第一部「高層ビルの屋上から、愛を叫ぶ!」
この日の、城下町の空は抜けるように青かった。
秋の澄んだ空気が、城下町市の中心部へ眩い光の束を地上に落としている。
熊本城周辺は景観保護のため高層ビルが少なく、『城下町市庁舎ビル』がひときわ目立って立っていた。
その屋上、剥き出しの胸壁の外側、わずか幅30センチメートルのコンクリートの縁に、一人の男が立っていた。
男の名は、清水良正。下町の小さな町工場で働く、油にまみれた日々を送る実直な工員だった。彼の履いている安全靴の先は、すでに虚空に突き出ている。一歩踏み外せば、確実な死だけだ。
「......ハァ、ハァ、ハァ。」
清水の荒い呼吸が、手にした拡声器を通じて奇妙なノイズとなり、熊本市中心部のビル街に響いていた。
冷たいビル風が彼の薄い作業着を激しく揺らす。
極限の恐怖で、膝はガタガタと震えていた。
高所恐怖症だった。
普段ならベランダから下を見ることすら忌避する彼が、なぜここにいるのか。
彼の脳裏には、白い無機質な病室で、全身にチューブを繋がれた愛娘・菜花の姿があった。
『特発性拡張型心筋症』――心臓の筋肉が薄くなり、ポンプ機能が失われていく難病。
国内での移植のチャンスは絶望的で、残された道は海外渡航移植しかなかった。
だが、提示された金額は3億円。
町工場の薄給で、一生働いても届かない天文学的な数字だった。
「ごめんな、菜花......大人が作った社会のルールのせいで、お前を死なせんけん。」
清水は震える手で拡声器を口元に当て、眼下を見下ろした。
彼の足元には、数十人、いや数百人の野次馬が蟻のように群がり、スマートフォンのレンズを一斉に上空へ向けている。
その光景は、さながら男の命を消費しようと集まった不気味な巨大な生き物のようだった。
上空を旋回するマスコミのヘリコプターが、爆音とともに男の決死の表情を捉え、日本全国へ生中継を始めていた。
「......私の娘は、心臓の難病です!」
「国内ではもう、手を尽くしました!」
「海外に渡航して手術を受けるには、3億円という大金が必要なのです!」
「娘の命が尽きようとしています、助けてください!」
拡声器を通した清水の、魂を削り出すような叫びが、ビルの谷間に木霊する。
「私には、そんな大金はありません!」
「毎日、毎日、頭を下げて、必死に働いても、娘の命の価値に届かない!」
「でも、父親として、娘の命を諦めることは絶対にできない!」
「皆様の善意をお借りしたい! 綺麗事と言われてもいい、どうか、募金をお願いします!」
「振込先は、城下町銀行、本店......」
彼が口座番号を叫んだ瞬間、世界のギアが急速に回り始めた。
ネットは一瞬で爆発した。SNSには秒単位で口座番号が拡散された。
スマートフォン一台で誰もが手軽に「命を救う側」になれる現代のシステムが、
恐るべきスピードでネットの世界を駆け巡る。
「3億円。1億人が3円ずつ出せばいいだけの話だろ!?」
「警察は何をやってる、早く突入して助けろ!」
「これは、究極の親の愛だ。責められる筋合いはない!」
ネット民の熱狂は、そのままデジタルな数字となって、清水のスマートフォンに通知され続けた。
ポケットの中で、バイブレーションが鳴り止まない。
1,000万、5,000万、1億――。 これまでどれだけ涙を流して頭を下げても集まらなかった金が、命を天秤にかけた瞬間、濁流のように流れ込んでくる。
この時、清水は恐怖とは異なる、背筋が凍るような万能感を覚えていた。
「あと少しだ。あと少しで、菜花を助けられる。」
「罪なら、あとでいくらでも償う。今だけは、父親でいさせてくれ。」
午後3時、
スマートフォンの画面に表示された城下町銀行の残高は、3億8千2百万円に達した。
「あ......ああ......」
目標額の達成、いやそれ以上の過剰な善意を確認した清水は、緊張の糸が切れ、
その場に泣き崩れた。一歩間違えれば転落するスレスレのところで、背後から飛び出してきた防弾シールドを持つ警察官たちに身を確保された。
がっちりと手錠をかけられ、エレベーターで地上へ下ろされ、パトカーに乗せられる。
集まった報道陣のフラッシュを浴びる清水の表情には、犯罪者としての怯えや恥じる色は微塵もなかった。
ただ、娘の命をこの手でもぎ取ったという、父親としての歪んだ、しかし絶対的な安堵の笑みだけが浮かんでいた。
その日、夕方、夜のニュースや報道番組は、この前代未聞の「命がけの劇場型クラウドファンディング」の話題で持ちきりだった。
【夜の報道番組『ナイトステーション』】
キャスター:
「結果として、一人の幼い命が救われる道が開けました。」
「しかし、この法を無視した過激な手法は、果たして許されるべきなのでしょうか?」
人権派弁護士:
「法的には建造物侵入や業務妨害に問われる可能性があります。」
「しかし、現行の医療制度や福祉のセーフティネットが救えない命を、父親が命がけで救った。」
「これを一概に、悪と切り捨てることは私にはできません。」
「法の不備を突いた、悲痛な叫びです。」
社会人類学教授:
「いや、これは『共感の暴走』であり、極めて危険な前例です。」
「今回は美談に見えますが、彼は社会のリソース(警察や消防の出動費用、周囲の経済的損失)を私的に占有し、大衆の感情をハックして大金を得た。」
「命を救うためなら何をしてもいい」などという免罪符は存在しません。
「数時間で、大金を強奪するような行為に、世間が勝手に『時効』や『無罪』を与えるべきではない。」
「もし、これが成功体験として認知されれば、法治国家のルールは根底から揺らぎますよ」
画面の向こうで、専門家たちが「答えのない議論」を戦わせていた。
しかし、この時、誰もが気づいていなかった。
清水が開けてしまったのは、人類が決して触れてはならない「人の命を見世物にして金へ変える領域」だった。
彼は、命に値段をつけ、それを衆人環視のオークションにかける手法の『開拓者』になってしまったのだ。
翌朝、午前7時。
不穏な臨時ニュースが、全国のお茶の間に鳴り響いた。
画面に映し出されたのは、札幌駅前のオフィスビル、名古屋のテレビ塔、大阪・梅田の商業施設――日本各地の「屋上」のライブ映像だった。
マルチ画面に分割されたそれらの映像すべてに、昨日の清水と全く同じように、高層ビルの屋上に立ち、拡声器やスマートフォンを掲げる人々の姿があった。
「北は北海道から、南は沖縄まで......昨日の父親の行動を模倣する人々が、全国各地で相次いでいます! 繰り返します、現在、全国の主要都市の高層ビルで、多数の市民が屋上から身を乗り出しています!」
アナウンサーの声は完全に上ずり、スタジオの背景ではスタッフが慌ただしく走り回っている。
『命を懸けたクラウドファンディング』という最悪のフォーマットを得て、恐るべき速度で増殖していた。
午前9時: 青森、福島、群馬、東京、神奈川、名古屋、広島、福岡......目撃情報は途切れず、
該当者は83名。
午前10時: 人数は157名に急増。
ネット上には「屋上の立ち方チュートリアル」や、「同情を誘うスピーチの書き方」まで出回り始める。
正午: 569名。
主要都市の空は、各局の報道ヘリと、彼らを説得しようとする警察のヘリで埋め尽くされた。
彼らが掲げるプラカードや、拡声器で叫ぶ内容は、清水のような「純粋な悲劇」だけではなかった。
「私の家族に善意ある寄付を! 難病の母を救ってください!」
「会社が不渡りを出しました! 89人の従業員とその家族を路頭に迷わせないでください!」
「ギャンブルの借金で首が回らない! 死ぬ前に一度だけ、人生をやり直すチャンスをくれ!」
午後3時。
政府の合同対策本部は、完全なパニックに陥っていた。
「ダメです! 各地から消防のレスキュー隊、警察の説得班の出動要請が殺到していますが、物理的に人手が足りません!」
「地上には野次馬と配信者が集まりすぎて、通常の交通が麻痺しています!」
「救急車の出動すら困難、都市機能がストップしています!」
屋上に立つ人々は、一様にスマートフォンを片手に持ち、画面を凝視していた。
彼らは知っているのだ。
ネットの生配信で注目を集め、同情を買い、口座番号を晒せば、数時間で数千万、数億円が手に入るかもしれないということを。
真面目に働き、法を守ることが馬鹿らしくなるほどの歪んだ「聖域」が、全国各地にある高層建築物の屋上に誕生していた。
「これじゃ......まるで『命のオークション』じゃないか」
対策本部長は、モニターに映る全国の「屋上」を見つめながら、乾いた声で呟いた。
その日、午後8時を過ぎた頃には、全国の「屋上に立つ者」の数は2,000名を超え、社会は完全に一線を越え日本経済と社会インフラは停止した。
昨日、清水の行為を「親の愛」と称賛したネットの空気は、供給過多になった「悲劇」を前に、
一転して冷酷な「査定品評会」へと変貌していた。
大衆は飽き始めていたのだ。
ただの病気や、自己責任の借金では、指一本動かして送金する価値もないと見做される。
【SNS上のリアルタイムな反応】
@user_ABC: 「新宿の女子高生、親の治療費って言ってるけど、履いてるローファーがブランド品じゃね? 嘘松乙。却下、1円も振り込まない。」
@user_123: 「大阪の社長、従業員のためとか言って、自分の高級外車のローン返したいだけだろ。見え透いた嘘つくな、そのまま飛び降りろよ。」
@user_XYZ: 「やっぱり、最初の三億円の子供みたいに『純粋で、かわいそうで、非のない無垢な被害者』じゃないと金出す気にならないわ。今のやつら、ただの物乞いじゃん。」
本当に困窮しているが、言葉が拙く、見た目のむさ苦しい老人の口座には1円も振り込まれず、SNSでの見せ方が上手い、容姿端麗な若者の口座に億単位の大金が集まる。
善意の寄付は、最も過酷で悪趣味な「人気投票」へと完全に変貌していた。
そして、その仕組みからこぼれ落ちる者もいた。
夜11時。
福岡の雑居ビルの屋上に立っていた、生活苦に喘ぐ40代のフリーターの男がいた。
男が屋上に立ってから8時間が経過しても、スマートフォンに表示された残高は、わずか3千円だった。
ネットのコメント欄には、彼を応援する言葉など、一つもなく、ただ冷酷な罵詈雑言だけが高速で流れていく。
『演出が地味』
『バックボーンが弱すぎ』
『お前の価値はその程度』
『早く飛べよ、虚言癖者』
『口先だけの偽善者』
男は、冷たい画面の光に照らされながら、絶望したように歪んだ笑みを浮かべた。
「なんだ......俺の人生、必死に生きても......俺の命って、3千円の価値も無かったい。」
「俺の苦しみには、時効さえ来んとか......」
男は、ガタガタと震える手から拡声器を落とし、膝から崩れ落ちた。
次の日の朝。
遮るもののない青空へ、再び太陽が昇った。
全国の高層ビルの屋上には、昨日よりも多くの人影があった。
老若男女が、スマートフォンを片手に、口座番号を書いた紙を掲げている。
地上では、人々が足を止め、無言でレンズを上に向けていた。
誰かが叫んだ。
「お願いします」
別の屋上からも、同じ声が聞こえた。
「助けてください」
その声は、ヘリのローター音にかき消されていった。
第一部
「高層ビルの屋上から、愛を叫ぶ!」
完