第一話 名を燃やす騎士
城壁の外は灰色だ。
見渡す限りの砂と灰。その向こうに緑が這っている。
緑は蠢いていた。蔓が地を掻き、太い茎が身をもたげ、裂けた莢から種子が吐き出される。落ちた種子はその場で芽吹き、また新しい蔓になる。
滅びだ。
「勇者様!第三区画、突破されます!」
城壁の上から声が飛んでくる。俺は答えず、跳んだ。
落下しながら変身する。腰に巻いた鉄の帯が軋み、銀と白の装甲が身体を包み、面頬が視界を狭めた。
軽い。素の変身はいつもこうだ。身軽で、速くて、そして弱い。
蔓を斬る。裂ける。斬る。裂ける。斬った端から新しい芽が伸びてくる。
「ちくしょう、キリがない!」
火だ。火をつけなければ、こいつらは死なない。
城壁の上から火矢が降ってくる。油壺が砕け、黒い液体が地面を舐め、そこに火が走った。緑が悲鳴のような音を立てて縮んでゆく。
いいぞ。このまま押し込めば――
地面が盛り上がった。
土をまき散らして立ち上がったそれは、俺の三倍は背があった。丸太のような四肢、胸の中央で脈打つ淡い光。
核だ。
「勇者様、下がってください!」
若い声がした。俺の左脇を、灰色の装甲をまとった小柄な影が走り抜ける。
ニナだ。この国で二番目に古い勇者。まだ十六の娘。
彼女は火炎壺を抱えて突っ込み、大男の足元で叩き割った。炎が上がる。大男は燃えた。燃えながら、動いた。
炎の中で胸の光だけが消えていない。
「効いてない......!」
ニナが弾き飛ばされた。灰色の装甲が地を転がる。
俺は舌打ちして懐に手を入れた。
指が触れる。一枚だけ。他の指は布の底を撫でるばかりだ。
最後の一枚。
まあいい。またもらえばいいだけの話だ。
俺はそれを引き抜いた。掌ほどの、硬い札。表には泉と火の紋章。
腰の鉄帯の中央が、音を立てて口を開いた。
「我はバーンナイト!全てを燃やし尽くす者なり!」
差し込む。
《MEMORY LOAD》
札が帯に飲み込まれ、奥で発火した。
《IGNITION――BURN KNIGHT》
熱が背筋を駆け上がる。白銀の装甲の上に、赤黒い追加装甲が鎧われてゆく。右手に生まれた大剣の刃に、炎が纏わりついた。
帯が吠えるこの言葉を、この島の誰も知らない。神殿の学者も、王宮の魔導士も、誰ひとり意味を解けなかった。
俺にもわからない。
わからないはずなのに、耳がその音を勝手に拾う。
重い。強い。この感覚が好きだ。
大男が腕を振り下ろす。俺は受けずに踏み込んだ。炎の刃が丸太のような腕を根元から焼き切る。切断ではなく、焼却だ。断面から芽が出てこない。
そのまま胸の光へ。
《FINAL IGNITION》
帯が鳴った。刃の炎が膨れ上がり、白へと色を変えてゆく。
「燃え尽きろ!」
突き立て、解き放つ。
《ALL BURN OUT》
視界が白く灼けた。
その白の中に、何かが見えた。
四角い灯りが並んでいる。夜だ。黒い道がまっすぐ伸びていて、その両脇に、色とりどりの光の箱が立っている。文字らしきものが躍っている。読めない。
誰かが笑っている。女の声だ。楽しそうな。
――なんだ、これは。
見覚えなど、あるはずがない。
炎が消えた。大男は灰になって崩れ、風がそれをさらってゆく。緑は退いていた。
「勇者様!」
城壁の上で歓声が上がる。
俺は面頬の中で顔をしかめていた。今の幻は何だったのか。
まあ、いい。勝ったのだから。
◇
「かっこよかったです、勇者様」
ニナが駆け寄ってくる。灰色の装甲を解いて、そばかすの浮いた顔で笑った。
「わたし、いつか勇者様みたいに炎を出せるようになりますか」
「さあな。俺はもともと出せたぞ」
「ずるいなあ」
ニナは唇を尖らせた。
この娘の装甲は灰色だ。この国の勇者はみんなそうだ。炎を纏えるのは俺だけ。だからみんな俺をバーンナイトと呼び、彼女たちをグレイナイトと呼ぶ。
「なあニナ。お前、故郷はどこだ」
ふと訊いてみた。なぜ訊いたのかは自分でもわからない。
ニナはきょとんとした。
「この街ですよ?」
「いや、召喚される前の」
「......あれ」
彼女は首をかしげた。しばらく、本当にしばらく黙ってから、へらりと笑った。
「思い出せないや。まあ、いいですよね。今が楽しいので」
そうだな、と俺は返した。
なぜか喉の奥が渇いていた。
◇
聖火泉の神殿は、城塞都市カルディアの中心にある。
地の底から湧き出す油に火が灯り、何百年も消えたことがない。その泉を囲むように石柱が立ち、祈りの声が絶えない。
俺はここが嫌いではなかった。シスターたちが大勢いるからだ。
慎ましい法衣というのは、あれはいい。隠されているほど想像力が働く。特に右から三番目の若いシスターなど、あれは法衣で押さえつけているだけで本当は――
「勇者様」
背後から声をかけられて、俺は背筋を伸ばした。
エルマ婆さんだった。
腰の曲がった、小さな老聖職者。この神殿で一番偉いはずなのに、いつも掃除をしている。
「今日もよく戦ってくださいました」
「仕事だからな」
「お使いになったのでしょう。火の札を」
俺は懐を叩いて見せた。空っぽの音がした。
「最後の一枚だ。補充を頼みたい」
エルマ婆さんは頷き、袖から布包みを取り出した。
開く。札が並んでいた。
「七枚しかないぞ」
「ええ。それだけしか」
婆さんは泉の火を見上げた。皺だらけの横顔が、赤く照らされている。
「預言によれば、残る滅びは七つ。第一の滅びから第七の滅びまで。それを凌ぎきれば、この島は救われます」
「ぴったりじゃないか」
「はい。女神様のお計らいでしょう」
都合がよすぎる、と俺は思った。思ったが、口には出さなかった。
「勇者様。この札は、くれぐれも予言の日以外にお使いになりませんよう」
「わかってる。消耗品なんだろ」
「ええ。消耗品です」
婆さんは布包みを渡しかけた手を、そこで止めた。
「勇者様」
「なんだよ」
「お約束くださいませ」
節くれだった指が、包みの端を握ったまま離れない。俺が引いても、驚くほどの力で動かなかった。
「たった七枚でございます。一枚でも余分に燃やせば、その分だけ凌げぬ日が出てまいります。凌げぬ日には、この街の誰かが死にます」
「......脅すなよ」
「脅しではございません。お願いでございます」
婆さんは俺の手を両手で包んだ。枯れ枝みたいな手だった。
「どうか、この世界を救ってください。勇者様」
その言葉を、俺はこの日までに何百回と聞いていた。
だから、何も思わなかった。
◇
夜。
与えられた屋敷の自室に戻り、上着を脱ぎ捨てた。
酒でも飲もうかと思い、机の上に何かが置かれているのに気づく。
一枚の紙。俺の筆跡ではない。誰かが、この部屋に入った。
拾い上げる。丁寧な字だった。
『この手紙を読んだら、すぐに燃やせ。
変身するな。特に、札を使うな。
お前は札を使うたびに記憶を失っている。
信じられないなら、試してみろ。
――お前の名前は、何だ?』
俺は鼻で笑った。
くだらない。誰かのいたずらだ。俺の名前は。
俺の名前は。
......。
口が動かない。
喉の奥まで出かかっている。出かかったまま、そこから先がない。手を伸ばした先に、あるはずの床がないような感覚。
馬鹿な。名前だぞ。生まれてから何万回と呼ばれてきたはずのものだぞ。
誰かに呼ばれたのはいつだ。思い出せ。
勇者様。バーンナイト。勇者様。勇者様。勇者様。
――誰も、呼んでいない。
椅子が倒れた。俺が倒したのだと気づくまでに、少しかかった。
上着に飛びついて、内側を探る。荷物。荷物はどこだ。召喚された日に持っていたはずのもの。
寝台の下の木箱を引きずり出す。中に、見覚えのない黒い革の小物入れが入っていた。この世界のどの職人の作とも違う、妙になめらかな革。
震える指で開く。
透明な膜に包まれた、小さな札が挟まっていた。紙ではない。薄くて硬くて、つるつるしている。
そこに、顔があった。
黒い髪。黒い目。愛想のない、不機嫌そうな男の顔。
鏡で見飽きた顔だった。
その横に、文字が並んでいる。
読める。読めるのに、意味が身体に入ってこない。
俺はその文字を、声に出して読んだ。
「......俺の、名前だ......」
指先から札がすべり落ちた。
窓の外で、聖火泉の火が揺れている。
俺は黒い革の小物入れを両手で握りしめたまま、動けなかった。
記憶が、失われている......?