もんもんぐんぐん
その夜も、燭台の火が揺れる客間で、朗読の集いが開かれていた。
絹張りの長椅子に身を沈めた常連たちは、もう幾度となくこの遊戯を重ねてきたためか、私という朗読者の癖も、その声の抑揚も、すっかり心得ているようだった。
今宵携えた原稿は、まるで幼子に読み聞かせるかのように、あらゆる漢字にまで丹念にルビが振られていた。これしきのもの、読み違えようもあるまい。そう思う端から、胸の底にほんの微かな、もんもんとした翳りが差した。
だが、その予感とは裏腹に、朗読は絹糸のように滑らかに流れ出した。声は蝋燭の炎さながらに、ぐんぐんと勢いを増して客間の空気を染めていく。ルビとは、かくも慈悲深いものであったか。
――と、そこで指先が凍りついた。
見慣れぬ、画数の多い一字。先ほどまでの平易な文字とは明らかに毛色を異にする、意味深長な漢字が、ルビを伴わずに紙面にぽつりと佇んでいる。まるで、忘れられた墓標のように。
客間の空気が、ふっと張り詰めるのを肌で感じた。誰も声を発さぬが、全員の視線が、固唾を呑んで私の唇に注がれている。
(――嘘でございましょう)
もんもんとした戸惑いが、先刻よりも深く胸を疼かせる。けれど、ここで言の葉の紡ぎを止めるわけにはいかない。朗読はすでに、満帆に風を孕んだ帆船の如く、ぐんぐんと勢いに乗っており、この流れを断ち切れば、集いそのものの興を削いでしまう。
私は文脈という名の羅針盤を頼りに、前後の言葉、物語の呼吸、その字の成り立ちを総動員し、脳裡でもんもんと思案を煮詰め、そして、一世一代の賭けに出た。
「――”覚悟”を、決めた」
声を発した刹那、客間の緊張がふわりと解けた。正解であったらしい。安堵に肩の力が抜ける。
だが、著者の悪戯心、或いは悪意は、それで幕引きとはいかなかった。
頁をめくれば、再び同じ文字が現れる。今度は律儀にルビが添えられていた。「覚悟」――私の読みと寸分違わぬ。
ところが次の頁。また別の難解な文字に、ルビの影が見当たらない。さらに次も。またその次も続いた。
最初は書き手の不手際かと思うた。だが、これは――紛れもなく、意図的なものだ。
ふと署名欄に目をやれば、案の定、そこには「曲」という筆名が記されていた。
備考には、たった一行、こう書き添えられていた。
「いつも朗読をありがとう存じます。あなたならば読み解けると信じ、あえてルビを外させていただきました」
なるほど。これは著者である曲らしい戯れだ。
もんもんとした戸惑いが、すとんと腑に落ちるや否や、代わりに笑いが喉元までこみ上げてきた。何と挑戦的な投稿者であろうか。しかし、悪い心地はしない。むしろ――胸の奥に、仄かな炎が灯った心地がした。
私は居住まいを正し、残された頁と向き合う。ルビなき文字が現れるたび、文脈を読み、登場人物の心の綾を汲み取り、声にする。正解すれば客間からささやかな拍手が起こり、迷う箇所では、皆が固唾を呑んで見守った。
いつしかそれは、単なる朗読の集いではなく、謎解きの夜へと姿を変えていた。
もんもんと悩みながらも、ぐんぐんと頁をめくる手は止まることはない。そこには、不思議な高揚があった。ルビという杖に頼らず、己が力のみで物語という山脈を登り詰めていく感覚。これまで幾百の宵にも、覚えのなかった手応えであった。
最後の頁。物語を締めくくる一節に、また難解な文字が待ち構えていた。しかし、もはや迷いはなかった。ここまでの積み重ねが、確信という名の灯りを私に授けてくれていたから。
「――二人は、”永遠”に、この街で生きていく」
読み終えたその瞬間、客間は拍手に包まれた。曲は「ルビなしの遊戯、実に見事でございました」と声を上げる。私は苦笑を浮かべながら、小さく頭を垂れた。次はいかなる投稿者が、いかなる悪戯を仕込んでくるのであろうか。
朗読とは、げに麗しきものである。もんもんとした憂いは、いつの間にか、ぐんぐんと進む冒険の詩へと姿を変え、永遠に響き続ける。
それを思うと、ほんの少しだけ、心が浮き立っている己を見出していた。