幕間(1) 黄昏に目覚める
太陽は燃え尽きようとしていた。
闇に呑みこまれまいとおのれの返り血で砂漠を紅く染めるかのごとく。
神の名の下にあまたの命が散った。
砂と岩ばかりの枯れた大地にぎらつく錆色の海がひたひたと波打っていた。だが今はもう苛烈な陽射しのもとで飲み干され飢えている。
砂塵が舞いあがり、持ち手をうしない倒れている旗をはためかせた。
白地に赤く印された十字の旗があり、黒地に金にかがやく三日月の旗がある。
割れた盾が、乾いた血染めの剣が、ああ、数え切れぬ。名は違えど唯一の神の栄光のために勇猛に戦ったキリストの騎士もムスリムの兵士も骸となり果てて等しく砂に埋もれていく。
この地で命を宿すものは、黄昏の空を黒い翼でおおいつくし死骸をあさる鴉のみ。
悲鳴もうめき声もすでに絶えて、嗄れた嘆きの不協和音だけがあった。
鳴きかわす耳障りな音が一際おおきくなる。
鴉たちの饗宴に割り込むものがいたのだ。戦場跡に出没するのは屍肉あさりの鴉やハイエナだけではない。剣や鎖帷子の鉄器、衣服、十字架、金歯など金目になるものなら容赦なく屍から剥ぎ取る人間がいる。
戦場漁りは鴉と同じ色の衣をはためかせ、死体を物色していた。その男の目が見開かれ、かすれた声が神の名を唱えた。
眼球をつつかれ虚ろになった眼窩が空をにらんでいる骸のなかで、それはただひとり、瞼をとざして夢をみているかのように横たわっていた。甘ったるい腐敗臭を漂わせ腐乱していく死体のそばで、その肌は艶やかに白く、月の光に照らされたかのように仄かに輝いている。胸を刺し貫いた槍がなければ、眠っているとしかみえなかった。
畏怖が男の怖れを知らぬ心を襲ったが、それよりも金への欲望が勝った。この騎士の命を奪った槍や身につけている軍衣や鎖帷子、それだけでなく見事な白銀の髪も貴族どもの鬘として高く売れるに違いない。
軍衣を血に染めている槍に手をかけた。途端、鴉たちは激しく鳴き喚き、男を覆いつくさんばかりに群がる。ぞっとする悪意のにじんだ無数の視線に晒されて、冷や汗が男の額を流れおちた。騎士の死の眠りを妨げようとすれば、一斉に襲いかかってくるだろうと本能が告げている。
つかんでいた槍を慌てて手放し、逃げようとした。だが、叶わなかった。
手がつかまれていた。
男を捕らえたその手は大理石で造られたように優美で、そして体温がなかった。
おのれの目が見ているものを、おのれの手が感じている感覚を信じられずに呆然と口をあけて突っ立っていた。幻覚ではないその証拠に骨が砕ける音がして、男の手首が折れた。
絶叫がほとばしった。
彼は闇に堕ちていこうとする黄昏に目覚めた。
死の宿命を歌う鴉の鳴き声とともに。
太陽は最後の一閃を地上に投げかけて没した。まもなく残り火の明るさも絶えるだろう。
彼はゆっくりと瞬きをした。なぜこの手がべっとりと濡れて朱いのか不思議でならないというように。開いたままの唇から滴がぽたり、ぽたり、と落ちる。
羊水を破って産まれ落ちた赤子のように湯気をたてている血を浴びて、彼は薄明が残る空を見上げていた。嵐にうねる海とおなじ暗緑色の瞳はここではない遠くへ彷徨っていた。
鴉の群れはねぐらへと鳴きながら帰って行く。
帰る場所。
その言葉が浮かんだとき、空っぽの胸に痛みがよぎった。だが何も思い出せなかった。
ただあの深淵の深みより見上げた光だけを渇望して――
血に塗れた口からほとばしった叫びは、狼の遠吠えのように長く尾をひいて夜の静寂を震わせた。