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1時間、ください

「1時間、ください」

 放課後の図書室で、留学生のエルナがカウンター越しにそう言った。同じクラスだが、話したことは一度もない。

 これは嘘告うそこくだ。俺には分かる。

 放課後。人のいない場所。物陰のスマホ。この3つが揃ったら、だいたい嘘告だ。

 この時間の図書室に来る生徒は、まずいない。図書委員の当番を押しつけられて、16時から閉館の17時までは毎日俺1人だ。

 エルナの後ろに郷土資料の本棚が見える。その陰からスマホのレンズが3つのぞいている。うちのクラスの早瀬たちだ。隠れているつもりらしいが、本棚の上から早瀬の明るい茶色の頭がはみ出している。

 中2の秋、俺は一度これに「いいよ」と答えた。答えた瞬間に物陰から3人出てきて、「罰ゲームでしたー」と手を叩いた。その動画は夜にはクラスのグループで回っていた。

 だから返事はもう決めてある。「ごめん、無理」。これなら動画にしても面白くない。

 エルナはスマホをカウンターに置いた。画面には『60:00』のタイマー。それからノートを出した。

「では、始めます」
 エルナがタイマーのボタンを押した。
「私の祖国について、話します」

 ......祖国?

 ノートの表紙にも几帳面な字で『祖国』と書いてあった。

「私の祖国は、スヴィエラ共和国です。北のほうにあります。海は、ありません」

 本棚の陰から声がした。
「え?」

 エルナは背筋を伸ばしてノートを開き、読み上げはじめた。まるで授業の発表だった。ページいっぱいに色鉛筆で塗った地図があった。じゃがいもみたいな形の国に、青い点がびっしり打ってある。

 エルナは2学期から来ている交換留学生だ。麦わら色の髪を肩で切りそろえている。日本語はうまいが、しゃべり方は教科書そのままだ。教室では早瀬たちのグループにいて、休み時間も昼休みも連れ回されている。

 俺は「ごめん、無理」を口の中に用意したまま待った。

 16時02分。人口の話。日本の練馬区くらいらしい。練馬区には行ったことがありません、と本人が言った。俺もない。

 16時09分。国旗の話。青と白の2色で、青は湖、白は雪。

 16時15分。湖の数。3,000を超える。

 16時21分。湖の名前の話。

「湖が多すぎて、名前のない湖が、まだ何百もあります。見つけた人が名前をつけて、役所に届けてもいいです」
 エルナはノートから顔を上げた。
「みんな、好きな人の名前をつけます。だから私の国の地図は、ほとんど、誰かの好きな人です」

 そこだけ声が小さかった。

 来るのかと思った。エルナは次のページをめくった。

 16時26分。国の動物はヘラジカ。重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。

 16時30分。夏は23時まで明るい。冬は朝10時まで暗い。

 16時34分。言葉の話。スヴィエラ語には敬語がない。だから日本語の敬語は3年勉強してもまだ怖いらしい。

 16時38分。パンの話。おばあちゃんが毎週土曜に黒くて酸っぱいパンを焼く。日本のパンはやわらかすぎて、雲を食べているみたいだという。

 16時44分。本棚の陰のスマホが1つ減った。

 16時51分。もう1つ減った。

 告白はまだ来ない。前置きの長い嘘告なのかもしれない。俺は「ごめん、無理」を口の中で転がしつづけた。

 16時59分。エルナがノートを閉じた。

「最後に、大事なことを言います」

 来た。

 俺は息を吸った。本棚の陰に残ったスマホが、ぐっと前に出た。

「私の国は、とても、いい国です」

 タイマーが鳴った。

「時間です。続きは、明日」

 エルナはぺこりと頭を下げて出ていった。

 用意していた返事は行き場をなくした。本棚の陰のスマホもいつのまにか消えていた。

 図書室で1時間も人の声を聞いたことは、今までなかった。

  ◇

 火曜の朝、俺は机に突っ伏して寝たふりをしていた。エルナの席はまだ空いていた。教室の後ろで早瀬たちが話している。

「昨日のあれ、何だったの。祖国がどうとか」

「知らないよ。あたし、嘘告してきなって言ったよね」
 早瀬の声だった。

「言った。大富豪で負けたら柴田に嘘告って。......え、待って」

「なに」

「う、抜けてない? うそこく、の、う」

 一拍おいて、3人が同時に吹き出した。

「そこく!」
「やば。祖国してきてって言われたと思ってんだ」
「柴田は閉館まで図書室に1人だから、1時間あるよとは言ったけどさ。まさかフルで国の話するとは」

「てか声でかいって。柴田いるし」
「寝てるじゃん」

「どうする。教える?」

「教えない。おもろいもん」
 これも早瀬だった。
「今日も祖国してきてって言お。動画、まだ撮れるし」

 たぶんこういうことだ。

 早瀬はいつもの早口で「あいつに嘘告してきなよ」と言ったのだろう。あの速さだと、「に」のすぐあとの「う」はほとんど聞こえない。日本語の教科書に『嘘告』は載っていない。『祖国』は載っている。知らない言葉は、知っている言葉に聞こえる。

 ついでに言えば、大富豪のルールは地方ごとに違う。早瀬たちのローカルルールは、エルナが勝ちそうになると1つ追加される。

 エルナに教えるべきだと思った。でも教えれば、知ることになる。昨日の1時間、自分は笑われるために国の話をしていたのだと。

 それに、エルナは「続きは、明日」と言っていた。

 予鈴の少し前にエルナが席に着いた。腕のすきまから見ると、背中を丸めてノートに何か書いていた。ときどき消しゴムを使って、また書いた。

 昼休み、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してきてね」
「はい」
 エルナの声はいつもよりずっと大きかった。

 俺は誰にも何も言わなかった。

  ◇

 16時ちょうどに、エルナは来た。

「1時間、ください」
「......どうぞ」

「今日も、祖国します」
 エルナがタイマーを押した。

 祖国しますってなんだよ。祖国は動詞じゃない。

 本棚の陰のスマホは、今日は2つだった。撮るなと言えば、早瀬はその場で全部ばらすだろう。

「冬になると、湖が凍ります。氷が50センチより厚くなると、車で湖の上を走れます。隣の村まで、まっすぐです」
 エルナはノートに大きな丸を描いて、その真ん中に線を1本引いた。
「湖の上に、道路の標識が立ちます」

 気づいたら口が動いていた。
「その標識、なんて書いてあるの」

 エルナの手が止まった。
「......質問、ですか」
「あ、悪い。だめだった?」

 エルナは首を横に振った。ノートを何ページもめくって、また戻した。
「日本に来て、2ヶ月です。どこから来たの、と、たくさん聞かれました」
「うん」

「スヴィエラです、と言うと、みんな、へえ、と言います。それで、おしまいです」
 エルナはページの端をつまんだ。
「2つ目の質問をしたのは、柴田くんが、初めてです」

 それからエルナは笑った。昨日の1時間では見なかった顔だった。

「標識には、制限速度と、氷の厚さが書いてあります。毎朝、おじさんが氷に穴を開けて、測ります」

 せっかくなので、もう1つ聞いた。
「海は見たことある?」

「日本で、見ました。海は、向こう岸のない湖です」
 エルナが指を3本立てた。
「3つ目です」

「数えてるの?」
「数えます」

 本棚の陰のスマホは30分で2つともいなくなった。

 17時に閉館の札を出して、鍵をかけた。

「あのさ」

 言いかけたところで、エルナが振り向いた。
「はい」

 祖国じゃなくて嘘告なんだ。早瀬たちは笑ってるんだ。言うなら今だった。

 廊下の窓の外で、学校の裏のため池が夕日を映していた。

「......あれ、湖じゃなくてため池な。田んぼに水を引くやつ」

「ため池」
 エルナは窓に近づいた。
「名前は、ありますか」

「......たぶん、ない」

「そうですか」
 エルナはしばらく池を見ていた。
「私は、さびしいとき、あそこに行きます」

  ◇

 水曜は俺が先に準備をした。

 前の晩、スマホでスヴィエラを調べた。日本語の情報は数行しかなかった。人口と首都と、国旗の画像。湖の話も、ヘラジカの話も、どこにも載っていなかった。

 参考図書のコーナーから地図帳を出して、北のほうのページを開いた。スヴィエラの字はそのページでいちばん小さかった。国の名前より、隣の国の湖の名前のほうが大きかった。

 蔵書検索で『スヴィエラ』と打つと、1冊だけ出てきた。『北の小さな国々』、1998年発行。書庫の奥にあった。裏表紙の内側のポケットに古い貸出カードが入っていて、最後の日付は2009年だった。

 16時に来たエルナは、カウンターの上の地図帳を見て、カバンを肩にかけたまま固まった。

「......私の国です」

「スビエラ、だよな」

「ヴィ、です」
 エルナは自分の下のくちびるを指でさした。
「ここを、少し噛みます」

「......スヴィエラ」
「合格です」

 エルナは地図帳に顔を近づけて、湖の点の1つを押さえた。
「ここが、おばあちゃんの家です」

 点の横には何も書かれていなかった。

 古い本のほうは、スヴィエラの章が3ページしかなかった。エルナは1行ずつ読み上げて、ときどき採点した。

『首都の人口は約20万人』
「今は、もう少し多いです」

『国民は毎日サウナに入る』
「まちがいです。週に3回です」

『特に有名な産物はない』
 エルナは少し笑った。
「これは、合っています」

 本棚の陰のスマホは1つだけで、それも途中で引っこんだ。その日の俺の質問は11個だった。数えたのはエルナだ。

 帰りぎわにエルナが聞いた。
「柴田くんの、下の名前は何ですか」
「陸」

「意味は、ありますか」
「陸地の陸。海じゃないほう」

 エルナはちょっと考えてからうなずいた。
「私の国は、ぜんぶ、陸です」

  ◇

 木曜の昼休み、エルナは早瀬たちの輪から離れて、1人でノートを書いていた。

「エルナちゃん、最近つきあい悪くない?」
 大富豪のカードを配りながら、早瀬が言った。

「すみません。放課後の、祖国の準備です」

 取り巻きの2人が吹き出した。早瀬は笑わなかった。エルナの分のカードを集めて、3人で配りなおした。

 16時からの1時間は、おばあちゃんのパンの話で終わった。粉の割合から、焼く前に十字の切れ目を入れる理由まで。十字はパンが割れないように。それと、おまじない。

「何のおまじない?」

「家族が、みんな帰ってきますように」
 エルナはそこで言葉を切った。
「私も、来年の7月に、帰ります」

 あと9ヶ月だった。

「おばあちゃんは、毎週土曜に電話で聞きます。日本で、友だちはできたか、と」
「なんて答えてるの」

「できた、と言います。早瀬さんたちのことです」
 エルナはノートに描いたパンの十字を、鉛筆で何度もなぞった。
「今度の土曜は、もう1人、増えたと言います」

 俺は返事のかわりにまた質問をした。それで通算24個になった。

 その1人が何を黙っているのか、エルナは知らない。

  ◇

 金曜の帰りのホームルームが終わってすぐ、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してくるの?」

 教室の全員に聞こえる声だった。

「はい。今日は、夏祭りの話です」

 エルナはノートを胸に抱えていた。表紙の角が月曜よりだいぶ丸くなっていた。

「あのさ、それ、祖国じゃないから」
 早瀬は机に腰かけて、足を揺らした。
「うそこく。う、そ、こ、く。嘘の告白。好きでもない男子に告って、向こうがOKしたら『罰ゲームでしたー』って笑うやつ」

 教室が静かになった。

「なのに毎日、国の話してんだもん。マジでウケた。動画もあるよ」

 エルナは立ったまま動かなかった。

「......うそ、の、こくはく」

「そう。てか柴田も知ってたっぽいよ? ね、柴田」

 教室じゅうの目が俺に集まった。

 知らないと言えば、たぶんそれで済んだ。

「......火曜から」

 エルナがこっちを見た。何か言われると思った。

 エルナは早瀬のほうへ向き直った。
「早瀬さん。私の国の名前を、言えますか」
「は?」

「私の国の名前です」
「え、なんだっけ。ス......スビ......スピなんとか」

 早瀬は笑ってごまかそうとした。誰も笑わなかった。

「2ヶ月、毎日、一緒にお昼を食べました」

 エルナはカバンを持って、教室を出ていった。

 俺には、聞かなかった。

 窓際の誰かがぼそっと言った。
「......今のは、ないわ」

 早瀬の取り巻きの1人が、黙ってスマホをポケットにしまった。

  ◇

 16時。図書室に、エルナは来なかった。

 16時01分。
 16時02分。
 16時03分。

 カウンターの上にタイマーはない。

 16時05分。

 俺は『ただいま席を外しています』の札を立てた。図書委員になって1年半、一度も出番のなかった札だ。

  ◇

 ため池のほとりに、エルナはいた。コンクリートの縁に座って、膝の上にノートをのせていた。

 俺は息を切らして、2メートルくらい手前で止まった。

「図書室は、17時までです」
 エルナは水のほうを向いたまま言った。

「知ってる」

 何から言えばいいのか、走りながら考えてきたが、決まらなかった。

「スヴィエラ共和国」

 ヴィのところで下のくちびるを少し噛んだ。エルナの肩がぴくりと動いた。

「人口は練馬区くらい。湖は3,000以上。国の動物はヘラジカで、重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。夏は23時まで明るくて、冬は朝10時まで暗い」
 息を継いだ。
「冬は湖が凍って、氷が50センチを超えたら車で走れる。湖の上の標識には、制限速度と氷の厚さが書いてある。毎朝おじさんが穴を開けて測る。パンは黒くて酸っぱくて、おばあちゃんが土曜に焼く」

 エルナがゆっくりこっちを向いた。

「焼く前に十字の切れ目を入れる。割れないように。それと、家族がみんな帰ってきますようにっていうおまじない。敬語はまだ怖い。サウナは毎日じゃなくて週3回。首都の人口は20万よりもう少し多い。それから──」

「......海は」
 エルナがぽつりと言った。
「向こう岸のない湖です」

「それも聞いた」

 俺はようやく息を整えた。

「4日で4時間。全部、覚えてる」

「......教室で、柴田くんも、本棚のうしろの人だったのかと思いました」
「うん」

「でも、本棚のうしろの人は、ヘラジカの重さを覚えていません」
 エルナはノートを閉じた。
「どうして、言わなかったのですか」

「言ったら、もう来ないと思った」

 エルナは黙って待っていた。

「続きが、聞きたかった」

 エルナの指が表紙の『祖国』の字をなぞった。

「......ごめん」
 中2の秋から用意していた返事の、半分だけを使った。

「日本の学校の、行事だと思いました。誰か1人に、自分の国の話をする。そういう行事です」
「......うん」

「大富豪は、話す人を決めるゲームだと、考えました。クラスの係も、じゃんけんで決めていたので」
 エルナの口もとがゆるんだ。
「負けて、うれしかったです。やっと、聞いてもらえると思いました。土曜も日曜も、ノートを作りました」
 それから俺を見た。
「でも柴田くんは、最初の1時間、ずっと変な顔でした」

「告白されると思ってたから」
「告白」
「嘘告の、告白のほう」

 エルナは指を折りはじめた。
「うそこく、から、う、を取ると、そこく」
「うん」

「うそ、を取ると」
「......こく」
「はい」

 エルナが立ち上がって、スカートの砂を払った。夕日でため池の水が赤かった。

「リク」

 柴田くん、ではなかった。

「質問は、ぜんぶで24個でした。へえ、で終わらなかったのは、リクだけです」

「まだ数えてるんだな」
「数えます」

 エルナは池に向き直った。
「この湖には、名前がありませんね」
「ため池だからな」

「私の国では、名前のない湖には、見つけた人が名前をつけてもいいです」

 知っている。月曜に聞いた。みんながどんな名前をつけるのかも。そこだけエルナの声が小さかったのも。

「この湖は、リク、にします」

 残りの半分は、どこを探しても出てこなかった。

「......池に『陸』って、おかしくないか」
「おかしくないです」

 エルナは水面を指さした。
「湖は、いつも、陸に囲まれています」

「来年の夏、バイト代でスヴィエラに行く」

 エルナが振り向いた。

「名前のない湖、まだ何百もあるんだろ。1つ見つけて、名前をつける」

 エルナはノートを持ち上げて、目から下を隠した。

「......26個目です」

 25個目はさっきの「おかしくないか」だったらしい。

「今の、質問か?」
「27個目です」

 2人でしばらく名前のついた池を見ていた。

 17時のチャイムが鳴った。

「時間です」
 エルナがノートを胸に抱えた。
「続きは、月曜日」

  ◇

 金曜の夜、早瀬は動画をクラスのグループに流した。『嘘告させたら祖国はじまったw』とだけ添えてあった。

 中2のときと違ったのは、笑うスタンプが1つもつかなかったことだ。夜中に誰かが『ヘラジカって信号守らないの?』と書きこんで、それきりだった。

 月曜の朝、エルナの席のまわりに何人か集まっていた。

「スヴィエラって、どのへん?」
「ヘラジカ、見たことある?」

 エルナは1つ答えるたびに指を折った。

 早瀬たちは教室の後ろで大富豪をしていた。3人だとあまり盛り上がらないらしい。

 16時、エルナはカウンターの前に立った。

「1時間、ください」
「その前に。土曜の電話で、おばあちゃんになんて言った?」

「リクの、28個目です」
 エルナは下を向いた。
「友だちは、3人減りました、と言いました」

「......うん」

「それから、湖が1つ増えました、と言いました」

 エルナの耳が赤くなっていた。
「今日は、夏祭りの話です」
 スマホを置いたが、タイマーは押さなかった。

 本棚の陰には、誰もいなかった。

 俺はカウンターの内側に椅子をもう1つ出した。
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罰ゲームで嘘告を命じられた留学生、「う」を聞き逃したらしく俺に祖国のよさを1時間語ってくる作者:黒い★彡彗星
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1時間、ください

「1時間、ください」

 放課後の図書室で、留学生のエルナがカウンター越しにそう言った。同じクラスだが、話したことは一度もない。

 これは嘘告うそこくだ。俺には分かる。

 放課後。人のいない場所。物陰のスマホ。この3つが揃ったら、だいたい嘘告だ。

 この時間の図書室に来る生徒は、まずいない。図書委員の当番を押しつけられて、16時から閉館の17時までは毎日俺1人だ。

 エルナの後ろに郷土資料の本棚が見える。その陰からスマホのレンズが3つのぞいている。うちのクラスの早瀬たちだ。隠れているつもりらしいが、本棚の上から早瀬の明るい茶色の頭がはみ出している。

 中2の秋、俺は一度これに「いいよ」と答えた。答えた瞬間に物陰から3人出てきて、「罰ゲームでしたー」と手を叩いた。その動画は夜にはクラスのグループで回っていた。

 だから返事はもう決めてある。「ごめん、無理」。これなら動画にしても面白くない。

 エルナはスマホをカウンターに置いた。画面には『60:00』のタイマー。それからノートを出した。

「では、始めます」
 エルナがタイマーのボタンを押した。
「私の祖国について、話します」

 ......祖国?

 ノートの表紙にも几帳面な字で『祖国』と書いてあった。

「私の祖国は、スヴィエラ共和国です。北のほうにあります。海は、ありません」

 本棚の陰から声がした。
「え?」

 エルナは背筋を伸ばしてノートを開き、読み上げはじめた。まるで授業の発表だった。ページいっぱいに色鉛筆で塗った地図があった。じゃがいもみたいな形の国に、青い点がびっしり打ってある。

 エルナは2学期から来ている交換留学生だ。麦わら色の髪を肩で切りそろえている。日本語はうまいが、しゃべり方は教科書そのままだ。教室では早瀬たちのグループにいて、休み時間も昼休みも連れ回されている。

 俺は「ごめん、無理」を口の中に用意したまま待った。

 16時02分。人口の話。日本の練馬区くらいらしい。練馬区には行ったことがありません、と本人が言った。俺もない。

 16時09分。国旗の話。青と白の2色で、青は湖、白は雪。

 16時15分。湖の数。3,000を超える。

 16時21分。湖の名前の話。

「湖が多すぎて、名前のない湖が、まだ何百もあります。見つけた人が名前をつけて、役所に届けてもいいです」
 エルナはノートから顔を上げた。
「みんな、好きな人の名前をつけます。だから私の国の地図は、ほとんど、誰かの好きな人です」

 そこだけ声が小さかった。

 来るのかと思った。エルナは次のページをめくった。

 16時26分。国の動物はヘラジカ。重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。

 16時30分。夏は23時まで明るい。冬は朝10時まで暗い。

 16時34分。言葉の話。スヴィエラ語には敬語がない。だから日本語の敬語は3年勉強してもまだ怖いらしい。

 16時38分。パンの話。おばあちゃんが毎週土曜に黒くて酸っぱいパンを焼く。日本のパンはやわらかすぎて、雲を食べているみたいだという。

 16時44分。本棚の陰のスマホが1つ減った。

 16時51分。もう1つ減った。

 告白はまだ来ない。前置きの長い嘘告なのかもしれない。俺は「ごめん、無理」を口の中で転がしつづけた。

 16時59分。エルナがノートを閉じた。

「最後に、大事なことを言います」

 来た。

 俺は息を吸った。本棚の陰に残ったスマホが、ぐっと前に出た。

「私の国は、とても、いい国です」

 タイマーが鳴った。

「時間です。続きは、明日」

 エルナはぺこりと頭を下げて出ていった。

 用意していた返事は行き場をなくした。本棚の陰のスマホもいつのまにか消えていた。

 図書室で1時間も人の声を聞いたことは、今までなかった。

  ◇

 火曜の朝、俺は机に突っ伏して寝たふりをしていた。エルナの席はまだ空いていた。教室の後ろで早瀬たちが話している。

「昨日のあれ、何だったの。祖国がどうとか」

「知らないよ。あたし、嘘告してきなって言ったよね」
 早瀬の声だった。

「言った。大富豪で負けたら柴田に嘘告って。......え、待って」

「なに」

「う、抜けてない? うそこく、の、う」

 一拍おいて、3人が同時に吹き出した。

「そこく!」
「やば。祖国してきてって言われたと思ってんだ」
「柴田は閉館まで図書室に1人だから、1時間あるよとは言ったけどさ。まさかフルで国の話するとは」

「てか声でかいって。柴田いるし」
「寝てるじゃん」

「どうする。教える?」

「教えない。おもろいもん」
 これも早瀬だった。
「今日も祖国してきてって言お。動画、まだ撮れるし」

 たぶんこういうことだ。

 早瀬はいつもの早口で「あいつに嘘告してきなよ」と言ったのだろう。あの速さだと、「に」のすぐあとの「う」はほとんど聞こえない。日本語の教科書に『嘘告』は載っていない。『祖国』は載っている。知らない言葉は、知っている言葉に聞こえる。

 ついでに言えば、大富豪のルールは地方ごとに違う。早瀬たちのローカルルールは、エルナが勝ちそうになると1つ追加される。

 エルナに教えるべきだと思った。でも教えれば、知ることになる。昨日の1時間、自分は笑われるために国の話をしていたのだと。

 それに、エルナは「続きは、明日」と言っていた。

 予鈴の少し前にエルナが席に着いた。腕のすきまから見ると、背中を丸めてノートに何か書いていた。ときどき消しゴムを使って、また書いた。

 昼休み、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してきてね」
「はい」
 エルナの声はいつもよりずっと大きかった。

 俺は誰にも何も言わなかった。

  ◇

 16時ちょうどに、エルナは来た。

「1時間、ください」
「......どうぞ」

「今日も、祖国します」
 エルナがタイマーを押した。

 祖国しますってなんだよ。祖国は動詞じゃない。

 本棚の陰のスマホは、今日は2つだった。撮るなと言えば、早瀬はその場で全部ばらすだろう。

「冬になると、湖が凍ります。氷が50センチより厚くなると、車で湖の上を走れます。隣の村まで、まっすぐです」
 エルナはノートに大きな丸を描いて、その真ん中に線を1本引いた。
「湖の上に、道路の標識が立ちます」

 気づいたら口が動いていた。
「その標識、なんて書いてあるの」

 エルナの手が止まった。
「......質問、ですか」
「あ、悪い。だめだった?」

 エルナは首を横に振った。ノートを何ページもめくって、また戻した。
「日本に来て、2ヶ月です。どこから来たの、と、たくさん聞かれました」
「うん」

「スヴィエラです、と言うと、みんな、へえ、と言います。それで、おしまいです」
 エルナはページの端をつまんだ。
「2つ目の質問をしたのは、柴田くんが、初めてです」

 それからエルナは笑った。昨日の1時間では見なかった顔だった。

「標識には、制限速度と、氷の厚さが書いてあります。毎朝、おじさんが氷に穴を開けて、測ります」

 せっかくなので、もう1つ聞いた。
「海は見たことある?」

「日本で、見ました。海は、向こう岸のない湖です」
 エルナが指を3本立てた。
「3つ目です」

「数えてるの?」
「数えます」

 本棚の陰のスマホは30分で2つともいなくなった。

 17時に閉館の札を出して、鍵をかけた。

「あのさ」

 言いかけたところで、エルナが振り向いた。
「はい」

 祖国じゃなくて嘘告なんだ。早瀬たちは笑ってるんだ。言うなら今だった。

 廊下の窓の外で、学校の裏のため池が夕日を映していた。

「......あれ、湖じゃなくてため池な。田んぼに水を引くやつ」

「ため池」
 エルナは窓に近づいた。
「名前は、ありますか」

「......たぶん、ない」

「そうですか」
 エルナはしばらく池を見ていた。
「私は、さびしいとき、あそこに行きます」

  ◇

 水曜は俺が先に準備をした。

 前の晩、スマホでスヴィエラを調べた。日本語の情報は数行しかなかった。人口と首都と、国旗の画像。湖の話も、ヘラジカの話も、どこにも載っていなかった。

 参考図書のコーナーから地図帳を出して、北のほうのページを開いた。スヴィエラの字はそのページでいちばん小さかった。国の名前より、隣の国の湖の名前のほうが大きかった。

 蔵書検索で『スヴィエラ』と打つと、1冊だけ出てきた。『北の小さな国々』、1998年発行。書庫の奥にあった。裏表紙の内側のポケットに古い貸出カードが入っていて、最後の日付は2009年だった。

 16時に来たエルナは、カウンターの上の地図帳を見て、カバンを肩にかけたまま固まった。

「......私の国です」

「スビエラ、だよな」

「ヴィ、です」
 エルナは自分の下のくちびるを指でさした。
「ここを、少し噛みます」

「......スヴィエラ」
「合格です」

 エルナは地図帳に顔を近づけて、湖の点の1つを押さえた。
「ここが、おばあちゃんの家です」

 点の横には何も書かれていなかった。

 古い本のほうは、スヴィエラの章が3ページしかなかった。エルナは1行ずつ読み上げて、ときどき採点した。

『首都の人口は約20万人』
「今は、もう少し多いです」

『国民は毎日サウナに入る』
「まちがいです。週に3回です」

『特に有名な産物はない』
 エルナは少し笑った。
「これは、合っています」

 本棚の陰のスマホは1つだけで、それも途中で引っこんだ。その日の俺の質問は11個だった。数えたのはエルナだ。

 帰りぎわにエルナが聞いた。
「柴田くんの、下の名前は何ですか」
「陸」

「意味は、ありますか」
「陸地の陸。海じゃないほう」

 エルナはちょっと考えてからうなずいた。
「私の国は、ぜんぶ、陸です」

  ◇

 木曜の昼休み、エルナは早瀬たちの輪から離れて、1人でノートを書いていた。

「エルナちゃん、最近つきあい悪くない?」
 大富豪のカードを配りながら、早瀬が言った。

「すみません。放課後の、祖国の準備です」

 取り巻きの2人が吹き出した。早瀬は笑わなかった。エルナの分のカードを集めて、3人で配りなおした。

 16時からの1時間は、おばあちゃんのパンの話で終わった。粉の割合から、焼く前に十字の切れ目を入れる理由まで。十字はパンが割れないように。それと、おまじない。

「何のおまじない?」

「家族が、みんな帰ってきますように」
 エルナはそこで言葉を切った。
「私も、来年の7月に、帰ります」

 あと9ヶ月だった。

「おばあちゃんは、毎週土曜に電話で聞きます。日本で、友だちはできたか、と」
「なんて答えてるの」

「できた、と言います。早瀬さんたちのことです」
 エルナはノートに描いたパンの十字を、鉛筆で何度もなぞった。
「今度の土曜は、もう1人、増えたと言います」

 俺は返事のかわりにまた質問をした。それで通算24個になった。

 その1人が何を黙っているのか、エルナは知らない。

  ◇

 金曜の帰りのホームルームが終わってすぐ、早瀬が言った。
「エルナちゃん、今日も祖国してくるの?」

 教室の全員に聞こえる声だった。

「はい。今日は、夏祭りの話です」

 エルナはノートを胸に抱えていた。表紙の角が月曜よりだいぶ丸くなっていた。

「あのさ、それ、祖国じゃないから」
 早瀬は机に腰かけて、足を揺らした。
「うそこく。う、そ、こ、く。嘘の告白。好きでもない男子に告って、向こうがOKしたら『罰ゲームでしたー』って笑うやつ」

 教室が静かになった。

「なのに毎日、国の話してんだもん。マジでウケた。動画もあるよ」

 エルナは立ったまま動かなかった。

「......うそ、の、こくはく」

「そう。てか柴田も知ってたっぽいよ? ね、柴田」

 教室じゅうの目が俺に集まった。

 知らないと言えば、たぶんそれで済んだ。

「......火曜から」

 エルナがこっちを見た。何か言われると思った。

 エルナは早瀬のほうへ向き直った。
「早瀬さん。私の国の名前を、言えますか」
「は?」

「私の国の名前です」
「え、なんだっけ。ス......スビ......スピなんとか」

 早瀬は笑ってごまかそうとした。誰も笑わなかった。

「2ヶ月、毎日、一緒にお昼を食べました」

 エルナはカバンを持って、教室を出ていった。

 俺には、聞かなかった。

 窓際の誰かがぼそっと言った。
「......今のは、ないわ」

 早瀬の取り巻きの1人が、黙ってスマホをポケットにしまった。

  ◇

 16時。図書室に、エルナは来なかった。

 16時01分。
 16時02分。
 16時03分。

 カウンターの上にタイマーはない。

 16時05分。

 俺は『ただいま席を外しています』の札を立てた。図書委員になって1年半、一度も出番のなかった札だ。

  ◇

 ため池のほとりに、エルナはいた。コンクリートの縁に座って、膝の上にノートをのせていた。

 俺は息を切らして、2メートルくらい手前で止まった。

「図書室は、17時までです」
 エルナは水のほうを向いたまま言った。

「知ってる」

 何から言えばいいのか、走りながら考えてきたが、決まらなかった。

「スヴィエラ共和国」

 ヴィのところで下のくちびるを少し噛んだ。エルナの肩がぴくりと動いた。

「人口は練馬区くらい。湖は3,000以上。国の動物はヘラジカで、重さは軽自動車の半分くらい。信号は守らない。夏は23時まで明るくて、冬は朝10時まで暗い」
 息を継いだ。
「冬は湖が凍って、氷が50センチを超えたら車で走れる。湖の上の標識には、制限速度と氷の厚さが書いてある。毎朝おじさんが穴を開けて測る。パンは黒くて酸っぱくて、おばあちゃんが土曜に焼く」

 エルナがゆっくりこっちを向いた。

「焼く前に十字の切れ目を入れる。割れないように。それと、家族がみんな帰ってきますようにっていうおまじない。敬語はまだ怖い。サウナは毎日じゃなくて週3回。首都の人口は20万よりもう少し多い。それから──」

「......海は」
 エルナがぽつりと言った。
「向こう岸のない湖です」

「それも聞いた」

 俺はようやく息を整えた。

「4日で4時間。全部、覚えてる」

「......教室で、柴田くんも、本棚のうしろの人だったのかと思いました」
「うん」

「でも、本棚のうしろの人は、ヘラジカの重さを覚えていません」
 エルナはノートを閉じた。
「どうして、言わなかったのですか」

「言ったら、もう来ないと思った」

 エルナは黙って待っていた。

「続きが、聞きたかった」

 エルナの指が表紙の『祖国』の字をなぞった。

「......ごめん」
 中2の秋から用意していた返事の、半分だけを使った。

「日本の学校の、行事だと思いました。誰か1人に、自分の国の話をする。そういう行事です」
「......うん」

「大富豪は、話す人を決めるゲームだと、考えました。クラスの係も、じゃんけんで決めていたので」
 エルナの口もとがゆるんだ。
「負けて、うれしかったです。やっと、聞いてもらえると思いました。土曜も日曜も、ノートを作りました」
 それから俺を見た。
「でも柴田くんは、最初の1時間、ずっと変な顔でした」

「告白されると思ってたから」
「告白」
「嘘告の、告白のほう」

 エルナは指を折りはじめた。
「うそこく、から、う、を取ると、そこく」
「うん」

「うそ、を取ると」
「......こく」
「はい」

 エルナが立ち上がって、スカートの砂を払った。夕日でため池の水が赤かった。

「リク」

 柴田くん、ではなかった。

「質問は、ぜんぶで24個でした。へえ、で終わらなかったのは、リクだけです」

「まだ数えてるんだな」
「数えます」

 エルナは池に向き直った。
「この湖には、名前がありませんね」
「ため池だからな」

「私の国では、名前のない湖には、見つけた人が名前をつけてもいいです」

 知っている。月曜に聞いた。みんながどんな名前をつけるのかも。そこだけエルナの声が小さかったのも。

「この湖は、リク、にします」

 残りの半分は、どこを探しても出てこなかった。

「......池に『陸』って、おかしくないか」
「おかしくないです」

 エルナは水面を指さした。
「湖は、いつも、陸に囲まれています」

「来年の夏、バイト代でスヴィエラに行く」

 エルナが振り向いた。

「名前のない湖、まだ何百もあるんだろ。1つ見つけて、名前をつける」

 エルナはノートを持ち上げて、目から下を隠した。

「......26個目です」

 25個目はさっきの「おかしくないか」だったらしい。

「今の、質問か?」
「27個目です」

 2人でしばらく名前のついた池を見ていた。

 17時のチャイムが鳴った。

「時間です」
 エルナがノートを胸に抱えた。
「続きは、月曜日」

  ◇

 金曜の夜、早瀬は動画をクラスのグループに流した。『嘘告させたら祖国はじまったw』とだけ添えてあった。

 中2のときと違ったのは、笑うスタンプが1つもつかなかったことだ。夜中に誰かが『ヘラジカって信号守らないの?』と書きこんで、それきりだった。

 月曜の朝、エルナの席のまわりに何人か集まっていた。

「スヴィエラって、どのへん?」
「ヘラジカ、見たことある?」

 エルナは1つ答えるたびに指を折った。

 早瀬たちは教室の後ろで大富豪をしていた。3人だとあまり盛り上がらないらしい。

 16時、エルナはカウンターの前に立った。

「1時間、ください」
「その前に。土曜の電話で、おばあちゃんになんて言った?」

「リクの、28個目です」
 エルナは下を向いた。
「友だちは、3人減りました、と言いました」

「......うん」

「それから、湖が1つ増えました、と言いました」

 エルナの耳が赤くなっていた。
「今日は、夏祭りの話です」
 スマホを置いたが、タイマーは押さなかった。

 本棚の陰には、誰もいなかった。

 俺はカウンターの内側に椅子をもう1つ出した。
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罰ゲームで嘘告を命じられた留学生、「う」を聞き逃したらしく俺に祖国のよさを1時間語ってくる作者:黒い★彡彗星
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