 5度目は、先に病院へ入れた。精密検査の結果はすべて正常で、それでも大輝は頼み込んで、10月11日を心電図の音の中で迎えさせた。
 彼女はこめかみに手をやり、「ちょっと痛いかも」と笑った。それきりだった。

 6度目。風呂場で転倒。
 7度目。ベッドの中で発作。
 8度目。移動中、空から落ちてきた物。
 9度目。見知らぬ男の、理由もない刃物。
 10度目は、大輝が運転していた。

 いつしか大輝は、回数を数えるのをやめた。

 付き合う日を早めても、遅らせても、付き合わない選択をしても、日付だけは動かなかった。
 2026年10月11日。世界はその1日だけ、陽菜の命を奪うことを異様な執念で守り抜いた。

  ◇

 途中で一度、大輝は洗いざらい打ち明けたことがある。

 告白したその日の川沿いで、繰り返していることも、10月11日のことも、彼女がどんなふうに死ぬのかも、全部。
 信じてもらえるはずがなかった。

 陽菜は、長いこと黙っていた。
 構わなかった。頭のおかしい男だと切り捨てられるなら、そのほうが彼女は長く生きるかもしれないとさえ思った。

「......証明、できますか」
 返ってきたのは、それだけだった。

 大輝はその場で、これから1週間に起きることを手帳に書いた。取引先が飛ぶこと。課長の異動が発表されること。金曜の夕方に雨が降ること。
 金曜の夜、傘を2本持って現れた陽菜は、紙のように白い顔をしていた。

 その日から、2人で戦った。
 彼女は毎朝、行き先を大輝に伝えた。健康診断を人間ドックに変えた。カレンダーの10月11日に、赤い丸をつけた。

 その1年半は、それまでで一番、静かだった。
 ときどき彼女が、何も言わずに自分の手首を押さえるようになったことに、大輝は気づかないふりをしていた。脈を、確かめていたのだ。

 そして10月11日、彼女は死んだ。
 薄れていく意識の中で、陽菜は大輝の手を握った。

「ごめんね。......わたし、間に合わなかったね」

 それが、最後の言葉だった。

 以来、大輝は二度と話さなかった。
 自分の絶望に付き合わせるくらいなら、何も知らないまま笑っていてほしかった。

  ◇

 一度だけ、大輝は彼女に近づかないことを選んだ。

 入社式で目を合わせず、懇親会では反対側の島に回り、名前も呼ばなかった。廊下ですれ違うときは、会釈だけした。
 自分と関わりさえしなければ、あの日は来ないのではないか。その可能性を信じたかった。

 1年半、大輝は他人として彼女を見ていた。
 彼女が別の同期と親しくなるのも、社員旅行で誰かの隣で笑うのも、全部、離れた場所からだった。

 2026年10月11日の夜、スマホが鳴った。
 表示されていたのは、同期の連絡網を回している男の名前だった。

『佐藤、まだ聞いてないよな。......鈴木のことなんだが』

 その先は、聞くまでもなかった。
 視界が、白く灼けた。

  ◇

──彼女は、俺がいてもいなくても死ぬ。

 それなら。
 隣にいて死なせるほうが、まだましだった。

  ◇

 以降、大輝は毎回、彼女に告白した。
 そして毎回、彼女を殺された。

 たちの悪いことに、その1年半は、いつも幸せだった。
 初めて手を繋いだ日の体温も、鼻歌を歌いながら味噌汁をかき混ぜる背中も、喧嘩のあとに差し出される不器用なメモも、何度繰り返しても色褪せない。
 何度でも、何度でも、俺は彼女が好きなままで、彼女も俺を好きになってくれた。
 そのうえで必ず、10月11日が来た。

──安心する。
 何度目かの2026年10月11日、腕の中から温度が引いていく途中で、その言葉が蘇った。
 自分の隣が、彼女を送り出す場所になっていた。

 あるときは、入社式の会場のトイレで吐いた。
 鏡に映った22歳の顔が、知らない男に見えた。
 この顔で、これからまた120人と握手をして、3列前の女に笑いかけるのだ。

 パイプ椅子の軋む音は、いつからか処刑台のそれに聞こえるようになっていた。
 大輝の心はそのたびに砕けた。砕けた欠片を拾い集めて、また同じ椅子の上で目を覚ました。

(陽菜を助けて、ちゃんと幸せにしてやる)
 毎回、そう思っていた。
 指輪も、苗字のことも、全部、彼女を救ってからだと。

  ◇

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 パイプ椅子が軋む。
 インクの匂いのする会社案内。板みたいなスマホ。3列前の、黒い髪。

 大輝は、もう何も感じなかった。

 それでも身体は動いた。フルネームで呼びかけ、懇親会を2人で回り、佐藤と鈴木の話をして、名前で呼び合うようになった。

 2025年4月8日。川沿い。散りかけた桜。

「陽菜」
 振り向く顔も、何百回見た。
「俺と付き合ってほしい」

 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、ヒマワリの顔で笑った。

「はい」

──その瞬間だった。

 82歳の自分の声を、ふと思い出した。

(自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ)
(1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ)

 大輝はずっと、あれを「彼女を救え」という意味だと思っていた。

(......ああ、そうか)

 救えないのなら。
 せめてこの1年半を、恋人のままでは終わらせない。
 この世で一番いい結婚生活を、彼女に。

 大輝は、彼女の手を取った。

「陽菜」
 自分でも驚くほど、声は静かだった。
「俺と、結婚してほしい」

 川の音が、やけに大きく聞こえた。

「......え?」
 陽菜の笑顔が、途中で止まる。
「あの、大輝くん。今、付き合ってって......」
「言った。返事ももらった」
「じゃあ、なんで」

「順番がおかしいのは分かってる。指輪もない。今日の帰りに買えるようなものじゃない」
 大輝は彼女の目を見た。
「それでも今、言わないと駄目なんだ」

「人は、いつ死ぬか分からない。......それを、嫌というほど知ってる」

 陽菜の瞳が揺れた。

「明日かもしれない。1年後かもしれない。そのときになって、言えばよかったと思うのだけは嫌なんだ」
 大輝は、握った手に力を込めた。
「君と過ごせる時間を、1秒も無駄にしたくない。恋人として過ごすより、夫婦として過ごしたい」

「......重いです」
「ああ、重い」

「認めるんだ?」
「認める」

 陽菜の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
 彼女はそれを手の甲で乱暴に拭って、キッと顔を上げた。

「......条件があります」
「なんでも」

「ちゃんと、わたしの両親に挨拶に来てください。順番は守ってほしいんです」
「行く。明日にでも」
「明日は仕事でしょ」

 涙目のまま、陽菜が吹き出した。
 繋いだ手に目を落として、ぽつりと続けた。
「......わたし、この1週間、ずっと不思議だったんです」
「何が」
「大輝さん。あ、大輝くんは、わたしが困る前に助けてくれる。言う前に分かってる」

 陽菜が、まっすぐ大輝を見た。

「その理由は、いつか聞かせてね」

「......ああ」
「はい」
 彼女は両手で、大輝の手を包み直した。
「わたしで、よければ」

  ◇

 それからの数ヶ月は、嵐のようだった。

 陽菜の父親には、玄関先で30分立たされた。母親は最初から泣いていた。
 大輝の両親は「早すぎる」「まだ社会を知らない」と渋り、そして並んで頭を下げる2人を見て、それ以上は何も言わなくなった。

 何度この歳をやり直しても、若い母の声にだけは慣れなかった。

 指輪は、学生時代の貯金と少ない給料を元手に、少しだけ未来の知識でズルしてから買った。
 給料3ヶ月分などという相場は、2025年にはもう誰も守っていなかったが、なんとかその相場にはできたと思う。石はごく小さい。
 内側に、2025年4月8日と刻んだ。

 婚姻届を出したのは、プロポーズから約5ヶ月後。秋の初めだ。
 窓口の職員が「おめでとうございます」と言い、陽菜が丁寧に頭を下げた。それだけの、あっけない手続きだった。

 鈴木陽菜が、佐藤陽菜になった。
 紙が1枚受理されただけで、2人の名前が、同じ欄に収まった。

 会社では、佐藤と鈴木の話が、佐藤と佐藤の話に変わった。
「余計ややこしくなったな」
 先輩に笑われて、陽菜はまた耳まで赤くしていた。

 狭い1LDK。表札は「佐藤」だけで、それが妙に可笑しかった。
 朝は2人で同じ電車に乗った。洗濯物の畳み方で揉め、寝る時間の違いで揉め、仲直りのたびに彼女は不器用なメモを残した。『おみそしる、しょっぱかったらいってね♡』。
 彼女の味噌汁は確かに少ししょっぱくて、大輝はそれを一度も言わなかった。メモも1枚残らず取っておいた。

 1年は、瞬く間だった。

  ◇

 2026年10月11日。日曜日。

 その日、大輝は何もしなかった。

 旅行にも連れ出さず、部屋に閉じ込めもせず、病院にも行かなかった。カーテンを開け、味噌汁を作り、洗濯機を回した。ごく普通の、休みの日にした。

 ただ、彼女の手を離さなかった。

 朝食のあいだも。玄関で靴を履くときも。スーパーのレジの前でも。

 夕方、ベランダで洗濯物を取り込む背中を、大輝はずっと見ていた。
 何度も、この日のうちに失った背中だった。

「見てないで手伝ってよ」
「片手が塞がってる」
「今日ずっと引っ付き虫だね」

  ◇

「ねえ、今日の大輝くん、変だよ」
 ソファで、陽菜が繋いだ手を持ち上げてみせた。
「ずっと手、繋いでる」

「......駄目か」
「ううん」
 彼女は笑って、そのまま大輝の肩に頭を預けた。

 窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。

 18時。
 19時。
 20時。

 21時30分。

 1度目の人生で彼女が死んだ時刻を、大輝は越えた。
 22時。
 トラックも、キックボードも来なかった。
 23時。
 陽菜は眠そうに目をこすっていた。

 23時58分。
 繋いだ手が、汗で滑った。
 23時59分。
 大輝は、息を止めた。
 秒針が、天辺を回った。
 0時00分。
──10月12日。

 何も、起きなかった。

「......あれ、大輝くん」
 陽菜が慌てた声を出す。
「どうしたの、ちょっと、なんで泣いてるの」

 止まらなかった。
 喉の奥から、自分でも聞いたことのない声が出た。
 砕けては拾い集めてきた全部が、一度に溢れた。

 彼女は、理由を聞かなかった。
 ただ大輝の頭を抱え込んで、子どもをあやすように背中を叩いた。

「......よく分かんないけど」
 陽菜の声が、頭の上から降ってくる。
「わたし、どこにも行かないよ」

「うん」
「ずっと、隣にいるから」
「......うん」

 間に合ったよ、と大輝は思った。
 何百回分の、たった一言だった。

 やがて、夜が明けた。
 彼女は普通に起きてきて、少ししょっぱい味噌汁を作った。

  ◇

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。

 佐藤大輝が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これで2度目だった。

  ◇

 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。

 朝の散歩コースにしている遊歩道。ホログラムの広告が朝日に滲み、機械の駆動音が行き交う。その空に、黒い球体が1つ浮いていた。

(迷惑系の配信屋か)
 そう思ったことまで、そっくり同じだった。
 大輝が顔を伏せかけると、隣から袖を引かれた。
「大輝くん、あの人、追いかけてくる」

「すみません、今よろしいですか!?」

 呼び止められて、身体のほうが勝手に身構えた。
 息を切らして追いついてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。

「触っていない。近寄ってもいない。独り歩きの年寄りを狙うなら、他を当たれ」
 両手を上げようとして、片方が塞がっていた。

 口が、あのときと同じことを喋っていた。

「大輝くん」
 袖が、もう一度引かれた。
「独り歩きじゃないでしょうが」

「......ああ、そうだったな」

「あの、怪しい者じゃないんです。ほら、これ」
 女が差し出した手のひらの上に、小さな光の板が展開する。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』

「あら、テレビ局さん」
 陽菜が目を丸くした。
「もうだいぶ見てないのよ、テレビ」

 女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いレトロなのが逆に新しいって」
 そしてドローンを指差す。
「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
 女が、手元の端末に目を落とす。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「佐藤大輝」
「佐藤陽菜です」

 そして、女は姿勢を正した。

「大輝さんと陽菜さん。ご夫婦ですよね。......若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 風が、桜の花弁を1枚、3人の間に落とした。

 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。

「......年寄りの惚気のろけでいいのか」
「え」
 女スタッフが、言葉に詰まった。
「カメラを真っ直ぐ見ればいいんだな」

 大輝はレンズを見据えた。
 背筋が、自然と伸びた。

「大輝」
 今度は、絞り出す必要もなかった。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合って結婚できる」

「まあ」
 隣で、陽菜が口元を押さえて笑った。
 皺の増えた顔が、60年前と同じように咲いた。

「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
「あら、そうだったかしら」

 大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ」

「男なら、出会った瞬間に覚悟を決めろ」

 スタッフが、声にならない息を漏らした。

「順番がどうとか、貯金がどうとか、自信がどうとか、悩んでいる時間に価値はない。指輪を渡すのが早ければ早いほど、一緒にいられる時間が長くなる。それだけの話だ」
 大輝は胸を張った。
「おかげで俺は、あいつに会ってから、1日も独りじゃなかった」

「もう。何を言ってるんですか、この人は」
 陽菜が、頬を赤くして肘でつついてくる。
 それでも彼女は、繋いだ手を離さなかった。

「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」
 大輝は、レンズに向かって笑ってみせた。
「──1秒も無駄にしなければ、60年だ。60年、ずっと隣にいられる」

「......っ、すみません、わたしが泣いてどうするんですか」
 女スタッフが目元を拭い、ドローンを手で払って下がらせた。
「あの......お2人の出会いは、どちらで?」

「入社式だ」

「席が、3列離れてました」
 陽菜が、悪戯っぽく指を3本立ててみせる。
「この人ったら、今の話そのままだったんですよ。お付き合いした当日にプロポーズ」

「と、当日......?」
「そう、入社式で出会って1週間後。川沿いで、桜が散っているときに。付き合ってくださいって言った5分後に今度はプロポーズよ」

 陽菜は白髪を、きれいに結い上げている。
 その左手の薬指で、小さな石が陽の光を弾いた。

「内側に、その日の日付が刻んであります」
 陽菜が指輪を少し回した。
「60年経っても、ちゃんと読めるんです。......どうしてあんなに急いでいたのかは、まだ教えてもらってませんけど」

「誰にも、取られたくなかったからな」
 大輝は、小さく呟いた。

「......素敵です。末永く、お幸せに!」
 深く頭を下げるスタッフに、2人は揃って会釈を返した。

  ◇

「疲れたでしょう。ベンチで休んでいきます?」
 陽菜が、遊歩道の脇を指差した。

「いや」
 大輝は首を振った。
「歩こう」

 一度だけ、目を閉じてみた。

 ホログラムの電子音も、機械の駆動音も、桜を揺らす風の音も、何ひとつ消えなかった。
 手のひらの中に、彼女の手の温もりがあった。

「流しに、2人分の食器を浸けたままだ」
「あら、ほんとう」

「帰ろうか、陽菜」
「はい」

 2085年の朝を、82歳の2人は、手を繋いでゆっくりと歩いていった。
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【悲報】彼女いない歴=年齢の俺、入社式で一目惚れした子と付き合えるが1年後に死なれると60年後の自分に教えられた 〜何度やり直しても救えないので、告白した5分後にプロポーズします〜作者:黒い★彡彗星
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ホーム›【悲報】彼女いない歴=年齢の俺、入社式で一目惚れした子と付き合えるが1年後に死なれると60年後の自分に教えられた 〜何度やり直しても救えないので、告白した5分後にプロポーズします〜›ネクスト・ジャーニー 〜若き日の俺へ〜
目次

ネクスト・ジャーニー 〜若き日の俺へ〜

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。

 佐藤さとう大輝だいきが82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これが初めてだった。

  ◇

 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。

 朝の散歩コースにしている遊歩道。朝日に押し負けたホログラムの広告が、宙で薄く滲んでいる。すれ違う青年の首筋では接続端子ポートが淡く光り、前を歩く婦人の左腕は、肘から先が鈍い銀色をしていた。

 脇の車道を、音のない車が滑っていく。
 そして、その空に、黒い球体が1つ浮いていた。

 全天球型の撮影ドローンだ。
 レンズがぐるりと回り、大輝の顔を舐めるように捉えた。

(迷惑系の配信屋か)
 大輝は顔を伏せ、足を速めた。年寄りをからかって笑いを取る手合いは、60年前から手を替え品を替え湧いて出る。

「すみません、今よろしいですか!?」

 呼び止められて、大輝は一瞬、身構えた。
 追いかけてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。息を切らしながら、それでも笑顔を崩さない。

 このところニュースを賑わせている手口が、脳裏をよぎった。
『不同意コミュニケーションで警察に突き出されたくなければ、今すぐ電子マネーで示談金を払え』──そうやって独り歩きの老人を脅す、典型的な美人局つつもたせ。

「触っていない。近寄ってもいない」
 大輝は反射的に両手を上げた。
「金もない。年金暮らしのジジイだ。搾り取るなら他を当たれ」

「えっ、あの」
 女が目を白黒させる。
「怪しい者じゃないんです。ほら、これ」

 差し出された手のひらの上に、小さな光の板が展開した。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』──社員証のホログラムには、女の顔写真と、見覚えのない局名が並んでいる。

「テレビ局?」
 大輝は思わず足を止めた。
「すみません、テレビはもう長いこと見てなくて」

 女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いレトロなのが逆に新しいって」

 そういうものか、と大輝は鼻を鳴らした。

「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
 女がドローンを指差す。
「若い視聴者へのメッセージも兼ねて、ご年配の方に同じ質問をして回っているんです」
 女が、ふと思い出したように付け足した。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「......佐藤大輝」
「佐藤さんですね。ありがとうございます」

 そして、女は姿勢を正した。

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 風が、桜の花弁を1枚、2人の間に落とした。

 1人分の朝食を作り、1人分だけ洗い、誰も待っていない部屋を出てきた朝だった。

 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。

「......年寄りの与太話でいいのか」
「もちろんです。カメラを、真っ直ぐ見てくださいね」

 大輝はレンズを見据えた。

「大輝」
 喉の奥から、声を絞り出した。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合える」

 若い女スタッフが、おや、という顔をした。

「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
 大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇ちゅうちょするな。すぐにしろ」

「......なぜなら彼女は」

「付き合って1年後に死ぬ」

 横で、息を呑む音がした。

 声がかすれた。
「それから俺は、彼女を忘れられないまま、82歳の今になってもずっと独身だ」

 握った拳が、震えていた。

「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」

 涙と鼻水が溢れ出していた。

「さ、佐藤さんっ、あの、大丈夫ですか!?」
 女が慌ててドローンを手で払い、遊歩道の脇へ大輝の背を押した。
「すみません、わたし、こんな質問を......。あちらにベンチがありますから、少しお掛けになってください」

 腰を下ろすと、背骨が軋んだ。
 桜を揺らす風。ホログラムの電子音。機械の駆動音。若い娘の、おろおろとした声。
 2085年の朝が、耳の中で混ざり合っている。

 大輝は、ゆっくりと目を閉じた。

  ◇

 軋む音がした。

 背骨ではない。安物のパイプ椅子が、身じろぎひとつで鳴く音だ。

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 マイク越しの声。壇上には、まだ髪の黒い人事部長が立っている。
 白い蛍光灯。折り目の硬いスーツ。同期の背中が、前に何列も並んでいる。

 大輝は、自分の手を見た。

 染みひとつない、皮の張った若い手だった。
 膝の上には、紙の会社案内。ページを繰ると、インクの匂いがした。
 隣の男が弄っているのは、折り畳みも巻き取りもしない、ただの薄い板のスマホだ。
 壇上の脇には、白い文字を並べた垂れ幕が下がっている。

(......2025年4月1日 入社式)

 心臓が、胸の内側を殴りつけていた。

 膝が痛くない。腰も。朝起きるたびに悲鳴を上げていた肩も軽い。
 記憶まで鮮明に思い出せる。

 夢か、死に際の走馬灯か。どちらでもよかった。
 大輝は、3列前の席を見た。

 黒い髪。まっすぐな背筋。

 隣の同期が何か囁いたらしい。その横顔がわずかに傾いて、ヒマワリが咲くみたいに笑った。

 鈴木すずき陽菜ひな。22歳。

(......ああ)
 60年ぶりだ、という言葉が、声にならずに喉で潰れた。

 1度目の人生で、大輝はこの入社式で彼女に一目惚れした。
 そして3ヶ月、まともに話しかけられなかった。目が合えば逸らし、飲み会では離れた席を選び、廊下ですれ違うたびに心臓だけがうるさかった。7月頃から徐々に会話するようになって、ようやく交際が始まったのは、10月。
 その1年後、彼女は死んだ。

──1秒も無駄にするな。

 自分の声が、耳の奥で反響している。

 式が終わり、司会が解散を告げたその瞬間、大輝はもう立ち上がっていた。

「鈴木陽菜さん」
 フルネームで呼びかけると、彼女は目を丸くした。
「え、はい。......すみません、以前にどこかでお会いしましたっけ?」

「いえ、名簿で見て覚えただけです。俺は佐藤大輝です」
 大輝は自分のパンフレットの表紙を、指の背で軽く叩いてみせた。
「このあと懇親会でしょ。よかったら一緒に回りません? 今日のうちに、同期の顔と名前を全部覚えたくって」

「......全部、ですか」
「同期は120人だから、2人なら60人ずつ。いや、59人ずつかな」

 陽菜は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「変な人ですね、佐藤さん」
「よく言われる」

 何十年ぶりに聞く笑い声だった。
 22歳の心臓が、みっともないほど跳ねた。

  ◇

 懇親会は、大輝の独壇場になった。

 緊張で名刺入れを取り落とした同期の背を叩き、部長の前で固まっている女子の皿に料理を取り分け、輪の外にはみ出した男を引っぱり込む。80歳で定年退職するまでの宴席の記憶は、新卒の懇親会を攻略するには、いささか過剰な装備だった。

 もっとも、大輝が拾いきれなかった1人は、先に拾われていた。
 壁際でグラスを持て余していた男の隣に、陽菜がいつのまにか立って、名前を聞いていた。しばらくすると、男の顔がほどけた。

「佐藤さん、すごいですね」
 紙コップを両手で持ったまま、陽菜が感心したように言った。
「同期っていうより、なんだか......お兄さんみたい」

「そうか?」
「そうです。落ち着きすぎです」

「年の割に老けてるんだ」
「浪人か留年かしてるってこと?」
「いや、同い年の22だよ」

 大輝は笑って誤魔化した。

 そして、狙っていた場面は、思ったより早く転がり込んできた。

「佐藤さん」
 呼ばれて顔を上げると、大輝を含めて3人が同時に振り返っていた。営業の佐藤主任。総務の佐藤さん。そして、新入社員の佐藤大輝。
「あ、すみません、営業の佐藤さんのほうです」
 残りの2人が、揃って会釈して、向き直る。

 隣では、陽菜も同じ目に遭っていた。
「鈴木さん、これ集めといて」
 押しつけられた会費袋を反射的に受け取ろうとして、彼女の手が止まる。宛名は、経理の鈴木課長だった。

「......これ、今後も続きそうだね」
 耳まで赤くして戻ってきた陽菜に、大輝は笑いを噛み殺した。
「佐藤と鈴木だぞ。来年以降の後輩とも絶対被りそう」

「じゃあ、どうすれば......」
「提案がある」
 大輝は紙コップのウーロン茶を置いた。
「仕事で紛らわしいから、お互い下の名前で呼ばない? 社内でもやってる人、けっこういるらしい」

「え」
 陽菜が、目をぱちぱちとさせた。
「し、下の名前、ですか」
「鈴木さんは陽菜さん。俺は佐藤じゃなくて大輝。......あくまで、仕事上の都合ってことで」

 建前としては、完璧なはずだった。
 だが口にした瞬間、自分の頬がわずかに熱を持った。

(......82まで生きて、これか)

 陽菜はしばらく唇を結んでいたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。......大輝さん」
「さんもいらない」
「それは、まだ無理だよ」

 笑いながらもきっぱりと言い切る律儀さが、彼女らしかった。

 1度目の人生で名前を呼び合えるようになったのは、付き合ってからだ。
 それが入社式の当日に届いた。胸の奥が、ひりつくほど嬉しかった。

  ◇

 告白したのは、その1週間後だった。

 2025年4月8日。定時で上がった帰り道、川沿いの桜はもう散りかけていた。花弁が、暗い水面を流れていく。

「陽菜」
 呼びかけると、彼女が振り向いた。
「俺と付き合ってほしい」

 回りくどい前置きも、保険の冗談も、ひとつも挟まなかった。
 82歳の男に、駆け引きの時間はない。

 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、首筋まで赤くなった。
「......早くない?」
「早い」

「認めるんだ?」
「1秒も無駄にしたくないんだ」

 彼女は息を吸って、吐いて、ヒマワリの顔で笑った。

「はい」

 そして、少しだけ照れたように付け足した。
「......じゃあ、大輝くん、って呼んでもいいですか」
「まだたまに敬語になるね」
「これでも、頑張ってるんです」

  ◇

 そこからの1年半は、恐ろしいほど順調だった。思い出すたびに、息が詰まる。

 仕事は面白いように回った。60年分の失敗を、大輝はすべて知っている。どの資料を先に作れば誰の機嫌が直るか、どの案件が半年後に燃えるか。「新卒とは思えない」と言われるたび、大輝は曖昧に笑った。

 陽菜は毎日、昼休みに屋上へ来た。
 夏には海へ行った。陽菜が日焼け止めを塗り忘れ、茹だったような肩をして大輝に叱られた。
 秋には、2人で少し広い部屋の間取り図を眺め始めた。

 11月、彼女が熱を出した。おかゆを作りに行くと、玄関先で「見ないでください」と真っ赤な顔をされた。それでも粘って上がり込み、卵を落として食べさせた。

「大輝くんって、なんでも先回りするよね」
 熱でぼんやりした声だった。
「気持ち悪いか」
「ううん」
 彼女は布団から手を出して、大輝の袖を掴んだ。
「安心する」

 幸せだった。
 その幸せが、ずっと続いてほしいと願っていた。

  ◇

 2026年10月11日。日曜日。

 1度目の人生で、陽菜は21時過ぎ、駅前の横断歩道で信号を無視したトラックに轢かれた。
 だから大輝は、今日やることを決めていた。

 朝から彼女を連れ出し、車道のない河川敷を歩いた。昼は公園のベンチで食べた。夕方は2駅離れた、歩行者専用の商店街へ回った。
 そして21時、大輝は駅から3キロ先の裏通りで、スマホの時計を見つめていた。

 21時00分。
 21時05分。
 21時10分。

 何も、起きなかった。

「大輝くん、さっきから時計ばっかり見てる」
 陽菜が横から覗き込んでくる。
「お腹すいた?」

「......いや」
 全身から、力が抜けていくのが分かった。
 勝った。歴史を、変えた。
「なんでもない。帰ろうか」

「あ、待って。お茶買ってくる」
 陽菜が自販機へ駆けていく。
 その背中に、大輝は笑って手を振った。

 温かいペットボトルを2本抱えて、彼女が戻ってくる。歩道の、真ん中を。

 甲高いモーター音がした。

 角を曲がってきた電動キックボードが、歩道に乗り上げた。
 陽菜を避けようとした若者がハンドルを切り損ね、車体が横滑りする。

 大輝の身体は、動いていた。
 1度目のときは、その場にいなかった。知らせを受けたのは病院からの電話で、着いたときには、もう白い布が掛かっていた。
 今度は違う。踏み込んで、手を伸ばして、指先が彼女のコートに触れた。

 触れた、だけだった。

 ペットボトルが2本、歩道を転がって、縁石で止まった。
 どちらも、まだ温かかった。

「──陽菜」

 抱き起こした腕の中で、彼女は何が起きたのか分かっていない顔をしていた。口が動く。音は出ない。
 やがてその瞳から、光がゆっくりと引いていった。

 視界が、白く灼けた。

  ◇

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 パイプ椅子が軋んだ。また、あの日に戻っていた。

  ◇

 3度目の2026年10月11日、大輝は彼女を連れて逃げた。

 1週間前から有休を取らせ、飛行機で北の牧草地へ渡った。車の少ない土地。高い建物のない町。窓の外に何もない宿。電動キックボードも自転車も居ない。
 その日の午後、宿の裏手を散歩していて、彼女は転んだ。柵もない、20センチの段差だった。打ちどころが悪かった、と医者は言った。

 4度目。
 大輝は彼女をどこへも行かせなかった。都心のホテルの1室を丸1日借り切り、食事はすべて部屋に運ばせ、窓には近寄らせず、朝から手を握って過ごした。
 夕食を食べ終えた頃。談笑の途中で、陽菜は言葉を切った。
 胸を押さえ、不思議そうに大輝を見て、そのまま崩れ落ちた。急性心不全。23歳の、健康な女性の。

 外が駄目なら、内から。
 その程度のことは、平気で起きた。

 5度目は、先に病院へ入れた。精密検査の結果はすべて正常で、それでも大輝は頼み込んで、10月11日を心電図の音の中で迎えさせた。
 彼女はこめかみに手をやり、「ちょっと痛いかも」と笑った。それきりだった。

 6度目。風呂場で転倒。
 7度目。ベッドの中で発作。
 8度目。移動中、空から落ちてきた物。
 9度目。見知らぬ男の、理由もない刃物。
 10度目は、大輝が運転していた。

 いつしか大輝は、回数を数えるのをやめた。

 付き合う日を早めても、遅らせても、付き合わない選択をしても、日付だけは動かなかった。
 2026年10月11日。世界はその1日だけ、陽菜の命を奪うことを異様な執念で守り抜いた。

  ◇

 途中で一度、大輝は洗いざらい打ち明けたことがある。

 告白したその日の川沿いで、繰り返していることも、10月11日のことも、彼女がどんなふうに死ぬのかも、全部。
 信じてもらえるはずがなかった。

 陽菜は、長いこと黙っていた。
 構わなかった。頭のおかしい男だと切り捨てられるなら、そのほうが彼女は長く生きるかもしれないとさえ思った。

「......証明、できますか」
 返ってきたのは、それだけだった。

 大輝はその場で、これから1週間に起きることを手帳に書いた。取引先が飛ぶこと。課長の異動が発表されること。金曜の夕方に雨が降ること。
 金曜の夜、傘を2本持って現れた陽菜は、紙のように白い顔をしていた。

 その日から、2人で戦った。
 彼女は毎朝、行き先を大輝に伝えた。健康診断を人間ドックに変えた。カレンダーの10月11日に、赤い丸をつけた。

 その1年半は、それまでで一番、静かだった。
 ときどき彼女が、何も言わずに自分の手首を押さえるようになったことに、大輝は気づかないふりをしていた。脈を、確かめていたのだ。

 そして10月11日、彼女は死んだ。
 薄れていく意識の中で、陽菜は大輝の手を握った。

「ごめんね。......わたし、間に合わなかったね」

 それが、最後の言葉だった。

 以来、大輝は二度と話さなかった。
 自分の絶望に付き合わせるくらいなら、何も知らないまま笑っていてほしかった。

  ◇

 一度だけ、大輝は彼女に近づかないことを選んだ。

 入社式で目を合わせず、懇親会では反対側の島に回り、名前も呼ばなかった。廊下ですれ違うときは、会釈だけした。
 自分と関わりさえしなければ、あの日は来ないのではないか。その可能性を信じたかった。

 1年半、大輝は他人として彼女を見ていた。
 彼女が別の同期と親しくなるのも、社員旅行で誰かの隣で笑うのも、全部、離れた場所からだった。

 2026年10月11日の夜、スマホが鳴った。
 表示されていたのは、同期の連絡網を回している男の名前だった。

『佐藤、まだ聞いてないよな。......鈴木のことなんだが』

 その先は、聞くまでもなかった。
 視界が、白く灼けた。

  ◇

──彼女は、俺がいてもいなくても死ぬ。

 それなら。
 隣にいて死なせるほうが、まだましだった。

  ◇

 以降、大輝は毎回、彼女に告白した。
 そして毎回、彼女を殺された。

 たちの悪いことに、その1年半は、いつも幸せだった。
 初めて手を繋いだ日の体温も、鼻歌を歌いながら味噌汁をかき混ぜる背中も、喧嘩のあとに差し出される不器用なメモも、何度繰り返しても色褪せない。
 何度でも、何度でも、俺は彼女が好きなままで、彼女も俺を好きになってくれた。
 そのうえで必ず、10月11日が来た。

──安心する。
 何度目かの2026年10月11日、腕の中から温度が引いていく途中で、その言葉が蘇った。
 自分の隣が、彼女を送り出す場所になっていた。

 あるときは、入社式の会場のトイレで吐いた。
 鏡に映った22歳の顔が、知らない男に見えた。
 この顔で、これからまた120人と握手をして、3列前の女に笑いかけるのだ。

 パイプ椅子の軋む音は、いつからか処刑台のそれに聞こえるようになっていた。
 大輝の心はそのたびに砕けた。砕けた欠片を拾い集めて、また同じ椅子の上で目を覚ました。

(陽菜を助けて、ちゃんと幸せにしてやる)
 毎回、そう思っていた。
 指輪も、苗字のことも、全部、彼女を救ってからだと。

  ◇

「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」

 パイプ椅子が軋む。
 インクの匂いのする会社案内。板みたいなスマホ。3列前の、黒い髪。

 大輝は、もう何も感じなかった。

 それでも身体は動いた。フルネームで呼びかけ、懇親会を2人で回り、佐藤と鈴木の話をして、名前で呼び合うようになった。

 2025年4月8日。川沿い。散りかけた桜。

「陽菜」
 振り向く顔も、何百回見た。
「俺と付き合ってほしい」

 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、ヒマワリの顔で笑った。

「はい」

──その瞬間だった。

 82歳の自分の声を、ふと思い出した。

(自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ)
(1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ)

 大輝はずっと、あれを「彼女を救え」という意味だと思っていた。

(......ああ、そうか)

 救えないのなら。
 せめてこの1年半を、恋人のままでは終わらせない。
 この世で一番いい結婚生活を、彼女に。

 大輝は、彼女の手を取った。

「陽菜」
 自分でも驚くほど、声は静かだった。
「俺と、結婚してほしい」

 川の音が、やけに大きく聞こえた。

「......え?」
 陽菜の笑顔が、途中で止まる。
「あの、大輝くん。今、付き合ってって......」
「言った。返事ももらった」
「じゃあ、なんで」

「順番がおかしいのは分かってる。指輪もない。今日の帰りに買えるようなものじゃない」
 大輝は彼女の目を見た。
「それでも今、言わないと駄目なんだ」

「人は、いつ死ぬか分からない。......それを、嫌というほど知ってる」

 陽菜の瞳が揺れた。

「明日かもしれない。1年後かもしれない。そのときになって、言えばよかったと思うのだけは嫌なんだ」
 大輝は、握った手に力を込めた。
「君と過ごせる時間を、1秒も無駄にしたくない。恋人として過ごすより、夫婦として過ごしたい」

「......重いです」
「ああ、重い」

「認めるんだ?」
「認める」

 陽菜の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
 彼女はそれを手の甲で乱暴に拭って、キッと顔を上げた。

「......条件があります」
「なんでも」

「ちゃんと、わたしの両親に挨拶に来てください。順番は守ってほしいんです」
「行く。明日にでも」
「明日は仕事でしょ」

 涙目のまま、陽菜が吹き出した。
 繋いだ手に目を落として、ぽつりと続けた。
「......わたし、この1週間、ずっと不思議だったんです」
「何が」
「大輝さん。あ、大輝くんは、わたしが困る前に助けてくれる。言う前に分かってる」

 陽菜が、まっすぐ大輝を見た。

「その理由は、いつか聞かせてね」

「......ああ」
「はい」
 彼女は両手で、大輝の手を包み直した。
「わたしで、よければ」

  ◇

 それからの数ヶ月は、嵐のようだった。

 陽菜の父親には、玄関先で30分立たされた。母親は最初から泣いていた。
 大輝の両親は「早すぎる」「まだ社会を知らない」と渋り、そして並んで頭を下げる2人を見て、それ以上は何も言わなくなった。

 何度この歳をやり直しても、若い母の声にだけは慣れなかった。

 指輪は、学生時代の貯金と少ない給料を元手に、少しだけ未来の知識でズルしてから買った。
 給料3ヶ月分などという相場は、2025年にはもう誰も守っていなかったが、なんとかその相場にはできたと思う。石はごく小さい。
 内側に、2025年4月8日と刻んだ。

 婚姻届を出したのは、プロポーズから約5ヶ月後。秋の初めだ。
 窓口の職員が「おめでとうございます」と言い、陽菜が丁寧に頭を下げた。それだけの、あっけない手続きだった。

 鈴木陽菜が、佐藤陽菜になった。
 紙が1枚受理されただけで、2人の名前が、同じ欄に収まった。

 会社では、佐藤と鈴木の話が、佐藤と佐藤の話に変わった。
「余計ややこしくなったな」
 先輩に笑われて、陽菜はまた耳まで赤くしていた。

 狭い1LDK。表札は「佐藤」だけで、それが妙に可笑しかった。
 朝は2人で同じ電車に乗った。洗濯物の畳み方で揉め、寝る時間の違いで揉め、仲直りのたびに彼女は不器用なメモを残した。『おみそしる、しょっぱかったらいってね♡』。
 彼女の味噌汁は確かに少ししょっぱくて、大輝はそれを一度も言わなかった。メモも1枚残らず取っておいた。

 1年は、瞬く間だった。

  ◇

 2026年10月11日。日曜日。

 その日、大輝は何もしなかった。

 旅行にも連れ出さず、部屋に閉じ込めもせず、病院にも行かなかった。カーテンを開け、味噌汁を作り、洗濯機を回した。ごく普通の、休みの日にした。

 ただ、彼女の手を離さなかった。

 朝食のあいだも。玄関で靴を履くときも。スーパーのレジの前でも。

 夕方、ベランダで洗濯物を取り込む背中を、大輝はずっと見ていた。
 何度も、この日のうちに失った背中だった。

「見てないで手伝ってよ」
「片手が塞がってる」
「今日ずっと引っ付き虫だね」

  ◇

「ねえ、今日の大輝くん、変だよ」
 ソファで、陽菜が繋いだ手を持ち上げてみせた。
「ずっと手、繋いでる」

「......駄目か」
「ううん」
 彼女は笑って、そのまま大輝の肩に頭を預けた。

 窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。

 18時。
 19時。
 20時。

 21時30分。

 1度目の人生で彼女が死んだ時刻を、大輝は越えた。
 22時。
 トラックも、キックボードも来なかった。
 23時。
 陽菜は眠そうに目をこすっていた。

 23時58分。
 繋いだ手が、汗で滑った。
 23時59分。
 大輝は、息を止めた。
 秒針が、天辺を回った。
 0時00分。
──10月12日。

 何も、起きなかった。

「......あれ、大輝くん」
 陽菜が慌てた声を出す。
「どうしたの、ちょっと、なんで泣いてるの」

 止まらなかった。
 喉の奥から、自分でも聞いたことのない声が出た。
 砕けては拾い集めてきた全部が、一度に溢れた。

 彼女は、理由を聞かなかった。
 ただ大輝の頭を抱え込んで、子どもをあやすように背中を叩いた。

「......よく分かんないけど」
 陽菜の声が、頭の上から降ってくる。
「わたし、どこにも行かないよ」

「うん」
「ずっと、隣にいるから」
「......うん」

 間に合ったよ、と大輝は思った。
 何百回分の、たった一言だった。

 やがて、夜が明けた。
 彼女は普通に起きてきて、少ししょっぱい味噌汁を作った。

  ◇

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。

 佐藤大輝が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これで2度目だった。

  ◇

 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。

 朝の散歩コースにしている遊歩道。ホログラムの広告が朝日に滲み、機械の駆動音が行き交う。その空に、黒い球体が1つ浮いていた。

(迷惑系の配信屋か)
 そう思ったことまで、そっくり同じだった。
 大輝が顔を伏せかけると、隣から袖を引かれた。
「大輝くん、あの人、追いかけてくる」

「すみません、今よろしいですか!?」

 呼び止められて、身体のほうが勝手に身構えた。
 息を切らして追いついてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。

「触っていない。近寄ってもいない。独り歩きの年寄りを狙うなら、他を当たれ」
 両手を上げようとして、片方が塞がっていた。

 口が、あのときと同じことを喋っていた。

「大輝くん」
 袖が、もう一度引かれた。
「独り歩きじゃないでしょうが」

「......ああ、そうだったな」

「あの、怪しい者じゃないんです。ほら、これ」
 女が差し出した手のひらの上に、小さな光の板が展開する。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』

「あら、テレビ局さん」
 陽菜が目を丸くした。
「もうだいぶ見てないのよ、テレビ」

 女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いレトロなのが逆に新しいって」
 そしてドローンを指差す。
「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
 女が、手元の端末に目を落とす。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「佐藤大輝」
「佐藤陽菜です」

 そして、女は姿勢を正した。

「大輝さんと陽菜さん。ご夫婦ですよね。......若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」

 風が、桜の花弁を1枚、3人の間に落とした。

 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。

「......年寄りの惚気のろけでいいのか」
「え」
 女スタッフが、言葉に詰まった。
「カメラを真っ直ぐ見ればいいんだな」

 大輝はレンズを見据えた。
 背筋が、自然と伸びた。

「大輝」
 今度は、絞り出す必要もなかった。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合って結婚できる」

「まあ」
 隣で、陽菜が口元を押さえて笑った。
 皺の増えた顔が、60年前と同じように咲いた。

「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
「あら、そうだったかしら」

 大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ」

「男なら、出会った瞬間に覚悟を決めろ」

 スタッフが、声にならない息を漏らした。

「順番がどうとか、貯金がどうとか、自信がどうとか、悩んでいる時間に価値はない。指輪を渡すのが早ければ早いほど、一緒にいられる時間が長くなる。それだけの話だ」
 大輝は胸を張った。
「おかげで俺は、あいつに会ってから、1日も独りじゃなかった」

「もう。何を言ってるんですか、この人は」
 陽菜が、頬を赤くして肘でつついてくる。
 それでも彼女は、繋いだ手を離さなかった。

「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」
 大輝は、レンズに向かって笑ってみせた。
「──1秒も無駄にしなければ、60年だ。60年、ずっと隣にいられる」

「......っ、すみません、わたしが泣いてどうするんですか」
 女スタッフが目元を拭い、ドローンを手で払って下がらせた。
「あの......お2人の出会いは、どちらで?」

「入社式だ」

「席が、3列離れてました」
 陽菜が、悪戯っぽく指を3本立ててみせる。
「この人ったら、今の話そのままだったんですよ。お付き合いした当日にプロポーズ」

「と、当日......?」
「そう、入社式で出会って1週間後。川沿いで、桜が散っているときに。付き合ってくださいって言った5分後に今度はプロポーズよ」

 陽菜は白髪を、きれいに結い上げている。
 その左手の薬指で、小さな石が陽の光を弾いた。

「内側に、その日の日付が刻んであります」
 陽菜が指輪を少し回した。
「60年経っても、ちゃんと読めるんです。......どうしてあんなに急いでいたのかは、まだ教えてもらってませんけど」

「誰にも、取られたくなかったからな」
 大輝は、小さく呟いた。

「......素敵です。末永く、お幸せに!」
 深く頭を下げるスタッフに、2人は揃って会釈を返した。

  ◇

「疲れたでしょう。ベンチで休んでいきます?」
 陽菜が、遊歩道の脇を指差した。

「いや」
 大輝は首を振った。
「歩こう」

 一度だけ、目を閉じてみた。

 ホログラムの電子音も、機械の駆動音も、桜を揺らす風の音も、何ひとつ消えなかった。
 手のひらの中に、彼女の手の温もりがあった。

「流しに、2人分の食器を浸けたままだ」
「あら、ほんとう」

「帰ろうか、陽菜」
「はい」

 2085年の朝を、82歳の2人は、手を繋いでゆっくりと歩いていった。
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【悲報】彼女いない歴=年齢の俺、入社式で一目惚れした子と付き合えるが1年後に死なれると60年後の自分に教えられた 〜何度やり直しても救えないので、告白した5分後にプロポーズします〜作者:黒い★彡彗星
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