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記憶のおり

それは、決して忘れ得ない記憶
***



 ウィークラッチ島、夜中一時と少し。
 さて、おかしなことになった。と、ソフィレーナは内心頭を抱え込んでいた。
 国立図書館最上階禁書庫、照明の落とされたその場所を覚束ない灯りを先頭に、動く虚像は大小二つ。知恵者と助手の列は、闇の中をにぎやかに進んでゆく。
 橙の灯りに照らし出される微かな視覚情報を、持ち運ぶ箱三箱にさえぎられつつ読み取りながら知り尽くした禁書庫の姿と重ね合わせ、ソフィレーナはケルッツアの後に続いていた。
 右に、左に、くねくねと無駄に折り曲がること約十分程度。助手の密かな不安も知らず、意気揚々と引きずられる黒く長いコートの端が止まり、微かな金属の触れ合う音と、軋む扉が開いたそこから先。

 彼女の知らない空間が広がっている。

「ここ、禁書庫じゃ、ないですね......」

 彼女は努めて冷静な声を出した。視界に知らない文字列。掠れ見たそれは、恐らく流民の使う言語、ムータ語の亜種かもしれない。

「うん? 貴重で......滅多にお目にかかれない書籍があるところ、かな」

 返る声は些か浮かれ気味。彼女が必要最低限の視野でも判ったのは、左右に本棚の列が恐らく一列ずつ、丁度彼らの立つ直線、綺麗に等間隔で道を空けて配置されていることと、この本の回廊が、己の立つ位置から後ろにも、同じように広がっているということだった。
 くぐって来た扉は、今は右手に位置している。

「............」

 無言の助手を置いて、ケルッツアは先へと歩を進めていた。
 続きながら。禁書庫のときとは反対に、なるべく周りを見ないよう視野を狭める意図と、単なる呆れの具現化とで、彼女は虚ろに、おへその辺りに視線を落とした。

 一体、この、国立図書館という空間は謎が多い。

 少し貴重な書籍の類の在るところであり、国立と付くからには、国からの補助で成り立っている。しかし、王都ではなく、西の最果て、寂れた孤島にあるのは正直使い勝手が悪い。天候の良い日はまだしも、海の荒れたときなどは緊急で休館になる国立図書館など科学大国としてはいかがなものか、とは専らの噂である。

 おまけに、結界のおかげでそれが発動している間は外界と中は全くの音信不通。開発チームとはいえ、ここの結界はもともと在った遺跡のシステムを安定させ発動時刻をコントロールしただけに過ぎなかった、という事実。

 つまりこの島は、以前はいついつ音信不通になるか判らない、とんでも空間だったのである。

 本来はとてもではないが住めたところではないのだが、しかしなぜか一人、必ず誰かが最上階に住み続けて今の知恵者の代でもう五十代を越しているのは不思議を通り越して呆れる。

 それらが、歴代の知恵者達が、総じて変わり者、変人、と呼ばれる理由であり、この島、ひいては国立図書館という塔が、別名『あぶれ者の塔』だの『変人達の巣窟』だの呼ばれていた所以でもあり。

 図書館内のシステムも変わっている。なぜか知恵者の住む最上階禁書庫でも一定の手続きをすれば三日だけ貸し出しが可能となるほか、本には有害なはずの巨大な窓が日当たり良く付いているなど、もっとも、地下に本当の持ち出し厳禁、禁書庫が広がっていることは、実は国立図書館に勤めれば誰もが知っていることではあったが、塔のあちこちに隠し部屋めいた空間が広がっていることまでは、正直、歴代の知恵者と、助手しか知らないことらしい。うわさ程度には流れるが。

 そんな謎だらけの国立図書館。最上階スペースに目をやれば、この変な空間の他に研究部屋が二つ、物置五つ、どこかに彼の私室が在るらしいことと、キッチン以外の生活必需物、シャワーまで付いていることまでは、助手の知る所であった。

 私室。

『まさか......目的地は、あなたのお部屋、とか?』

 探検じみた運搬業務開始直後に遡る記憶。ソフィレーナにとって、他人の私室とは、苦い思い出と認識を抱えた禁断の場所でしかない。危険因子は早めに回避しておきたい、と、私室の話題が出た時点で、そんな彼女は確認を怠らなかった。

『ふむ? ソフィーレンス君。書籍の運搬業務だよ?
 ......書庫に決まっている』

 返った言葉にわずかな安堵と、それでも拭い去れない不安。頭を切り替えるようにこの秘密空間がいつから存在するのか、と、あらぬことに思考を飛ばし、それも飽きた頃、今少し今後にとって有用なことを、ソフィレーナはケルッツアのコートへとぶつけた。

「じゃあ......隠し部屋の一つ?」

 歩が止まりかけ、進む知恵者から声は返らない。分かり易い反応に、この辺り一帯が雲隠れスポット、と認識しながら、ソフィレーナは軽く首を傾げる。わずかその背に近付き、そっと。

「いいんですか? 隠れる場所、なくなっちゃいますよ?」

 少々意地悪く囁くと、案の定恨めしそうな視線が向けられた。

「......いじわる......。いいよ、別に。......他にもまだある。」

 嘯くように口を尖らせてそっぽを向いた、その顔に。
 なぜだろう、彼女はその頬の形に途轍もない憎らしさを感じる。

「ケルッツア・ド・ディス・ファーン? 
 今年は逃げる前に、問答無用で椅子に縛り付けますから。」

 地の底からのような声が後ろで響き、途端知恵者は目を丸くした。

「そ、それはいくらなんでも人道に反して」

 慌てて振り向く彼に、にっこりと微笑むソフィレーナの頭の中では、ついさっき渡した『仮定図書一覧表』の事務整理にまつわる忌々しい思い出が上映されている。
 心は正に、この上司に対する可愛さなどどこ吹く風、あまりにあまりまくった憎さだけが百万倍。

「何を仰るんです? この助手めが付きっきりでお世話させていただきますよ?
 素敵でしょう?
 あなたはただ手を動かしているだけですもの。
 私が付きっきりで書類を運んだり食事を運んだり書類を運んだり書類を運んだり書類を運んだり...書類を運んだり?」

 矢継ぎ早にまくし立てるソフィレーナは、しかし、これで知恵者が潔く折れて謝ってくれたなら、これ以上虐めようとは思っていなかった。
 が。

「...それは、拷問というのではないの...?」

 この言葉に、切れた。

「いやだ、プロフェッサー・ワイズレッテッティス。

 ソフィーレンスは拷問を受けたと?」

 箱の塔から半分覗く助手の顔は、ランプの光を受けて陰影が濃い。
 しまった、と知恵者が取り繕うも時すでに遅く、助手は、世にもおっかない顔で知恵者ににじり寄った。美しいとは言えないものの、無駄に左右対称、整った顔のつくりが恐怖を煽る。

「ええ、そりゃあね? 確っかに拷問でしたよ? 親・愛・なる賢者様は雲隠れなさって?
 後に残った、机がすッッぽり! 隠れる位の書類の山に埋もれてッ!!! 逃げる事も許されずにまだ運ばれてくる各館からの書類と顔を突き合わせて!
 泣きながら!!! パソコン打って!
 判子押して......! 本当、揃いも揃った全館分、よくも溜めましたねあれだけ?
 ...ふふ、う、ふふふふふふふ。しかも提出期限は全て明日。
 拷問でしたよ。
 私何か悪いことしました?
 どうーせ聴こえてらっしゃったんでしょう? 惨めに響き渡る助手の泣き声ッ!! 
 思わず恥も外聞も忘れて夕日と書類にまみれながら今後の人生にまで思考を廻らせちゃったじゃないですかッ!! 
 何でそこまで追い詰められなきゃならないんです!?
 よぉぉおおっッッく聴いてくださいプロフェッサー。あなたの優秀な助手はね? 三度目の轍は踏みませんの。で・す・か・らッ! 薄情な上司へのささやかな復讐として、

 椅子に縛り付けるっくらい、...可愛いものでしょう?」

 昼間、知恵者の目の前にどん、と座ったときの恐ろしさをもう一度。ソフィレーナは箱に遮られた視界の端から、今度はケルッツアに、妙に気迫のこもった涙交じりの微笑みを向けている。
 彼の顔は蒼白である。

「は、半分は......消化する......」

 渋々、といった調子で悲愴的に返った答えに、しかし助手は納得しない。

「......はんぶん、って......。あ、のですねッ? そもそも、あれ、全ッッッ部!!!
 貴方のッ! お・仕・事・ッでしょうッ?!?!?!!!」


 こんな会話をしつつも、二段下がって三段上がり、五段下がって、さらに八段下がり、二段上がって十五段下がり、などとアップダウンを繰り返して、彼らは今一枚のドアの前に立っていた。

『書庫に決まって』

 確認は取った。ここは彼の私室ではない。
 運搬業務を始めてからずっと付きまとう、むずむずした変な予感に、ソフィレーナは一つ小さく息を吐き出した。

だいじょうぶ。大丈夫。書庫。書庫だから。
「......随分と......変わった場所にある、書庫、です、ね?」

 声にはついつい確認の響き。
 先程の一悶着は助手の密かな不安の裏返しだったなど、知恵者は気付くわけもなく。

「どうしたの。書庫だといっているのに.........。ああ、少し待って......確か......」

 返る声ののん気さに、内心ソフィレーナは酷く怯えていた。知恵者は彼女の目の端で、じゃらり、と鍵の束をもてあそび、中から一つ、銅製のそれを選んで彼女に背を向ける。その背が、ふいに記憶の中の幼い姉の背と重なって、ソフィレーナは今度こそ息を殺した。

違う。

 知れず首が振られ、足が竦む。

ちがう。だってここは。

 記憶はあせること無く。

「ああ、これだこれだ......。と、はい、どうぞ?」

 沈みかけた己に掛けられる声。現実では、鍵の開く微かな金属の音と共に、ケルッツアが振り向いて笑っている。

「ッ! ......」

 動揺を押し隠し、無理にでも意識を引きずり上げて、ソフィレーナは深呼吸の代わりに、荷物を持ち直した。視界の半ばに見える、彼によって大きく開けられたドアの先、その暗闇へと。
 足が震える。
 
大丈夫。だってここは。

「......。お邪魔します。って、変な言い方しないでくださいよ......、書庫なんでしょう?
 まるで」

 軽口のつもりで発した言葉は、結局詰まって上手く殺すことはできなかった。

 後ろから、心底楽しそうな声。

「階段には気をつけて。ほら、立ち止まらない」

 いたずらに成功した子供のような調子で、彼は彼女の背を押して、部屋の中へと急かしている。

「......ここ......ッ」

 その背に触れる彼の手に。声に。
 存在自体に。
 ソフィレーナは堪らない苛立ちと困惑を覚え、ぐ、と奥歯を嚙み締めた。

書庫だって言った......ッ!!!

 騙されたという怒りと、意地を張って教えておかなかった己のしくじりとの後悔がないまぜになり、彼女の鼓動を急き立てる。体中の産毛が総毛立つ感覚、拍の嫌な音。早鐘は酷い緊張の現れで、この場合は恐怖の具現でしかなく。
 星屑の下で覚えた甘いものなどではない。そんなものではなかった。

よろこぶと、思ったの、よね?

 確かに、普通ならば喜ばせるイベントになり得るのかもしれない、と、漠然と、彼女は頭のどこかでそう思う。
 いたずらに成功した子供は、心底嬉しそうな気配で後ろに控えている。
 つん、と鼻の奥が痛む。声が掠れる。閉じた視界に一瞬見た残像が、なぜ、消えてくれない。

消えるわけない。一度見た、もの、は。

私は。

このひとは、やっぱり残酷。

 ソフィレーナは俯いて前髪で目元を隠した。自分の足が止まったのは、部屋を入ってすぐ、わずかにある階段のせいではない。

なんて......解るわけがないわよね......

 苦しみなど、他人に解るはずがない。それは当たり前だ。と、心のどこかで冷静な自分がささやく。もともと気付かれぬようふるまっていたのだから、むしろ気付かれていたら困る、と。
 忘れられない苦しさ。忘却のない思考。それに伴う弊害なんて普通は知らない。
 見たものが、あせることもなく、ずっと記憶に残り続ける恐怖。絶対の、記憶媒体のような自分。
 そんな己に迂闊にプライベートスペースを見せる知恵者は正直な所、彼女にとっては複雑な存在だった。
 こんな子供じみた知恵者でも、やはり心の底から尊敬していればこそ。このいたずらを彼の失態としか取れない己に、彼女はやり切れないものを感じる。
 けれど、それも詮ないのだ、とソフィレーナは諦めて息をついた。
 解るわけがない。解っていたら困る。だから、詮ない。

それでも。それでも本当は。

 ケルッツアの声は身勝手に続けられる。

「ね? 書庫だったろう? 
 ......まあ、私物も混在しているから、貸出し無効書籍専門書庫かな。
 箱はそこのテーブルに置いて。中身を棚に並べて貰おうと思ってね。分類順序は第五図書館と同じ。君の判断でどこに入れるか決めてくれて構わない。そこの三脚で届く範囲で......

 って......。ソフィーレンス君? 目を開けたまえ」

 無神経な声は至極無責任なことをのたまって、やがて彼女のすぐ隣で呆れている。
 あるいは、己を普通の人間として扱ってくれる彼に、自分は普通ではないのだ、と切り出すことが哀しいのかもしれない。
 無自覚に心をえぐる、優しいバケモノに向けて、彼女は堪らないものを抑えた息に乗せ、そっと切り出した。

「い、やだ......ケルッツア・ド・ディス・ファーン......? それは、できません......。私が......」

 深呼吸。声の震えが浅ましく愚かしい。
 息を呑み、平静に。

「私が......見たもの全部覚えちゃう事知ってらっしゃるでしょう......? 
 一度見ると......本当に何も......。

 ............忘れることができないんです............。

 ......き、機密事項、とか、個人の秘密とか......全部、......ずっと覚えられていることになるんですよ......?
 しゃ、写真と同じです......。私は......見たら、やり直しが利かないんですってば......。
 ......でも、安心してください? ......。ここはまだ、天井しか見てない、から......」

 嘘だった。
 彼女は彼の私室を、その天窓からの星明かりに照らし出された青い空間を、ほぼ真正面から見ている。けれど、そのことだけはどうしても、ソフィレーナはケルッツアに告げられない。
 写真に撮るということと、己が見るということは、彼女の中ではほぼイコールで結ばれること。
 背に置かれているてのひらは、今もなお仄かに温みを伝えている。その温かみが温かければ温かいほど、心地よいほど、いつ、その手が離れてゆくかと、ソフィレーナの中で恐怖は募っていった。
 知恵者はいまだ横にいる。そのことに救われると同時、自分の顔に注がれている視線の色が、ただ、怖い。

 侮蔑か、同情か。

 ケルッツアからの返答はなく。彼女は、くじけそうになる己を奮い立たせ。

「......机には、置けます。......何か置いてあるなら退けてください。
 ......そこまで、です。
 後は、申し訳ありませんが、私には処理、ッ..................っできま、せん............」

 言葉の最後で息が詰まり、悔しさで、とうとう持つ箱へと額を押し付けて、さらに俯くと、ソフィレーナは顔を隠した。涙だけは、辛うじて耐えたせいだろうか。鼻の奥の痛みと耳鳴りが煩い。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

 そう、心の中で呟きながら。
 だから。

「......何をいっているの。
 君は、僕の助手だろう? これからは、ここの整理もやるんだよ?」

 さも当然と要求を押し付ける言葉にソフィレーナは驚き、反射目を開けた。
 幸いにも視界は箱と足元とで覆われていて、すぐにきつく目を瞑った為彼の個人スペースをもう一度侵すような真似はせずに済んだが、その声の普通さに、想像できる表情に、苛立ちが募る。

人が...ッ......どんな、きもち、で...!

 恐らく事の重大さを分かっていない顔つき、呆れすら混ざったようなケルッツアを叱咤する声は、どうしてだろう、怒りとは反対に、酷く情けなかった。

「そ、そんなの......横暴もいい所じゃないですか......。
 それに、困るのはあなたなんですよ......?」

 泣き付いているような、懇願の響き。発してしまったと同時、彼女は己への憤りに唇を噛む。望むことは、ここからの撤退のはずだ、と。早くこの身勝手で、無神経な要望から解放されたい。のに。
 なのに。本当は。

ほんとうは。


 そんな自分が、惨めで情けなく、消えてしまいたい、と願う彼女の背に、けれどやはり、てのひらの温かさは消えない。
 黙り込むソフィレーナの横で、先程に比べれば随分と真面目な声が、強く。

「......死んだ書物と、僕の私物しかない場所だ。
 機密事項も、君に洩れて困るものもない。......問題なんてないだろう?

 ......大丈夫。目を開けてごらん?」

 背のてのひらが、一度、そっとわずかにさするような動きに変わり、すぐに元の位置へと戻った。響いて聴こえた声は優しく、添えられたてのひら以上の温かみがある。
 知恵者としてみれば、事実を述べただけに過ぎない言葉でも、彼女の耳には優しかった。
 同情、計算という思考が一瞬、ソフィレーナの頭の中に浮かんだが。
 あるいはそれでも構わない。
 計算だろうが、何だろうが。もう。
 錯覚でも、解って貰えたような、包まれるような、そんな心地に押されて。
 恐る恐る、ソフィレーナは瞼を持ち上げる。

 「............」

 視界いっぱいの箱の壁から、徐々に顔を傾けて、叱られて元気のない子供のような調子、そっと窺うように、視界の色を、星明かりに、青く沈ませていった。

「ようこそ、僕の部屋へ」

 言われた途端、抑えきれずに世界が滲み。

「ッ」

 又箱に押し付けて俯いてしまった助手の肩は、小刻みに震えている。
 その、栗色の髪に静かに手を遣って。ぽんぽん、と弾むように撫でてから、ケルッツアは屈み込んでこうささやいた。

「......僕には、君に知られて困ることなんて、本当に一つとない。
 君はここの資金運用にだって目を通しているだろう? 所蔵されている書籍も、未登録分以外は全部知ってる。...とても助かっているんだよ? ......それに、一度見て忘れないなら、下手に散らかる心配がなさそうだ。
 ......結構なことじゃないか」

 いまだ床から先、顔を上げない助手の手から箱を受け取って、階段を上り、その先、大きな木製の机へと荷を降ろしてしばし。
 ケルッツアの後ろ、小さく鼻をすする音がして、くぐもった声がかけられた。

「.....................。並べ......方は、第五図書館の通り、でしたね......」

 いまだ目元を前髪で隠したまま、部屋の階段を上ってくる彼女を。

「そう。お願いね。ソフィーレンス君」

 迎える知恵者は、とかく嬉しそう。
 


***



 部屋の南側、ベッドと思しき本棚の上に作りつけられたスペースの壁、綺麗に切り取られた丸い窓からの星明かりを靴のつま先の辺りに受けながら、ソフィレーナは数冊の本と、背表紙に張るラベルを手に、大きな三脚、上から二段目の位置に腰掛けていた。

 視界の真ん中、差し込む星明かりは月のそれのように判然と明るく床にまどろみ落ちている。
 その形に時折目を移している所為だろうか、彼女がラベルに書き込みをいれて本に貼る作業に要している時間は、通常の何倍も遅かった。

 緩慢とも呼べるその速度に、しかし先程から窓に背を、そして彼女に背を向ける形で、三箱の置かれた大きな机の斜め壁より、小さなパソコンの載った机をランプの灯り頼りに片付けているらしいこの部屋の所有者からは、何の苦情も出ていない。

 どころか、ソフィレーナがちらりと見やれば、自分の作業速度に合わせて動いていることが窺える。

「............」

 己の助手に関しては仕事速度重視、彼がいかに研究に打ち込める環境を作れるのか、を一番に考えている知恵者としてはまずあり得ない待遇に、正直破格だ反則だとどこかで強く感じながらも、その特別を問い質す気力ですら、今の彼女にはなかった。
 自分がラベルをシール台から剥がす音と、己の呼吸の音。本を棚に入れるときの微かなそれに、合わさるように物が静かにぶつかって立てる音、木の引き出しの軋みだけが、青白い空間に時折響いては、すぐに消えてゆく。

 静かだった。
 その静寂に押されて、先程開きかけた記憶の蓋が音もなく、開いてゆく。


 確か五歳の夏。そのときの自分は、ただ知りたかっただけだった。姉が、毎日楽しそうにその部屋へと消えて行く姿を何度も見ていたし、ときに姉の友人が入っては出てくる姿は、子供なりに興味のあることだったように思う。だから、その背に自分は。

『ティーちゃん。ソフィーも入れて?』

 丸い窓を真正面に捉えてぼんやりと窓の外、星明かりで青藍に染まる夜空の瞬きを見つめる、その視界の上掛けのように記憶は鮮烈に頭のどこかで。

『だ、駄目ッッ!! ソフィーったら見たもの全部覚えちゃうでしょ!?!!

 き、気持ち悪いもん!! 』

 振り向いた姉の顔は、普段己に見せている優しいそれではなかった。

『そふぃー......は、きもち......っ......悪、い......?』

 視界が歪む残像が、思い出すたび付きまとう。己はあのときも泣いていたのだ。おうむ返しに問う幼い自分が、そして彼女はいまだに許せない。

 思えば、ダリル家の広い屋敷の中、召し抱えられ働く使用人が己に向ける視線は、いつもどこか冷たく余所余所しかった。

 幼く残酷な自分は、彼らが己から視線を外すたびに何が隠されているのか、と興味をそそられたものだが、その好奇心で得た情報は、己が気持ち悪がられているというものだけ。そのことを知ったときの自分の目は、やはり涙で視界を霞ませていた。

 理不尽だ、酷いなどと、周囲に対して、強い反感の意を持って。

 けれど、何も理不尽ではなかったし、仕方のないことだと、後に彼女は自分を恥じている。姉の一件で泣きつかれた母親は、このときさぞや迷惑で、困惑しただろうと思うと情けなかった。その後謝りに来た姉や、己の気持ち悪さを思わず口に出してしまったときの使用人の、その気まずそうな顔も、彼女は好きではなかった。

 何より、そんな顔をさせてしまう自分が、かもしれない。

 何も理不尽ではない。姉や、使用人達が己を気持ち悪がる理由は納得のいくものだった。実際、気持ち悪がる使用人だって悪気があってやっている者は少なく、確かに優しいときも同時に記憶にある。上辺だけでなく、その優しさが本心に変わるときもまた、確かに。

 仕方のないことと、結局彼女はそう結論付けていた。
 誰だって隠したい秘密はある。誰だってプライベートを写真に撮られたら嫌なものだろう。堂々と幾度も考察した結果は仕方がない、という自分の頭に対する諦めだった。

私は何でも覚えてしまうから。
私は何でも忘れることがないから。
絶対の記憶媒体に写し撮られる恐怖も、解らないではないわ......

 ならば忘れることがあるよう、血が出るまで壁に頭をぶつけてみたが、やはり己の頭は何も忘れてくれなかった。ならば何も見ぬよう目隠しをしたまま生活し始めたら途端、母親や姉、兄に怒られ、しまいには泣かれて困った。
 けれど、己の行為はどんどんと激しくなってゆくばかり。
 とうとう一度きり、己の目を潰そうとしたら、母親に頬を叩かれたことがある。
 常に笑顔を湛えている母にしては珍しく、顔を赤くして眉を吊り上げた泣き顔だった。

『そんなことしなくていい......! そんなことしなくていいのッ!』

 低く怒鳴っているのに、駄々を捏ねるような泣き声で抱き締められた腕の中は、今でも思い出すたび熱く、苦しく、なのに不思議と心地よくて、涙が止まらなかった。それで、今まで己のやってきたことが自虐であると知り、馬鹿なことだとそれきり、ぴたりと止めたけれど。

 けれど内に残った諦めだけは消えなかった。

 もう決して、行動に移しはしないものの、自分は、目や耳を潰してしまわない限り人に無害ではいられないのだと、やはり心のどこかでは思っている。
 特に、私室というものは彼女の中では絶対の禁忌。

なのに。
なのに。

ああもう...なんて反則かしら......

ずるい、ずるい、ずるい......

 私室に入れる、入れてくれるということ。それが彼女にとってどれだけ大きな意味を持つか、知恵者は知らない。知っているわけがない。
 だというのに。

私、今、どんな顔をしてるかしら......?

 泣いた後の浮腫んだ心地で、ソフィレーナは、すん、と一つ鼻をすすった。目元がわずかに痛みを訴え、触ると微妙に指の腹が沁みる。その指先を頬に沿って降ろせば赤々とした熱と、指の冷たさを鮮明に。
 降ろして。乾いた唇には洩れた息に湿った熱さ、涙の気配がいまだ残っている。
 やはり、泣いていたのだ。
 どこか他人事のように認識し、鼻の奥に痛みがないことに意識を向け。痛みはないがわずかに詰まって息がしづらい、ともう一度軽くすすって、それでも治らないことに諦め、代わりとばかり口から一つ、妙に苦しい息を吐き出した。

私室は、私室はだめ......

 指は己の頚動脈に下ろされる。指の腹の下、薄い皮膚の中、脈打つ血管の速さを感じれば、胸の早鐘とこめかみの痛さが蘇って強烈。
 緊張している。
 それはそうだ、と得心はいったが、どくり、どくり、と心臓が血液と酸素を送り出すたび、彼女の内では緩く甘い衝撃が襲い来ていた。
 そのどこか甘い疼きを認知するたびに、今度は、膝を抱え込んで丸まってしまいたい衝動を感じ、どうしていいか判らずに、逃げるため思考を巡らす。

信頼されている、ということ。このひとにとってはそれだけ。

 そう、思うのに。
 それでも心の内から甘く痺れて、胸が詰まって、仕方がなかった。

 やや乱暴に腰掛けた足をぶらぶらとさせる。目の前の光に照らされて、薄い己の影が乱暴に動いた。足先はわずかに痺れて感覚が遠い。少し冷えた、とまだ脚を揺すりながら彼女はそんなことを思う。

この知恵者の信頼を勝ち得た、と。つまりはそういうこと!

 そう無理にでも納得して、勢い良く、本を棚へと押し込んだついでに。

「...終わりましたよ? ケルッツア・ド・ディス・ファーン」

 優しい静寂に、終止符を打つ。


「ところで...。ここって歴代の知恵者の私室でもあるんですか?」
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星屑オペラッタ~忘れな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~作者:境美和
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それは、決して忘れ得ない記憶
***



 ウィークラッチ島、夜中一時と少し。
 さて、おかしなことになった。と、ソフィレーナは内心頭を抱え込んでいた。
 国立図書館最上階禁書庫、照明の落とされたその場所を覚束ない灯りを先頭に、動く虚像は大小二つ。知恵者と助手の列は、闇の中をにぎやかに進んでゆく。
 橙の灯りに照らし出される微かな視覚情報を、持ち運ぶ箱三箱にさえぎられつつ読み取りながら知り尽くした禁書庫の姿と重ね合わせ、ソフィレーナはケルッツアの後に続いていた。
 右に、左に、くねくねと無駄に折り曲がること約十分程度。助手の密かな不安も知らず、意気揚々と引きずられる黒く長いコートの端が止まり、微かな金属の触れ合う音と、軋む扉が開いたそこから先。

 彼女の知らない空間が広がっている。

「ここ、禁書庫じゃ、ないですね......」

 彼女は努めて冷静な声を出した。視界に知らない文字列。掠れ見たそれは、恐らく流民の使う言語、ムータ語の亜種かもしれない。

「うん? 貴重で......滅多にお目にかかれない書籍があるところ、かな」

 返る声は些か浮かれ気味。彼女が必要最低限の視野でも判ったのは、左右に本棚の列が恐らく一列ずつ、丁度彼らの立つ直線、綺麗に等間隔で道を空けて配置されていることと、この本の回廊が、己の立つ位置から後ろにも、同じように広がっているということだった。
 くぐって来た扉は、今は右手に位置している。

「............」

 無言の助手を置いて、ケルッツアは先へと歩を進めていた。
 続きながら。禁書庫のときとは反対に、なるべく周りを見ないよう視野を狭める意図と、単なる呆れの具現化とで、彼女は虚ろに、おへその辺りに視線を落とした。

 一体、この、国立図書館という空間は謎が多い。

 少し貴重な書籍の類の在るところであり、国立と付くからには、国からの補助で成り立っている。しかし、王都ではなく、西の最果て、寂れた孤島にあるのは正直使い勝手が悪い。天候の良い日はまだしも、海の荒れたときなどは緊急で休館になる国立図書館など科学大国としてはいかがなものか、とは専らの噂である。

 おまけに、結界のおかげでそれが発動している間は外界と中は全くの音信不通。開発チームとはいえ、ここの結界はもともと在った遺跡のシステムを安定させ発動時刻をコントロールしただけに過ぎなかった、という事実。

 つまりこの島は、以前はいついつ音信不通になるか判らない、とんでも空間だったのである。

 本来はとてもではないが住めたところではないのだが、しかしなぜか一人、必ず誰かが最上階に住み続けて今の知恵者の代でもう五十代を越しているのは不思議を通り越して呆れる。

 それらが、歴代の知恵者達が、総じて変わり者、変人、と呼ばれる理由であり、この島、ひいては国立図書館という塔が、別名『あぶれ者の塔』だの『変人達の巣窟』だの呼ばれていた所以でもあり。

 図書館内のシステムも変わっている。なぜか知恵者の住む最上階禁書庫でも一定の手続きをすれば三日だけ貸し出しが可能となるほか、本には有害なはずの巨大な窓が日当たり良く付いているなど、もっとも、地下に本当の持ち出し厳禁、禁書庫が広がっていることは、実は国立図書館に勤めれば誰もが知っていることではあったが、塔のあちこちに隠し部屋めいた空間が広がっていることまでは、正直、歴代の知恵者と、助手しか知らないことらしい。うわさ程度には流れるが。

 そんな謎だらけの国立図書館。最上階スペースに目をやれば、この変な空間の他に研究部屋が二つ、物置五つ、どこかに彼の私室が在るらしいことと、キッチン以外の生活必需物、シャワーまで付いていることまでは、助手の知る所であった。

 私室。

『まさか......目的地は、あなたのお部屋、とか?』

 探検じみた運搬業務開始直後に遡る記憶。ソフィレーナにとって、他人の私室とは、苦い思い出と認識を抱えた禁断の場所でしかない。危険因子は早めに回避しておきたい、と、私室の話題が出た時点で、そんな彼女は確認を怠らなかった。

『ふむ? ソフィーレンス君。書籍の運搬業務だよ?
 ......書庫に決まっている』

 返った言葉にわずかな安堵と、それでも拭い去れない不安。頭を切り替えるようにこの秘密空間がいつから存在するのか、と、あらぬことに思考を飛ばし、それも飽きた頃、今少し今後にとって有用なことを、ソフィレーナはケルッツアのコートへとぶつけた。

「じゃあ......隠し部屋の一つ?」

 歩が止まりかけ、進む知恵者から声は返らない。分かり易い反応に、この辺り一帯が雲隠れスポット、と認識しながら、ソフィレーナは軽く首を傾げる。わずかその背に近付き、そっと。

「いいんですか? 隠れる場所、なくなっちゃいますよ?」

 少々意地悪く囁くと、案の定恨めしそうな視線が向けられた。

「......いじわる......。いいよ、別に。......他にもまだある。」

 嘯くように口を尖らせてそっぽを向いた、その顔に。
 なぜだろう、彼女はその頬の形に途轍もない憎らしさを感じる。

「ケルッツア・ド・ディス・ファーン? 
 今年は逃げる前に、問答無用で椅子に縛り付けますから。」

 地の底からのような声が後ろで響き、途端知恵者は目を丸くした。

「そ、それはいくらなんでも人道に反して」

 慌てて振り向く彼に、にっこりと微笑むソフィレーナの頭の中では、ついさっき渡した『仮定図書一覧表』の事務整理にまつわる忌々しい思い出が上映されている。
 心は正に、この上司に対する可愛さなどどこ吹く風、あまりにあまりまくった憎さだけが百万倍。

「何を仰るんです? この助手めが付きっきりでお世話させていただきますよ?
 素敵でしょう?
 あなたはただ手を動かしているだけですもの。
 私が付きっきりで書類を運んだり食事を運んだり書類を運んだり書類を運んだり書類を運んだり...書類を運んだり?」

 矢継ぎ早にまくし立てるソフィレーナは、しかし、これで知恵者が潔く折れて謝ってくれたなら、これ以上虐めようとは思っていなかった。
 が。

「...それは、拷問というのではないの...?」

 この言葉に、切れた。

「いやだ、プロフェッサー・ワイズレッテッティス。

 ソフィーレンスは拷問を受けたと?」

 箱の塔から半分覗く助手の顔は、ランプの光を受けて陰影が濃い。
 しまった、と知恵者が取り繕うも時すでに遅く、助手は、世にもおっかない顔で知恵者ににじり寄った。美しいとは言えないものの、無駄に左右対称、整った顔のつくりが恐怖を煽る。

「ええ、そりゃあね? 確っかに拷問でしたよ? 親・愛・なる賢者様は雲隠れなさって?
 後に残った、机がすッッぽり! 隠れる位の書類の山に埋もれてッ!!! 逃げる事も許されずにまだ運ばれてくる各館からの書類と顔を突き合わせて!
 泣きながら!!! パソコン打って!
 判子押して......! 本当、揃いも揃った全館分、よくも溜めましたねあれだけ?
 ...ふふ、う、ふふふふふふふ。しかも提出期限は全て明日。
 拷問でしたよ。
 私何か悪いことしました?
 どうーせ聴こえてらっしゃったんでしょう? 惨めに響き渡る助手の泣き声ッ!! 
 思わず恥も外聞も忘れて夕日と書類にまみれながら今後の人生にまで思考を廻らせちゃったじゃないですかッ!! 
 何でそこまで追い詰められなきゃならないんです!?
 よぉぉおおっッッく聴いてくださいプロフェッサー。あなたの優秀な助手はね? 三度目の轍は踏みませんの。で・す・か・らッ! 薄情な上司へのささやかな復讐として、

 椅子に縛り付けるっくらい、...可愛いものでしょう?」

 昼間、知恵者の目の前にどん、と座ったときの恐ろしさをもう一度。ソフィレーナは箱に遮られた視界の端から、今度はケルッツアに、妙に気迫のこもった涙交じりの微笑みを向けている。
 彼の顔は蒼白である。

「は、半分は......消化する......」

 渋々、といった調子で悲愴的に返った答えに、しかし助手は納得しない。

「......はんぶん、って......。あ、のですねッ? そもそも、あれ、全ッッッ部!!!
 貴方のッ! お・仕・事・ッでしょうッ?!?!?!!!」


 こんな会話をしつつも、二段下がって三段上がり、五段下がって、さらに八段下がり、二段上がって十五段下がり、などとアップダウンを繰り返して、彼らは今一枚のドアの前に立っていた。

『書庫に決まって』

 確認は取った。ここは彼の私室ではない。
 運搬業務を始めてからずっと付きまとう、むずむずした変な予感に、ソフィレーナは一つ小さく息を吐き出した。

だいじょうぶ。大丈夫。書庫。書庫だから。
「......随分と......変わった場所にある、書庫、です、ね?」

 声にはついつい確認の響き。
 先程の一悶着は助手の密かな不安の裏返しだったなど、知恵者は気付くわけもなく。

「どうしたの。書庫だといっているのに.........。ああ、少し待って......確か......」

 返る声ののん気さに、内心ソフィレーナは酷く怯えていた。知恵者は彼女の目の端で、じゃらり、と鍵の束をもてあそび、中から一つ、銅製のそれを選んで彼女に背を向ける。その背が、ふいに記憶の中の幼い姉の背と重なって、ソフィレーナは今度こそ息を殺した。

違う。

 知れず首が振られ、足が竦む。

ちがう。だってここは。

 記憶はあせること無く。

「ああ、これだこれだ......。と、はい、どうぞ?」

 沈みかけた己に掛けられる声。現実では、鍵の開く微かな金属の音と共に、ケルッツアが振り向いて笑っている。

「ッ! ......」

 動揺を押し隠し、無理にでも意識を引きずり上げて、ソフィレーナは深呼吸の代わりに、荷物を持ち直した。視界の半ばに見える、彼によって大きく開けられたドアの先、その暗闇へと。
 足が震える。
 
大丈夫。だってここは。

「......。お邪魔します。って、変な言い方しないでくださいよ......、書庫なんでしょう?
 まるで」

 軽口のつもりで発した言葉は、結局詰まって上手く殺すことはできなかった。

 後ろから、心底楽しそうな声。

「階段には気をつけて。ほら、立ち止まらない」

 いたずらに成功した子供のような調子で、彼は彼女の背を押して、部屋の中へと急かしている。

「......ここ......ッ」

 その背に触れる彼の手に。声に。
 存在自体に。
 ソフィレーナは堪らない苛立ちと困惑を覚え、ぐ、と奥歯を嚙み締めた。

書庫だって言った......ッ!!!

 騙されたという怒りと、意地を張って教えておかなかった己のしくじりとの後悔がないまぜになり、彼女の鼓動を急き立てる。体中の産毛が総毛立つ感覚、拍の嫌な音。早鐘は酷い緊張の現れで、この場合は恐怖の具現でしかなく。
 星屑の下で覚えた甘いものなどではない。そんなものではなかった。

よろこぶと、思ったの、よね?

 確かに、普通ならば喜ばせるイベントになり得るのかもしれない、と、漠然と、彼女は頭のどこかでそう思う。
 いたずらに成功した子供は、心底嬉しそうな気配で後ろに控えている。
 つん、と鼻の奥が痛む。声が掠れる。閉じた視界に一瞬見た残像が、なぜ、消えてくれない。

消えるわけない。一度見た、もの、は。

私は。

このひとは、やっぱり残酷。

 ソフィレーナは俯いて前髪で目元を隠した。自分の足が止まったのは、部屋を入ってすぐ、わずかにある階段のせいではない。

なんて......解るわけがないわよね......

 苦しみなど、他人に解るはずがない。それは当たり前だ。と、心のどこかで冷静な自分がささやく。もともと気付かれぬようふるまっていたのだから、むしろ気付かれていたら困る、と。
 忘れられない苦しさ。忘却のない思考。それに伴う弊害なんて普通は知らない。
 見たものが、あせることもなく、ずっと記憶に残り続ける恐怖。絶対の、記憶媒体のような自分。
 そんな己に迂闊にプライベートスペースを見せる知恵者は正直な所、彼女にとっては複雑な存在だった。
 こんな子供じみた知恵者でも、やはり心の底から尊敬していればこそ。このいたずらを彼の失態としか取れない己に、彼女はやり切れないものを感じる。
 けれど、それも詮ないのだ、とソフィレーナは諦めて息をついた。
 解るわけがない。解っていたら困る。だから、詮ない。

それでも。それでも本当は。

 ケルッツアの声は身勝手に続けられる。

「ね? 書庫だったろう? 
 ......まあ、私物も混在しているから、貸出し無効書籍専門書庫かな。
 箱はそこのテーブルに置いて。中身を棚に並べて貰おうと思ってね。分類順序は第五図書館と同じ。君の判断でどこに入れるか決めてくれて構わない。そこの三脚で届く範囲で......

 って......。ソフィーレンス君? 目を開けたまえ」

 無神経な声は至極無責任なことをのたまって、やがて彼女のすぐ隣で呆れている。
 あるいは、己を普通の人間として扱ってくれる彼に、自分は普通ではないのだ、と切り出すことが哀しいのかもしれない。
 無自覚に心をえぐる、優しいバケモノに向けて、彼女は堪らないものを抑えた息に乗せ、そっと切り出した。

「い、やだ......ケルッツア・ド・ディス・ファーン......? それは、できません......。私が......」

 深呼吸。声の震えが浅ましく愚かしい。
 息を呑み、平静に。

「私が......見たもの全部覚えちゃう事知ってらっしゃるでしょう......? 
 一度見ると......本当に何も......。

 ............忘れることができないんです............。

 ......き、機密事項、とか、個人の秘密とか......全部、......ずっと覚えられていることになるんですよ......?
 しゃ、写真と同じです......。私は......見たら、やり直しが利かないんですってば......。
 ......でも、安心してください? ......。ここはまだ、天井しか見てない、から......」

 嘘だった。
 彼女は彼の私室を、その天窓からの星明かりに照らし出された青い空間を、ほぼ真正面から見ている。けれど、そのことだけはどうしても、ソフィレーナはケルッツアに告げられない。
 写真に撮るということと、己が見るということは、彼女の中ではほぼイコールで結ばれること。
 背に置かれているてのひらは、今もなお仄かに温みを伝えている。その温かみが温かければ温かいほど、心地よいほど、いつ、その手が離れてゆくかと、ソフィレーナの中で恐怖は募っていった。
 知恵者はいまだ横にいる。そのことに救われると同時、自分の顔に注がれている視線の色が、ただ、怖い。

 侮蔑か、同情か。

 ケルッツアからの返答はなく。彼女は、くじけそうになる己を奮い立たせ。

「......机には、置けます。......何か置いてあるなら退けてください。
 ......そこまで、です。
 後は、申し訳ありませんが、私には処理、ッ..................っできま、せん............」

 言葉の最後で息が詰まり、悔しさで、とうとう持つ箱へと額を押し付けて、さらに俯くと、ソフィレーナは顔を隠した。涙だけは、辛うじて耐えたせいだろうか。鼻の奥の痛みと耳鳴りが煩い。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

 そう、心の中で呟きながら。
 だから。

「......何をいっているの。
 君は、僕の助手だろう? これからは、ここの整理もやるんだよ?」

 さも当然と要求を押し付ける言葉にソフィレーナは驚き、反射目を開けた。
 幸いにも視界は箱と足元とで覆われていて、すぐにきつく目を瞑った為彼の個人スペースをもう一度侵すような真似はせずに済んだが、その声の普通さに、想像できる表情に、苛立ちが募る。

人が...ッ......どんな、きもち、で...!

 恐らく事の重大さを分かっていない顔つき、呆れすら混ざったようなケルッツアを叱咤する声は、どうしてだろう、怒りとは反対に、酷く情けなかった。

「そ、そんなの......横暴もいい所じゃないですか......。
 それに、困るのはあなたなんですよ......?」

 泣き付いているような、懇願の響き。発してしまったと同時、彼女は己への憤りに唇を噛む。望むことは、ここからの撤退のはずだ、と。早くこの身勝手で、無神経な要望から解放されたい。のに。
 なのに。本当は。

ほんとうは。


 そんな自分が、惨めで情けなく、消えてしまいたい、と願う彼女の背に、けれどやはり、てのひらの温かさは消えない。
 黙り込むソフィレーナの横で、先程に比べれば随分と真面目な声が、強く。

「......死んだ書物と、僕の私物しかない場所だ。
 機密事項も、君に洩れて困るものもない。......問題なんてないだろう?

 ......大丈夫。目を開けてごらん?」

 背のてのひらが、一度、そっとわずかにさするような動きに変わり、すぐに元の位置へと戻った。響いて聴こえた声は優しく、添えられたてのひら以上の温かみがある。
 知恵者としてみれば、事実を述べただけに過ぎない言葉でも、彼女の耳には優しかった。
 同情、計算という思考が一瞬、ソフィレーナの頭の中に浮かんだが。
 あるいはそれでも構わない。
 計算だろうが、何だろうが。もう。
 錯覚でも、解って貰えたような、包まれるような、そんな心地に押されて。
 恐る恐る、ソフィレーナは瞼を持ち上げる。

 「............」

 視界いっぱいの箱の壁から、徐々に顔を傾けて、叱られて元気のない子供のような調子、そっと窺うように、視界の色を、星明かりに、青く沈ませていった。

「ようこそ、僕の部屋へ」

 言われた途端、抑えきれずに世界が滲み。

「ッ」

 又箱に押し付けて俯いてしまった助手の肩は、小刻みに震えている。
 その、栗色の髪に静かに手を遣って。ぽんぽん、と弾むように撫でてから、ケルッツアは屈み込んでこうささやいた。

「......僕には、君に知られて困ることなんて、本当に一つとない。
 君はここの資金運用にだって目を通しているだろう? 所蔵されている書籍も、未登録分以外は全部知ってる。...とても助かっているんだよ? ......それに、一度見て忘れないなら、下手に散らかる心配がなさそうだ。
 ......結構なことじゃないか」

 いまだ床から先、顔を上げない助手の手から箱を受け取って、階段を上り、その先、大きな木製の机へと荷を降ろしてしばし。
 ケルッツアの後ろ、小さく鼻をすする音がして、くぐもった声がかけられた。

「.....................。並べ......方は、第五図書館の通り、でしたね......」

 いまだ目元を前髪で隠したまま、部屋の階段を上ってくる彼女を。

「そう。お願いね。ソフィーレンス君」

 迎える知恵者は、とかく嬉しそう。
 


***



 部屋の南側、ベッドと思しき本棚の上に作りつけられたスペースの壁、綺麗に切り取られた丸い窓からの星明かりを靴のつま先の辺りに受けながら、ソフィレーナは数冊の本と、背表紙に張るラベルを手に、大きな三脚、上から二段目の位置に腰掛けていた。

 視界の真ん中、差し込む星明かりは月のそれのように判然と明るく床にまどろみ落ちている。
 その形に時折目を移している所為だろうか、彼女がラベルに書き込みをいれて本に貼る作業に要している時間は、通常の何倍も遅かった。

 緩慢とも呼べるその速度に、しかし先程から窓に背を、そして彼女に背を向ける形で、三箱の置かれた大きな机の斜め壁より、小さなパソコンの載った机をランプの灯り頼りに片付けているらしいこの部屋の所有者からは、何の苦情も出ていない。

 どころか、ソフィレーナがちらりと見やれば、自分の作業速度に合わせて動いていることが窺える。

「............」

 己の助手に関しては仕事速度重視、彼がいかに研究に打ち込める環境を作れるのか、を一番に考えている知恵者としてはまずあり得ない待遇に、正直破格だ反則だとどこかで強く感じながらも、その特別を問い質す気力ですら、今の彼女にはなかった。
 自分がラベルをシール台から剥がす音と、己の呼吸の音。本を棚に入れるときの微かなそれに、合わさるように物が静かにぶつかって立てる音、木の引き出しの軋みだけが、青白い空間に時折響いては、すぐに消えてゆく。

 静かだった。
 その静寂に押されて、先程開きかけた記憶の蓋が音もなく、開いてゆく。


 確か五歳の夏。そのときの自分は、ただ知りたかっただけだった。姉が、毎日楽しそうにその部屋へと消えて行く姿を何度も見ていたし、ときに姉の友人が入っては出てくる姿は、子供なりに興味のあることだったように思う。だから、その背に自分は。

『ティーちゃん。ソフィーも入れて?』

 丸い窓を真正面に捉えてぼんやりと窓の外、星明かりで青藍に染まる夜空の瞬きを見つめる、その視界の上掛けのように記憶は鮮烈に頭のどこかで。

『だ、駄目ッッ!! ソフィーったら見たもの全部覚えちゃうでしょ!?!!

 き、気持ち悪いもん!! 』

 振り向いた姉の顔は、普段己に見せている優しいそれではなかった。

『そふぃー......は、きもち......っ......悪、い......?』

 視界が歪む残像が、思い出すたび付きまとう。己はあのときも泣いていたのだ。おうむ返しに問う幼い自分が、そして彼女はいまだに許せない。

 思えば、ダリル家の広い屋敷の中、召し抱えられ働く使用人が己に向ける視線は、いつもどこか冷たく余所余所しかった。

 幼く残酷な自分は、彼らが己から視線を外すたびに何が隠されているのか、と興味をそそられたものだが、その好奇心で得た情報は、己が気持ち悪がられているというものだけ。そのことを知ったときの自分の目は、やはり涙で視界を霞ませていた。

 理不尽だ、酷いなどと、周囲に対して、強い反感の意を持って。

 けれど、何も理不尽ではなかったし、仕方のないことだと、後に彼女は自分を恥じている。姉の一件で泣きつかれた母親は、このときさぞや迷惑で、困惑しただろうと思うと情けなかった。その後謝りに来た姉や、己の気持ち悪さを思わず口に出してしまったときの使用人の、その気まずそうな顔も、彼女は好きではなかった。

 何より、そんな顔をさせてしまう自分が、かもしれない。

 何も理不尽ではない。姉や、使用人達が己を気持ち悪がる理由は納得のいくものだった。実際、気持ち悪がる使用人だって悪気があってやっている者は少なく、確かに優しいときも同時に記憶にある。上辺だけでなく、その優しさが本心に変わるときもまた、確かに。

 仕方のないことと、結局彼女はそう結論付けていた。
 誰だって隠したい秘密はある。誰だってプライベートを写真に撮られたら嫌なものだろう。堂々と幾度も考察した結果は仕方がない、という自分の頭に対する諦めだった。

私は何でも覚えてしまうから。
私は何でも忘れることがないから。
絶対の記憶媒体に写し撮られる恐怖も、解らないではないわ......

 ならば忘れることがあるよう、血が出るまで壁に頭をぶつけてみたが、やはり己の頭は何も忘れてくれなかった。ならば何も見ぬよう目隠しをしたまま生活し始めたら途端、母親や姉、兄に怒られ、しまいには泣かれて困った。
 けれど、己の行為はどんどんと激しくなってゆくばかり。
 とうとう一度きり、己の目を潰そうとしたら、母親に頬を叩かれたことがある。
 常に笑顔を湛えている母にしては珍しく、顔を赤くして眉を吊り上げた泣き顔だった。

『そんなことしなくていい......! そんなことしなくていいのッ!』

 低く怒鳴っているのに、駄々を捏ねるような泣き声で抱き締められた腕の中は、今でも思い出すたび熱く、苦しく、なのに不思議と心地よくて、涙が止まらなかった。それで、今まで己のやってきたことが自虐であると知り、馬鹿なことだとそれきり、ぴたりと止めたけれど。

 けれど内に残った諦めだけは消えなかった。

 もう決して、行動に移しはしないものの、自分は、目や耳を潰してしまわない限り人に無害ではいられないのだと、やはり心のどこかでは思っている。
 特に、私室というものは彼女の中では絶対の禁忌。

なのに。
なのに。

ああもう...なんて反則かしら......

ずるい、ずるい、ずるい......

 私室に入れる、入れてくれるということ。それが彼女にとってどれだけ大きな意味を持つか、知恵者は知らない。知っているわけがない。
 だというのに。

私、今、どんな顔をしてるかしら......?

 泣いた後の浮腫んだ心地で、ソフィレーナは、すん、と一つ鼻をすすった。目元がわずかに痛みを訴え、触ると微妙に指の腹が沁みる。その指先を頬に沿って降ろせば赤々とした熱と、指の冷たさを鮮明に。
 降ろして。乾いた唇には洩れた息に湿った熱さ、涙の気配がいまだ残っている。
 やはり、泣いていたのだ。
 どこか他人事のように認識し、鼻の奥に痛みがないことに意識を向け。痛みはないがわずかに詰まって息がしづらい、ともう一度軽くすすって、それでも治らないことに諦め、代わりとばかり口から一つ、妙に苦しい息を吐き出した。

私室は、私室はだめ......

 指は己の頚動脈に下ろされる。指の腹の下、薄い皮膚の中、脈打つ血管の速さを感じれば、胸の早鐘とこめかみの痛さが蘇って強烈。
 緊張している。
 それはそうだ、と得心はいったが、どくり、どくり、と心臓が血液と酸素を送り出すたび、彼女の内では緩く甘い衝撃が襲い来ていた。
 そのどこか甘い疼きを認知するたびに、今度は、膝を抱え込んで丸まってしまいたい衝動を感じ、どうしていいか判らずに、逃げるため思考を巡らす。

信頼されている、ということ。このひとにとってはそれだけ。

 そう、思うのに。
 それでも心の内から甘く痺れて、胸が詰まって、仕方がなかった。

 やや乱暴に腰掛けた足をぶらぶらとさせる。目の前の光に照らされて、薄い己の影が乱暴に動いた。足先はわずかに痺れて感覚が遠い。少し冷えた、とまだ脚を揺すりながら彼女はそんなことを思う。

この知恵者の信頼を勝ち得た、と。つまりはそういうこと!

 そう無理にでも納得して、勢い良く、本を棚へと押し込んだついでに。

「...終わりましたよ? ケルッツア・ド・ディス・ファーン」

 優しい静寂に、終止符を打つ。


「ところで...。ここって歴代の知恵者の私室でもあるんですか?」
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星屑オペラッタ~忘れな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~作者:境美和
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