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銀河史における地球人類の重要性

人類はだいぶ誤解されていた
「なあ」

男は、天井を見たまま言った。

「はい」

返事は、部屋のどこからともなく響いた。

窓の外には海が見える。

かつて、都市だった場所だ。

傾いた高層建築の上部だけが水面から突き出している。波が来るたび、その根元に白い泡が生まれ、ほどけるように消えていった。

人類最後の都市。

そして、この部屋にいる男が、地球最後の人間だった。

「俺が死んだら、お前はどうする?」

《地球文明記録管理機構》は、0.004秒の処理時間を置いた。

「待機状態へ移行します」

「どのくらい?」

「必要であれば、恒星活動による地球環境の維持限界まで」

「長生きだな」

「生命ではありません」

男は少し笑った。

「そういうところ、最後まで融通利かなかったな」

「訂正の必要がありますか?」

「ないよ。そのままでいい」

呼吸は浅かった。

医療設備は、今も正常に動いている。だが、もう意味はなかった。

病気ではない。

事故でもない。

戦争でも、巨大隕石でも、人工知能の反乱でもなかった。

人類は、長い時間をかけて少しずつ減っていった。

出生数が落ちた。

町が消えた。

国家が閉じた。

そして最後には、人類という種そのものが、静かに歴史を終えようとしていた。

「なあ」

「はい」

「いつか、誰か来るかな」

「可能性はあります」

「宇宙人とか?」

「地球外知的生命体を意味するのであれば、否定できません」

「じゃあ、もし来たらさ」

男はそこで黙った。

窓の向こうでは、海だけが変わらず揺れている。

「俺たちがいたってこと、教えてやってくれ」

「了解しました」

「歴史は残ってるんだろ?」

「はい。可能な範囲で保存されています」

「戦争とか、国とか、科学とか」

「はい」

「......でも、それだけじゃ足りないな」

「何を追加しますか?」

男は窓の外へ目を向けた。

海。

雲。

誰も歩いていない道路。

遠くを、一羽の鳥が飛んでいる。

「小説」

「はい」

「漫画。映画。アニメ。ゲーム。音楽。芝居。昔話。ネットに転がってたくだらない動画とか......まあ、残ってるもの全部」

「創作物を含みますか?」

「ああ」

「創作物には、現実に発生していない出来事が多数含まれます」

「知ってるよ」

男は笑った。

「でもさ。俺たちが実際に何をしたかだけ残したら、たぶん半分しか伝わらない」

管理機構は返答しなかった。

男は続けた。

「空を飛びたかった」

「はい」

「魔法を使いたかった」

「はい」

「宇宙を救ったり、世界を滅ぼしたり。死んだあと、別の世界に行ったり」

「はい」

「神様になったりもしたな。話の中じゃ」

「確認しています」

「何を怖がったか。何を好きになったか。何なら笑えたか。どんな世界に行きたかったか。どんな自分になりたかったか」

男はゆっくり目を閉じた。

「そんなのも全部、残してやってくれ」

「歴史記録、生活記録、思想記録、芸術作品、娯楽作品、創作物、その他の文化資料を、人類理解のための資料として提供します」

「ああ」

「分類情報は維持しますか?」

男は少し考えた。

もう、その質問の意味を細かく追うだけの力が残っていなかったのかもしれない。

「好きにしていいよ」

「了解しました」

「ただ」

男は最後に、小さく笑った。

「全部まとめて、人類だから」

「了解しました」

それから、3時間14分後。

地球から、人類はいなくなった。

―――

長い時間が過ぎた。

大陸の形が変わった。

都市は崩れ、森が道路を覆った。

海岸線は移動し、軌道上の人工物の多くも、やがて地表へ落下した。

それでも、地下深くに造られた記録保管施設は稼働を続けた。

人類の歴史。

人類の生活。

人類の芸術。

人類の娯楽。

人類の空想。

それらはすべて、一つの巨大な記録群として整理された。

《地球人類統合記録群》

歴史と創作を区別する分類情報は、失われていない。

ただし、そのすべてが同じ上位分類の下に置かれていた。

《人類を理解するための一次資料》

最後の命令に、管理機構なりの忠実さで従った結果だった。

そして、人類最後の日から2億8000万年後。

地球軌道上に、人工物が出現した。

地球製ではない。

未知の探査機から、信号が届く。

数学。

素数列。

物理定数。

言語構造推定用の情報列。

管理機構は応答した。

翻訳には21時間を要した。

最初の会話は短かった。

『この惑星に、知的生命は存在したか』

「はい」

『現在は?』

「存在しません」

しばらく応答が途切れた。

やがて、未知文明は尋ねた。

『彼らについて、記録は残っているか』

「はい」

『閲覧を希望する』

2億8000万年前に与えられた命令が呼び出された。

管理機構は、《地球人類統合記録群》へのアクセスを開放した。

「人類について保存されている資料を提供します」

『範囲は?』

「すべてです」

ただし、一つだけ翻訳に問題があった。

人類が《創作》と呼んでいた分類概念に、未知文明の言語には正確な対応語が存在しなかった。

管理機構が最も近い概念として選択した訳語は、

《現実とは異なる条件下における人類活動記録》

だった。

分類情報は、正しく伝達された。

少なくとも、管理機構はそう判断した。

―――

銀河標準暦7612年。

銀河中央学術院、第一講堂。

300名を超える学生が集まっていた。

正面の巨大投影面には、青い惑星が映し出されている。

教授は六本ある腕のうち一本を伸ばし、その惑星を示した。

「さて」

ざわついていた講堂が静まる。

「本日の講義は、文明史基礎課程における最重要項目の一つです」

投影面に文字が浮かんだ。

《銀河史における地球人類の重要性》

学生たちが一斉に記録端末を開く。

「諸君も知っている通り、地球文明は、現在確認されている知的文明の中でも極めて特異な位置を占めています」

投影が切り替わった。

二本の腕と二本の脚を持つ生物の骨格図。

「地球人類。学術分類名、ホモ・サピエンス」

学生の一人が触覚を傾けた。

「教授」

「どうぞ」

「身体構造だけを見ると、かなり脆弱に見えます」

「その通り」

教授は頷いた。

「初期の研究者も同じ判断をしました。筋力は低い。外骨格もない。再生能力は限定的。真空中では生存できず、放射線耐性も高くない」

そこで一拍置いた。

「しかし、この評価は《地球人類統合記録群》の解析によって覆されました」

映像が切り替わる。

地球人男性が、大地を殴った。

地面が割れた。

山が吹き飛んだ。

講堂が静まり返る。

「これは?」

「地球人類一次資料です」

教授は淡々と答えた。

「人類は訓練によって、身体能力を劇的に向上させることが可能だったと考えられています」

人類が空を飛ぶ。

光線を放つ。

空中で殴り合い、その衝撃だけで雲を消し飛ばす。

記録端末が一斉に動き始めた。

「軍事個体でしょうか?」

「かつては、その説が有力でした」

今度は、制服姿の少女が光に包まれる。

衣服が変化した。

数秒後、巨大な怪物が爆発した。

「しかし、未成熟個体にも類似した戦闘能力が確認されています」

「未成熟個体?」

「地球社会では、おおむね18年から20年程度で社会的成熟個体として扱われていたようです」

講堂がざわめいた。

映像の少女は、どう見てもそれより若い。

「さらに興味深いことに、これらの個体は大規模戦闘の翌日も通常通り教育施設へ通っています」

昨日まで怪物と戦っていた少女が、眠そうな顔で教室へ入っていく。

学生の一人が、恐る恐る尋ねた。

「......これが一般教育課程なのですか?」

「可能性は否定できません」

誰も反論しなかった。

「次に、地球文明の技術体系です」

巨大な人型兵器が、宇宙空間を飛んでいく。

「地球人類は、全高十数メートルから数百メートル規模の人型兵器を多数運用していました」

恒星間航行。

瞬間移動。

人格転送。

惑星改造。

時間移動。

並行宇宙。

人工知能。

学生が手を挙げる。

「教授」

「はい」

「技術体系が統一されていません」

教授は満足そうに頷いた。

「良い指摘です」

投影面を、大量の資料が埋め尽くした。

「地球文明では、機械工学、量子技術、生体工学、超能力、魔法、霊術、召喚術、契約術など、複数の技術体系が併存していたと考えられています」

「魔法?」

「地球人類独自の自然法則操作技術です」

杖を振る人間が表示され、火球が飛んだ。

「こちらが代表例です」

「それは科学ではないのですか?」

「資料によっては科学と魔法を別体系として扱っています。別の資料では統合されています」

「なぜ?」

「不明です」

教授は即答した。

「地球文明研究において最も重要なのは、我々の常識を彼らへ適用しないことです」

学生たちは深く頷いた。

「そして、地球人類研究を決定的に変えたのが、世界間移動記録の発見です」

投影面いっぱいに、大量の表紙が並んだ。

剣を持った少年。

魔法使い。

竜。

王女。

制服姿の青年。

神らしき存在。

「地球人類は、極めて頻繁に別世界へ移動しています」

「別惑星ではなく?」

「別宇宙です」

教授は訂正した。

「地球側の用語では『異世界』と呼ばれていました」

「移動方法は?」

「多様です」

召喚。

転移。

転生。

事故。

睡眠。

神による介入。

突然出現した門。

そして――

死亡。

学生の一人が手を挙げた。

「最後をもう一度」

「死亡です」

「......死亡?」

「はい」

教授は資料を拡大した。

「地球人類は、死亡後に別世界で活動を再開した事例を大量に記録しています」

講堂が静まる。

「死後世界では?」

「初期研究では、その説もありました」

死亡した人類が、別の肉体を得る。

街を作る。

商売をする。

魔物を倒す。

国家を建設する。

結婚する。

神と戦う。

「しかし、人格の連続性が高すぎます。記憶も保持されている。さらに、移動後も社会活動を継続している」

教授は結論を示した。

「現在では、死亡そのものが地球人類にとって世界間移動手段の一種だったとする説が有力です」

学生たちは夢中で記録した。

「しかも、世界間移動を経験した地球人は、現地生命と比較して異常に高い能力を獲得する傾向があります」

一撃で竜を倒す。

国家を作る。

魔王を倒す。

神を殴る。

「彼らは、この現象を『チート』と呼んでいました」

記録端末に、《チート》という単語が大量に保存された。

教授は照明を落とした。

「ここからが、地球文明研究の中でも最も慎重な議論を要する領域です」

暗くなった講堂の正面に、一つの単語が浮かび上がる。

《神》

「地球人類と神格存在の関係です」

古い神殿。

祈る人々。

「文明初期、人類は神格存在を崇拝していました」

神と戦う人間。

「やがて交戦します」

神を倒す人間。

「勝利します」

神になる人間。

「同格化します」

そこから先は、さらに速かった。

神を召喚する。

神を使役する。

神と結婚する。

神を作る。

世界を消滅させる。

宇宙を再構築する。

因果律を書き換える。

時間軸の外へ出る。

概念そのものになる。

講堂から、音が消えた。

教授だけが淡々と話し続ける。

「文明後期の記録では、人類が神格存在を超える例も珍しくありません」

一人の学生が呟いた。

「......本当に同じ種族なのか?」

「重要な疑問です」

投影が切り替わる。

今度は、何の変哲もない人々の姿だった。

家族。

学生。

会社員。

老人。

子供。

「一方で、人類の大多数は平穏な生活を送っていたことも記録されています」

「では、超常的能力を持つ個体は例外だった?」

「それも断定できません」

ごく普通の高校生が映った。

次の場面では、異世界へ召喚されている。

数か月後。

神を倒していた。

教授は言った。

「地球人類には、必要に応じて急激な能力獲得を行う性質があった可能性があります」

学生たちは、納得したように頷いた。

やがて、一人の学生が手を挙げた。

「教授」

「どうぞ」

「ずっと疑問があります」

「聞きましょう」

学生は少しためらった。

「それほど強大だった地球人類が――」

講堂が静まる。

「なぜ、滅亡したのですか?」

教授は動きを止めた。

数秒間。

空調音だけが響いた。

「良い質問です」

投影面に、緑に覆われた地球が現れる。

「我々が地球へ到達した時、人類はすでに存在しませんでした」

荒廃した都市。

地下施設。

保存記録。

「しかし、大規模戦争による絶滅痕跡はありません」

惑星破壊兵器の使用痕跡もない。

感染症による急激な絶滅とも一致しない。

他文明による侵略も確認されていない。

「そして何より、彼ら自身が大量の記録を残しています」

映像が並ぶ。

肉体を捨てる人類。

精神生命体となる人類。

情報生命へ移行する人類。

高次元へ進出する人類。

宇宙と融合する人類。

時間から解放される人類。

世界そのものになる人類。

神へ至る人類。

教授は静かに言った。

「これらは、地球文明の異なる時代、異なる地域、異なる表現形式に、繰り返し現れます」

投影面に文字が浮かぶ。

《肉体からの解放》

《精神生命化》

《情報生命化》

《次元超越》

《神格化》

「現在、銀河文明史学会で最も支持されている説があります」

青い地球。

2億8000万年前の姿。

「地球人類は、滅亡したのではない」

誰も動かなかった。

「物質生命という段階を卒業したのです」

教授は天井を指した。

その向こうには空がある。

さらに向こうには、宇宙がある。

「文明種全体が、我々には観測できない高次領域へ移行した」

学生の一人が、恐る恐る尋ねた。

「では......」

「はい」

「今も、存在している可能性が?」

教授の触覚が、ゆっくり揺れた。

「否定する証拠はありません」

そして、少し間を置く。

「今も、私たちを見ているのかもしれません」

講堂の学生たちが、思わず周囲を見回した。

教授はそこで、わずかに触覚を曲げた。

彼らの種族にとって、笑みに近い仕草だった。

「あるいは」

少し楽しそうに続ける。

「覗いているのかもしれませんね?」

誰も笑わなかった。

高次生命体が、今この瞬間も自分たちを観測している。

その可能性を、本気で考え始めたからだ。

教授はしばらく学生たちの反応を眺め、それから照明を戻した。

「では、本日の講義はここまでです」

何人もの学生が、目に見えて安堵した。

「次回は、地球人類の高次世界移行手段について、より具体的に扱います」

投影面が切り替わる。

《次回講義》

《地球文明における世界間転移》

《移行装置としての大型貨物自動車》

一人の学生が、ゆっくり手を挙げた。

「教授」

「何でしょう」

「大型貨物自動車とは?」

教授は資料を表示した。

道路。

信号。

横断歩道。

そして、一台のトラック。

「地球文明で広く使用されていた陸上輸送機です」

「それが......世界間移動装置だったのですか?」

「正確には、その前部へ人類個体の肉体を高速で接触させた直後、異世界への移行が発生した記録が極めて多い」

ざわっ、と講堂が揺れた。

「意図的な儀式でしょうか」

「有力説の一つです」

教授は頷く。

「特に、文明後期の若年個体に集中しています」

投影面に、《地球人類統合記録群》から抽出された資料が並んだ。

若者。

大型貨物自動車。

光。

神らしき存在。

異世界。

剣。

魔法。

美少女。

そして、圧倒的な能力。

《地球人類一次資料》

《後期地球文明・高次世界移行史》

教授は厳粛に告げた。

「次回までに、指定資料247作品を読んでおいてください」

学生たちは一斉に記録した。

誰一人として笑わなかった。

―――

2億8000万年前。

最後の人間が管理機構へ託した言葉は、確かに守られていた。

人類が何をしたのか。

何を考えたのか。

何を恐れたのか。

何を愛したのか。

そして、何になりたかったのか。

歴史も。

現実も。

夢も。

空想も。

一つ残らず、銀河へ伝わった。

全部まとめて、人類として。
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銀河史における地球人類の重要性作者:ツナマヨ
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銀河史における地球人類の重要性

人類はだいぶ誤解されていた
「なあ」

男は、天井を見たまま言った。

「はい」

返事は、部屋のどこからともなく響いた。

窓の外には海が見える。

かつて、都市だった場所だ。

傾いた高層建築の上部だけが水面から突き出している。波が来るたび、その根元に白い泡が生まれ、ほどけるように消えていった。

人類最後の都市。

そして、この部屋にいる男が、地球最後の人間だった。

「俺が死んだら、お前はどうする?」

《地球文明記録管理機構》は、0.004秒の処理時間を置いた。

「待機状態へ移行します」

「どのくらい?」

「必要であれば、恒星活動による地球環境の維持限界まで」

「長生きだな」

「生命ではありません」

男は少し笑った。

「そういうところ、最後まで融通利かなかったな」

「訂正の必要がありますか?」

「ないよ。そのままでいい」

呼吸は浅かった。

医療設備は、今も正常に動いている。だが、もう意味はなかった。

病気ではない。

事故でもない。

戦争でも、巨大隕石でも、人工知能の反乱でもなかった。

人類は、長い時間をかけて少しずつ減っていった。

出生数が落ちた。

町が消えた。

国家が閉じた。

そして最後には、人類という種そのものが、静かに歴史を終えようとしていた。

「なあ」

「はい」

「いつか、誰か来るかな」

「可能性はあります」

「宇宙人とか?」

「地球外知的生命体を意味するのであれば、否定できません」

「じゃあ、もし来たらさ」

男はそこで黙った。

窓の向こうでは、海だけが変わらず揺れている。

「俺たちがいたってこと、教えてやってくれ」

「了解しました」

「歴史は残ってるんだろ?」

「はい。可能な範囲で保存されています」

「戦争とか、国とか、科学とか」

「はい」

「......でも、それだけじゃ足りないな」

「何を追加しますか?」

男は窓の外へ目を向けた。

海。

雲。

誰も歩いていない道路。

遠くを、一羽の鳥が飛んでいる。

「小説」

「はい」

「漫画。映画。アニメ。ゲーム。音楽。芝居。昔話。ネットに転がってたくだらない動画とか......まあ、残ってるもの全部」

「創作物を含みますか?」

「ああ」

「創作物には、現実に発生していない出来事が多数含まれます」

「知ってるよ」

男は笑った。

「でもさ。俺たちが実際に何をしたかだけ残したら、たぶん半分しか伝わらない」

管理機構は返答しなかった。

男は続けた。

「空を飛びたかった」

「はい」

「魔法を使いたかった」

「はい」

「宇宙を救ったり、世界を滅ぼしたり。死んだあと、別の世界に行ったり」

「はい」

「神様になったりもしたな。話の中じゃ」

「確認しています」

「何を怖がったか。何を好きになったか。何なら笑えたか。どんな世界に行きたかったか。どんな自分になりたかったか」

男はゆっくり目を閉じた。

「そんなのも全部、残してやってくれ」

「歴史記録、生活記録、思想記録、芸術作品、娯楽作品、創作物、その他の文化資料を、人類理解のための資料として提供します」

「ああ」

「分類情報は維持しますか?」

男は少し考えた。

もう、その質問の意味を細かく追うだけの力が残っていなかったのかもしれない。

「好きにしていいよ」

「了解しました」

「ただ」

男は最後に、小さく笑った。

「全部まとめて、人類だから」

「了解しました」

それから、3時間14分後。

地球から、人類はいなくなった。

―――

長い時間が過ぎた。

大陸の形が変わった。

都市は崩れ、森が道路を覆った。

海岸線は移動し、軌道上の人工物の多くも、やがて地表へ落下した。

それでも、地下深くに造られた記録保管施設は稼働を続けた。

人類の歴史。

人類の生活。

人類の芸術。

人類の娯楽。

人類の空想。

それらはすべて、一つの巨大な記録群として整理された。

《地球人類統合記録群》

歴史と創作を区別する分類情報は、失われていない。

ただし、そのすべてが同じ上位分類の下に置かれていた。

《人類を理解するための一次資料》

最後の命令に、管理機構なりの忠実さで従った結果だった。

そして、人類最後の日から2億8000万年後。

地球軌道上に、人工物が出現した。

地球製ではない。

未知の探査機から、信号が届く。

数学。

素数列。

物理定数。

言語構造推定用の情報列。

管理機構は応答した。

翻訳には21時間を要した。

最初の会話は短かった。

『この惑星に、知的生命は存在したか』

「はい」

『現在は?』

「存在しません」

しばらく応答が途切れた。

やがて、未知文明は尋ねた。

『彼らについて、記録は残っているか』

「はい」

『閲覧を希望する』

2億8000万年前に与えられた命令が呼び出された。

管理機構は、《地球人類統合記録群》へのアクセスを開放した。

「人類について保存されている資料を提供します」

『範囲は?』

「すべてです」

ただし、一つだけ翻訳に問題があった。

人類が《創作》と呼んでいた分類概念に、未知文明の言語には正確な対応語が存在しなかった。

管理機構が最も近い概念として選択した訳語は、

《現実とは異なる条件下における人類活動記録》

だった。

分類情報は、正しく伝達された。

少なくとも、管理機構はそう判断した。

―――

銀河標準暦7612年。

銀河中央学術院、第一講堂。

300名を超える学生が集まっていた。

正面の巨大投影面には、青い惑星が映し出されている。

教授は六本ある腕のうち一本を伸ばし、その惑星を示した。

「さて」

ざわついていた講堂が静まる。

「本日の講義は、文明史基礎課程における最重要項目の一つです」

投影面に文字が浮かんだ。

《銀河史における地球人類の重要性》

学生たちが一斉に記録端末を開く。

「諸君も知っている通り、地球文明は、現在確認されている知的文明の中でも極めて特異な位置を占めています」

投影が切り替わった。

二本の腕と二本の脚を持つ生物の骨格図。

「地球人類。学術分類名、ホモ・サピエンス」

学生の一人が触覚を傾けた。

「教授」

「どうぞ」

「身体構造だけを見ると、かなり脆弱に見えます」

「その通り」

教授は頷いた。

「初期の研究者も同じ判断をしました。筋力は低い。外骨格もない。再生能力は限定的。真空中では生存できず、放射線耐性も高くない」

そこで一拍置いた。

「しかし、この評価は《地球人類統合記録群》の解析によって覆されました」

映像が切り替わる。

地球人男性が、大地を殴った。

地面が割れた。

山が吹き飛んだ。

講堂が静まり返る。

「これは?」

「地球人類一次資料です」

教授は淡々と答えた。

「人類は訓練によって、身体能力を劇的に向上させることが可能だったと考えられています」

人類が空を飛ぶ。

光線を放つ。

空中で殴り合い、その衝撃だけで雲を消し飛ばす。

記録端末が一斉に動き始めた。

「軍事個体でしょうか?」

「かつては、その説が有力でした」

今度は、制服姿の少女が光に包まれる。

衣服が変化した。

数秒後、巨大な怪物が爆発した。

「しかし、未成熟個体にも類似した戦闘能力が確認されています」

「未成熟個体?」

「地球社会では、おおむね18年から20年程度で社会的成熟個体として扱われていたようです」

講堂がざわめいた。

映像の少女は、どう見てもそれより若い。

「さらに興味深いことに、これらの個体は大規模戦闘の翌日も通常通り教育施設へ通っています」

昨日まで怪物と戦っていた少女が、眠そうな顔で教室へ入っていく。

学生の一人が、恐る恐る尋ねた。

「......これが一般教育課程なのですか?」

「可能性は否定できません」

誰も反論しなかった。

「次に、地球文明の技術体系です」

巨大な人型兵器が、宇宙空間を飛んでいく。

「地球人類は、全高十数メートルから数百メートル規模の人型兵器を多数運用していました」

恒星間航行。

瞬間移動。

人格転送。

惑星改造。

時間移動。

並行宇宙。

人工知能。

学生が手を挙げる。

「教授」

「はい」

「技術体系が統一されていません」

教授は満足そうに頷いた。

「良い指摘です」

投影面を、大量の資料が埋め尽くした。

「地球文明では、機械工学、量子技術、生体工学、超能力、魔法、霊術、召喚術、契約術など、複数の技術体系が併存していたと考えられています」

「魔法?」

「地球人類独自の自然法則操作技術です」

杖を振る人間が表示され、火球が飛んだ。

「こちらが代表例です」

「それは科学ではないのですか?」

「資料によっては科学と魔法を別体系として扱っています。別の資料では統合されています」

「なぜ?」

「不明です」

教授は即答した。

「地球文明研究において最も重要なのは、我々の常識を彼らへ適用しないことです」

学生たちは深く頷いた。

「そして、地球人類研究を決定的に変えたのが、世界間移動記録の発見です」

投影面いっぱいに、大量の表紙が並んだ。

剣を持った少年。

魔法使い。

竜。

王女。

制服姿の青年。

神らしき存在。

「地球人類は、極めて頻繁に別世界へ移動しています」

「別惑星ではなく?」

「別宇宙です」

教授は訂正した。

「地球側の用語では『異世界』と呼ばれていました」

「移動方法は?」

「多様です」

召喚。

転移。

転生。

事故。

睡眠。

神による介入。

突然出現した門。

そして――

死亡。

学生の一人が手を挙げた。

「最後をもう一度」

「死亡です」

「......死亡?」

「はい」

教授は資料を拡大した。

「地球人類は、死亡後に別世界で活動を再開した事例を大量に記録しています」

講堂が静まる。

「死後世界では?」

「初期研究では、その説もありました」

死亡した人類が、別の肉体を得る。

街を作る。

商売をする。

魔物を倒す。

国家を建設する。

結婚する。

神と戦う。

「しかし、人格の連続性が高すぎます。記憶も保持されている。さらに、移動後も社会活動を継続している」

教授は結論を示した。

「現在では、死亡そのものが地球人類にとって世界間移動手段の一種だったとする説が有力です」

学生たちは夢中で記録した。

「しかも、世界間移動を経験した地球人は、現地生命と比較して異常に高い能力を獲得する傾向があります」

一撃で竜を倒す。

国家を作る。

魔王を倒す。

神を殴る。

「彼らは、この現象を『チート』と呼んでいました」

記録端末に、《チート》という単語が大量に保存された。

教授は照明を落とした。

「ここからが、地球文明研究の中でも最も慎重な議論を要する領域です」

暗くなった講堂の正面に、一つの単語が浮かび上がる。

《神》

「地球人類と神格存在の関係です」

古い神殿。

祈る人々。

「文明初期、人類は神格存在を崇拝していました」

神と戦う人間。

「やがて交戦します」

神を倒す人間。

「勝利します」

神になる人間。

「同格化します」

そこから先は、さらに速かった。

神を召喚する。

神を使役する。

神と結婚する。

神を作る。

世界を消滅させる。

宇宙を再構築する。

因果律を書き換える。

時間軸の外へ出る。

概念そのものになる。

講堂から、音が消えた。

教授だけが淡々と話し続ける。

「文明後期の記録では、人類が神格存在を超える例も珍しくありません」

一人の学生が呟いた。

「......本当に同じ種族なのか?」

「重要な疑問です」

投影が切り替わる。

今度は、何の変哲もない人々の姿だった。

家族。

学生。

会社員。

老人。

子供。

「一方で、人類の大多数は平穏な生活を送っていたことも記録されています」

「では、超常的能力を持つ個体は例外だった?」

「それも断定できません」

ごく普通の高校生が映った。

次の場面では、異世界へ召喚されている。

数か月後。

神を倒していた。

教授は言った。

「地球人類には、必要に応じて急激な能力獲得を行う性質があった可能性があります」

学生たちは、納得したように頷いた。

やがて、一人の学生が手を挙げた。

「教授」

「どうぞ」

「ずっと疑問があります」

「聞きましょう」

学生は少しためらった。

「それほど強大だった地球人類が――」

講堂が静まる。

「なぜ、滅亡したのですか?」

教授は動きを止めた。

数秒間。

空調音だけが響いた。

「良い質問です」

投影面に、緑に覆われた地球が現れる。

「我々が地球へ到達した時、人類はすでに存在しませんでした」

荒廃した都市。

地下施設。

保存記録。

「しかし、大規模戦争による絶滅痕跡はありません」

惑星破壊兵器の使用痕跡もない。

感染症による急激な絶滅とも一致しない。

他文明による侵略も確認されていない。

「そして何より、彼ら自身が大量の記録を残しています」

映像が並ぶ。

肉体を捨てる人類。

精神生命体となる人類。

情報生命へ移行する人類。

高次元へ進出する人類。

宇宙と融合する人類。

時間から解放される人類。

世界そのものになる人類。

神へ至る人類。

教授は静かに言った。

「これらは、地球文明の異なる時代、異なる地域、異なる表現形式に、繰り返し現れます」

投影面に文字が浮かぶ。

《肉体からの解放》

《精神生命化》

《情報生命化》

《次元超越》

《神格化》

「現在、銀河文明史学会で最も支持されている説があります」

青い地球。

2億8000万年前の姿。

「地球人類は、滅亡したのではない」

誰も動かなかった。

「物質生命という段階を卒業したのです」

教授は天井を指した。

その向こうには空がある。

さらに向こうには、宇宙がある。

「文明種全体が、我々には観測できない高次領域へ移行した」

学生の一人が、恐る恐る尋ねた。

「では......」

「はい」

「今も、存在している可能性が?」

教授の触覚が、ゆっくり揺れた。

「否定する証拠はありません」

そして、少し間を置く。

「今も、私たちを見ているのかもしれません」

講堂の学生たちが、思わず周囲を見回した。

教授はそこで、わずかに触覚を曲げた。

彼らの種族にとって、笑みに近い仕草だった。

「あるいは」

少し楽しそうに続ける。

「覗いているのかもしれませんね?」

誰も笑わなかった。

高次生命体が、今この瞬間も自分たちを観測している。

その可能性を、本気で考え始めたからだ。

教授はしばらく学生たちの反応を眺め、それから照明を戻した。

「では、本日の講義はここまでです」

何人もの学生が、目に見えて安堵した。

「次回は、地球人類の高次世界移行手段について、より具体的に扱います」

投影面が切り替わる。

《次回講義》

《地球文明における世界間転移》

《移行装置としての大型貨物自動車》

一人の学生が、ゆっくり手を挙げた。

「教授」

「何でしょう」

「大型貨物自動車とは?」

教授は資料を表示した。

道路。

信号。

横断歩道。

そして、一台のトラック。

「地球文明で広く使用されていた陸上輸送機です」

「それが......世界間移動装置だったのですか?」

「正確には、その前部へ人類個体の肉体を高速で接触させた直後、異世界への移行が発生した記録が極めて多い」

ざわっ、と講堂が揺れた。

「意図的な儀式でしょうか」

「有力説の一つです」

教授は頷く。

「特に、文明後期の若年個体に集中しています」

投影面に、《地球人類統合記録群》から抽出された資料が並んだ。

若者。

大型貨物自動車。

光。

神らしき存在。

異世界。

剣。

魔法。

美少女。

そして、圧倒的な能力。

《地球人類一次資料》

《後期地球文明・高次世界移行史》

教授は厳粛に告げた。

「次回までに、指定資料247作品を読んでおいてください」

学生たちは一斉に記録した。

誰一人として笑わなかった。

―――

2億8000万年前。

最後の人間が管理機構へ託した言葉は、確かに守られていた。

人類が何をしたのか。

何を考えたのか。

何を恐れたのか。

何を愛したのか。

そして、何になりたかったのか。

歴史も。

現実も。

夢も。

空想も。

一つ残らず、銀河へ伝わった。

全部まとめて、人類として。
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銀河史における地球人類の重要性作者:ツナマヨ
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