病める薔薇03 幸せの欠片
鎧戸は冬の弱々しい陽射しさえも遮り、部屋は昼間だというのに夜のように暗かった。
鎧戸は冬の弱々しい陽射しさえも遮り、部屋は昼間だというのに夜のように暗かった。
子供用の寝台が置かれた部屋には明かりは灯されていなかった。それだけでなく、暖炉にくべる薪も。部屋の中は雪が降る外と同じだった。
父は今日も城内にいない。春間近といえ、まだまだ寒さは厳しいというのに、じっとしていることができないのだ。角笛の音とともに、吠える猟犬を先頭に騎士をひきつれ森へと消えていった。慌ただしい領主の出発のあと、城は静まり返った。
彼女は、独りだった。
動くことすらできなかった。体は縄でくくられていた。乳母の目を盗んで外に出た罰だった。手首に縄が食いこむ。痛くても我慢するしかない。昨晩、父に殴られた頬もまだ熱をもっていた。
所有物でしかないのだと思い知らされる目で見下ろす父が恐ろしかった。逆らえばさらに打たれるとわかっていた。自分は父にとって家畜と一緒なのだ。そう思っても、涙はでてこなかった。ただ乾いた目で、闇を凝視していた。
ひかえめに扉を叩く音がした。
きっと乳母だろう。父親の許しがでたのだろうか。だが、扉をあけて入ってきたのは乳母ではなく、あの少年だった。
「アルベルト」
白鳥をいっしょに葬った少年の名前を唇が紡ぐと、冷え切った胸がじわりと温かくなった。
『あなたを独りにはさせません』
あのときの誓句を守ってくれたのだ。彼もまた流行病で母を亡くしていたと後で知った。同じ悲しみを共有していたから、誰よりも近くに感じるのだろうか?
縄をほどこうとする少年に首を振ってみせる。
「だめよ。あなたまでお父さまに怒られるわ」
アルベルトは、安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。領主さまは短気ですが忘れるのも早いお方ですから」
彼女は口をつぐんだ。事実だからだ。とっくの昔に子供を縄でくくれと命じたことなど忘れているだろう。獲物を追うことに夢中で。
縄がほどかれ自由になった手首は、すっかり紫色に変じていた。滞った血が巡るよう優しくもみほぐしてくれる指の感触が心地よくて、目を細める。
それを見た彼は嬉しそうに言った。
「猫みたいだね」
彼女は眉をしかめてみせた。父親の真似をしたつもりだったのに、恐ろしげにはみえなかったようだ。彼はあいかわらず何が嬉しいのか頬を緩めている。
「......あなたって失礼だわ。わたしは猫なんかじゃないんだから!」
唇を尖らせて、睨みつけた。
彼はどうして怒っているのかわからないと言いたげに首を傾げている。
「猫はお嫌いですか? かわいいのになぁ」
思わず自分も頬が緩みそうになり、慌てて唇を引き結んだ。可愛いと遠回しに言われたぐらいで、簡単に態度を変えるのはなんだか腹立たしかったのだ。
そんな複雑な女心には気づいてない彼は、持ってきていた篭を開けた。
何を取り出すつもりかと興味津々で覗きこむ。怒っている態度をとることも忘れて。
出てきたのは子猫だった。
彼は怖々とした手つきで猫を掴みあげた。体をねじるようにして逃れようとしている。二人は同時に声をあげた。するりと猫は手から抜け出してしまった。
それから追いかけっこが始まった。締め切った部屋だから外には出られないとはいえ、子猫は迫る手を素早くかいくぐっていく。 やっと捕まえた時は、二人とも息を弾ませていた。
腕の中でしっかりと子猫を抱きしめる。
温かくて、柔らかな感触。見上げてくる瞳の愛らしさに目を細めてしまう。
「やっぱり似てます。目を細めて笑うと特に」
誉めているつもりなんだろうと思って怒るのはやめておく。かわりに彼の顔をじっとみつめた。
頬に引っ掻き傷がある。
猫を掴まえる時についたんだわ。と思ったら、その傷跡に優しく唇で触れていた。
アルベルトは耳まで真っ赤になった。
それがまたなんだかおかしくて、彼女は声をあげて笑った。
心を覆っていた氷が溶けていく。そして、気づくのだ。体だけでなく心も凍えていたことに。自分以外の体温が心を暖めてくれる。子猫をもってきてくれたのは、きっとそのため。
からかわれたと思って、いくぶん憮然とした面持ちのアルベルトを見上げる。母が亡くなってから滅多にみせることがなくなっていた笑顔で。
「わたし、あなたのこと好きだわ」
少年はまた顔を赤くした。
「カーライン様!」
大きな声が回想から引き離した。
幸せな記憶に永遠に漂っていたかった。現実から目を背けて。
しかし、それは許されることではなかった。彼女は死んだ父の代わりに領主としての仕事を果たさねばならない。
執事が心配そうに見ているのに気づいて、彼女は微笑んでみせた。荘園の経営について話していたのを思い出した。かつては父の代わりを務めるのだと意気込んでいた。戻ってきた父によくやってくれたと誉めてもらえることを期待して。だが、今ではどうでもよかった。何もかもどうでもよかった。
葬儀が終わってからも、アルベルトの死を受け入れることだけはできなかった。
周りの声が音が、遠い。膜が張られているように、ぼやけていて実感がない。
アルベルトは遠くに行ってしまった。わたしを置いて。約束をあなたは破ったのだから、わたしが追いかけていっても文句は言わせないわ。
落日に赤く染まった壁龕の石造りの椅子に腰掛けて、黄昏に霞んでいく庭園の薔薇をぼんやりと眺めながら、彼女はつぶやいた。
――でも、いったいどこへ?