プロローグ 白鳥の死
——ああ、今、白鳥が息絶えたのだ。
――ああ、今、白鳥が息絶えたのだ。
手からすべり落ちた赤い花が、雪の上で散った。
それは城の温室のなかでしか、咲くことのできぬ薔薇だった。
老婆の手のごとき節くれ立った枝に雪化粧を施された木々を見上げて、少女がひとり、花を落としたことさえ気づかない様子で立ちつくしていた。異教の神々が鍛えたる美しい刃が静寂を切り裂いたような、心の臓を震わせる音にとらわれて。
それは彼岸へと旅立とうとする悲哀にみちた歌声だった。
少女のまろやかな頬に涙がつたいおちていく。
あの日。
腐った水溜まりに孵化した蚊がむれる半年前のあの夏の日。
詠唱と鐘の音が陰鬱に響く修道院の、冷たい石棺のなかで、経帷子に包まれて母は横たわっていた。目を覚まして優しく微笑みかけてくれることはもうないのだ。
なきがらにすがろうとした手を乱暴に引っ張られて、振り向けば険しい父の顔があった。怒っているようにも悲しんでいるようにもみえる。
天国に旅立ったのだから悲しむことはないと父は言った。彼にしては珍しい慰めの言葉だった。それがいつもの厳しい口調であったとしても。
だが、母を失った痛みは癒えない。
寂しさが募ると彼女は城を飛び出して、修道院へ向かうのをやめられない。
「お母さまの好きな花を摘んできたのに」
花びらの散った薔薇を拾いあげて、少女は唇を噛んだ。雪に足をとられながらも、懸命に早足で歩きだす。白樺の木立をぬけると、空を映したような湖がきらめき、俗世から隔てられた修道院の高い壁がみえ、そして、少年が立っていた。
それは母が死んでからしばらくして彼女の前にあらわれた、アルベルトという名しか持たなかった少年だった。
娘には無関心なくせに、城にやってきた時は物乞いにしかみえなかった孤児の少年を小姓にとりたてて何かと目を掛けている父が許せなかった。それを当然のように受けている少年が憎らしかった。まるで本当の親子のようによりそう二人を見る度に思った。どうして男の子に生まれなかったんだろう。お父様が欲しかったのは跡取りになる息子だったのに。
鋭い棘が心臓を刺したような痛みを堪えるために唇をきつく噛みしめ、アルベルトの背中を睨みつけた――その目がいっぱいに開かれる。
少年への敵意に気を取られ、気づくのが遅れた。足下の雪が深紅に染まっていたのだ。
「大丈夫?」
怪我しているのかと思ったから。思わず声をかけてしまった。
声に打たれたように彼は振り返る。
初めて真っ直ぐにお互いの目が合った。
少年の瞳は澄んでいてまるで翡翠にきらめく湖みたいだった。瞳から溢れでた涙が頬を伝い落ちていく。言葉もなく立ちつくす少年の腕のなかで、白鳥の優美な首が力なくうなだれていた。汚れなき純白の胸に矢が突き刺さり、血が雪を紅く塗りかえていく。
さきほどの悲鳴は、この白鳥だったのだ。
「お墓をつくりましょう!」
衝動的に彼女は叫んでいた。
少年への敵意は不思議となくなっていた。
白鳥の死に打ちのめされている姿に母の死を受け容れられない自分の姿が重なったのかもしれない。
返事を待たずに、穴を掘りはじめる。凍りついた地面を引っ掻いたせいで、爪がはがれそうなほど痛い。そのかじかんだ手が掴まれた。
「爪がはがれます」
そう言うと、腰に差していた短剣で地面を何度も突き、固い土を崩していく。彼女も崩れた土を掻きだした。黒々とあいた穴に白鳥を埋め、持ってきていた薔薇を供えた。その間中、二人とも口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、胸を締めつける鳴き声。かぎりない哀調がこめられた喇叭の音色に似ている。
白鳥だった。
二人が作った墓標の側を離れようとしないで空を舞っている。死んだ白鳥のつがいなのだろう。
「――僕が殺したんです」
白鳥の命を奪った矢が胸を刺し貫いたように彼女は目を見開いた。
罪を告白しながら、その瞳は怖ろしいほどに澄んでいた。また一粒、水晶がきらめくように涙がこぼれ落ちていく。
美しい瞳で命を奪える少年は残酷だ。そう思うのに。蝶を捕まえた手をそっと開いたときに宝石みたいにきらめいていた羽根が粉々に壊れているのを呆然と見ている幼子が重なって。どんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、ただ彼の背中に触れた。
ひどく冷たかった。こんなに冷たくなるほど、凍てつく風が吹きつける中、立ちつくしていたのだ。
彼女は少年の悲しみがわかった。自分と同じだ。息をひきとった時の母の手を思い出す。母の膝の上に頭を乗せ、うとうととしていると、柔らかな声で歌いながら優しく頭を撫でてくれた。毛布にくるまれたみたいに暖かくて心地よくて大好きな手から――温もりが消えた。寝台に横たわった母は眠っているようだったのに、手の届かないところにいってしまった気がした。動かなくなった手を必死で握りしめたが、それは冷たくて硬直していて、死んだ肉塊を掴んでいると思った途端、弾かれたように手を離していた。
母はいなくなってしまった。決してたどりつけない遠いところにいってしまった。どんなに会いたくても、残されたものがどんなに恋しがって泣いても――帰ってこないのだ。
なくした片割れを恋うて、鳴き続ける白鳥が哀れで、殺したことを責めて涙を流しつづける少年の姿が辛かった。
「カーライン様!」
アルベルトの驚いた声。
背中から腕をまわして、彼女は抱きしめていた。
「おまえが死体みたいに冷たいせいよ」
怒った声をだす。とまらなくなった涙が彼の背中を濡らしていく。
「申し訳ございません」
彼は、律儀に謝った。
「わたしは、おまえが嫌いなんだから!」
「......」
「お父さまはわたしのことは全然、構ってくれないのに。おまえのことは側において、剣の稽古をつけたり、一緒に狩りにでかけたりして。わたしが男じゃないから。わたしなんかいらないって思ってるのよ!」
「そんなことはありません!」
彼女の手を壊れ物を扱うように優しく離し、振りむく。嘘のない綺麗な瞳でみつめられ、頬が熱くなるのを感じた。なにも知らないくせに!
「どうしてそんなことわかるのよ?」
少年は複雑な表情をうかべた。その時の彼女は知らなかった。彼が複雑な表情をみせたのはなぜだったのか。そしてどんなに苦い気持ちで次のことを言ったのか......
「僕が領主さまの側近くに仕えさせていただいているのは、従者だからです。カーライン様は一粒種の娘なのですよ。僕などよりも大切に決まっています」
少女の涙が、少年の手の甲におちた。人に慣れない猫が警戒して毛を逆立てるようだった彼女が今は、心細く震えている幼子でしかなかった。
「――大切ならどうして抱きしめてくれないの?」
殴られたように言葉を失ったアルベルトをみて、泣きながら笑ってみせた。
「やっぱり、愛されていないのよ。わたしは誰からもね」
「違う! たとえあなたのお父上がいらないといっても、いてもいなくてもいい存在なんかじゃない! ......僕はあなたのことを大切に思っています」
真摯な目だった。本当にそう思ってくれているのだと信じられた。
「......ずっと側にいてくれるの?」
少年は跪いた。
「片割れを亡くした白鳥にかけて、誓います。あなたを独りにはさせません。ずっとお側に仕えます」
それは、誠実の誓い。騎士が貴婦人に忠誠を誓う儀式。
いてもいなくてもいい存在じゃないと、大切に思っていると、彼は言う。
ずっと側にいると、言う。
涙がまたあふれた。悲しいからではなく、凍えていた心がじわりと暖かくなったから。寂しいという気持ちが溶けてしまったから。
白鳥が失われた片割れの死を悼んで哭いている。彼女の目は白鳥が流した血に吸い寄せられていった。
雪を染めた深紅が烙印のようだった。