第一話
「あ」
ぽつ、ぽつと地面を鳴らしたその音は、次第にザアアァという音に変わった。先程まで空はきれいなオレンジ色だったというのに、いつからこんなに曇り空になったのだろうか。男は少し顔を顰めて持っていたカバンを頭の上に持ち上げ走り出す。視界が悪くなるほどの豪雨に、男は走りながら目を細めて屋根のある場所を探すがどこにも見当たらない。
「おにいさん、おにいさん」
ふと、誰かの声が聞こえた。声が聞こえたほうに振り返ると、小さな年老いた女性がこちらに向かって手招きをしているのが見える。よくよく見れば、そこは小さな店のようだった。
慌ててその店へ走り、男は店内へと入る。ようやく激しい雨の猛攻から逃れた男は、ふう、と深く息を吐きだした。スーツはびしょぬれで、カバンという名の傘は意味をなしていなかったらしい。それが余計にむなしく、男はもう一度ため息を吐いた。
「すごい雨だねぇ、大丈夫かい?」
「......あ、はい。すみません。ありがとうございます」
困ったように笑って差し出されたタオルをありがたく受け取り、男は女性と同じように苦笑いをした。
タオルで顔や服の水気を拭き取り、少しだけましになった不快感に満足したところで、男は改めて店内を見回す。店内には所せましと菓子類の商品が置かれていた。昔食べたようなガムや飴、ゼリーやグミ、スナックなどが多く置かれていて、それを見るだけでなんだかワクワクするような、不思議なものを男は感じた。
「ここは駄菓子屋さん......ですか。おひとりでやっておられるんですか?」
「そうなのよ。もうあんまり人は来ないんだけれど、たまに子供が買いに来てくれるの」
「それは嬉しいですね」
その様子を想像して少し笑った男に、店主はめいっぱい笑う。とても幸せそうな温かな笑顔で、男もなんだか嬉しくなった。
「少し見て回っても良いですか?」
「ええもちろん。好きなだけ見ていってね」
にこにこと笑いながら頷いた店主を見て、男はじっくりと商品を見ようと棚に近づこうとした。
その時、激しい雨音がする外からバシャバシャとこちらへ向かってくる音がした。振り返ると、こちらに向かってくる一人の男性が見える。それは先ほどの自分のようで、なんだかおかしかった。
「あらあら、今日はお客さんがたくさんねぇ」
店主も同じことを思ったのか、口に手を当てながらふふっと笑い、店の奥へと入っていく。男性が店内へと入ってきてぜいぜいと膝に手をつけながら荒い呼吸を繰り返し始めたころに、店主はタオルを持って奥から出てきた。
「っはあ、っはあ......す、すみません。ちょっと......雨宿りを......」
「大丈夫かしら?よかったらこれを使って」
「あ、ありがとうございます......」
足をがくがくと震わせながらタオルを受け取る男性を見て、男は流石に心配になって恐る恐る声をかける。
「あの......大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫です。ちょっと運動不足なだけなので......」
まったく大丈夫そうではない声だったが、少しは落ち着いてきたのか男性はタオルで顔や服を拭きつつ顔を上げる。
「えぇっと、助かりました。おばあさん」
「いいのよ。今日はお客さんがたくさん来て嬉しいわ」
嫌な顔一つせずにこにこと笑う店主に緊張がほぐれたのか、男性はぐるりと店内を見回す。そして先ほどの自分と同じ質問をした。
「ここは駄菓子屋さんなんですか?懐かしいですね」
「そうでしょうそうでしょう。よかったらゆっくり見ていってね」
くすくすと笑って男性と男を見回した店主は、仕事があるから、と店の奥へと入っていく。それを見送って、男性と男は顔を見合わせた。それから、ふっと笑いあう。
「あなたも雨に?」
「ええ、そうなんです。お互い災難でしたね」
そんなことを言いながら、男はふと目に入った商品を手に取った。それは板状のガムで、噛んで膨らませて遊ぶ駄菓子である。友人とどっちが早く膨らませるかを競っていたことを思い出し、懐かしいなと男は目を細めた。
「あ、それ昔やったことありますよ」
「あなたも?楽しいですよね。私は友人とどちらが早く膨らませられるか競っていました」
「えぇっ、そうなんですね!僕はどっちが大きく膨らませるかを競っていたなぁ」
「あ、たしかに。そういう競い方もできますね。あのときは思いつかなかったな......」
男性の思い出に、男は感心したように呟く。意外といろんな遊び方ができるものですね、と男性は笑った。
「あ、これ僕たくさん買ってましたよ」
「ああ、せんべいですか。ソースが美味しいんですよね」
「そうそう!僕は食べたことないんですけど、ジャムとかもあるらしいですよ」
「聞いたことありますね。私も食べたことはないですが」
棒状のスナック菓子を砕いて食べたこと。
真ん中で割れるアイスを友人と分け合ったこと、ひとりで食べてみたこと。
ソース味のカツが学校で人気だったこと。
普段生活していて思い出すことない古い記憶。それでも確かに残っている記憶。そういうものが男の中から、おそらく男性の中からも溢れ出て、共有する。名前すら知らない他人のはずなのに、共有できることがあって、共感できることがある。それがなんとも不思議な感覚だと男は思った。
会話は弾み、二人の思い出話は駄菓子だけにはとどまらなくなる。
あのゲームが流行っていたとか。
こういう友人がいたとか。
近所の森での冒険話まで。
気付けばすっかり時間が経っていて、いつの間にか、雨は上がっていた。空はオレンジ色から紫や赤に変わっていて、少しだけ薄暗くなった空に、男はなんだか夢が覚めてしまったような心地がした。
「雨、止みましたね」
「......そうですね」
「あらあら、もうすっかりこんな時間になっちゃって」
店の奥から顔を出した店主は、のほほんと笑いながら店へと出てくる。
「すみません。長居をしてしまって」
ずいぶん話し込んでいたことを思い出し、恥ずかしさから男は店主に謝る。店主はくすくすと笑って首を振った。
「いいのよ。楽しそうな声が聞こえていて私も楽しかったわ」
その言葉に男と男性は顔を見合わせ、少し恥ずかしそうに笑いあい、店主はまたふふっと笑う。つられて、二人は笑みを深めた。
「そうだわ。これ、貰っていって」
「え?」
店主は棚からいくつか駄菓子を取りビニール袋に入れて、男と男性の手にそれぞれ握らせる。見ると、ガムやグミ、せんべいなどの駄菓子が入っていた。
「えっと、お代は......」
「いらないわ。二人へのプレゼントよ」
店主の言葉に再び顔を見合わせた二人は、ありがとうございます、と礼を言う。男はなんだか祖父母に会ったときのような、気恥ずかしい、くすぐったい気持ちになった。
「さあさあ、雨がまた降り出さないとも限らないし、急いで帰りなさいな」
「あ、はい。そうですね。ありがとうございました」
「ありがとうございました~」
店主に見送られ、店を出て帰路につく。ふと振り返ると、反対方向に歩いていった男性も振り返ってこちらを見ていた。
遠くからにこりと笑って手を振った男性に、ぎこちなく手を振り返して男はまた帰路につく。
バッグを持った手とは反対の手に握られているビニール袋は、先ほどまでいた駄菓子屋の温かみがまだ残っている気がした。