第1話:黄金の瞳と、不器用な指先
叩きつけるような雨の音に混じって、誰かが自分を嘲笑う声が聞こえた気がした。
『うすのろグリム!』
『はぐれのグリム!』
振り返る気力はなかった。
否定する言葉も、持っていない。
人間達に”亜人”と呼ばれる者たちの集落の隅っこで泥を啜り、他人の食べ残しを漁る日々。
そこにいても、先なんてない。
このまま、誰の記憶にも残らず、ただ土に還るだけだ。
そんなことを、ぼんやりと思っていた。
気づけば、足が前に出ていた。
目指したのは、ずいぶん前に見つけた街道からしばらく行った先にある洞窟だった。
そこなら、集落の連中に見つかることもなく、静かに暮らしていけるだろう。
視界を白く染めるほどの豪雨の中、彼は這うようにして森を抜けていた。
冷たい雨が皮膚を刺し、じわじわと体温を奪っていく。
すり減って底に穴の空いた靴は、すでに用をなしていない。
入り込んだ泥と小石が歩くたびに皮膚を削り、冷たい雨の中でもそこだけが熱を持っていた。
(......いたい。......さむい)
見覚えのある街道に辿り着き、向こう側を眺める。
ようやくここまで来た、あとはあの洞窟で雨を凌ごう。
半ば意識が飛びかけていた時だった。
その手前で、雷光が闇を切り裂いた。
街道の脇に横転した幌馬車の残骸が、白く照らし出される。木の焼ける匂いと、生々しい血の香り。
それ以上にグリムの足を竦ませたのは、幌馬車を紙細工のように引き裂いた、巨大な「爪跡」だった。
抉り取られた地面には、どす黒い粘液が雨に打たれて蠢いている。
(......まものだ)
逃げろ、と身体が叫んだ。
本能が”近寄るな”と激しく警鐘を鳴らす。
だが、風に乗って聞こえてきた微かな呻きが、彼の足を止めた。
「......あ......あ......」
ひっくり返った荷台の陰、泥にまみれた毛布を抱きしめるようにして、一人の女が倒れていた。
血の気の引いた顔、焦点の定まらない瞳。グリムの異形な姿を見て、女は一瞬だけ絶望に目を見開く。
しかし、迫りくる死の足音の方が、目の前の亜人よりもずっと近かった。
女は最期の力を振り絞り、自分の一部であるかのように抱きしめていた赤ん坊を、グリムの方へと差し出した。
「......おねがい......。この子を......たすけて......」
グリムは困惑し、長い腕をこわばらせて後ずさる。
人間は全てではないが、亜人を嫌う。
言葉を交わさず、目すら合わせようとしない。
それが普通だ。
けれど、女の瞳に宿る今にも消えそうなのに目を逸らせない光が、グリムをその場に縛り付けた。
促されるように彼が差し出した不器用な両手に、柔らかく、驚くほど熱い命の塊が預けられる。
女は、赤ん坊の頬を愛おしそうになぞると、震える唇でその名を紡いだ。
「......アリス......。この子は......アリス......」
その声が、最後だった。
女の手が泥の上に力なく落ち、二度と動かなくなる。
残されたのは、降りしきる雨の音と、見知らぬ種族の腕の中で泣き声を上げた赤ん坊。
グリムは凍える唇で、その名をなぞった。
「......あ。......り。......す」
その音は、胸の奥に、ずしりとした重さで落ちた。
彼は赤ん坊を雨から守るように麻布の胸元へ押し込む。
二度と離さないと、深い闇の中へと駆け出した。
♢♢♢
......誰? 誰かが、私を呼んでいる。
意識が、深い霧の底からゆっくりと浮上していく。
最後に覚えていたのは、ひどく冷え込んだ冬の夜の帰り道だった。
突然、冷たいアスファルトに膝をつき、体からふっと力が抜けてしまった、あの感覚。
なのに、今聞こえるのは、雨音を突き抜けてくる――ひどく掠れた、獣のような声だ。
「......あ。......り。......す」
重い瞼を、ゆっくりと開く。
視界に入ってきたのは、雨に濡れた、不気味な緑色の顔だった。
突き出た顎に、醜い鼻。人間とはかけ離れた異形の怪物。
物語に出てくる怪物そのものだった。
(......え? なに、なにこれ?......もしかしてゴブリン!?)
パニックに陥りながらも、必死に状況を理解しようとする。
たしか私は買い物リストを頭の中で考えながら、帰り道を歩いていたはず。
それなのに、眩暈を覚えたと思った瞬間、意識が途切れた。
目を開けたら、いきなりこの光景だ。
何か、何か状況を理解できるものは無いかと辺りを見回す。
壊れた馬車らしき物。
そして......視界の端に見えた、小さな手。
衝撃に感情が膨れ上がりそうになったその時。
私を抱きかかえる怪物の瞳と、視線が重なった。
金色のその目には、溢れそうなほどの涙が溜まっている。
泥だらけの大きな指が、壊れ物を扱うような震える手つきで、私の頬の汚れをそっと拭った。
怯えているのは、私だけじゃなかった。
目の前の化け物は、嵐の中で離すと壊れてしまいそうな顔で、何度も同じ言葉を繰り返していた。
ありす......アリス。
恐らく私の名前だろうか。
(......この人、泣いてるの......?)
この不器用な手の温もりが伝わってきた瞬間、胸の奥が、すっと静かになった。
けれど、この緑色の生き物だけは、絶対に私を放さないと確信できた。
私は、震える指を伸ばし、彼の汚れた指先をぎゅっと握り返した。
「きゃはっ......!」
自分でも驚くほど素直に、笑い声が漏れた。
この人が、私の新しい世界で最初に掴んだ存在。
不器用に抱くその腕で、自身の胸の中へと雨粒が私に当たらないようにその身を屈め、暗がりの先へと視線を走らせた。
ゆっくりと立ち上がり、小走りに木立の中を器用に進む。
私に雨や藪の小枝が当たらぬ様に、自身は濡れようが傷つこうがお構いなしに家路を急ぐかの様に。
どれ位そうしていただろうか、ふいに雨や風の気配が無くなった。
まだこの体で暗がりを見るのは無理があったけど、ここは洞窟の中だと直感した。
「......ありす......ここ、あたらしい......いえ」
どうやら前途は多難そうだけど、不思議とこの人となら上手くやっていけそうな予感がした。