12.アルフォンスと初めてのキス
ジャスティン王子の乗った馬車を見送ってからエリザベスとアルフォンスの二人は塔に戻った。
夜まではまだ長い。夕食や湯あみまでの時間をまた魔術の研究に費やして過ごしたが、一旦プロポーズを意識させられてしまったアルフォンスは心ここにあらずといった具合で、何度か薬の調合を間違え手元で小さな爆発を起こしたりした。
「どうしたの? アルフォンス。疲れてるの? 今日はこの辺にしたら?」
「そうかもしれない......。これ以上貴重な材料を無駄にしてしまってもいけないし、このくらいにしておこうか」
王宮魔術師になることについてまだ悩んでいて落ち着かないのだとエリザベスが勘違いしてくれていたらいいとアルフォンスは思った。
「アルフォンス、あなた火傷してるじゃない。いけないわ。早く冷やさなくちゃ」
そう言うとエリザベスは凍結と小さく呟き、手元のビーカーに満たされた水を凍らせた。
ここ数日アルフォンスと一緒に魔術に関わっただけでエリザベスは簡単な魔術なら使えるようになってきていた。アルフォンスは彼女の聡明さと魔術の才能を認めざるを得ない。かさねがさね、エリザベスが自分の婚約者になってくれた喜びを彼は噛みしめる。
今夜エリザベスに自分の口からプロポーズをする。
アルフォンスは親友のジャスティン王子のように女性をロマンティックな場所で口説いたりした経験はない。
エリザベスがこの家に来てスウィートロールを食べたあと、これ以上美味しそうになってどうするのかというような言葉を言ってはみたが実はそれは精いっぱいかっこつけようとジャスティンの真似をしてみただけで、言った後わきの下に冷たい変な汗をだらだらかくはめになった。
(アルフォンス、愛しのレディ、エリザベスと一緒に住めて嬉しいのはわかるけどね、まだ式が終わっていないのだから羽目を外しすぎてはいけませんからね)
兄の婚約者に懸想しているなど厳格な父には絶対に相談できなかったアルフォンスは、クラウスとエリザベスの婚約が発表されてすぐの時に一度だけ、胸の内を母である公爵夫人に漏らした。
それをしっかりと覚えていた夫人は内気な次男の初恋が叶ったことを喜び、そしてしっかりと釘を刺した。
(ローゼンハイム家の掟のひとつとして、結婚式の前に夫婦の営みを行うことは許されません。あなたのお父様も式が終わるまではキスしかしてきませんでしたよ。クラウスもおそらくそうでしょう。だから毅然としているのですよ。わかりましたか? アルフォンス......)
頭の中でわいわいとした母の言葉を思い出しているアルフォンスの手にエリザベスが氷を当ててきた。
するどいくらいに冷たい氷の感触に驚いてアルフォンスは「ひゅうい......」と変な音の息を吐きながらエリザベスの顔を見る。
エリザベスの顔は、今日も何もないなだらかな皮膚が広がっているように見えた。
「ごめんなさい、びっくりした?」
「う、ん。ちょっとだけ考え事をしていたから......僕こそごめんね」
このつるっとした場所に、本来なら清楚で可憐な顔が存在しているのだ。今だって見えないだけで存在しているのだろう。
(今エリザベスはどんな表情をしてるのだろう。僕を心配して眉をハの字にしているのだろうか。それとも間近で男の顔を見てどぎまぎしているんだろうか。ああ、僕も君の顔が見たいよ。だけどそんなことを考えてるだなんて悟られてはいけない。知られたら嘘つきと嫌われてしまうかもしれない。そんなの耐えられない。ああ、愛してる。エリザベス......)
気が付くとアルフォンスはエリザベスの小さなおとがいに手を添え、唇があるはずのところに自分の唇を押し当てていた。
アルフォンスの少し乾いた唇の表皮が感じた感触はつるりとした皮膚ではなく、この世のどんな上等な食べ物よりも柔らかいのではないかと思える瑞々しい乙女の唇の感触だった。
(柔らかい......これがエリザベスの唇。なんて気持ちがいいんだ。これがエリザベスとのキス......)
衝動的にキスしてしまったアルフォンスの胸が鼓笛隊の太鼓のように遅れて激しく高鳴り始めた。奥手なアルフォンスは家族以外とキスしたのもこれが初めてだった。
「あ、ご、ごめんっ、なんか僕、君が好きでっ......。違う、いや! 違わない、違わない、けど。君が好きだって思ったらたまらない気持ちになって......。キス、してしまった。......嫌だった?」
「は......はえ......、や......じゃないです......けど」
自分が暴走したことに気が付いて慌てて唇を離したアルフォンスが見たエリザベスの顔面は首や耳まで真っ赤に染まっていた。
顔の部品は見えなくとも今度はどんな顔をしているかその色のおかげで想像がついた。
「急に、キスされたから......びっくり、しました......」
「そうだよね、びっくりしたよね。ごめんね......」
「でも、その、いやじゃなかったので......」
「えっ......」
真っ赤な顔のままぷるぷると震えているエリザベスはキスが嫌じゃないと言ったことが恥ずかしいようだ。そして少しだけ時間をおいて、彼女は言葉の続きを口にした。
「今度からするって言ってからしてください......」
「!!!!!!!」
アルフォンスの胸の中に猛烈な愛おしさが湧いて、爆発するように全身に広がった。
「エリザベス、それは反則だ......」
「はんそく......? え? 一体どういう......」
「そんなの......可愛すぎるだろう!!!」
「ええええ......」
「エリザベス。僕のエリザベス。今夜君の部屋に行ってもいいかい」
「ええッ!!? わたしの部屋に!?」
アルフォンスはエリザベスがこの塔に来てから彼女の部屋に不躾に訪ねて行ったことはまだなかった。いくら未来の夫だからとって彼女のプライベートな空間を侵してはいけないと思っていたからだ。
「僕は、僕はローゼンハイム家の公式な決定だけじゃない、ちゃんと僕の言葉で君に求婚したいんだ。だけど今じゃない。薬品で汚れた研究室じゃなくて、君の瞳の色に囲まれた君の部屋で僕の決意を聞いてほしいんだ。いいかな。エリザベス......」
「はい......待ってます」
「!!!!」
いきなりキスしたことを許すどころか部屋で待っていてくれると言ってくれたエリザベスが愛しくて愛しくて、アルフォンスは返事の代わりに彼女を抱きしめる。
たっぷりと数分間彼女の身体の柔らかさを楽しんだあと、アルフォンスはようやく抱きしめる手を離した。
「ありがとう、エリザベス。そろそろマイカが夕餉の用意を始めるころだ。薬品で手が汚れてしまったし、先に湯あみをしようか?」
「アルフォンス、もう火傷は痛くないのですか?」
「こんなもの、元から大したことはない。君とのキスの甘さで吹っ飛んでしまったよ」
「アルフォンスったら......」
苦手だと思っていたロマンチックな言葉を自然に口にできていることにアルフォンスは気が付いていない。エリザベスが好きだと言う気持ちを素直に口にすると言葉が勝手に甘くなってしまうのだ。
まだ面と向かってのプロポーズをしていないだけで、アルフォンスとエリザベスの心の間には結びつきができている。
それでも、自分の口からきちんと言い、受け入れてもらうことがアルフォンスには重要だった。