ネクスト・ジャーニー 〜若き日の俺へ〜
「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」
2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。
佐藤大輝が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これが初めてだった。
◇
ことの始まりは、頭上を滑る影だ。
朝の散歩コースにしている遊歩道。朝日に押し負けたホログラムの広告が、宙で薄く滲んでいる。すれ違う青年の首筋では接続端子が淡く光り、前を歩く婦人の左腕は、肘から先が鈍い銀色をしていた。
脇の車道を、音のない車が滑っていく。
そして、その空に、黒い球体が1つ浮いていた。
全天球型の撮影ドローンだ。
レンズがぐるりと回り、大輝の顔を舐めるように捉えた。
(迷惑系の配信屋か)
大輝は顔を伏せ、足を速めた。年寄りをからかって笑いを取る手合いは、60年前から手を替え品を替え湧いて出る。
「すみません、今よろしいですか!?」
呼び止められて、大輝は一瞬、身構えた。
追いかけてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。息を切らしながら、それでも笑顔を崩さない。
このところニュースを賑わせている手口が、脳裏をよぎった。
『不同意コミュニケーションで警察に突き出されたくなければ、今すぐ電子マネーで示談金を払え』──そうやって独り歩きの老人を脅す、典型的な美人局。
「触っていない。近寄ってもいない」
大輝は反射的に両手を上げた。
「金もない。年金暮らしのジジイだ。搾り取るなら他を当たれ」
「えっ、あの」
女が目を白黒させる。
「怪しい者じゃないんです。ほら、これ」
差し出された手のひらの上に、小さな光の板が展開した。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』──社員証のホログラムには、女の顔写真と、見覚えのない局名が並んでいる。
「テレビ局?」
大輝は思わず足を止めた。
「すみません、テレビはもう長いこと見てなくて」
女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いのが逆に新しいって」
そういうものか、と大輝は鼻を鳴らした。
「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
女がドローンを指差す。
「若い視聴者へのメッセージも兼ねて、ご年配の方に同じ質問をして回っているんです」
女が、ふと思い出したように付け足した。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「......佐藤大輝」
「佐藤さんですね。ありがとうございます」
そして、女は姿勢を正した。
「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」
風が、桜の花弁を1枚、2人の間に落とした。
1人分の朝食を作り、1人分だけ洗い、誰も待っていない部屋を出てきた朝だった。
大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。
「......年寄りの与太話でいいのか」
「もちろんです。カメラを、真っ直ぐ見てくださいね」
大輝はレンズを見据えた。
「大輝」
喉の奥から、声を絞り出した。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合える」
若い女スタッフが、おや、という顔をした。
「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ」
「......なぜなら彼女は」
「付き合って1年後に死ぬ」
横で、息を呑む音がした。
声がかすれた。
「それから俺は、彼女を忘れられないまま、82歳の今になってもずっと独身だ」
握った拳が、震えていた。
「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」
涙と鼻水が溢れ出していた。
「さ、佐藤さんっ、あの、大丈夫ですか!?」
女が慌ててドローンを手で払い、遊歩道の脇へ大輝の背を押した。
「すみません、わたし、こんな質問を......。あちらにベンチがありますから、少しお掛けになってください」
腰を下ろすと、背骨が軋んだ。
桜を揺らす風。ホログラムの電子音。機械の駆動音。若い娘の、おろおろとした声。
2085年の朝が、耳の中で混ざり合っている。
大輝は、ゆっくりと目を閉じた。
◇
軋む音がした。
背骨ではない。安物のパイプ椅子が、身じろぎひとつで鳴く音だ。
「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」
マイク越しの声。壇上には、まだ髪の黒い人事部長が立っている。
白い蛍光灯。折り目の硬いスーツ。同期の背中が、前に何列も並んでいる。
大輝は、自分の手を見た。
染みひとつない、皮の張った若い手だった。
膝の上には、紙の会社案内。ページを繰ると、インクの匂いがした。
隣の男が弄っているのは、折り畳みも巻き取りもしない、ただの薄い板のスマホだ。
壇上の脇には、白い文字を並べた垂れ幕が下がっている。
(......2025年4月1日 入社式)
心臓が、胸の内側を殴りつけていた。
膝が痛くない。腰も。朝起きるたびに悲鳴を上げていた肩も軽い。
記憶まで鮮明に思い出せる。
夢か、死に際の走馬灯か。どちらでもよかった。
大輝は、3列前の席を見た。
黒い髪。まっすぐな背筋。
隣の同期が何か囁いたらしい。その横顔がわずかに傾いて、ヒマワリが咲くみたいに笑った。
鈴木陽菜。22歳。
(......ああ)
60年ぶりだ、という言葉が、声にならずに喉で潰れた。
1度目の人生で、大輝はこの入社式で彼女に一目惚れした。
そして3ヶ月、まともに話しかけられなかった。目が合えば逸らし、飲み会では離れた席を選び、廊下ですれ違うたびに心臓だけがうるさかった。7月頃から徐々に会話するようになって、ようやく交際が始まったのは、10月。
その1年後、彼女は死んだ。
──1秒も無駄にするな。
自分の声が、耳の奥で反響している。
式が終わり、司会が解散を告げたその瞬間、大輝はもう立ち上がっていた。
「鈴木陽菜さん」
フルネームで呼びかけると、彼女は目を丸くした。
「え、はい。......すみません、以前にどこかでお会いしましたっけ?」
「いえ、名簿で見て覚えただけです。俺は佐藤大輝です」
大輝は自分のパンフレットの表紙を、指の背で軽く叩いてみせた。
「このあと懇親会でしょ。よかったら一緒に回りません? 今日のうちに、同期の顔と名前を全部覚えたくって」
「......全部、ですか」
「同期は120人だから、2人なら60人ずつ。いや、59人ずつかな」
陽菜は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「変な人ですね、佐藤さん」
「よく言われる」
何十年ぶりに聞く笑い声だった。
22歳の心臓が、みっともないほど跳ねた。
◇
懇親会は、大輝の独壇場になった。
緊張で名刺入れを取り落とした同期の背を叩き、部長の前で固まっている女子の皿に料理を取り分け、輪の外にはみ出した男を引っぱり込む。80歳で定年退職するまでの宴席の記憶は、新卒の懇親会を攻略するには、いささか過剰な装備だった。
もっとも、大輝が拾いきれなかった1人は、先に拾われていた。
壁際でグラスを持て余していた男の隣に、陽菜がいつのまにか立って、名前を聞いていた。しばらくすると、男の顔がほどけた。
「佐藤さん、すごいですね」
紙コップを両手で持ったまま、陽菜が感心したように言った。
「同期っていうより、なんだか......お兄さんみたい」
「そうか?」
「そうです。落ち着きすぎです」
「年の割に老けてるんだ」
「浪人か留年かしてるってこと?」
「いや、同い年の22だよ」
大輝は笑って誤魔化した。
そして、狙っていた場面は、思ったより早く転がり込んできた。
「佐藤さん」
呼ばれて顔を上げると、大輝を含めて3人が同時に振り返っていた。営業の佐藤主任。総務の佐藤さん。そして、新入社員の佐藤大輝。
「あ、すみません、営業の佐藤さんのほうです」
残りの2人が、揃って会釈して、向き直る。
隣では、陽菜も同じ目に遭っていた。
「鈴木さん、これ集めといて」
押しつけられた会費袋を反射的に受け取ろうとして、彼女の手が止まる。宛名は、経理の鈴木課長だった。
「......これ、今後も続きそうだね」
耳まで赤くして戻ってきた陽菜に、大輝は笑いを噛み殺した。
「佐藤と鈴木だぞ。来年以降の後輩とも絶対被りそう」
「じゃあ、どうすれば......」
「提案がある」
大輝は紙コップのウーロン茶を置いた。
「仕事で紛らわしいから、お互い下の名前で呼ばない? 社内でもやってる人、けっこういるらしい」
「え」
陽菜が、目をぱちぱちとさせた。
「し、下の名前、ですか」
「鈴木さんは陽菜さん。俺は佐藤じゃなくて大輝。......あくまで、仕事上の都合ってことで」
建前としては、完璧なはずだった。
だが口にした瞬間、自分の頬がわずかに熱を持った。
(......82まで生きて、これか)
陽菜はしばらく唇を結んでいたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。......大輝さん」
「さんもいらない」
「それは、まだ無理だよ」
笑いながらもきっぱりと言い切る律儀さが、彼女らしかった。
1度目の人生で名前を呼び合えるようになったのは、付き合ってからだ。
それが入社式の当日に届いた。胸の奥が、ひりつくほど嬉しかった。
◇
告白したのは、その1週間後だった。
2025年4月8日。定時で上がった帰り道、川沿いの桜はもう散りかけていた。花弁が、暗い水面を流れていく。
「陽菜」
呼びかけると、彼女が振り向いた。
「俺と付き合ってほしい」
回りくどい前置きも、保険の冗談も、ひとつも挟まなかった。
82歳の男に、駆け引きの時間はない。
陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、首筋まで赤くなった。
「......早くない?」
「早い」
「認めるんだ?」
「1秒も無駄にしたくないんだ」
彼女は息を吸って、吐いて、ヒマワリの顔で笑った。
「はい」
そして、少しだけ照れたように付け足した。
「......じゃあ、大輝くん、って呼んでもいいですか」
「まだたまに敬語になるね」
「これでも、頑張ってるんです」
◇
そこからの1年半は、恐ろしいほど順調だった。思い出すたびに、息が詰まる。
仕事は面白いように回った。60年分の失敗を、大輝はすべて知っている。どの資料を先に作れば誰の機嫌が直るか、どの案件が半年後に燃えるか。「新卒とは思えない」と言われるたび、大輝は曖昧に笑った。
陽菜は毎日、昼休みに屋上へ来た。
夏には海へ行った。陽菜が日焼け止めを塗り忘れ、茹だったような肩をして大輝に叱られた。
秋には、2人で少し広い部屋の間取り図を眺め始めた。
11月、彼女が熱を出した。おかゆを作りに行くと、玄関先で「見ないでください」と真っ赤な顔をされた。それでも粘って上がり込み、卵を落として食べさせた。
「大輝くんって、なんでも先回りするよね」
熱でぼんやりした声だった。
「気持ち悪いか」
「ううん」
彼女は布団から手を出して、大輝の袖を掴んだ。
「安心する」
幸せだった。
その幸せが、ずっと続いてほしいと願っていた。
◇
2026年10月11日。日曜日。
1度目の人生で、陽菜は21時過ぎ、駅前の横断歩道で信号を無視したトラックに轢かれた。
だから大輝は、今日やることを決めていた。
朝から彼女を連れ出し、車道のない河川敷を歩いた。昼は公園のベンチで食べた。夕方は2駅離れた、歩行者専用の商店街へ回った。
そして21時、大輝は駅から3キロ先の裏通りで、スマホの時計を見つめていた。
21時00分。
21時05分。
21時10分。
何も、起きなかった。
「大輝くん、さっきから時計ばっかり見てる」
陽菜が横から覗き込んでくる。
「お腹すいた?」
「......いや」
全身から、力が抜けていくのが分かった。
勝った。歴史を、変えた。
「なんでもない。帰ろうか」
「あ、待って。お茶買ってくる」
陽菜が自販機へ駆けていく。
その背中に、大輝は笑って手を振った。
温かいペットボトルを2本抱えて、彼女が戻ってくる。歩道の、真ん中を。
甲高いモーター音がした。
角を曲がってきた電動キックボードが、歩道に乗り上げた。
陽菜を避けようとした若者がハンドルを切り損ね、車体が横滑りする。
大輝の身体は、動いていた。
1度目のときは、その場にいなかった。知らせを受けたのは病院からの電話で、着いたときには、もう白い布が掛かっていた。
今度は違う。踏み込んで、手を伸ばして、指先が彼女のコートに触れた。
触れた、だけだった。
ペットボトルが2本、歩道を転がって、縁石で止まった。
どちらも、まだ温かかった。
「──陽菜」
抱き起こした腕の中で、彼女は何が起きたのか分かっていない顔をしていた。口が動く。音は出ない。
やがてその瞳から、光がゆっくりと引いていった。
視界が、白く灼けた。
◇
「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」
パイプ椅子が軋んだ。また、あの日に戻っていた。
◇
3度目の2026年10月11日、大輝は彼女を連れて逃げた。
1週間前から有休を取らせ、飛行機で北の牧草地へ渡った。車の少ない土地。高い建物のない町。窓の外に何もない宿。電動キックボードも自転車も居ない。
その日の午後、宿の裏手を散歩していて、彼女は転んだ。柵もない、20センチの段差だった。打ちどころが悪かった、と医者は言った。
4度目。
大輝は彼女をどこへも行かせなかった。都心のホテルの1室を丸1日借り切り、食事はすべて部屋に運ばせ、窓には近寄らせず、朝から手を握って過ごした。
夕食を食べ終えた頃。談笑の途中で、陽菜は言葉を切った。
胸を押さえ、不思議そうに大輝を見て、そのまま崩れ落ちた。急性心不全。23歳の、健康な女性の。
外が駄目なら、内から。
その程度のことは、平気で起きた。
5度目は、先に病院へ入れた。精密検査の結果はすべて正常で、それでも大輝は頼み込んで、10月11日を心電図の音の中で迎えさせた。
彼女はこめかみに手をやり、「ちょっと痛いかも」と笑った。それきりだった。
6度目。風呂場で転倒。
7度目。ベッドの中で発作。
8度目。移動中、空から落ちてきた物。
9度目。見知らぬ男の、理由もない刃物。
10度目は、大輝が運転していた。
いつしか大輝は、回数を数えるのをやめた。
付き合う日を早めても、遅らせても、付き合わない選択をしても、日付だけは動かなかった。
2026年10月11日。世界はその1日だけ、陽菜の命を奪うことを異様な執念で守り抜いた。
◇
途中で一度、大輝は洗いざらい打ち明けたことがある。
告白したその日の川沿いで、繰り返していることも、10月11日のことも、彼女がどんなふうに死ぬのかも、全部。
信じてもらえるはずがなかった。
陽菜は、長いこと黙っていた。
構わなかった。頭のおかしい男だと切り捨てられるなら、そのほうが彼女は長く生きるかもしれないとさえ思った。
「......証明、できますか」
返ってきたのは、それだけだった。
大輝はその場で、これから1週間に起きることを手帳に書いた。取引先が飛ぶこと。課長の異動が発表されること。金曜の夕方に雨が降ること。
金曜の夜、傘を2本持って現れた陽菜は、紙のように白い顔をしていた。
その日から、2人で戦った。
彼女は毎朝、行き先を大輝に伝えた。健康診断を人間ドックに変えた。カレンダーの10月11日に、赤い丸をつけた。
その1年半は、それまでで一番、静かだった。
ときどき彼女が、何も言わずに自分の手首を押さえるようになったことに、大輝は気づかないふりをしていた。脈を、確かめていたのだ。
そして10月11日、彼女は死んだ。
薄れていく意識の中で、陽菜は大輝の手を握った。
「ごめんね。......わたし、間に合わなかったね」
それが、最後の言葉だった。
以来、大輝は二度と話さなかった。
自分の絶望に付き合わせるくらいなら、何も知らないまま笑っていてほしかった。
◇
一度だけ、大輝は彼女に近づかないことを選んだ。
入社式で目を合わせず、懇親会では反対側の島に回り、名前も呼ばなかった。廊下ですれ違うときは、会釈だけした。
自分と関わりさえしなければ、あの日は来ないのではないか。その可能性を信じたかった。
1年半、大輝は他人として彼女を見ていた。
彼女が別の同期と親しくなるのも、社員旅行で誰かの隣で笑うのも、全部、離れた場所からだった。
2026年10月11日の夜、スマホが鳴った。
表示されていたのは、同期の連絡網を回している男の名前だった。
『佐藤、まだ聞いてないよな。......鈴木のことなんだが』
その先は、聞くまでもなかった。
視界が、白く灼けた。
◇
──彼女は、俺がいてもいなくても死ぬ。
それなら。
隣にいて死なせるほうが、まだましだった。
◇
以降、大輝は毎回、彼女に告白した。
そして毎回、彼女を殺された。
たちの悪いことに、その1年半は、いつも幸せだった。
初めて手を繋いだ日の体温も、鼻歌を歌いながら味噌汁をかき混ぜる背中も、喧嘩のあとに差し出される不器用なメモも、何度繰り返しても色褪せない。
何度でも、何度でも、俺は彼女が好きなままで、彼女も俺を好きになってくれた。
そのうえで必ず、10月11日が来た。
──安心する。
何度目かの2026年10月11日、腕の中から温度が引いていく途中で、その言葉が蘇った。
自分の隣が、彼女を送り出す場所になっていた。
あるときは、入社式の会場のトイレで吐いた。
鏡に映った22歳の顔が、知らない男に見えた。
この顔で、これからまた120人と握手をして、3列前の女に笑いかけるのだ。
パイプ椅子の軋む音は、いつからか処刑台のそれに聞こえるようになっていた。
大輝の心はそのたびに砕けた。砕けた欠片を拾い集めて、また同じ椅子の上で目を覚ました。
(陽菜を助けて、ちゃんと幸せにしてやる)
毎回、そう思っていた。
指輪も、苗字のことも、全部、彼女を救ってからだと。
◇
「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」
パイプ椅子が軋む。
インクの匂いのする会社案内。板みたいなスマホ。3列前の、黒い髪。
大輝は、もう何も感じなかった。
それでも身体は動いた。フルネームで呼びかけ、懇親会を2人で回り、佐藤と鈴木の話をして、名前で呼び合うようになった。
2025年4月8日。川沿い。散りかけた桜。
「陽菜」
振り向く顔も、何百回見た。
「俺と付き合ってほしい」
陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、ヒマワリの顔で笑った。
「はい」
──その瞬間だった。
82歳の自分の声を、ふと思い出した。
(自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ)
(1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ)
大輝はずっと、あれを「彼女を救え」という意味だと思っていた。
(......ああ、そうか)
救えないのなら。
せめてこの1年半を、恋人のままでは終わらせない。
この世で一番いい結婚生活を、彼女に。
大輝は、彼女の手を取った。
「陽菜」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「俺と、結婚してほしい」
川の音が、やけに大きく聞こえた。
「......え?」
陽菜の笑顔が、途中で止まる。
「あの、大輝くん。今、付き合ってって......」
「言った。返事ももらった」
「じゃあ、なんで」
「順番がおかしいのは分かってる。指輪もない。今日の帰りに買えるようなものじゃない」
大輝は彼女の目を見た。
「それでも今、言わないと駄目なんだ」
「人は、いつ死ぬか分からない。......それを、嫌というほど知ってる」
陽菜の瞳が揺れた。
「明日かもしれない。1年後かもしれない。そのときになって、言えばよかったと思うのだけは嫌なんだ」
大輝は、握った手に力を込めた。
「君と過ごせる時間を、1秒も無駄にしたくない。恋人として過ごすより、夫婦として過ごしたい」
「......重いです」
「ああ、重い」
「認めるんだ?」
「認める」
陽菜の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女はそれを手の甲で乱暴に拭って、キッと顔を上げた。
「......条件があります」
「なんでも」
「ちゃんと、わたしの両親に挨拶に来てください。順番は守ってほしいんです」
「行く。明日にでも」
「明日は仕事でしょ」
涙目のまま、陽菜が吹き出した。
繋いだ手に目を落として、ぽつりと続けた。
「......わたし、この1週間、ずっと不思議だったんです」
「何が」
「大輝さん。あ、大輝くんは、わたしが困る前に助けてくれる。言う前に分かってる」
陽菜が、まっすぐ大輝を見た。
「その理由は、いつか聞かせてね」
「......ああ」
「はい」
彼女は両手で、大輝の手を包み直した。
「わたしで、よければ」
◇
それからの数ヶ月は、嵐のようだった。
陽菜の父親には、玄関先で30分立たされた。母親は最初から泣いていた。
大輝の両親は「早すぎる」「まだ社会を知らない」と渋り、そして並んで頭を下げる2人を見て、それ以上は何も言わなくなった。
何度この歳をやり直しても、若い母の声にだけは慣れなかった。
指輪は、学生時代の貯金と少ない給料を元手に、少しだけ未来の知識でズルしてから買った。
給料3ヶ月分などという相場は、2025年にはもう誰も守っていなかったが、なんとかその相場にはできたと思う。石はごく小さい。
内側に、2025年4月8日と刻んだ。
婚姻届を出したのは、プロポーズから約5ヶ月後。秋の初めだ。
窓口の職員が「おめでとうございます」と言い、陽菜が丁寧に頭を下げた。それだけの、あっけない手続きだった。
鈴木陽菜が、佐藤陽菜になった。
紙が1枚受理されただけで、2人の名前が、同じ欄に収まった。
会社では、佐藤と鈴木の話が、佐藤と佐藤の話に変わった。
「余計ややこしくなったな」
先輩に笑われて、陽菜はまた耳まで赤くしていた。
狭い1LDK。表札は「佐藤」だけで、それが妙に可笑しかった。
朝は2人で同じ電車に乗った。洗濯物の畳み方で揉め、寝る時間の違いで揉め、仲直りのたびに彼女は不器用なメモを残した。『おみそしる、しょっぱかったらいってね♡』。
彼女の味噌汁は確かに少ししょっぱくて、大輝はそれを一度も言わなかった。メモも1枚残らず取っておいた。
1年は、瞬く間だった。
◇
2026年10月11日。日曜日。
その日、大輝は何もしなかった。
旅行にも連れ出さず、部屋に閉じ込めもせず、病院にも行かなかった。カーテンを開け、味噌汁を作り、洗濯機を回した。ごく普通の、休みの日にした。
ただ、彼女の手を離さなかった。
朝食のあいだも。玄関で靴を履くときも。スーパーのレジの前でも。
夕方、ベランダで洗濯物を取り込む背中を、大輝はずっと見ていた。
何度も、この日のうちに失った背中だった。
「見てないで手伝ってよ」
「片手が塞がってる」
「今日ずっと引っ付き虫だね」
◇
「ねえ、今日の大輝くん、変だよ」
ソファで、陽菜が繋いだ手を持ち上げてみせた。
「ずっと手、繋いでる」
「......駄目か」
「ううん」
彼女は笑って、そのまま大輝の肩に頭を預けた。
窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。
18時。
19時。
20時。
21時30分。
1度目の人生で彼女が死んだ時刻を、大輝は越えた。
22時。
トラックも、キックボードも来なかった。
23時。
陽菜は眠そうに目をこすっていた。
23時58分。
繋いだ手が、汗で滑った。
23時59分。
大輝は、息を止めた。
秒針が、天辺を回った。
0時00分。
──10月12日。
何も、起きなかった。
「......あれ、大輝くん」
陽菜が慌てた声を出す。
「どうしたの、ちょっと、なんで泣いてるの」
止まらなかった。
喉の奥から、自分でも聞いたことのない声が出た。
砕けては拾い集めてきた全部が、一度に溢れた。
彼女は、理由を聞かなかった。
ただ大輝の頭を抱え込んで、子どもをあやすように背中を叩いた。
「......よく分かんないけど」
陽菜の声が、頭の上から降ってくる。
「わたし、どこにも行かないよ」
「うん」
「ずっと、隣にいるから」
「......うん」
間に合ったよ、と大輝は思った。
何百回分の、たった一言だった。
やがて、夜が明けた。
彼女は普通に起きてきて、少ししょっぱい味噌汁を作った。
◇
「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」
2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。
佐藤大輝が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これで2度目だった。
◇
ことの始まりは、頭上を滑る影だ。
朝の散歩コースにしている遊歩道。ホログラムの広告が朝日に滲み、機械の駆動音が行き交う。その空に、黒い球体が1つ浮いていた。
(迷惑系の配信屋か)
そう思ったことまで、そっくり同じだった。
大輝が顔を伏せかけると、隣から袖を引かれた。
「大輝くん、あの人、追いかけてくる」
「すみません、今よろしいですか!?」
呼び止められて、身体のほうが勝手に身構えた。
息を切らして追いついてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。
「触っていない。近寄ってもいない。独り歩きの年寄りを狙うなら、他を当たれ」
両手を上げようとして、片方が塞がっていた。
口が、あのときと同じことを喋っていた。
「大輝くん」
袖が、もう一度引かれた。
「独り歩きじゃないでしょうが」
「......ああ、そうだったな」
「あの、怪しい者じゃないんです。ほら、これ」
女が差し出した手のひらの上に、小さな光の板が展開する。
『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』
「あら、テレビ局さん」
陽菜が目を丸くした。
「もうだいぶ見てないのよ、テレビ」
女は嬉しそうに頷いた。
「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭いのが逆に新しいって」
そしてドローンを指差す。
「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」
女が、手元の端末に目を落とす。
「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」
「佐藤大輝」
「佐藤陽菜です」
そして、女は姿勢を正した。
「大輝さんと陽菜さん。ご夫婦ですよね。......若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」
風が、桜の花弁を1枚、3人の間に落とした。
大輝は黙って、黒い球体を見上げた。
レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。
「......年寄りの惚気でいいのか」
「え」
女スタッフが、言葉に詰まった。
「カメラを真っ直ぐ見ればいいんだな」
大輝はレンズを見据えた。
背筋が、自然と伸びた。
「大輝」
今度は、絞り出す必要もなかった。
「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合って結婚できる」
「まあ」
隣で、陽菜が口元を押さえて笑った。
皺の増えた顔が、60年前と同じように咲いた。
「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」
「あら、そうだったかしら」
大輝はそこで一度、息を吸った。
「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ」
「男なら、出会った瞬間に覚悟を決めろ」
スタッフが、声にならない息を漏らした。
「順番がどうとか、貯金がどうとか、自信がどうとか、悩んでいる時間に価値はない。指輪を渡すのが早ければ早いほど、一緒にいられる時間が長くなる。それだけの話だ」
大輝は胸を張った。
「おかげで俺は、あいつに会ってから、1日も独りじゃなかった」
「もう。何を言ってるんですか、この人は」
陽菜が、頬を赤くして肘でつついてくる。
それでも彼女は、繋いだ手を離さなかった。
「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」
大輝は、レンズに向かって笑ってみせた。
「──1秒も無駄にしなければ、60年だ。60年、ずっと隣にいられる」
「......っ、すみません、わたしが泣いてどうするんですか」
女スタッフが目元を拭い、ドローンを手で払って下がらせた。
「あの......お2人の出会いは、どちらで?」
「入社式だ」
「席が、3列離れてました」
陽菜が、悪戯っぽく指を3本立ててみせる。
「この人ったら、今の話そのままだったんですよ。お付き合いした当日にプロポーズ」
「と、当日......?」
「そう、入社式で出会って1週間後。川沿いで、桜が散っているときに。付き合ってくださいって言った5分後に今度はプロポーズよ」
陽菜は白髪を、きれいに結い上げている。
その左手の薬指で、小さな石が陽の光を弾いた。
「内側に、その日の日付が刻んであります」
陽菜が指輪を少し回した。
「60年経っても、ちゃんと読めるんです。......どうしてあんなに急いでいたのかは、まだ教えてもらってませんけど」
「誰にも、取られたくなかったからな」
大輝は、小さく呟いた。
「......素敵です。末永く、お幸せに!」
深く頭を下げるスタッフに、2人は揃って会釈を返した。
◇
「疲れたでしょう。ベンチで休んでいきます?」
陽菜が、遊歩道の脇を指差した。
「いや」
大輝は首を振った。
「歩こう」
一度だけ、目を閉じてみた。
ホログラムの電子音も、機械の駆動音も、桜を揺らす風の音も、何ひとつ消えなかった。
手のひらの中に、彼女の手の温もりがあった。
「流しに、2人分の食器を浸けたままだ」
「あら、ほんとう」
「帰ろうか、陽菜」
「はい」
2085年の朝を、82歳の2人は、手を繋いでゆっくりと歩いていった。