
第七話 犬の忠誠
地面の上を転がりながら悲鳴を上げていた男の声が途切れた。 周囲は人気のない倉庫街だ。誰も声を聞き付けてくる気配はない。 突然訪れた不気味な静寂にロキの声が引き攣る。「こ、殺した......?」「ふざけてるの? この程度で死ぬわけないだろ」 ユーリが白い魔導書を閉じると、男の身体を這い回っていた白い亀裂も溶けるようにして消え去った。 よく見ると男の胸は多少上下している。 痛みで気を失っただけのようだ。 思わず安堵の息を零しながら未だ立てずにいるロキの傍らにユーリが片膝をついた。 その視線はロキの首元へと注がれている。「首輪は?」「あ、......その」 倒れている男へと視線を向ける。 それだけで察したように立ち上がろうとするユーリの服の裾を、ロキの手が掴んだ。「待って......!」 縋るように伸ばした手に抗わず、ユーリは両方の膝を折ってその場に屈み込みなおす。 粗暴な男を一人倒した後だというのに、ロキを見下ろす瞳には高揚も愉悦もない。 空に浮かぶ月のように、ただ静かにそこにあった。
(......こんな綺麗な男もいるんだな)
初めて顔を合わせた時、内心でそう呟いたことを思い出す。 だが改めてそう思ってしまうほど、月明りを一身に受けた白い男は相変わらず美しかった。(まあ、こうやって黙っていればの話だけど......)
内心で一人小さく笑う。 一方で黒い髪を地面に擦り付け、身体のあちこちを血と土で汚した自分の姿との差に、無意識のまま口元にも自嘲を描いた。 宿を出る時に雑に止血しただけの腕の傷さえいつの間にか開き、袖が赤く濡れていた。
痛む身体を引きずるようにして起こし、何とか地面に座り込む姿勢を取る。 殴られた拍子に切れた唇を開き、一度震えた息を吐いた。「......ごめん、なさい」 吹き抜けた風が銀色の髪を僅かに揺らしたのが、視界の端に映った。 しかしその表情を直接窺う勇気は出ない。 宿の部屋で向けられた温度のない瞳。きっとそれと同じ目をしているだろうと思った。 なんの気紛れか、ユーリが自分の言葉に耳を傾けてくれている内に次の言葉を紡ごうとして、不意に両の瞳から熱いものが溢れた。 痛みではない。恐怖でもない。 ただこの後、自分が失うものへの惜しさだった。 決して手に入れたわけではないと分かっていても、失い難いと、ほんの一瞬思ってしまった。「俺が、......ユーリを、呪いました」 冷たい地面へ置いた指先に力が籠る。 言葉が震えないようにと気を付けても、嫌でも吐息が揺れた。「だから、術者を......っ、探せなく、て」 涙を流すなど、一体いつが最後だっただろうか。 住んでいた街を追われた時さえ泣かなかった。 そういうものだと理解していたから。
慣れていない涙の止め方も分からず、みっともなく喉を引きつらせ、鼻をすする。 頬を焼くのではないかと思うほど、零れ落ちる雫は熱を持っていた。「でも、さっきの呪術は俺じゃない......! ほんと、に......!」 子供みたいに喚きそうになる衝動は唇を噛んで寸前で堪える。 その代わり、もう涙で濡れきった顔を腕で覆って膝に伏せた。「俺じゃない......っ、信じて......」 それは呪術師の口から出るには、あまりに滑稽な単語だった。 もう少し余裕があれば自ら冗談だと笑ってみせたであろうほどに。
頷く者などいるはずがない。どれだけ叫んでも届くはずもない。 そう知っているのに、それでも、気付けば零れ出ていた。「っ......ごめ、なさ......!」 それ以降はもう言葉にならず、肩を震わせて必死で呼吸を整える。 腕で覆って塞いだ視界の向こうで、小さく息を吐く音が聞こえた。「知ってたけど」 静かな声を掻き消そうとするかのように、細い路地を風が吹き抜けた。(――え)
ロキは何度か息をしゃくりあげ、僅かな間を置いた後、顔を上げる。「......え?」 心の内がもう一度口から零れた。「だから、知ってたって」 涙でぐしゃぐしゃに濡れた視界の中で、ユーリは少し退屈そうに頬杖をついていた。 その表情は笑うでもなく、かといって冷たい眼差しでもなく。 さも当然の話をしている風だった。「そもそも、お前の魔力の気配を辿ってあの隠れ家まで行ったわけだし」 髪と同じ透けるような銀色の睫毛を伏せ、そう言ってユーリは立ち上がる。 ロキはぽかんと口を開き、それを視線で追うことしか出来なかった。「え......じゃあ、なんで......」「解呪に応じず襲い掛かってくるようなら殺すつもりで行ったけどさ。あまりに見え透いた嘘を必死で吐くもんだから」 ユーリは気を失っている男の服を漁り、首輪を取り出す。 だが金具は完全に壊れてしまっており、もう元の形には戻りそうになかった。「だから、どこまでその下らない嘘を吐き続けるのか気になったんだよ」 もう首輪とも呼べなくなったそれを白いローブの内に押し込みながらユーリは振り返る。 見開いたロキの瞳から、目尻に残っていた分の雫が一筋だけ落ちた。「な、......で、でもさっきのは」「術者がどこまで覗き見てるか分からない。あれくらいは演じておかないと油断を誘えないだろ」 なぜそんなことも分からない。 そう言いたげに、冷ややかな眼差しを向けながら白い魔導書を開いたユーリがロキの傍らへと歩み寄る。
開いたページに描かれた魔法陣が淡い輝きを帯びるなり、ロキの身体が同じ色の光に包まれ、一瞬で身体を支配していた痛みが抜けていく。 口内に血の味を滲ませていた唇の傷さえ、一度の呼吸の内に溶けて消えた。「でも術者の魔力の残滓を追い掛けたら奴は呑気に腹を出して転がって寝てるし。宿に戻ったらお前は居ないし」 魔導書を静かに閉じながら、ユーリは不服そうに僅かばかり眉根を寄せた。「お前のせいでこんな夜中に、無駄に走り回る羽目になった」
(......ユ、ユーリが走った......?)
そう視線だけで問い返すと、一瞬咎めるような眼差しが落ちてくる。 誤魔化すように顔を伏せた先の自分の服はひどく汚らしかった。 靴跡から血の染みまで無様に残っている。「明日、新しい服を買えばいい。もちろん全部貸しだけど」「え」「何? まさか僕に払わせるつもりでいたわけ?」「そ、そういうわけじゃ......!」 慌てて首を横に振る。だが、心臓がうるさく鳴っていた。 呪術師が期待など持ってはいけない。 そう理解していても、もう勝手に口が開いていく。「まだ、俺、一緒にいても......」 その先は言葉にならなかった。 拒まれる恐怖と、期待してしまう羞恥とが入り混じって。 ユーリは何も答えずに小さく鼻を鳴らすなり踵を返し、来た道を戻っていく。「さっさと宿に戻れ。そんな汚い顔の奴を連れて歩いてるのを見られたら僕が笑い者になる」「......ん」 そう言われて、涙と鼻水とで汚れた顔を袖で拭いてから立ち上がる。 だが傷が塞がる前に漏れ出していた血の匂いが顔に付着した。 一層酷い顔になった気がして口元を歪めつつ、ユーリの背を追う。「あの......さっき魔力の残滓を追ったって」「それが何?」「呪術師でもないのに、呪術の痕跡を追えるはずが......」 おずおずと問うと、眉根を寄せたユーリは視線だけでロキを振り返った。「お前、僕を誰だと思ってるの?」「......S級の冒険者で神授武器持ちの白魔術師......」「そうだよ」 ユーリは謙虚さの欠片もなく頷くと、口角を上げて笑った。「専門職ほど早く正確じゃなくても、別に出来ないわけじゃない。魔力を扱うのは僕の専門の内だ」 一見すれば人形のように美しい笑みで、いっそ傲慢なほどの台詞を吐いて。 月光を宿した髪はすぐに正面に向き直り、その表情は窺えなくなる。 ふと、ロキの隠れ家でユーリの魔力の検査を行った日のことを思い出す。 圧倒的な質と量を兼ね備えた魔力。それを扱う技術。 『神授武器』を持つに相応しいどころか、選ばれて当然だと思えるほどの才能は、やはりロキの想定を遥かに超えていた。(......怖)
声にはせず一人呟いて、笑う。 唇だけでなぞった感謝を声に乗せても、どうせ素直に受け取ってはもらえないのだろう。 代わりにどこか上機嫌な白い背中を眺めながら、首輪を失った『犬』は、一人静かに忠誠を誓ったのだった。
第七話 犬の忠誠
地面の上を転がりながら悲鳴を上げていた男の声が途切れた。 周囲は人気のない倉庫街だ。誰も声を聞き付けてくる気配はない。 突然訪れた不気味な静寂にロキの声が引き攣る。「こ、殺した......?」「ふざけてるの? この程度で死ぬわけないだろ」 ユーリが白い魔導書を閉じると、男の身体を這い回っていた白い亀裂も溶けるようにして消え去った。 よく見ると男の胸は多少上下している。 痛みで気を失っただけのようだ。 思わず安堵の息を零しながら未だ立てずにいるロキの傍らにユーリが片膝をついた。 その視線はロキの首元へと注がれている。「首輪は?」「あ、......その」 倒れている男へと視線を向ける。 それだけで察したように立ち上がろうとするユーリの服の裾を、ロキの手が掴んだ。「待って......!」 縋るように伸ばした手に抗わず、ユーリは両方の膝を折ってその場に屈み込みなおす。 粗暴な男を一人倒した後だというのに、ロキを見下ろす瞳には高揚も愉悦もない。 空に浮かぶ月のように、ただ静かにそこにあった。
(......こんな綺麗な男もいるんだな)
初めて顔を合わせた時、内心でそう呟いたことを思い出す。 だが改めてそう思ってしまうほど、月明りを一身に受けた白い男は相変わらず美しかった。(まあ、こうやって黙っていればの話だけど......)
内心で一人小さく笑う。 一方で黒い髪を地面に擦り付け、身体のあちこちを血と土で汚した自分の姿との差に、無意識のまま口元にも自嘲を描いた。 宿を出る時に雑に止血しただけの腕の傷さえいつの間にか開き、袖が赤く濡れていた。
痛む身体を引きずるようにして起こし、何とか地面に座り込む姿勢を取る。 殴られた拍子に切れた唇を開き、一度震えた息を吐いた。「......ごめん、なさい」 吹き抜けた風が銀色の髪を僅かに揺らしたのが、視界の端に映った。 しかしその表情を直接窺う勇気は出ない。 宿の部屋で向けられた温度のない瞳。きっとそれと同じ目をしているだろうと思った。 なんの気紛れか、ユーリが自分の言葉に耳を傾けてくれている内に次の言葉を紡ごうとして、不意に両の瞳から熱いものが溢れた。 痛みではない。恐怖でもない。 ただこの後、自分が失うものへの惜しさだった。 決して手に入れたわけではないと分かっていても、失い難いと、ほんの一瞬思ってしまった。「俺が、......ユーリを、呪いました」 冷たい地面へ置いた指先に力が籠る。 言葉が震えないようにと気を付けても、嫌でも吐息が揺れた。「だから、術者を......っ、探せなく、て」 涙を流すなど、一体いつが最後だっただろうか。 住んでいた街を追われた時さえ泣かなかった。 そういうものだと理解していたから。
慣れていない涙の止め方も分からず、みっともなく喉を引きつらせ、鼻をすする。 頬を焼くのではないかと思うほど、零れ落ちる雫は熱を持っていた。「でも、さっきの呪術は俺じゃない......! ほんと、に......!」 子供みたいに喚きそうになる衝動は唇を噛んで寸前で堪える。 その代わり、もう涙で濡れきった顔を腕で覆って膝に伏せた。「俺じゃない......っ、信じて......」 それは呪術師の口から出るには、あまりに滑稽な単語だった。 もう少し余裕があれば自ら冗談だと笑ってみせたであろうほどに。
頷く者などいるはずがない。どれだけ叫んでも届くはずもない。 そう知っているのに、それでも、気付けば零れ出ていた。「っ......ごめ、なさ......!」 それ以降はもう言葉にならず、肩を震わせて必死で呼吸を整える。 腕で覆って塞いだ視界の向こうで、小さく息を吐く音が聞こえた。「知ってたけど」 静かな声を掻き消そうとするかのように、細い路地を風が吹き抜けた。(――え)
ロキは何度か息をしゃくりあげ、僅かな間を置いた後、顔を上げる。「......え?」 心の内がもう一度口から零れた。「だから、知ってたって」 涙でぐしゃぐしゃに濡れた視界の中で、ユーリは少し退屈そうに頬杖をついていた。 その表情は笑うでもなく、かといって冷たい眼差しでもなく。 さも当然の話をしている風だった。「そもそも、お前の魔力の気配を辿ってあの隠れ家まで行ったわけだし」 髪と同じ透けるような銀色の睫毛を伏せ、そう言ってユーリは立ち上がる。 ロキはぽかんと口を開き、それを視線で追うことしか出来なかった。「え......じゃあ、なんで......」「解呪に応じず襲い掛かってくるようなら殺すつもりで行ったけどさ。あまりに見え透いた嘘を必死で吐くもんだから」 ユーリは気を失っている男の服を漁り、首輪を取り出す。 だが金具は完全に壊れてしまっており、もう元の形には戻りそうになかった。「だから、どこまでその下らない嘘を吐き続けるのか気になったんだよ」 もう首輪とも呼べなくなったそれを白いローブの内に押し込みながらユーリは振り返る。 見開いたロキの瞳から、目尻に残っていた分の雫が一筋だけ落ちた。「な、......で、でもさっきのは」「術者がどこまで覗き見てるか分からない。あれくらいは演じておかないと油断を誘えないだろ」 なぜそんなことも分からない。 そう言いたげに、冷ややかな眼差しを向けながら白い魔導書を開いたユーリがロキの傍らへと歩み寄る。
開いたページに描かれた魔法陣が淡い輝きを帯びるなり、ロキの身体が同じ色の光に包まれ、一瞬で身体を支配していた痛みが抜けていく。 口内に血の味を滲ませていた唇の傷さえ、一度の呼吸の内に溶けて消えた。「でも術者の魔力の残滓を追い掛けたら奴は呑気に腹を出して転がって寝てるし。宿に戻ったらお前は居ないし」 魔導書を静かに閉じながら、ユーリは不服そうに僅かばかり眉根を寄せた。「お前のせいでこんな夜中に、無駄に走り回る羽目になった」
(......ユ、ユーリが走った......?)
そう視線だけで問い返すと、一瞬咎めるような眼差しが落ちてくる。 誤魔化すように顔を伏せた先の自分の服はひどく汚らしかった。 靴跡から血の染みまで無様に残っている。「明日、新しい服を買えばいい。もちろん全部貸しだけど」「え」「何? まさか僕に払わせるつもりでいたわけ?」「そ、そういうわけじゃ......!」 慌てて首を横に振る。だが、心臓がうるさく鳴っていた。 呪術師が期待など持ってはいけない。 そう理解していても、もう勝手に口が開いていく。「まだ、俺、一緒にいても......」 その先は言葉にならなかった。 拒まれる恐怖と、期待してしまう羞恥とが入り混じって。 ユーリは何も答えずに小さく鼻を鳴らすなり踵を返し、来た道を戻っていく。「さっさと宿に戻れ。そんな汚い顔の奴を連れて歩いてるのを見られたら僕が笑い者になる」「......ん」 そう言われて、涙と鼻水とで汚れた顔を袖で拭いてから立ち上がる。 だが傷が塞がる前に漏れ出していた血の匂いが顔に付着した。 一層酷い顔になった気がして口元を歪めつつ、ユーリの背を追う。「あの......さっき魔力の残滓を追ったって」「それが何?」「呪術師でもないのに、呪術の痕跡を追えるはずが......」 おずおずと問うと、眉根を寄せたユーリは視線だけでロキを振り返った。「お前、僕を誰だと思ってるの?」「......S級の冒険者で神授武器持ちの白魔術師......」「そうだよ」 ユーリは謙虚さの欠片もなく頷くと、口角を上げて笑った。「専門職ほど早く正確じゃなくても、別に出来ないわけじゃない。魔力を扱うのは僕の専門の内だ」 一見すれば人形のように美しい笑みで、いっそ傲慢なほどの台詞を吐いて。 月光を宿した髪はすぐに正面に向き直り、その表情は窺えなくなる。 ふと、ロキの隠れ家でユーリの魔力の検査を行った日のことを思い出す。 圧倒的な質と量を兼ね備えた魔力。それを扱う技術。 『神授武器』を持つに相応しいどころか、選ばれて当然だと思えるほどの才能は、やはりロキの想定を遥かに超えていた。(......怖)
声にはせず一人呟いて、笑う。 唇だけでなぞった感謝を声に乗せても、どうせ素直に受け取ってはもらえないのだろう。 代わりにどこか上機嫌な白い背中を眺めながら、首輪を失った『犬』は、一人静かに忠誠を誓ったのだった。