1時間、ください
「1時間、ください」
放課後の図書室で、留学生のエルナがカウンター越しにそう言った。同じクラスだが、話したことは一度もない。
これは嘘告だ。俺には分かる。
放課後。人のいない場所。物陰のスマホ。この3つが揃ったら、だいたい嘘告だ。
この時間の図書室に来る生徒は、まずいない。図書委員の当番を押しつけられて、16時から閉館の17時までは毎日俺1人だ。
エルナの後ろに郷土資料の本棚が見える。その陰からスマホのレンズが3つのぞいている。うちのクラスの早瀬たちだ。隠れているつもりらしいが、本棚の上から早瀬の明るい茶色の頭がはみ出している。
中2の秋、俺は一度これに「いいよ」と答えた。答えた瞬間に物陰から3人出てきて、「罰ゲームでしたー」と手を叩いた。その動画は夜にはクラスのグループで回っていた。
だから返事はもう決めてある。「ごめん、無理」。これなら動画にしても面白くない。
エルナはスマホをカウンターに置いた。画面には『60:00』のタイマー。それからノートを出した。
「では、始めます」
エルナがタイマーのボタンを押した。
「私の祖国について、話します」
......祖国?
ノートの表紙にも几帳面な字で『祖国』と書いてあった。
「私の祖国は、スヴィエラ共和国です。北のほうにあります。海は、ありません」
本棚の陰から声がした。
「え?」
エルナは背筋を伸ばしてノートを開き、読み上げはじめた。まるで授業の発表だった。ページいっぱいに色鉛筆で塗った地図があった。じゃがいもみたいな形の国に、青い点がびっしり打ってある。
エルナは2学期から来ている交換留学生だ。麦わら色の髪を肩で切りそろえている。日本語はうまいが、しゃべり方は教科書そのままだ。教室では早瀬たちのグループにいて、休み時間も昼休みも連れ回されている。
俺は「ごめん、無理」を口の中に用意したまま待った。
16時02分。人口の話。日本の練馬区くらいらしい。練馬区には行ったことがありません、と本人が言った。俺もない。
16時09分。国旗の話。青と白の2色で、青は湖、白は雪。
16時15分。湖の数。3,000を超える。
16時21分。湖の名前の話。
「湖が多すぎて、名前のない湖が、まだ何百もあります。見つけた人が名前をつけて、役所に届けてもいいです」
エルナはノートから顔を上げた。
「みんな、好きな人の名前をつけます。だから私の国の地図は、ほとんど、誰かの好きな人です」
そこだけ声が小さかった。
来るのかと思った。エルナは次のページをめくった。
16時26分。国の動物はヘラジカ。重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。
16時30分。夏は23時まで明るい。冬は朝10時まで暗い。
16時34分。言葉の話。スヴィエラ語には敬語がない。だから日本語の敬語は3年勉強してもまだ怖いらしい。
16時38分。パンの話。おばあちゃんが毎週土曜に黒くて酸っぱいパンを焼く。日本のパンはやわらかすぎて、雲を食べているみたいだという。
16時44分。本棚の陰のスマホが1つ減った。
16時51分。もう1つ減った。
告白はまだ来ない。前置きの長い嘘告なのかもしれない。俺は「ごめん、無理」を口の中で転がしつづけた。
16時59分。エルナがノートを閉じた。
「最後に、大事なことを言います」
来た。
俺は息を吸った。本棚の陰に残ったスマホが、ぐっと前に出た。
「私の国は、とても、いい国です」
タイマーが鳴った。
「時間です。続きは、明日」
エルナはぺこりと頭を下げて出ていった。
用意していた返事は行き場をなくした。本棚の陰のスマホもいつのまにか消えていた。
図書室で1時間も人の声を聞いたことは、今までなかった。
◇
火曜の朝、俺は机に突っ伏して寝たふりをしていた。エルナの席はまだ空いていた。教室の後ろで早瀬たちが話している。
「昨日のあれ、何だったの。祖国がどうとか」
「知らないよ。あたし、嘘告してきなって言ったよね」
早瀬の声だった。
「言った。大富豪で負けたら柴田に嘘告って。......え、待って」
「なに」
「う、抜けてない? うそこく、の、う」
一拍おいて、3人が同時に吹き出した。
「そこく!」
「やば。祖国してきてって言われたと思ってんだ」
「柴田は閉館まで図書室に1人だから、1時間あるよとは言ったけどさ。まさかフルで国の話するとは」
「てか声でかいって。柴田いるし」
「寝てるじゃん」
「どうする。教える?」
「教えない。おもろいもん」
これも早瀬だった。
「今日も祖国してきてって言お。動画、まだ撮れるし」
たぶんこういうことだ。
早瀬はいつもの早口で「あいつに嘘告してきなよ」と言ったのだろう。あの速さだと、「に」のすぐあとの「う」はほとんど聞こえない。日本語の教科書に『嘘告』は載っていない。『祖国』は載っている。知らない言葉は、知っている言葉に聞こえる。
ついでに言えば、大富豪のルールは地方ごとに違う。早瀬たちのローカルルールは、エルナが勝ちそうになると1つ追加される。
エルナに教えるべきだと思った。でも教えれば、知ることになる。昨日の1時間、自分は笑われるために国の話をしていたのだと。
それに、エルナは「続きは、明日」と言っていた。
予鈴の少し前にエルナが席に着いた。腕のすきまから見ると、背中を丸めてノートに何か書いていた。ときどき消しゴムを使って、また書いた。
昼休み、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してきてね」
「はい」
エルナの声はいつもよりずっと大きかった。
俺は誰にも何も言わなかった。
◇
16時ちょうどに、エルナは来た。
「1時間、ください」
「......どうぞ」
「今日も、祖国します」
エルナがタイマーを押した。
祖国しますってなんだよ。祖国は動詞じゃない。
本棚の陰のスマホは、今日は2つだった。撮るなと言えば、早瀬はその場で全部ばらすだろう。
「冬になると、湖が凍ります。氷が50センチより厚くなると、車で湖の上を走れます。隣の村まで、まっすぐです」
エルナはノートに大きな丸を描いて、その真ん中に線を1本引いた。
「湖の上に、道路の標識が立ちます」
気づいたら口が動いていた。
「その標識、なんて書いてあるの」
エルナの手が止まった。
「......質問、ですか」
「あ、悪い。だめだった?」
エルナは首を横に振った。ノートを何ページもめくって、また戻した。
「日本に来て、2ヶ月です。どこから来たの、と、たくさん聞かれました」
「うん」
「スヴィエラです、と言うと、みんな、へえ、と言います。それで、おしまいです」
エルナはページの端をつまんだ。
「2つ目の質問をしたのは、柴田くんが、初めてです」
それからエルナは笑った。昨日の1時間では見なかった顔だった。
「標識には、制限速度と、氷の厚さが書いてあります。毎朝、おじさんが氷に穴を開けて、測ります」
せっかくなので、もう1つ聞いた。
「海は見たことある?」
「日本で、見ました。海は、向こう岸のない湖です」
エルナが指を3本立てた。
「3つ目です」
「数えてるの?」
「数えます」
本棚の陰のスマホは30分で2つともいなくなった。
17時に閉館の札を出して、鍵をかけた。
「あのさ」
言いかけたところで、エルナが振り向いた。
「はい」
祖国じゃなくて嘘告なんだ。早瀬たちは笑ってるんだ。言うなら今だった。
廊下の窓の外で、学校の裏のため池が夕日を映していた。
「......あれ、湖じゃなくてため池な。田んぼに水を引くやつ」
「ため池」
エルナは窓に近づいた。
「名前は、ありますか」
「......たぶん、ない」
「そうですか」
エルナはしばらく池を見ていた。
「私は、さびしいとき、あそこに行きます」
◇
水曜は俺が先に準備をした。
前の晩、スマホでスヴィエラを調べた。日本語の情報は数行しかなかった。人口と首都と、国旗の画像。湖の話も、ヘラジカの話も、どこにも載っていなかった。
参考図書のコーナーから地図帳を出して、北のほうのページを開いた。スヴィエラの字はそのページでいちばん小さかった。国の名前より、隣の国の湖の名前のほうが大きかった。
蔵書検索で『スヴィエラ』と打つと、1冊だけ出てきた。『北の小さな国々』、1998年発行。書庫の奥にあった。裏表紙の内側のポケットに古い貸出カードが入っていて、最後の日付は2009年だった。
16時に来たエルナは、カウンターの上の地図帳を見て、カバンを肩にかけたまま固まった。
「......私の国です」
「スビエラ、だよな」
「ヴィ、です」
エルナは自分の下のくちびるを指でさした。
「ここを、少し噛みます」
「......スヴィエラ」
「合格です」
エルナは地図帳に顔を近づけて、湖の点の1つを押さえた。
「ここが、おばあちゃんの家です」
点の横には何も書かれていなかった。
古い本のほうは、スヴィエラの章が3ページしかなかった。エルナは1行ずつ読み上げて、ときどき採点した。
『首都の人口は約20万人』
「今は、もう少し多いです」
『国民は毎日サウナに入る』
「まちがいです。週に3回です」
『特に有名な産物はない』
エルナは少し笑った。
「これは、合っています」
本棚の陰のスマホは1つだけで、それも途中で引っこんだ。その日の俺の質問は11個だった。数えたのはエルナだ。
帰りぎわにエルナが聞いた。
「柴田くんの、下の名前は何ですか」
「陸」
「意味は、ありますか」
「陸地の陸。海じゃないほう」
エルナはちょっと考えてからうなずいた。
「私の国は、ぜんぶ、陸です」
◇
木曜の昼休み、エルナは早瀬たちの輪から離れて、1人でノートを書いていた。
「エルナちゃん、最近つきあい悪くない?」
大富豪のカードを配りながら、早瀬が言った。
「すみません。放課後の、祖国の準備です」
取り巻きの2人が吹き出した。早瀬は笑わなかった。エルナの分のカードを集めて、3人で配りなおした。
16時からの1時間は、おばあちゃんのパンの話で終わった。粉の割合から、焼く前に十字の切れ目を入れる理由まで。十字はパンが割れないように。それと、おまじない。
「何のおまじない?」
「家族が、みんな帰ってきますように」
エルナはそこで言葉を切った。
「私も、来年の7月に、帰ります」
あと9ヶ月だった。
「おばあちゃんは、毎週土曜に電話で聞きます。日本で、友だちはできたか、と」
「なんて答えてるの」
「できた、と言います。早瀬さんたちのことです」
エルナはノートに描いたパンの十字を、鉛筆で何度もなぞった。
「今度の土曜は、もう1人、増えたと言います」
俺は返事のかわりにまた質問をした。それで通算24個になった。
その1人が何を黙っているのか、エルナは知らない。
◇
金曜の帰りのホームルームが終わってすぐ、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してくるの?」
教室の全員に聞こえる声だった。
「はい。今日は、夏祭りの話です」
エルナはノートを胸に抱えていた。表紙の角が月曜よりだいぶ丸くなっていた。
「あのさ、それ、祖国じゃないから」
早瀬は机に腰かけて、足を揺らした。
「うそこく。う、そ、こ、く。嘘の告白。好きでもない男子に告って、向こうがOKしたら『罰ゲームでしたー』って笑うやつ」
教室が静かになった。
「なのに毎日、国の話してんだもん。マジでウケた。動画もあるよ」
エルナは立ったまま動かなかった。
「......うそ、の、こくはく」
「そう。てか柴田も知ってたっぽいよ? ね、柴田」
教室じゅうの目が俺に集まった。
知らないと言えば、たぶんそれで済んだ。
「......火曜から」
エルナがこっちを見た。何か言われると思った。
エルナは早瀬のほうへ向き直った。
「早瀬さん。私の国の名前を、言えますか」
「は?」
「私の国の名前です」
「え、なんだっけ。ス......スビ......スピなんとか」
早瀬は笑ってごまかそうとした。誰も笑わなかった。
「2ヶ月、毎日、一緒にお昼を食べました」
エルナはカバンを持って、教室を出ていった。
俺には、聞かなかった。
窓際の誰かがぼそっと言った。
「......今のは、ないわ」
早瀬の取り巻きの1人が、黙ってスマホをポケットにしまった。
◇
16時。図書室に、エルナは来なかった。
16時01分。
16時02分。
16時03分。
カウンターの上にタイマーはない。
16時05分。
俺は『ただいま席を外しています』の札を立てた。図書委員になって1年半、一度も出番のなかった札だ。
◇
ため池のほとりに、エルナはいた。コンクリートの縁に座って、膝の上にノートをのせていた。
俺は息を切らして、2メートルくらい手前で止まった。
「図書室は、17時までです」
エルナは水のほうを向いたまま言った。
「知ってる」
何から言えばいいのか、走りながら考えてきたが、決まらなかった。
「スヴィエラ共和国」
ヴィのところで下のくちびるを少し噛んだ。エルナの肩がぴくりと動いた。
「人口は練馬区くらい。湖は3,000以上。国の動物はヘラジカで、重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。夏は23時まで明るくて、冬は朝10時まで暗い」
息を継いだ。
「冬は湖が凍って、氷が50センチを超えたら車で走れる。湖の上の標識には、制限速度と氷の厚さが書いてある。毎朝おじさんが穴を開けて測る。パンは黒くて酸っぱくて、おばあちゃんが土曜に焼く」
エルナがゆっくりこっちを向いた。
「焼く前に十字の切れ目を入れる。割れないように。それと、家族がみんな帰ってきますようにっていうおまじない。敬語はまだ怖い。サウナは毎日じゃなくて週3回。首都の人口は20万よりもう少し多い。それから──」
「......海は」
エルナがぽつりと言った。
「向こう岸のない湖です」
「それも聞いた」
俺はようやく息を整えた。
「4日で4時間。全部、覚えてる」
「......教室で、柴田くんも、本棚のうしろの人だったのかと思いました」
「うん」
「でも、本棚のうしろの人は、ヘラジカの重さを覚えていません」
エルナはノートを閉じた。
「どうして、言わなかったのですか」
「言ったら、もう来ないと思った」
エルナは黙って待っていた。
「続きが、聞きたかった」
エルナの指が表紙の『祖国』の字をなぞった。
「......ごめん」
中2の秋から用意していた返事の、半分だけを使った。
「日本の学校の、行事だと思いました。誰か1人に、自分の国の話をする。そういう行事です」
「......うん」
「大富豪は、話す人を決めるゲームだと、考えました。クラスの係も、じゃんけんで決めていたので」
エルナの口もとがゆるんだ。
「負けて、うれしかったです。やっと、聞いてもらえると思いました。土曜も日曜も、ノートを作りました」
それから俺を見た。
「でも柴田くんは、最初の1時間、ずっと変な顔でした」
「告白されると思ってたから」
「告白」
「嘘告の、告白のほう」
エルナは指を折りはじめた。
「うそこく、から、う、を取ると、そこく」
「うん」
「うそ、を取ると」
「......こく」
「はい」
エルナが立ち上がって、スカートの砂を払った。夕日でため池の水が赤かった。
「リク」
柴田くん、ではなかった。
「質問は、ぜんぶで24個でした。へえ、で終わらなかったのは、リクだけです」
「まだ数えてるんだな」
「数えます」
エルナは池に向き直った。
「この湖には、名前がありませんね」
「ため池だからな」
「私の国では、名前のない湖には、見つけた人が名前をつけてもいいです」
知っている。月曜に聞いた。みんながどんな名前をつけるのかも。そこだけエルナの声が小さかったのも。
「この湖は、リク、にします」
残りの半分は、どこを探しても出てこなかった。
「......池に『陸』って、おかしくないか」
「おかしくないです」
エルナは水面を指さした。
「湖は、いつも、陸に囲まれています」
「来年の夏、バイト代でスヴィエラに行く」
エルナが振り向いた。
「名前のない湖、まだ何百もあるんだろ。1つ見つけて、名前をつける」
エルナはノートを持ち上げて、目から下を隠した。
「......26個目です」
25個目はさっきの「おかしくないか」だったらしい。
「今の、質問か?」
「27個目です」
2人でしばらく名前のついた池を見ていた。
17時のチャイムが鳴った。
「時間です」
エルナがノートを胸に抱えた。
「続きは、月曜日」
◇
金曜の夜、早瀬は動画をクラスのグループに流した。『嘘告させたら祖国はじまったw』とだけ添えてあった。
中2のときと違ったのは、笑うスタンプが1つもつかなかったことだ。夜中に誰かが『ヘラジカって信号守らないの?』と書きこんで、それきりだった。
月曜の朝、エルナの席のまわりに何人か集まっていた。
「スヴィエラって、どのへん?」
「ヘラジカ、見たことある?」
エルナは1つ答えるたびに指を折った。
早瀬たちは教室の後ろで大富豪をしていた。3人だとあまり盛り上がらないらしい。
16時、エルナはカウンターの前に立った。
「1時間、ください」
「その前に。土曜の電話で、おばあちゃんになんて言った?」
「リクの、28個目です」
エルナは下を向いた。
「友だちは、3人減りました、と言いました」
「......うん」
「それから、湖が1つ増えました、と言いました」
エルナの耳が赤くなっていた。
「今日は、夏祭りの話です」
スマホを置いたが、タイマーは押さなかった。
本棚の陰には、誰もいなかった。
俺はカウンターの内側に椅子をもう1つ出した。