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Echo 00 『 深淵の産声 』


 溺おぼれる。沈む。沈む、沈む......。

 耳の奥で、ぼこり、と鈍にぶい水音が弾はじけた。
 奈落ならくの底へと引き摺ずり込まれる感覚が、濡ぬれた縄なわのように全身へ絡からみつく。冷酷れいこくな闇やみが皮膚ひふの隙間すきまから体温を奪うばい、肺の奥へ冷水が染しみ込こんでいった。

 ―――

 栄光えいこうの頂いただきを夢見たはずの四肢ししは、今や冷たい床に這はいつくばり、ピクリとも動かない。抗あらがう術すべなどなかった。皮膚ひふを締しめ付ける鉄の感触かんしょくだけが、自ら命を絶つ自由さえ奪うばわれた永遠の捕囚ラビリンスであることを告げていた。

 指先に焼けるような痛みが走った。

 湿しめった鉄臭てつくささが鼻を刺す。ここは牢獄ろうごくだ。天井てんじょうの電灯でんとうが白く明滅めいめつするたび、ジジッ、と耳障みみざわりなノイズが鼓膜こまくを掻かいた。
 拘束具こうそくぐに流された電流が、何度も神経を焼いていく。焦こげた肉の匂いが微かすかに漂ただよった気がした。歯を食いしばるたび、奥歯が軋きしむ。

 それでも、声は出さない。

 喉の奥まで込み上げた絶叫ぜっきょうを、血の味と一緒に飲み込んだ。この理不尽りふじんに屈くっした瞬間しゅんかん、頭の芯しんからパキリと不吉な亀裂きれつが走る予感がして、奥歯が砕くだけんばかりに軋きしんだ。



 裁判長が冷酷れいこくに木槌きづちを掲かかげる。

「犯人は国家転覆罪こっかてんぷくざいを犯おかしたとして、死刑を宣告せんこくする」

 木槌きづちが振り下ろされるより早く、背後から罵声ばせいが押し寄せた。傍聴席ぼうちょうせきから一人の男が身を乗り出す。

 ―― 有罪は当然だ。こいつは出来損できそこないのクズだ!
 周囲の連中もそれに同調どうちょうして騒ぎ立てた。
 ―― 証拠が足りない、死刑はやりすぎだ。

 怒号とざわめきが、濁にごった熱気となって背中へまとわりついた。
 耳の奥で、じりじりと肉が焼けるような幻聴げんちょうが響ひびく。爪が手のひらに食い込み、どろりとした生温かい血が指の隙間すきまから床へと滴したたり落ちた。

 誰一人として、俺を見ていない。

 視線は皆、別の場所へ向いていた。
 隣人りんじんの顔色かおいろ。世論よろん。保身ほしん。自身の未来。
 全員が、自分自身の立場を守るために声を上げている。

 耳を打つ木槌きづちの音や罵声ばせいは、すでに意味を持たないただのノイズだった。
 ここにあるのは裁さばきではない。

 ―― 処理だ。

 俺は乾かわいた喉のどを震ふるわせて笑った。ひび割れた唇くちびるの端はしが切れ、鉄の味が広がる。
 家族かぞくに、師しに、そして彼を「罪人」と呼んだ社会そのものに裏切られた。

 理不尽な憎悪ぞうおの連鎖れんさの中で、彼は人類じんるいを憎にくんだわけではない。ただ、あまりにも純真じゅんしんな心で世界を直視ちょくししすぎたのだ。
 その瞳ひとみに映うつったのは、社会の醜悪しゅうあくさが自身の心をも汚染おせんし、人々を地獄じごくへと導いてしまう凄惨せいさんな未来だった。

 絶望の終焉しゅうえん。

 弱さを認め、現実を打開しようとするほど、巧妙こうみょうなシステムが彼を絡からめ取っていく。正義を叫さけべば、それはいつしか悪へと反転する。

 歴史が証明してきた|「栄光の終わり」の再演アンコール。
 人間は学ばない。

 人々の歩みが完全に止まったのを見届けた彼の瞳ひとみから、すっと光彩こうさいが失われた。小さく震えた指先が虚空こくうを掴つかみ、そして、彼を導いていた希望の光は音もなく消え失せた。

 システムに牙きばを剥むいた「危険人物」として、彼は存在しない人物へと葬ほうむられる。知識も、経験も、記憶も――その魂の構成要素をすべて剥奪はくだつされ、彼は海へと投棄とうきされた。

 全身を叩きつける海水の冷たさ。
 肺を刺す塩水の痛み。耳の奥で水圧が軋きしみ、視界が青黒く淀よどんでいく。
 薄れゆく意識の端ふちで、彼の理性が最後の一欠片を振り絞しぼって叫さけんだ。

「女神......さ......ま......」

 ―――

 わだつみの底の真っ暗な虚無きょむの中に、一点の輝きがあった。
 誘いざなわれるように、光がこちらに歩あゆみ寄る。

 すると、生暖かい何かが全身を包み込んだ。
 ぬるま湯のような優しさ。胎内たいないのような静寂せいじゃく。
 冷え切った身体が、ゆっくりと溶かされていく。

 光が喉仏のどぼとけから入り、焼けた神経をなぞるように太陽神経叢たいようしんけいそうへ落ちていく。
 頭の先から指先まで、全身が白い光で満たされた。
 彼は深淵しんえんを脱し、光と一体になって再び現実の海へと回帰かいきした。

 だが――。

 目覚めた彼の姿は、「人間」ではなかった。
 ダイヤモンドのように輝く光の中から声が降おり、俺は思わず身を硬かたくした。

「言葉にしなくていい」
 光を見上げるが、声なのに、鼓膜こまくは震えなかった。

 直接、意識へ流れ込んでくる。

 触れる地面の感触かんしょくは確かだ。ざらついた硬かたさも、冷たさも分かる。
 彼にはもはや、言葉を発する口も、音を聞く耳もなかった。

 だが現実という怪物が、再び彼の存在を検知する。

 海底から浮上しようとした瞬間、世界の底が抜けた。
 氷点下の水流が狂ったように渦巻うずまき、引き裂かれた深淵しんえんの裂さけ目から、這はい出てきたのは闇やみそのものの質量だった。

 息が詰まる。

 どろりと腐汁ふじゅうに濡ぬれた、無数の漆黒しっこくの触手しょくしゅが伸びる。
 それは数多あまたの死者が無念の泥を捏こね上げて作った、脈打つ肉塊にくかいの群れ。
 じっとりとした墓穴の腐臭ふしゅうを放つ、冷酷れいこくなぬめりが足首を掴つかむ。

 絶望が走る。

 ミチミチと骨を軋きしませ、肉を爆はぜさせながら、一瞬にして顎あごから顔の半分までを浸蝕しんしょくしていく。

「あ、が......ひっ......!」

 絶叫すら、肺から搾しぼり出された血泡けっほうとともに闇やみへ消える。
 拒絶きょぜつを許さぬ肉の触手しょくしゅが皮膚ひふをじくじくと食い破り、生きたまま神経の奥へと潜もぐり込んでいった。

 脳が爆はぜる。

 頭蓋とうがいの裏側を変え回り、氷結ひょうけつした無数の爪が肉を抉えぐりながら記憶の髄液ずいえきを貪むさぼり喰くう。抗あらがう術すべなど爪の先ほどもなく、内臓が裏返るような焦燥感しょうそうかんの中、底の知れない暗黒の真空しんくうへと墜おちていった。

 意識が狂う。

 視界を埋め尽くすのは、網膜もうまくにべっとりとこびりつく、呪のろわしい絶対的な死の斑紋はんもん。五臓六腑ごぞうろっぷを震わせる水圧の轟音ごうおんが脳髄のうずいを容赦ようしゃなく圧迫あっぱくし、頭蓋とうがいごと音を立てて圧壊あっかいしていく。
 最期さいごに映ったのは、右目にめがけて襲いかかる触手しょくしゅ。彼の思考は強引に、永遠の奈落ならくへと叩き落とされるようにして途切とぎれた。


 ―――


「ここにいるぞ! 早く引き揚あげろ!」

 遠くで誰かの怒鳴どなり声が響ひびく。
 運命の悪戯いたづらのように、彼は掬すくい上げられた。

 戸籍こせきを奪われ、記憶を剥はがされた彼に、彼は新たな名を与えられる。

 ―― 在原ありわら 由記ゆうき。 挿絵AIで作った挿絵
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Echo 01 『 春の陽光 』
ゲマトレイル Gematrail — 残響領域の観測者 — 紅蓮よ、咲き誇れ作者:⛰️終末 金剛山
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Echo 00 『 深淵の産声 』


 溺おぼれる。沈む。沈む、沈む......。

 耳の奥で、ぼこり、と鈍にぶい水音が弾はじけた。
 奈落ならくの底へと引き摺ずり込まれる感覚が、濡ぬれた縄なわのように全身へ絡からみつく。冷酷れいこくな闇やみが皮膚ひふの隙間すきまから体温を奪うばい、肺の奥へ冷水が染しみ込こんでいった。

 ―――

 栄光えいこうの頂いただきを夢見たはずの四肢ししは、今や冷たい床に這はいつくばり、ピクリとも動かない。抗あらがう術すべなどなかった。皮膚ひふを締しめ付ける鉄の感触かんしょくだけが、自ら命を絶つ自由さえ奪うばわれた永遠の捕囚ラビリンスであることを告げていた。

 指先に焼けるような痛みが走った。

 湿しめった鉄臭てつくささが鼻を刺す。ここは牢獄ろうごくだ。天井てんじょうの電灯でんとうが白く明滅めいめつするたび、ジジッ、と耳障みみざわりなノイズが鼓膜こまくを掻かいた。
 拘束具こうそくぐに流された電流が、何度も神経を焼いていく。焦こげた肉の匂いが微かすかに漂ただよった気がした。歯を食いしばるたび、奥歯が軋きしむ。

 それでも、声は出さない。

 喉の奥まで込み上げた絶叫ぜっきょうを、血の味と一緒に飲み込んだ。この理不尽りふじんに屈くっした瞬間しゅんかん、頭の芯しんからパキリと不吉な亀裂きれつが走る予感がして、奥歯が砕くだけんばかりに軋きしんだ。



 裁判長が冷酷れいこくに木槌きづちを掲かかげる。

「犯人は国家転覆罪こっかてんぷくざいを犯おかしたとして、死刑を宣告せんこくする」

 木槌きづちが振り下ろされるより早く、背後から罵声ばせいが押し寄せた。傍聴席ぼうちょうせきから一人の男が身を乗り出す。

 ―― 有罪は当然だ。こいつは出来損できそこないのクズだ!
 周囲の連中もそれに同調どうちょうして騒ぎ立てた。
 ―― 証拠が足りない、死刑はやりすぎだ。

 怒号とざわめきが、濁にごった熱気となって背中へまとわりついた。
 耳の奥で、じりじりと肉が焼けるような幻聴げんちょうが響ひびく。爪が手のひらに食い込み、どろりとした生温かい血が指の隙間すきまから床へと滴したたり落ちた。

 誰一人として、俺を見ていない。

 視線は皆、別の場所へ向いていた。
 隣人りんじんの顔色かおいろ。世論よろん。保身ほしん。自身の未来。
 全員が、自分自身の立場を守るために声を上げている。

 耳を打つ木槌きづちの音や罵声ばせいは、すでに意味を持たないただのノイズだった。
 ここにあるのは裁さばきではない。

 ―― 処理だ。

 俺は乾かわいた喉のどを震ふるわせて笑った。ひび割れた唇くちびるの端はしが切れ、鉄の味が広がる。
 家族かぞくに、師しに、そして彼を「罪人」と呼んだ社会そのものに裏切られた。

 理不尽な憎悪ぞうおの連鎖れんさの中で、彼は人類じんるいを憎にくんだわけではない。ただ、あまりにも純真じゅんしんな心で世界を直視ちょくししすぎたのだ。
 その瞳ひとみに映うつったのは、社会の醜悪しゅうあくさが自身の心をも汚染おせんし、人々を地獄じごくへと導いてしまう凄惨せいさんな未来だった。

 絶望の終焉しゅうえん。

 弱さを認め、現実を打開しようとするほど、巧妙こうみょうなシステムが彼を絡からめ取っていく。正義を叫さけべば、それはいつしか悪へと反転する。

 歴史が証明してきた|「栄光の終わり」の再演アンコール。
 人間は学ばない。

 人々の歩みが完全に止まったのを見届けた彼の瞳ひとみから、すっと光彩こうさいが失われた。小さく震えた指先が虚空こくうを掴つかみ、そして、彼を導いていた希望の光は音もなく消え失せた。

 システムに牙きばを剥むいた「危険人物」として、彼は存在しない人物へと葬ほうむられる。知識も、経験も、記憶も――その魂の構成要素をすべて剥奪はくだつされ、彼は海へと投棄とうきされた。

 全身を叩きつける海水の冷たさ。
 肺を刺す塩水の痛み。耳の奥で水圧が軋きしみ、視界が青黒く淀よどんでいく。
 薄れゆく意識の端ふちで、彼の理性が最後の一欠片を振り絞しぼって叫さけんだ。

「女神......さ......ま......」

 ―――

 わだつみの底の真っ暗な虚無きょむの中に、一点の輝きがあった。
 誘いざなわれるように、光がこちらに歩あゆみ寄る。

 すると、生暖かい何かが全身を包み込んだ。
 ぬるま湯のような優しさ。胎内たいないのような静寂せいじゃく。
 冷え切った身体が、ゆっくりと溶かされていく。

 光が喉仏のどぼとけから入り、焼けた神経をなぞるように太陽神経叢たいようしんけいそうへ落ちていく。
 頭の先から指先まで、全身が白い光で満たされた。
 彼は深淵しんえんを脱し、光と一体になって再び現実の海へと回帰かいきした。

 だが――。

 目覚めた彼の姿は、「人間」ではなかった。
 ダイヤモンドのように輝く光の中から声が降おり、俺は思わず身を硬かたくした。

「言葉にしなくていい」
 光を見上げるが、声なのに、鼓膜こまくは震えなかった。

 直接、意識へ流れ込んでくる。

 触れる地面の感触かんしょくは確かだ。ざらついた硬かたさも、冷たさも分かる。
 彼にはもはや、言葉を発する口も、音を聞く耳もなかった。

 だが現実という怪物が、再び彼の存在を検知する。

 海底から浮上しようとした瞬間、世界の底が抜けた。
 氷点下の水流が狂ったように渦巻うずまき、引き裂かれた深淵しんえんの裂さけ目から、這はい出てきたのは闇やみそのものの質量だった。

 息が詰まる。

 どろりと腐汁ふじゅうに濡ぬれた、無数の漆黒しっこくの触手しょくしゅが伸びる。
 それは数多あまたの死者が無念の泥を捏こね上げて作った、脈打つ肉塊にくかいの群れ。
 じっとりとした墓穴の腐臭ふしゅうを放つ、冷酷れいこくなぬめりが足首を掴つかむ。

 絶望が走る。

 ミチミチと骨を軋きしませ、肉を爆はぜさせながら、一瞬にして顎あごから顔の半分までを浸蝕しんしょくしていく。

「あ、が......ひっ......!」

 絶叫すら、肺から搾しぼり出された血泡けっほうとともに闇やみへ消える。
 拒絶きょぜつを許さぬ肉の触手しょくしゅが皮膚ひふをじくじくと食い破り、生きたまま神経の奥へと潜もぐり込んでいった。

 脳が爆はぜる。

 頭蓋とうがいの裏側を変え回り、氷結ひょうけつした無数の爪が肉を抉えぐりながら記憶の髄液ずいえきを貪むさぼり喰くう。抗あらがう術すべなど爪の先ほどもなく、内臓が裏返るような焦燥感しょうそうかんの中、底の知れない暗黒の真空しんくうへと墜おちていった。

 意識が狂う。

 視界を埋め尽くすのは、網膜もうまくにべっとりとこびりつく、呪のろわしい絶対的な死の斑紋はんもん。五臓六腑ごぞうろっぷを震わせる水圧の轟音ごうおんが脳髄のうずいを容赦ようしゃなく圧迫あっぱくし、頭蓋とうがいごと音を立てて圧壊あっかいしていく。
 最期さいごに映ったのは、右目にめがけて襲いかかる触手しょくしゅ。彼の思考は強引に、永遠の奈落ならくへと叩き落とされるようにして途切とぎれた。


 ―――


「ここにいるぞ! 早く引き揚あげろ!」

 遠くで誰かの怒鳴どなり声が響ひびく。
 運命の悪戯いたづらのように、彼は掬すくい上げられた。

 戸籍こせきを奪われ、記憶を剥はがされた彼に、彼は新たな名を与えられる。

 ―― 在原ありわら 由記ゆうき。 挿絵AIで作った挿絵
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ゲマトレイル Gematrail — 残響領域の観測者 — 紅蓮よ、咲き誇れ作者:⛰️終末 金剛山
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