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おもい

***



 常夜ともしれぬ星光が天窓からまろく楕円を描き、部屋の絨毯に微笑み落ちていた。

 そのさやかな光からは逸れた部屋の隅で、ソフィレーナは、ちょうど部屋に入るさい真っ先に目にする壁に作りつけられた強大にして古めかしい本棚の一つに背を預け、虚ろな眼差しで床の絨毯の先、階段の下、暗闇の中わずかに反射するドアの留め金らしきものを眺めやっている。

 背には本。そして左肩を持たせかけるもこれまた強大な別の本棚。二つの本棚の角となる部分にうずくまり、ソフィレーナは夢とうつつの狭間を危うげに行き来していた。

 彼女の左手に位置する本棚の上では、盛んに何やら物を引っ掻き回す音が響いている。

「............」

 夢の側へと片足を踏み入れながら、彼女は未だ所有権を獲得したノートを離さずに胸元へと押し付け、両の手をかぎ爪状にして口許へと寄せていた。触れるか否かの距離で大切に押し包み、切り傷による痛みに掻き消されないよう、緩やかで大人しい灰髪、それを幾度も撫で辿ったときのこそばゆい感触を鮮明に、記憶に焼き付けようとしている。

 散々な話の後、呆れて見捨てたふりをした助手と、その様に拗ねて俯き、斜め下手を苦々しく眇め見る知恵者という情けない構図、それら一連の記憶を再生させ、指先に残るざんしに意識を向けるたび、彼女のうちには口惜しさにも似た悔恨が渦巻いた。

 抱き寄せればよかった、と。

 散々な話をして、ある意味本当の弱さをさらけ出しただろうケルッツアに、ソフィレーナが唯一ほどこせたのは、その垂れる頭を撫でいとしむ行為だけだった。

ママなら。

 限界値などとっくの昔に飛び越えて、暴走爆走する思考にソフィレーナはただほんろうされる。

 星星の優しげな光の中、静謐な空気は、いっそ真昼の陽光降り注ぐ教会のそれに似ているのではないか。先ほどの光景が頭の中で再生されるたび、彼女の思考もぐるりと堂々巡りを繰り返して、一つの結論を導き出していた。
 加護を請うものと、与える聖職者のそれ。
 学者と、シスター。

ママならきっと、軽く抱き寄せたはずだ。

抱き寄せれば、抱きしめればよかった。

 そんな、常日頃ならば思わぬ杞憂に心を砕き、彼女はそっと息を吐く。

 がさ、ごそ、と、ロフトの上では相変わらず、知恵者が、己のベッドを片付けているらしい音が断続的に響いていた。

「...............」

 床に雑魚寝でいいと言ったのに、と、その音をどこか不満げに聞いていると、突然上から知恵者の使っているらしい蒲団がどさりと落ちてきた。

 しかし、それですら、空ろに眦を開くソフィレーナの、栗色の髪は揺らしこそすれ、その眉を歪ませることすらなく。

 ケルッツアは、それは僕が使うから、と声を彼女にかけたが、ソフィレーナはといえば同意も否定も返さず返せず、ひとつ、瞬きをした。
 取り消された言葉。

『......ねえ......? ソフィーレンス君.........君は』

 先程の愛撫のとき、唐突に彼の言い出した言葉が彼女の頭の中に響き渡る。その音程、その間隔は、もっと前の助手の記憶にも酷似を見出すことができた。大声で喚きたてた彼女は、忘れてなどいなかった、否、忘れることなどないコーヒー入りのポットを盾に知恵者の発言から逃げおおせた。

 呆れる彼に、言い募った言葉は。

『......こういうのは、初めの一歩が肝心なんです。......四日間の飲まず食わず......あれ、私にも責任あると思いまして......。
 ......これからは帰る前にポットに何か用意しときますから、ちゃんと飲んでくださいよ? それから食べ物も、何か置いときますから』

 わざと澄まして答えた声に、けれど、重なるのは酷く硬い声。

『......これからは?』

 思えばここから知恵者の様子が変わった気がする。
 ソフィレーナはともすれば落ちそうになる首と意識を保たせ、舟をこぎ始めたことには自覚無く、思考をさらに巡らせていった。

『......ねえ......? ソフィーレンス君.........君は』

 二度問いかけられて、二度ともかき消されてしまった、あの言葉の先は。

ねえ、その先は、なに......?


なん......続..................の........................?



 うと、うと、と。本格的に彼女の思考も世界も揺れてまどろみ、閉じられてゆく。
 その、暗くなる視界の中で、ふいに、先ほど落ちてきた黒い塊が揺らめいた。

「..............................」

 ソフィレーナは眠さとだるさに動かない四肢をそれでも動かして、手を、伸ばした、さき。


 とぷん、と、意識は闇へ落ちる。



***



 ぼすっ、と比較的重みのあるものが軽く柔らかいものに受け止められるような音を聞いて、ケルッツアは顔を上げた。木製作りのロフト、天窓に近い位置から、部屋の方へと顔を向ける。

 暴走気味の思考は、片付けの遂行中に何処かへ消えうせ、無駄に母国語を思い出すこともなくなって久しい。顔を上げたときも、すでに常に使っている言語が彼の頭をよぎった。

 彼の背後には、先ほど乱暴に蹴り飛ばした青い上下一式蒲団の代わりに、まず彼の生涯では一度も寝た事無いだろう手触りの上等な蒲団が用意されている。その周りは小奇麗に整理され、普段のロフトの状況はとりあえずなりを潜めていた。

「......ふむ」

 響いた音に何か思い当たる節でもあったか、彼が時計を確認すれば明け方四時十五分前。

 整えた本類一式、今の今までロフトを占領していたそれらをおもむろに抱え持つと、知恵者はロフト脇の扉、開け放しておいた通路を通って、薄暗い階段を訳もなく部屋へと下りていった。視界を遮る黒い壁、もといドアのノブを力技で捻り、わずか蹴り飛ばせはあっけなく開く。

 部屋の様子を眺めるでもなく、今まで助手のへたり込んでいた箇所に目をやれば。

「............」

 先に荷を降ろしてしまおうと、彼は部屋の中央に位置する長机へと近づいた。
 その端、長年借りたままだった正式な国立図書館書庫書籍の小さな塔の横に、もう少し高い塔を置く。

「――――」

 手ぶらになった彼は、何故か一度深く呼吸をすると、改めて彼女に向き直った。

 助手は、案の定潰れていた。

 その無心に眠る無防備な顔を、しかし半分埋めているのは。

............。フォルソフォ......。よりにもよって......ああ、もう............!

 思わず又母国語を思い出しながら、彼は軽く息を吐き、頭をかいた。

 確かに、絨毯では、ぼす、などとあんな音はしない。少し考えれば分かりそうなものを見落とした失態にやはり彼は自身の疲れを認識、からく笑う。

 ソフィレーナは、普段は一等奇麗な栗色の短髪をわずかに乱し、今は力の抜けきった肢体を、彼の先ほど蹴り飛ばしロフトから落とした衛生上かなり宜しくないと思われる蒲団一式に埋めて撃沈している。 

 その蒲団は、元々空気もそれほど入っておらず柔らかくもなく、その上万年床宜しく敷きっぱなしだったため、きっとどこかしらに彼女の大好きな胞子の根が確実に根付いていると思われる代物だった。

「.............................................」

サンプルの臭いに惹きつけられ、た?

 何とも名状しがたい感情に押されながら、知恵者はしかし現状を打破するべく彼女の両肩口に手をかけた。眠っている者特有の暖かさを掌に感じ、それを掴んである程度まで力を加えてやると後はその力の流れるまま肢体は仰向けになる。

 己のものに比べれば格段に白く細い喉元、急所を仰け反りさらけ出して、それでも助手の髪こそ乱れ、顔に全く変化はなかった。

「......」

 もう一つ息を吐き、助手の覚醒の可能性を完全に捨てきった知恵者が、ふと、視線を止めた先には、物々交換の約束をしたばかりのノート。ソフィレーナの腕に後生大事そうに抱え込まれ胸元に寄せられて、古ぼけた汚らしいそれは場違いにも存在している。

 その光景に、今度こそ彼は困ったように、あるいは驚いたように眉を寄せ、鼓動の急き立つ音を意識せずにはいられなかった。

「ラァ...? ラァ エイサウン アイ スゥウ ?」

 何でそんなことしてるの......? 思わず母国語を口に出し、そのことに気付くと慌てて口元を押さえて。それでも変わることのないそれに、次第困り果てて頭を掻く。

 とうとう、気恥ずかしさに根負けしたか、眠りづらいだろうという理由を半ば盾として汚らしいノートの角をそっと引っ張ると、途端、強い力で元に戻されてしまった。

 何度やっても同じ結果。終いには。

 「......ん.........ぅん!」

 何処か甘ったるい、鼻にかかったような声音で強く否定されてしまう。その上、ころり、と又彼女はうつ伏せてノートをかばうような体勢をとると、全く起きる気配すらなく眠りこけている。

 「............アラズ、っと、...分かったよ...」

 彼はそのノートの存在にも結局折れ、ともかく助手を運ぶことに専念すべく、散々迷った挙句に助手をもう一度あお向けにさせ、その肩甲骨と膝の辺りにそれぞれ己の腕を回し敷いて一気に持ち上げた。

 くてん、と首をまた仰け反らす、その体勢を何とか直し、ふにゃふにゃと頼りない四肢を支える。

 わずかにふらついた足元を叱咤し、よりしっかりと彼女を抱き寄せれば、腑抜けた助手の頭が彼の黒いコート、肩口に寄りかかる。そのことによりさらに鮮明に、その四肢の柔らかさ、温かさ、ふわり、とほのかに香るいい匂いまで、全て、彼は鮮烈に思い知ることとなった。
 唯一の救いは胴、胸の周り辺りにもう一枚制服とは違う硬いベストらしきものを着込んでいるらしく感触が不自然に硬い、そのことだけだった。

 抱えなおせばさらに密着。まして持ち上げる膝の辺りはやや太ももに近い。感触は推して知るべしである。

「ッ......」

 些か動揺して彼女の名、否、失礼なあだ名を呼びそうになり、そこで知恵者は苦虫を噛み潰したような哀しげな顔で、あどけない寝顔を見つめた。

.........アメロメーニャ...... ソフィーレンス............ムウン..................
..................ソフィレーナ......

ああ、やっぱり君は、......どこからどう見ても、女の人だ.........

 腕の中ですやすやと眠る助手の、その母親譲りだろう長い睫の先、頬に落ちかかる影のまろやかさを見つめ、静かに歩き出す。その顔はわずかに苦みを押し隠し、笑みを作り出していた。

 ゆったりと歩く道すがら、己の助手を男性のように呼ぶようになった、その経緯をケルッツアはどこか上の空で思い出す。 確か、と、開け放したロフトへの扉の前で一度立ち止まって、本棚整理だった、とまた歩きだし。

 助手と比べれば格段に落ちる記憶の中を、それでもさらった。

 確か、二年前。迂闊にも背のない彼女に高い箇所の本を整理するように言いつけた自分は、そのまま暫し別の用件で席を外していたが、ふと、何か用事を、おそらくは文献を取りに禁書庫へと立ち寄った。

 そのとき、三脚の上で可能な限りの背伸びをして、震える腕を必死に伸ばし、軽く跳ねる助手の後姿を目撃。

 そのときの助手の格好も、全く今と同じ服装、すなわちYシャツにベストとスラックス。
 靴はやや大きめの革靴で髪は項の良く見えるほどに短く切り落とされた短髪というそれ。

 己の助手は女性だということは重々承知していたが、否、だからこそかもしれない。

 ふと。

 女性なのに男性みたいな格好だな、と。
 そう思った途端、要でもないことに思考が割かれた。

ソフィレーナなら......この国ではソフィーラント?
ソフィーランス......うーん......座りが良くないかな......レーナ......レント......レンス......。
レンス? ......そうだ!

『危ないよ、ソフィーレンス君』

 三脚に手をかけながらそう呼びかけると、怪訝そうな顔で見返してくる助手がいた。

『......そふぃーれんす?』

 その場面だけは何故か厭に鮮明に覚えている、彼はそんなことをひとりごちながら、用意した蒲団を少し迷った後に足ではぐり、そっと膝をつくと、腕の中の身を横たえた。横たえられた身は、蒲団に緩やかに沈み、半ば埋もれて寝息を立てている。土足はさすがにまずかろうと、靴は脱がせてロフトに揃え置き。

 その肩までしっかり上掛けを被せると、もう彼女の姿は本当に、蒲団に埋もれ過ぎてよく分からなくなった。

“ソフィーレンス”は、ちょっとした遊びのつもりで、その場限り。
 そのときだけそう呼んだら後は、頑張ってソフィレーナ、さん、ないし、君等と呼ぼうと、思っていたのに

 目の前の柔らかそうな塊を見下ろしながら、ケルッツアは苦笑する。
 
余りにむきになって失礼だ、ソフィレーナだ、と喚きたてるから、そこまで怒らなくてもいいではないかと。

 懲りた顔にわずか明るい笑みを浮かべて、ケルッツアはため息は吐かずに、後頭部ばかりわずかに掻く。
 結局のところは、てこでも呼び方を変えなかった知恵者と、反発する助手の攻防がいまでも続いていると、国立図書館内で有名にまでなる始末。

なんて、馬鹿なことをやったものか.........

 身に、腕に残る温もりが徐々に冷えてゆく。
 彼の見つめる先の塊は、酷くゆったりと、緩やかな上下運動を繰り返していた。

どうみても、場違いだ。

 ケルッツアは思う。最高級蒲団で眠るソフィレーナの姿は、違和感無く受け入れられたが、それが、何故、こんな汚らしい部屋のロフトにでき上がっているのか。急に、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、ケルッツアは静かに横手を、斜め下手を眇め睨んだ。

 その様は彼が心底悔しがるときに出る癖だとは、本人に自覚は無い。

助手が高級蒲団で眠ることは全くもって間違ってはいない。

 恐らくは、この貰い物蒲団は男性用の配色をほどこしてあるので色は違うだろうが、彼女の実家の私室にはもっと良いものがベッドないし寝室にあるだろう。

 何といったってダリル。王族リザ家と共に、皇家として王に仕え、この国を支えている家の間違うことなき直系の姫君なのだから。たとえ、王の家臣から、故は知らぬが出生時より外されているとしても、ダリル家の出であるというだけで、本来ならばこんな所に勤めるはずもないことだった。

 いかな知恵者、賢者の権限がそれなりではあるとはいえ、自分は砂漠の民。贅沢など天敵の、半ば乞食のような身で過ごしてきた者。
 勿論その生き方に後悔もしていなければ、それを羞恥とも思ってはいないけれど。

 本来は間違った組み合わせなのだ、と。ケルッツアはそっと立ち上がろうとして、けれどまだ、ロフトの硬い木の板に膝をついたまま、蒲団の海からわずかに覗く栗色を見つめていた。

 彼女は、本来ならばこのような蒲団で眠る身だ。貴族の婚礼適齢期は十代半ばから、二十代後半までと聞く。年齢が年齢なのだから、一歩、どこかが違い、こんな所に勤めていなければあるいは。


あるいは誰か、別の人の蒲団に。


 ゆるりと頭を振って、ケルッツアは目を閉じると立ち上がった。心配というならば、そんなものは知恵者としてか、ケルッツアとしてかは定かではないが、まだ彼の胸にはわだかまっている。

 ソフィレーナ・ド・ダリルという人間の学者としての可能性を、能力を、恐らくは一等期待し買っている者は、けれどそれと矛盾したことを心のどこかでは思っている。

 ふと。



『ケルッツア・ド・ディス・ファーン』



 ふと、件の彼女が微笑む、その記憶をケルッツアは思い出した。

ア? ソフィレーナ..................。メローシュ メ エイサウン タリタ......?
ねえ? ......ソフィレーナ、さん.........。君は、一体いつまで......?

 思考を振り切って、のん気なことを考え、ごまかす。

 比較的怒っていることが多い助手を、しかし思い出すときは笑顔のほうが多い。

 そちらの記憶のほうが鮮烈なのだろうか。そんなことを思いながら、いい加減まとまりのつかなくなった思考を諦め、知恵者はロフトのドアをくぐった。ドアを閉めようとドアノブに手をかけ、後ろ手で閉める。

 その行動のどこに無駄があったのかは定かではないが、何か硬いものの感触を足先に感じ、不審に思って拾い上げると布で巻かれた、何か棒状のものだと知覚できた。

 階段を下りて部屋へと出、閉めたドアに寄りかかって布の包みを開けば、それは暗がりでも間違う事のない独特の金細工がほどこされた、美しい柄と鞘のナイフだった。

「こんな所に......!?」

 親に一人前と認められたときに作ってもらえる、生涯最高の贈り物。流民として生きるべき、誇りの体現物を後生大事に抱えて天窓からの星明りに照らせば、はめ込まれた小さなサファイアが煌めく。

メイディス マザロ ラ クォシス。
蒼き流砂の使徒。

メギィメース メ イニャ メイディス マザロ ラ クォシス!
我は、蒼き流砂の使徒だ!

 今までの、正体のないようなあやふやな心地から、一気に何かを取り戻したかのようにケルッツアの顔は輝いた。

 が、しかし、その柄は振り回すのには重く、掲げて持っているだけでも今の彼には辛い。

 柄を貰った当時の年齢は、今の、流民としての外見年齢と同じ、十四歳。

 その頃この柄を平気で振り回し、挙句剣舞まで踊れたことにわずかながら落胆して、彼は柄を腰のベルトに差し込んだ。

「............。体、鍛えなおそ......」



 星光にまみれたケルッツアが口に出した言葉は、夜更け近い空気に触れて、密かに消えてゆく。
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恥晒しには、ほうようを。
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星屑オペラッタ~忘れな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~作者:境美和
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 常夜ともしれぬ星光が天窓からまろく楕円を描き、部屋の絨毯に微笑み落ちていた。

 そのさやかな光からは逸れた部屋の隅で、ソフィレーナは、ちょうど部屋に入るさい真っ先に目にする壁に作りつけられた強大にして古めかしい本棚の一つに背を預け、虚ろな眼差しで床の絨毯の先、階段の下、暗闇の中わずかに反射するドアの留め金らしきものを眺めやっている。

 背には本。そして左肩を持たせかけるもこれまた強大な別の本棚。二つの本棚の角となる部分にうずくまり、ソフィレーナは夢とうつつの狭間を危うげに行き来していた。

 彼女の左手に位置する本棚の上では、盛んに何やら物を引っ掻き回す音が響いている。

「............」

 夢の側へと片足を踏み入れながら、彼女は未だ所有権を獲得したノートを離さずに胸元へと押し付け、両の手をかぎ爪状にして口許へと寄せていた。触れるか否かの距離で大切に押し包み、切り傷による痛みに掻き消されないよう、緩やかで大人しい灰髪、それを幾度も撫で辿ったときのこそばゆい感触を鮮明に、記憶に焼き付けようとしている。

 散々な話の後、呆れて見捨てたふりをした助手と、その様に拗ねて俯き、斜め下手を苦々しく眇め見る知恵者という情けない構図、それら一連の記憶を再生させ、指先に残るざんしに意識を向けるたび、彼女のうちには口惜しさにも似た悔恨が渦巻いた。

 抱き寄せればよかった、と。

 散々な話をして、ある意味本当の弱さをさらけ出しただろうケルッツアに、ソフィレーナが唯一ほどこせたのは、その垂れる頭を撫でいとしむ行為だけだった。

ママなら。

 限界値などとっくの昔に飛び越えて、暴走爆走する思考にソフィレーナはただほんろうされる。

 星星の優しげな光の中、静謐な空気は、いっそ真昼の陽光降り注ぐ教会のそれに似ているのではないか。先ほどの光景が頭の中で再生されるたび、彼女の思考もぐるりと堂々巡りを繰り返して、一つの結論を導き出していた。
 加護を請うものと、与える聖職者のそれ。
 学者と、シスター。

ママならきっと、軽く抱き寄せたはずだ。

抱き寄せれば、抱きしめればよかった。

 そんな、常日頃ならば思わぬ杞憂に心を砕き、彼女はそっと息を吐く。

 がさ、ごそ、と、ロフトの上では相変わらず、知恵者が、己のベッドを片付けているらしい音が断続的に響いていた。

「...............」

 床に雑魚寝でいいと言ったのに、と、その音をどこか不満げに聞いていると、突然上から知恵者の使っているらしい蒲団がどさりと落ちてきた。

 しかし、それですら、空ろに眦を開くソフィレーナの、栗色の髪は揺らしこそすれ、その眉を歪ませることすらなく。

 ケルッツアは、それは僕が使うから、と声を彼女にかけたが、ソフィレーナはといえば同意も否定も返さず返せず、ひとつ、瞬きをした。
 取り消された言葉。

『......ねえ......? ソフィーレンス君.........君は』

 先程の愛撫のとき、唐突に彼の言い出した言葉が彼女の頭の中に響き渡る。その音程、その間隔は、もっと前の助手の記憶にも酷似を見出すことができた。大声で喚きたてた彼女は、忘れてなどいなかった、否、忘れることなどないコーヒー入りのポットを盾に知恵者の発言から逃げおおせた。

 呆れる彼に、言い募った言葉は。

『......こういうのは、初めの一歩が肝心なんです。......四日間の飲まず食わず......あれ、私にも責任あると思いまして......。
 ......これからは帰る前にポットに何か用意しときますから、ちゃんと飲んでくださいよ? それから食べ物も、何か置いときますから』

 わざと澄まして答えた声に、けれど、重なるのは酷く硬い声。

『......これからは?』

 思えばここから知恵者の様子が変わった気がする。
 ソフィレーナはともすれば落ちそうになる首と意識を保たせ、舟をこぎ始めたことには自覚無く、思考をさらに巡らせていった。

『......ねえ......? ソフィーレンス君.........君は』

 二度問いかけられて、二度ともかき消されてしまった、あの言葉の先は。

ねえ、その先は、なに......?


なん......続..................の........................?



 うと、うと、と。本格的に彼女の思考も世界も揺れてまどろみ、閉じられてゆく。
 その、暗くなる視界の中で、ふいに、先ほど落ちてきた黒い塊が揺らめいた。

「..............................」

 ソフィレーナは眠さとだるさに動かない四肢をそれでも動かして、手を、伸ばした、さき。


 とぷん、と、意識は闇へ落ちる。



***



 ぼすっ、と比較的重みのあるものが軽く柔らかいものに受け止められるような音を聞いて、ケルッツアは顔を上げた。木製作りのロフト、天窓に近い位置から、部屋の方へと顔を向ける。

 暴走気味の思考は、片付けの遂行中に何処かへ消えうせ、無駄に母国語を思い出すこともなくなって久しい。顔を上げたときも、すでに常に使っている言語が彼の頭をよぎった。

 彼の背後には、先ほど乱暴に蹴り飛ばした青い上下一式蒲団の代わりに、まず彼の生涯では一度も寝た事無いだろう手触りの上等な蒲団が用意されている。その周りは小奇麗に整理され、普段のロフトの状況はとりあえずなりを潜めていた。

「......ふむ」

 響いた音に何か思い当たる節でもあったか、彼が時計を確認すれば明け方四時十五分前。

 整えた本類一式、今の今までロフトを占領していたそれらをおもむろに抱え持つと、知恵者はロフト脇の扉、開け放しておいた通路を通って、薄暗い階段を訳もなく部屋へと下りていった。視界を遮る黒い壁、もといドアのノブを力技で捻り、わずか蹴り飛ばせはあっけなく開く。

 部屋の様子を眺めるでもなく、今まで助手のへたり込んでいた箇所に目をやれば。

「............」

 先に荷を降ろしてしまおうと、彼は部屋の中央に位置する長机へと近づいた。
 その端、長年借りたままだった正式な国立図書館書庫書籍の小さな塔の横に、もう少し高い塔を置く。

「――――」

 手ぶらになった彼は、何故か一度深く呼吸をすると、改めて彼女に向き直った。

 助手は、案の定潰れていた。

 その無心に眠る無防備な顔を、しかし半分埋めているのは。

............。フォルソフォ......。よりにもよって......ああ、もう............!

 思わず又母国語を思い出しながら、彼は軽く息を吐き、頭をかいた。

 確かに、絨毯では、ぼす、などとあんな音はしない。少し考えれば分かりそうなものを見落とした失態にやはり彼は自身の疲れを認識、からく笑う。

 ソフィレーナは、普段は一等奇麗な栗色の短髪をわずかに乱し、今は力の抜けきった肢体を、彼の先ほど蹴り飛ばしロフトから落とした衛生上かなり宜しくないと思われる蒲団一式に埋めて撃沈している。 

 その蒲団は、元々空気もそれほど入っておらず柔らかくもなく、その上万年床宜しく敷きっぱなしだったため、きっとどこかしらに彼女の大好きな胞子の根が確実に根付いていると思われる代物だった。

「.............................................」

サンプルの臭いに惹きつけられ、た?

 何とも名状しがたい感情に押されながら、知恵者はしかし現状を打破するべく彼女の両肩口に手をかけた。眠っている者特有の暖かさを掌に感じ、それを掴んである程度まで力を加えてやると後はその力の流れるまま肢体は仰向けになる。

 己のものに比べれば格段に白く細い喉元、急所を仰け反りさらけ出して、それでも助手の髪こそ乱れ、顔に全く変化はなかった。

「......」

 もう一つ息を吐き、助手の覚醒の可能性を完全に捨てきった知恵者が、ふと、視線を止めた先には、物々交換の約束をしたばかりのノート。ソフィレーナの腕に後生大事そうに抱え込まれ胸元に寄せられて、古ぼけた汚らしいそれは場違いにも存在している。

 その光景に、今度こそ彼は困ったように、あるいは驚いたように眉を寄せ、鼓動の急き立つ音を意識せずにはいられなかった。

「ラァ...? ラァ エイサウン アイ スゥウ ?」

 何でそんなことしてるの......? 思わず母国語を口に出し、そのことに気付くと慌てて口元を押さえて。それでも変わることのないそれに、次第困り果てて頭を掻く。

 とうとう、気恥ずかしさに根負けしたか、眠りづらいだろうという理由を半ば盾として汚らしいノートの角をそっと引っ張ると、途端、強い力で元に戻されてしまった。

 何度やっても同じ結果。終いには。

 「......ん.........ぅん!」

 何処か甘ったるい、鼻にかかったような声音で強く否定されてしまう。その上、ころり、と又彼女はうつ伏せてノートをかばうような体勢をとると、全く起きる気配すらなく眠りこけている。

 「............アラズ、っと、...分かったよ...」

 彼はそのノートの存在にも結局折れ、ともかく助手を運ぶことに専念すべく、散々迷った挙句に助手をもう一度あお向けにさせ、その肩甲骨と膝の辺りにそれぞれ己の腕を回し敷いて一気に持ち上げた。

 くてん、と首をまた仰け反らす、その体勢を何とか直し、ふにゃふにゃと頼りない四肢を支える。

 わずかにふらついた足元を叱咤し、よりしっかりと彼女を抱き寄せれば、腑抜けた助手の頭が彼の黒いコート、肩口に寄りかかる。そのことによりさらに鮮明に、その四肢の柔らかさ、温かさ、ふわり、とほのかに香るいい匂いまで、全て、彼は鮮烈に思い知ることとなった。
 唯一の救いは胴、胸の周り辺りにもう一枚制服とは違う硬いベストらしきものを着込んでいるらしく感触が不自然に硬い、そのことだけだった。

 抱えなおせばさらに密着。まして持ち上げる膝の辺りはやや太ももに近い。感触は推して知るべしである。

「ッ......」

 些か動揺して彼女の名、否、失礼なあだ名を呼びそうになり、そこで知恵者は苦虫を噛み潰したような哀しげな顔で、あどけない寝顔を見つめた。

.........アメロメーニャ...... ソフィーレンス............ムウン..................
..................ソフィレーナ......

ああ、やっぱり君は、......どこからどう見ても、女の人だ.........

 腕の中ですやすやと眠る助手の、その母親譲りだろう長い睫の先、頬に落ちかかる影のまろやかさを見つめ、静かに歩き出す。その顔はわずかに苦みを押し隠し、笑みを作り出していた。

 ゆったりと歩く道すがら、己の助手を男性のように呼ぶようになった、その経緯をケルッツアはどこか上の空で思い出す。 確か、と、開け放したロフトへの扉の前で一度立ち止まって、本棚整理だった、とまた歩きだし。

 助手と比べれば格段に落ちる記憶の中を、それでもさらった。

 確か、二年前。迂闊にも背のない彼女に高い箇所の本を整理するように言いつけた自分は、そのまま暫し別の用件で席を外していたが、ふと、何か用事を、おそらくは文献を取りに禁書庫へと立ち寄った。

 そのとき、三脚の上で可能な限りの背伸びをして、震える腕を必死に伸ばし、軽く跳ねる助手の後姿を目撃。

 そのときの助手の格好も、全く今と同じ服装、すなわちYシャツにベストとスラックス。
 靴はやや大きめの革靴で髪は項の良く見えるほどに短く切り落とされた短髪というそれ。

 己の助手は女性だということは重々承知していたが、否、だからこそかもしれない。

 ふと。

 女性なのに男性みたいな格好だな、と。
 そう思った途端、要でもないことに思考が割かれた。

ソフィレーナなら......この国ではソフィーラント?
ソフィーランス......うーん......座りが良くないかな......レーナ......レント......レンス......。
レンス? ......そうだ!

『危ないよ、ソフィーレンス君』

 三脚に手をかけながらそう呼びかけると、怪訝そうな顔で見返してくる助手がいた。

『......そふぃーれんす?』

 その場面だけは何故か厭に鮮明に覚えている、彼はそんなことをひとりごちながら、用意した蒲団を少し迷った後に足ではぐり、そっと膝をつくと、腕の中の身を横たえた。横たえられた身は、蒲団に緩やかに沈み、半ば埋もれて寝息を立てている。土足はさすがにまずかろうと、靴は脱がせてロフトに揃え置き。

 その肩までしっかり上掛けを被せると、もう彼女の姿は本当に、蒲団に埋もれ過ぎてよく分からなくなった。

“ソフィーレンス”は、ちょっとした遊びのつもりで、その場限り。
 そのときだけそう呼んだら後は、頑張ってソフィレーナ、さん、ないし、君等と呼ぼうと、思っていたのに

 目の前の柔らかそうな塊を見下ろしながら、ケルッツアは苦笑する。
 
余りにむきになって失礼だ、ソフィレーナだ、と喚きたてるから、そこまで怒らなくてもいいではないかと。

 懲りた顔にわずか明るい笑みを浮かべて、ケルッツアはため息は吐かずに、後頭部ばかりわずかに掻く。
 結局のところは、てこでも呼び方を変えなかった知恵者と、反発する助手の攻防がいまでも続いていると、国立図書館内で有名にまでなる始末。

なんて、馬鹿なことをやったものか.........

 身に、腕に残る温もりが徐々に冷えてゆく。
 彼の見つめる先の塊は、酷くゆったりと、緩やかな上下運動を繰り返していた。

どうみても、場違いだ。

 ケルッツアは思う。最高級蒲団で眠るソフィレーナの姿は、違和感無く受け入れられたが、それが、何故、こんな汚らしい部屋のロフトにでき上がっているのか。急に、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、ケルッツアは静かに横手を、斜め下手を眇め睨んだ。

 その様は彼が心底悔しがるときに出る癖だとは、本人に自覚は無い。

助手が高級蒲団で眠ることは全くもって間違ってはいない。

 恐らくは、この貰い物蒲団は男性用の配色をほどこしてあるので色は違うだろうが、彼女の実家の私室にはもっと良いものがベッドないし寝室にあるだろう。

 何といったってダリル。王族リザ家と共に、皇家として王に仕え、この国を支えている家の間違うことなき直系の姫君なのだから。たとえ、王の家臣から、故は知らぬが出生時より外されているとしても、ダリル家の出であるというだけで、本来ならばこんな所に勤めるはずもないことだった。

 いかな知恵者、賢者の権限がそれなりではあるとはいえ、自分は砂漠の民。贅沢など天敵の、半ば乞食のような身で過ごしてきた者。
 勿論その生き方に後悔もしていなければ、それを羞恥とも思ってはいないけれど。

 本来は間違った組み合わせなのだ、と。ケルッツアはそっと立ち上がろうとして、けれどまだ、ロフトの硬い木の板に膝をついたまま、蒲団の海からわずかに覗く栗色を見つめていた。

 彼女は、本来ならばこのような蒲団で眠る身だ。貴族の婚礼適齢期は十代半ばから、二十代後半までと聞く。年齢が年齢なのだから、一歩、どこかが違い、こんな所に勤めていなければあるいは。


あるいは誰か、別の人の蒲団に。


 ゆるりと頭を振って、ケルッツアは目を閉じると立ち上がった。心配というならば、そんなものは知恵者としてか、ケルッツアとしてかは定かではないが、まだ彼の胸にはわだかまっている。

 ソフィレーナ・ド・ダリルという人間の学者としての可能性を、能力を、恐らくは一等期待し買っている者は、けれどそれと矛盾したことを心のどこかでは思っている。

 ふと。



『ケルッツア・ド・ディス・ファーン』



 ふと、件の彼女が微笑む、その記憶をケルッツアは思い出した。

ア? ソフィレーナ..................。メローシュ メ エイサウン タリタ......?
ねえ? ......ソフィレーナ、さん.........。君は、一体いつまで......?

 思考を振り切って、のん気なことを考え、ごまかす。

 比較的怒っていることが多い助手を、しかし思い出すときは笑顔のほうが多い。

 そちらの記憶のほうが鮮烈なのだろうか。そんなことを思いながら、いい加減まとまりのつかなくなった思考を諦め、知恵者はロフトのドアをくぐった。ドアを閉めようとドアノブに手をかけ、後ろ手で閉める。

 その行動のどこに無駄があったのかは定かではないが、何か硬いものの感触を足先に感じ、不審に思って拾い上げると布で巻かれた、何か棒状のものだと知覚できた。

 階段を下りて部屋へと出、閉めたドアに寄りかかって布の包みを開けば、それは暗がりでも間違う事のない独特の金細工がほどこされた、美しい柄と鞘のナイフだった。

「こんな所に......!?」

 親に一人前と認められたときに作ってもらえる、生涯最高の贈り物。流民として生きるべき、誇りの体現物を後生大事に抱えて天窓からの星明りに照らせば、はめ込まれた小さなサファイアが煌めく。

メイディス マザロ ラ クォシス。
蒼き流砂の使徒。

メギィメース メ イニャ メイディス マザロ ラ クォシス!
我は、蒼き流砂の使徒だ!

 今までの、正体のないようなあやふやな心地から、一気に何かを取り戻したかのようにケルッツアの顔は輝いた。

 が、しかし、その柄は振り回すのには重く、掲げて持っているだけでも今の彼には辛い。

 柄を貰った当時の年齢は、今の、流民としての外見年齢と同じ、十四歳。

 その頃この柄を平気で振り回し、挙句剣舞まで踊れたことにわずかながら落胆して、彼は柄を腰のベルトに差し込んだ。

「............。体、鍛えなおそ......」



 星光にまみれたケルッツアが口に出した言葉は、夜更け近い空気に触れて、密かに消えてゆく。
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星屑オペラッタ~忘れな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~作者:境美和
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