滅びの星のエコー
01_色のない世界で
『こら! 待ちなさい、エコー!』
私は森の中で茂みをかき分けながら、小さな背中を追いかけた。ガコン、ガコンとヘルメットが揺れ、青い酸素チューブが金具に引っかかる。背中の酸素ボンベが重くて投げ出してしまいたい。心拍の乱れを知らせるように、頭部のランプが黄色くチカチカと光った。
「ぴゃああっ!」
『エコー! エコー!』
私は月面から派遣された地上調査隊員クルー、チャーリー。新人類を代表して、環境調査のために地球に降り立った者である。
そんな私は、今、エコーという名の幼児と追いかけっこの真っ最中だ。
『いい子だから! 戻ってきなさい!』
「んやぁ!」
エコーと呼ばれた小さな生命体は、真っ裸のまま小枝を振り回し、茂みの中を駆け抜けていく。どこまでものびのびとしている彼女の姿は、まるで羽でも生えているかのように軽やかだ。
『そっちは危ない!』
私の叫び声も虚しく、エコーはまっすぐ走っていく。この惑星の自然は、幼い子供にとって危険すぎるというのに、彼女は恐れも知らず、ただ己の興味関心のまま忠実に行動する。
『エコー、ねぇ、待って!』
エコーが向かうのは茂みの先に見える、地球が人類に放棄される前に建築された高層ビル群だ。巨大なコンクリート建築は中央から無残にへし折れ、その傷口を隠すように、うっそうとした巨木やツタが群生している。道路だったであろう場所は崩落し、うねるようなシダ植物の絨毯へと姿を変えていた。そんな場所にいけば、幼い子供はひとたまりもない。
エコーが道路に出る直前。横からぬっと現れた大きな影が、エコーを抱き上げた。
『おっと! 捕まえた!』
赤いヘルメットとボンベを装着し、私よりも大きな宇宙服を身につけた男。彼はヘルメット越しでも聞こえる豪快な笑い声をあげた。
『はっはっは! エコー、ママを困らせちゃだめだろ。すっぽんぽんじゃないか。レディが台無しだ』
「きゃあっ! あぅ!」
エコーは嬉しそうにペタペタと赤いヘルメットに触り、木の棒を振り回す。カン、コンと棒がヘルメットの硬い素材を叩いて音楽を奏でた。ご機嫌な声に気が抜けて、その場に座り込む。水溜まりの水面に、自分の青いヘルメットの影が映った。
『アルファ......助かった、感謝する』
『なに、お安い御用さ』
視線をあげると赤いヘルメット姿の男、アルファはエコーを抱えながらこちらに手を差し伸べてくる。その手を取り、草と土を乱暴に払いながら立ち上がった。
『そうカッカするな。エコーはママに構って貰えて嬉しいんだろうよ』
口からヨダレを垂らして、あうあうと何かを言いたげなエコーと、ウンウンとうなずいているアルファ。どうせ何を話しているかなんて、わからないくせに。
『私は彼女の母親ではない』
私が不満を隠さずに言うと、彼はやれやれと困ったように首を傾げて私の名を呼ぶ。
『チャーリー』
幼い子供に言い聞かせるような優しい声。その声を聞きたくなくて、よそを向いた。そんな私を見て、彼はガハハと肩を揺らして笑う。きっととんでもなく間抜けな表情をしているのだろう。もちろん、赤いヘルメットで見えてはいないが。
『前も言ったろ、今は我々がエコーのパパとママだ。そういう任務だろ』
我々は旧人類の唯一の生き残りであるエコーを保護、及び観察する任務を与えられた。その任務を、アルファは我が子を育てる両親というロールモデルに当てはめているのだ。
『ほぅら、エコー、いないない......』
そう言って、アルファは右手でヘルメットの頭部を隠す。そして数秒動きを止めると、大きな声とともに隠していた頭部をエコーの前に突き出した。
『ばあ!』
「きゃあーッ!」
飛び出したヘルメットをぺちんぺちんと叩きながら、エコーは機嫌よく笑い声をあげた。大きく口を開けて歯をみせ、手足をばたつかせるエコーはそれはもうご機嫌だ。
『前から思っていたが、なんなんだそれは』
『いないないばぁって言ってな。こうすると旧人類の子供は喜んだそうだ』
私の問いかけに、アルファは肩を竦めてみせる。知識を披露出来て嬉しいようだ。そうしてアルファは機嫌良さげに腕を大きく揺らし、エコーの水を払う。
『よぅし。ぽんぽんが冷えちまうからな、いい子にするんだ』
『腹部と言え。喃語は不要』
『まだこの子には、難しい言葉なんて分からんよ』
エコーを清潔な布で包みながら、アルファは静かに言葉を続ける。彼がエコーを慈しんでいることなど、その声と仕草に滲んでいた。
『エコーは地球上で滅んだはずの旧人類。この子の保護観察が我々の任務だ』
『理解している』
ぽたぽたと水滴を滴らせるエコーを受け取り、その柔らかな頬に触れる。硬いグローブが頬の肉に触れて、むにりと形を変えた。エコーはその動きを戯れと捉えたのか、にかっと大きく笑みを作った。キラキラと青い瞳の中で星が瞬き、生えはじめたばかりの、小さくて白い歯がのぞく。エコーは私の酸素チューブを握り、嬉しそうに笑った。
「ぅーう!」
この子はこのチューブがお気に入りらしい。チューブを引き抜かるのは死活問題なので、この癖はやめさせなければならない。そっと小さな手のひらをつつみ、チューブから離す。お気に入りを取り上げられたエコーは、ぶぅと唇を尖らせた。
『この子の親は、冷凍ポッドの中で死んだ。私が代わることはできない』
私はエコーの頭を撫でて、事実を告げる。
彼女を発見した研究施設では、人間が冷凍保存されていた。いつか環境悪化が改善した時に解凍するつもりだったのだろうが、電力サーバーの不良により全滅していたのだ。唯一小さなポッドの中で産声をあげたエコーを、アルファが抱えあげたのが我々の出会いだった。
『なにも本当の親になれっていうんじゃない。旧人類の中でも家族というコミュニティは、血縁関係がなくても成立したという記録が残っているんだ。さらに興味深いことに......』
『もう結構』
『なんだ、いいところなのに』
こういう時のアルファの話は冗長だ。まともに取り合うと日が暮れる。環境汚染が進んだこの惑星の夜は氷点下となり、生命活動に支障をきたすため、彼に構っている余裕などないのだ。
『とんだ教育ママだな。なぁ、エコー』
「あーぶ」
アルファは、私の腕の中にいるエコーの頬をつついた。まるでエコーは彼の言葉に賛同するように、うんうんとうなずく。
『私が教育ママなら、あなたは甘やかしすぎの父親だ』
嫌味ったらしく言ってやる。本来、こんなにも砕けた口調は許されない。しかしどうにも、この男の前では気が緩む。しっかりしろ。我々は調査隊のクルー、ただの同僚であり、それ以上の関係を築く必要はない。
『エコーの身体洗浄は完了した。次は栄養補給だ。いくぞ、エコー』
「だぁう」
私の言葉を理解しているわけがないのに、エコーは嫌がるように首を横に振った。小さな頭が揺れる度に、水に濡れた栗色の巻き毛が風になびく。
『遊ぶのはまた明日』
「ぶぶぅ」
『交渉はしない』
私はピシャリと言うと、エコーを抱いて地上にこしらえた生活拠点に向かう。アルファはそんな私たちの様子に、陽気な笑い声を響かせながらゆっくりと後ろに付いてきたのだった。
私の世界は、灰色の空気に包まれていた。
02_任務という名の家族ごっこ
私たちが拠点として使用しているのは、かつて旧人類が遺した生活拠点、家と呼ばれていた建物の残骸だ。
それは非常に簡素な部屋である。老朽化によって穴のあいた壁を塞ぎ、まる三日かけて植物や瓦礫を取り除いた。簡易的なテーブルと椅子、そして床に敷いたマットレスしか家具と呼べるものはない。周囲に巻いたビニールにより清潔感を保っているが、月面基地に比べるとかなり前時代的である。それでも、この場所の安全は保証されていた。
『さあ、エコー。栄養補給の時間だ』
テーブルの脇に置いた椅子にエコーを座らせ、頭を撫でる。エコーは嬉しそうに私を見上げ、短い足をバタつかせていた。
スプーンですくい上げたのは、月面基地から投下される支援物資だ。その支援物資は味気ない灰色のペースト。ビタミン、ミネラル、タンパク質が完璧に配合されている完全栄養食だ。我々はこれをヘルメットを装着したまま、チューブから摂取している。
しかし、幼いエコーはまだ飲み込む力が弱い。それに咀嚼しなければ、咬筋の発達も見込めなくなる。
『あー、して』
「んぅ!」
ぷい!
完全なる拒絶を見せるエコー。その瞳には強い意志が滲んでいた。こういう頑固で感情豊かなところは、旧人類たる所以だろうか。
『エコー、ほら』
私が再度スプーンを差し出すと、エコーは勢いよく顔を背けた。不満げに眉を寄せ、全身で『NO』を表現している。
『これを摂取しなければ、生命を維持できない。口を開けて』
「ぶぅーっ! んやぁ!」
エコーは小さな手を振り回し、スプーンを叩き落とそうとした。ペーストが飛び散り、ヘルメットを汚す。まるで知性を持たない野生動物さながらの暴れっぷりである。新人類である我々は、感情を一定に保つための訓練を受けているので、この程度で動じることはない。ないのだが。
『はぁ......』
この予測不能な生命体に四六時中付き添うのなら、月面基地で訓練を受けていた頃の方が余程マシだったように思える。
「んぶぅ?」
私の苦労を知ってか知らずか、エコーはその大きな瞳で私を見上げた。ヘルメットでほとんど表情など見えないはずなのに、この子は洞察力があるのか、こちらの感情をよく読み取る。
『怒っているわけではない』
そもそも、新人類は旧人類に比べて感情の起伏は薄い。時々アルファのような例外もいるが。
『ほら、もう一度......』
「んやぁあっ!」
私はグローブのままエコーの頭を撫でて、もう一度交渉を試みた。しかし結果は同じ、『交渉の余地なし』だ。なんなら先程よりも激しい拒否の意を示し、仰け反ってしまう。
『はは、今日も手こずってるな』
外から戻ったアルファが笑いながらエコーの背中を支えた。彼は月面基地の特殊捜査隊でも、私とは対極に位置する男だった。身体能力こそ突出しているが、規則に対する忠誠心が薄く、短絡的で楽観主義。正直、相容れない男である。
『あなたは楽観的すぎる』
『君は少し考えすぎだな。もう少し力を抜いていい。ここじゃ月面人類法も通用しないんだから』
月面人類法とは、文字通り月面に暮らす新人類の為の法律だ。しかしここは地球。感情の発露を禁止する新人類の法も届かぬ滅びの惑星。だからといって、気を抜くわけにはいかない。私は手を横に振り、拒否を示した。
『エコーは、月面製の栄養食を拒絶する傾向が強くなっている。やはり、チューブによる栄養補給の方が効率的と判断する』
『そう焦るな。ちょっと食わないくらいで死にやしない。旧人類は、なかなかしぶといというデータが残ってるんだ』
アルファは私の言葉を遮り、背中のバックパックから何かを取り出した。それは近隣の森で見つけてきたのであろう、奇妙な赤い果実だった。外皮はつるりとした光沢があり、ナイフで割ると、中から瑞々しい黄金の果汁が溢れ出す。
『まさか、それは原生植物か? 汚染の可能性がある。口に入れさせるなんて、なにを考えている?』
『心配するな、ちゃんと調査済みだ。これは旧人類が『リンゴ』と呼んでいた果実で、汚染されていないし、毒性もない。糖度と水分が豊富で栄養は十分。ほら、エコー、食べてみろ』
「あぅ!」
アルファが果肉の一片を差し出すと、エコーの目がきらきらと輝いた。小さな両手で果実をひったくるように奪い、口いっぱいに頬張る。あごを伝って、果汁が滴り落ちた。真っ白だった頬がリンゴのように赤く染まっていく。
「きゃあっ! んまっまっ!」
『美味いか、エコー。よかったな』
アルファは柔らかな声でエコーを呼び、その大きな手で栗色の髪をくしゃくしゃと撫でた。私はその光景を、冷ややかな視線で見つめるしかできない。甘やかすとあとが大変だと言うのに、この男はまるでわかっていない。
『アルファ、あなたはエコーに感情移入しすぎているように見える』
私が非難めいた声でそう告げると、アルファは声を上げて笑い始めた。笑われた理由がわからず、気分が悪い。心拍数が上がり、黄色のランプがチカチカ光った。
『我々は、この惑星が本当に居住不可能になったのかを確認し、この子をサンプルとして連れ帰るのが任務だ』
『そう。だからこそ、エコーの両親として育てることも、任務のひとつってわけさ。俺は任務を忠実にこなしていると思うがね』
アルファはエコーの口元を優しく拭いながら、低く笑う。
『君こそどうなんだ。この子をただのサンプルだと思っているのか? 自分は感情移入していないとでも?』
アルファの質問の意図を測りかねて、首を傾げた。ヘルメットが揺れて、青いチューブが机に引っかかる。
『君がエコーに、毎晩絵本を読み聞かせているのはなぜだ?』
図星を指され、私は言葉を詰まらせた。
拠点の片隅には、旧人類の遺物である紙の絵本が置かれている。文字は掠れ、言語も古いものだが、絵を見せながら語りかけると、エコーは驚くほど静かに眠りにつくのだ。それは、私が「子供を寝かしつけるための最も効率的な手段」として選択した行為だった。
断じて、それ以上の意味などない。
『私は効率を求めているだけ。さあ、栄養補給が終わったら口腔清掃と就寝のフェーズに入る。今日の当番はあなただ、アルファ』
『はいはい。さぁ、おいで。今日はサクッと寝てくれよな、エコーちゃんよ』
「ぶぶぶ」
アルファはエコーを抱き上げて、さらりと小さな頭を撫でる。エコーは大きなグローブの手を握り、甘噛みするようにじゃれついた。その目は爛々と輝き、大人しく就寝する気配はない。
『うーん、交渉の余地なしか。なぁ、そこをなんとか』
「あぅあ!」
『ダメか。しかたない、ここはいっちょ子守唄を』
『やめて』
アルファの提案をぴしゃりと止めた。彼の子守唄は災害級だ。とてもじゃないが、エコーには聞かせられない。
『なんだよ。ダメか?』
『あなたの不協和音は、エコーの発育に悪影響』
『そこまで言わなくてもいいだろぉ!?』
大袈裟に肩を落とすアルファを無視して、私はテーブルの上で携帯端末を起動する。アルファが渋々といった様子でエコーを抱き上げ、部屋の隅にあるマットレスへと移動するのを横目で見送った。
『いないない......ばぁ!』
「きゃぅ!」
普段通りの楽しげな笑い声が聞こえていたが、やがてそれも収まり、静かになった。
完全に静寂が戻ったのを見計らい、私は端末のログ画面に向き直った。
月面基地本部への定時報告は、私の任務だ。グローブをはめた不器用な指先で、ホログラムキーボードを淡々と叩いていく。
周辺大気汚染の進行度、アルファの活動報告、そして観察対象であるエコーの成長記録。半年前は歩くことさえおぼつかなかった子供が、今では自由に野原を駆け回っている。旧人類の幼体としては、問題なく成長しているといえるだろう。
そこまで打ち込んで、私はふと指を止めた。
画面の隅には、私たちがこの拠点を構築してからの日数がカウントされている。すでにかなりの時間が経過していた。
本来ならば、生存個体を発見した時点で速やかにサンプルとして連れ帰るはずだった。しかし本部からの指示は「生存個体の保護と観察」という簡素なものだ。回収船が派遣される気配はなく、我々はこの滅びた星で、いつ終わるともしれない「親子の真似事」という不条理な任務を押し付けられている。
それも全ては新人類の悲願、地球への帰還を果たすため。その悲願のために我々調査員は命を捧げ、次世代の未来のために死んでいく。それが我々の使命である。
私は端末の電源を落とした。緑色の光が消え、暗転した画面に、ヘルメットのバイザーに反射した自分の顔が映り込む。ヘルメットに押し込んだ黒髪も、今では無造作に束ねただけ。青い瞳がエコーと同じだと、アルファに揶揄されることもあった。
『いつまでこの子の成長を見守り続けるのか......』
誰に言うでもない疑問が、密閉されたヘルメットの中で虚しく反響した。私たちはただの使い捨ての調査員。この子の親になることはおろか、保護者としての資格すら危うい。このまま成長を見守った先に、一体何が待っているのだろうか。
胸の中に生じた割り切れないノイズを振り払うように小さく首を振った。そして私は、二人のいるマットレスの方へと歩み寄る。
マットレスの上では、アルファが分厚い胸板を上下させ、豪快ないびきを立てて寝ている。隣ではお腹をまあるくしたエコーが、小さな寝息を立てて眠りについていた。よくもまぁ、この轟音の中で眠れるものだと感心する。
くん、とチューブを引かれる感覚。エコーの小さな手が、私の装備から伸びている青いチューブをぎゅっと握りしめている。旧人類の幼体は、反射的に物を掴むことがあると、データには記されていた。
『おやすみ、エコー』
私はエコーの手からチューブを回収し、エコーの隣に寄り添うようにマットレスに横たわった。小さな寝息を感じながら、目を閉じる。
外では、遠くで獣の遠吠えのような風の音が、じわじわと響き始めていた。外部の不穏な空気も、この生活拠点の中にさえいれば遠い世界のことだ。
私の世界は、穏やかな眠りに吸い込まれていった。
03_音が消えた日
異変は、突如として訪れた。
静かな朝だった。部屋には外の風の音だけが響き、僅かな光が差し込んでいる。いつもならエコーが私の顔を小さな手で叩いたり、声をあげて起こしにくるはずだ。
そう、いつもなら。
『......エコー?』
私は身体を起こし、隣に目をやった。そして血の気が引いた。
アルファの腕の中にいるはずのエコー。彼女の姿は無かった。そこにあるのは、ただの空白だけ。
『アルファ! 起きろ!』
私は叫びながら、アルファを揺り起こした。彼のバイタルを示すランプが緑色に点灯する。
『ん......? どうした、チャーリー』
『エコーがいない!』
『な、なんだって!?』
アルファの顔から余裕が消えた。彼がエコーの不在に気づかなかったのは、分厚いグローブではエコーの体温を感じられなかったからだろう。彼だけの失態ではない。すぐ傍にいた私にも責任がある。
『おいおい、まずいぞ』
アルファがテーブル上の外気モニターを指差した。
画面には、ノイズが激しく混ざり合っている。気圧は信じられないほどのスピードで低下しており、外はすでに薄暗い濃霧に包まれていた。暴風が拠点の外壁を叩き、ミシミシと不穏な音を立てている。
『嵐が来ている。どうしてエコーは外へ出た?』
『わからない!』
私は半ばパニックになりながら叫んだ。
『あの子はなんにでも興味がある年頃だ。いつもと違うってんで、興味が出ちまったのかもしれん』
アルファの言う通り、エコーはやんちゃで、明るくて、どんな時でも好奇心旺盛だった。まさかその好奇心が、嵐に向いたのだとしたら。
『外の大気汚染指数が急上昇している。防護服なしで、旧人類の幼児が耐えられる時間は長くない......』
サンプルを失えば、我々の任務は失敗に終わる。月面基地での評価は失墜し、二度と第一線には戻れないだろう。これまで築き上げてきたキャリアが、一度のミスで水の泡になるなんて、まっぴらだ。
本当に、それだけ?
私の脳内で、誰かが囁く。私の手は震え、冷や汗が止まらない。あの小さくて柔らかな生命体が、冷たくなっている様を想像するだけで吐き気がする。
『アルファ、捜索範囲を半径五百メートルに設定。私は北側の森林エリアを。あなたは南側の岩場を捜索して』
『了解した。なぁ、チャーリー』
アルファは普段の軽薄さはなく、真摯に頷いた。そして私の目の前に歩み寄ると、その大きな手で私の手を包む。
『くれぐれも無茶はするな。君がいなければ任務は続けられない。今となってはもう、俺の相棒は君だけだ』
『......わかっている』
私たちは荒れ狂う世界へと飛び出した。瞬間、激しい風に身体を持っていかれる。アルファはエコーの名前を叫びながら、ズシンズシンと重い足音を立てながら前進した。
『行くぞ......! エコー、エコー!』
『エコー! どこにいるの!』
雹がパラパラとヘルメットを叩き、高らかな音楽を奏でる。横薙ぎの風が重い宇宙服を攫って、転びそうになった。
『これは......!』
外は、昨日までの世界とは一変していた。
猛烈な突風が大気を巻き上げ、視界を白く濁らせている。木々は狂ったようにのたうち回り、折れた枝がヘルメットのバイザーにぶつかって激しい音を立てた。
『エコー! エコー、どこだ!』
通信回線を通じて、アルファの声が聞こえる。
私は泥にまみれた地面に視線を落とし、必死に手がかりを探した。
『っ、あった!』
ぬかるんだ土の上に、かすかに残る小さな足跡。
『こちら、チャーリー。足跡を発見! 北の、昨日水浴びをした川の方向へ向かっている!』
『なんだって? あのエリアは今、嵐による増水の危険性があるぞ! 急げ!』
私は重い酸素ボンベを背負いながら、泥を蹴って走った。ハァ、ハァとヘルメットの中で自分の荒い呼吸音が反響する。
なぜ、彼女は外に飛び出したのか。
あの子は好奇心旺盛な子だ。目に入るもの全てに興味を持ち、楽しみ、知ろうとする。その姿は野性的で、生命に満ち溢れていた。
しかし、私にはどうしてもその生命体を理解することができなかった。月面基地の快適なドームから出たこともない私には、自然という名の狂気がもたらす恐怖も、それに惹かれる旧人類の野生も、何もかもが計算外の事象だった。
『エコー! 戻りなさい! これは命令よ!』
声を張り上げるが、その声はヘルメットの内側で虚しく響くだけだ。スピーカーから出力された電子音声は、激しい風の音にかき消されて周囲には届かない。
うねる茂みを掻き分けていくと、前方に濁流と化した川が見えてきた。
昨日まで穏やかだったせせらぎは、今は茶色い怪物のようになって周囲の木々を飲み込んでいた。あれに飲まれれば、ひとたまりもない。
「きゃあっ、んふ、ははっ!」
激しい風の音の隙間から、子供の楽しげな声が聞こえる。間違うはずもない、エコーの声だ。川岸の崩れかけた斜面に、彼女はいた。泥にまみれ、激しい雨に打たれながら、エコーは激流を見つめて笑っていた。
『こちらチャーリー、エコーを見つけた! 繰り返す。エコーを見つけた。川岸にいる!』
『待て、チャーリー! 上流で大規模な土砂崩れが発生した! 今すぐそこから離れろ!』
アルファの警告が無線から響いたのと同時に、ズズズ......という地鳴りのような音が鼓膜を揺るがした。上流から、巨木と巨石を交えた泥の壁が、凄まじいスピードで押し寄せてくるのが見えた。
『エコー!!』
私は我を忘れて駆け出した。喉から血が出そうなほど、力いっぱいエコーの名を叫ぶ。しかし故障しかけたスピーカーでは、私の声は届かない。
重い宇宙服が煩わしかった。なぜこんなに動きにくいのか。なぜこんなに、エコーと私の間には隔壁が存在するのか。
エコーがこちらを振り向いた。
その瞳はキラキラと輝いていた。野性的な、しかしひどく愛らしい瞳で私を見つめ、小さな手を伸ばした。
だが、その瞬間、彼女の足元の地面が、激流に削られて崩落した。
『あっ......!?』
エコーの身体が、茶色い濁流の中へと落ちていくのが見える。ゆっくりと、スローモーションのように。エコーの髪の毛一本一本が風に揺れた。彼女の唇から悲鳴が飛び出し、濁流の中へと飲み込まれていく。
私の世界から、すべての音が消えた。
04_私を呼ぶ声
『エコー!!』
私の叫びは、無線のノイズにかき消される。
気づいた時には、私もまた、その斜面を滑り落ちていた。ゴロゴロと転がりながら、岩に宇宙服の装甲がぶつかり、警告アラームが鳴り響く。
『警告:気密性が低下しています。胸部装甲に亀裂』
そんなこと、どうでもよかった。
泥水の中に手を突っ込み、必死にエコーの姿を探す。
『エコー! エコー、どこにいるの!?』
一瞬、濁流の合間に栗色の髪が見えた。私は狂ったようにその方向へ手を伸ばし、彼女の小さな腕を掴んだ。
『捕まえた......っ!』
強引にエコーの身体を引き寄せ、自分の胸に抱き留める。
「ぶ、ふぇ......けほっ」
エコーは泥を吐き出しながら、私の腕の中に収まり、ひしっとしがみついてきた。しかし赤子らしく泣き喚くことはしない。泥に汚れたバイザーの向こう、エコーの青い瞳にはただ驚きと、私への信頼だけが映っていた。
『もう大丈夫。大丈夫だから』
言葉とは裏腹に押し寄せる土砂の圧力は、宇宙服を着た私の質量さえも軽々と押し流した。
『う......っ!?』
ドゴン、と大きな衝撃が背中に走った。倒れてきた巨木が、背中の酸素ボンベに直撃したのだ。
『警告:生命維持システム停止。酸素供給が遮断されました。直ちに予備電源を――』
視界が赤く染まる。重力に引かれて泥の中に沈んだ。ヘルメットのバイザーが泥で完全に覆われ、外の様子が何も見えなくなった。藻掻いても掴むのは泥ばかりで、動くたびに息苦しさが増していく。
『か、は......っ!』
息が、できない。
密閉されたヘルメットの中の空気が、急速に二酸化炭素で満たされていくのがわかる。頭がズキズキと痛み、意識が遠のいていった。喉から引きつった、空気の漏れる音だけがヘルメットの中を満たす。
『チャーリー! 応答しろ、チャーリー!!』
無線からアルファの声が聞こえるが、それも酷いノイズで途切れ途切れだ。それでも絞り出した声で、応援を要請する。なぜなら、私の腕の中にはエコーがいるからだ。
『アル、ファ......エコーは、保護、した......でも......』
『そこにいろ! 今いく! バイタルが危険域だ、持ちこたえろ!』
泥の中、私はエコーを抱きしめたまま、身動きが取れなくなっていた。巨木の下敷きになって、ジワジワと泥の中に沈んでいく。バイザーの視界が黒く染まり、私の視界が暗黒に包まれる。
腕の中のエコーが動いているのか、カツン、コツンと胸元のモニターに何かが触れる音がする。しかし分厚い宇宙服を着ているせいで、もう何も感じることはできない。私はただ、無の空間に漂うしかなかった。
「あぅ、ま」
彼女は私のヘルメットのバイザーを、泥まみれの手で必死にこすっている。そしていつも彼女が触れていた、青いチューブを渾身の力で引っ張り始めたのだ。
「あぶぅ、あ、まぁ......!」
この子は防護服を着ていない。地球の汚染された大気、激しい雨、冷たい泥水。それらに直接晒されている。私以上に苦しいはずだ。
それなのに、なぜ?
なぜ、この子は私を助けようとするように、必死に私のヘルメットを叩いているの?
『エ、コー......』
私の息が完全に切れた。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。目の前が霞み、エコーの気配すら遠のいていく。ぺちんとヘルメットを叩く音だけが、無機質に響いた。
このままでは、私はここで死ぬ。雨に晒され、呼吸ができなくなって、無意味な死を遂げるのだろう。
『アル、ファ』
せめてアルファがたどり着いてくれれば。エコーだけは助かるだろう。私のことはいい、どうせ使い捨ての調査員だ。命の価値などない。価値があるのは、旧人類の生き残りである、エコーだけ。彼女さえ守れるなら、私なんて。
いや、本当にそうか?
またしても、頭の中で声が響く。
エコーはこれからも時を紡いでいくだろう。言葉を話し、女の子らしく成長するのだろう。この子はどんな女性になるのかな。かつて旧人類がそうしたように、誰かと愛を育むのだろうか。そうして雛鳥は成長し、私やアルファの手の中から巣立っていくのだろう。
この子の成長を見届けられないのか、私は。
「ぁーう」
嫌だ。
「まぁ、ん」
嫌だ、嫌だ。もうこの子を抱きしめられないなんて。
「まぁ、ま」
嫌だ!
心が叫ぶと同時に、暗闇の中で声が聞こえた。何度も何度も。その単語が、私を呼ぶ言葉だと理解するのに数拍かかった。だが、理解した。
「まま」
幼子が、母親を求めている。静かに、泣くこともせず、ただただ恋しがって呼んでいる。いつもの甘えたな声で、私に撫でてほしくて。
私を呼んでいるのだ。
理解したその瞬間。頭の中が晴れ渡り、音のない世界に包まれた。
サンプルデータの回収。月面基地の新人類の繁栄。地球への帰還計画。そんなこと、今はもうどうでもいい。我が子の危機の前では、そんな建前はすべて消え失せた。
私の頭を支配したのは、ただ一つの、原始的で、圧倒的な衝動だった。
この子の声を、聞きたい。ヘルメット越しではなく、私のこの耳で、直接聞きたい。
この子の肌の温もりを、グローブ越しではなく、私のこの手で、直接感じたい。
この壊れたプラスチックと金属の殻の中に、閉じこもったまま死んでいくのだけは、我が子にすら触れられないまま逝くのは、絶対に嫌だ。
「あぁあああ......っ!!」
私は残された最後の力を振り絞り、宇宙服の首元にある緊急レバーを掴んだ。それは調査員にとっての禁忌にも等しい行為。しかし今の私にとって、その禁忌を破るこそが、生き残る為の唯一の手段だ。とても強固なレバーを、へし折るように渾身の力を込めて握る。
カチリ、と音がした。
空気が漏れる音がして、ヘルメットのロックが外れた。私は泥まみれのヘルメットを、力任せにかなぐり捨てた。
さらに、背中でひしゃげ、私を地面に縫い付けていた酸素ボンベのストラップを、装備していたタクティカルナイフで強引に切り裂いた。重い鉄の塊が、ゴトリと落ちる。そうしてようやく身軽になった身体で巨木の下から這い出して、咳き込んだ。
「ゴホッ、ガハッ......!」
ヘルメットを脱いだ瞬間、私の肺に流れ込んできたのは、冷たく、澄み切った地球の空気だった。
それは月面基地の無臭の空気とは全く違う、暴力的なまでの生命の匂いだった。雨の匂い、引き裂かれた木の葉の匂い、泥の匂い、そして......子供の、エコーの甘い匂い。
咳き込みながらも、私は目を開けた。バイザー越しの視界ではない。私の視界を遮るものは、もう何もない。だからこそ、瞬きも忘れて目の前の光景を焼き付けた。
私の鼻先に触れる、泥だらけの、しかし力強く生きているエコーの顔を。
「エコー......!」
私はスピーカーを通さない、私自身の生の声で、彼女の名前を叫んだ。
嵐の轟音が、私の声をかき消そうとする。だが、私は叫び続けた。喉がちぎれ、血の味がするまで、彼女の名前を呼び続けた。雨の中でも、私の声だけが岩に反響する。
「エコー! エコー!」
「あぅ、ま」
エコーは私の声に応えるようにふにゃりと笑う。彼女の小さな手が、私の剥き出しの頬に触れた。
冷たかった。でも、確かに温かかった。あまりにも、愛おしかった。
『チャー......リー! ......エ、コー!」』
私のものよりも低い電子音が、私とエコーの名前を呼ぶ。見上げると、茂みをかき分けてこちらに向かってくるアルファの姿があった。彼の顔は相変わらず見えないが、驚きと安堵に満ちていることがわかる。
「アルファ......!」
「ぁ、あぅう!」
エコーがアルファに向かって手を伸ばした。アルファのグローブが、その小さな手を包み込む。それは私が愛した、父と娘の光景そのものだ。
彼らの体が重なったその瞬間、上流からさらなる濁流が、私たちの視界を完全に飲み込んでいった。
私の世界は、暗黒に包まれた。
05_滅びの星のエコー
耳元で、かすかな音が聞こえる。
「ん......」
それは鳥という野生動物のさえずりだった。月面基地のスピーカーから流れる、人工的な環境音ではない。もっと不規則で、もっと不完全で、だからこそ圧倒的にリアルな、生命の音。
ゆっくりと、瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、突き抜けるような、青い空だった。雲一つない、深い青色に吸い込まれそうになる。真上に浮かんだ太陽の光が、私の肌をじりじりと焼くように照らしている。太陽の光は新人類にとって毒に等しく、肌を焼き焦がす物だと教えられた。月面基地での講義風景が脳裏に浮かんだが、今のところ私の肌に火傷は見られない。
「......あぁっ」
私は身体を動かそうとしたが、全身が激しい痛みに悲鳴を上げた。宇宙服はボロボロに引き裂かれ、あちこちから血が滲んでいる。
だが、私は生きている。痛みすら、生きている証拠として喜びの声が沸き起こった。
汚染された地球の大気を吸い込んでいるはずなのに、肺は痛まない。むしろ、驚くほど澄んだ空気が、私の細胞を隅々まで満たしていくような感覚さえあった。
私の腕の中に、柔らかな、重みがあった。
「っ、エコー!」
慌てて視線を落とす。
そこには、栗色の巻き毛を太陽の光に輝かせながら、すやすやと眠るエコーの姿があった。傷だらけで泥まみれだが、その小さな胸は規則正しく上下している。心臓の音が、私のむき出しの手のひらから直接伝わってきた。
「生きて......いる......」
私は涙が溢れ出るのを止められなかった。
涙。新人類が「非効率な水分の排出」として排除したはずの機能。それが、私の目からボロボロと溢れ、エコーの頬を濡らした。
ふと、隣にあるはずの気配がなくて、私は視線を巡らせた。
「アル......ファ?」
確かに彼はそこにいた。
だが、その姿は凄惨極まりないものだった。
宇宙服は無残に引き裂かれ、生命維持システムは完全に大破している。ヘルメットには大きくヒビが入り、彼の素顔が部分的に露出していた。普段は緑色の生命バイタルを示すランプは割れ、暗いままだ。
嵐の最中、彼は身を挺して、迫り来る土砂や巨木から、私とエコーを護り抜いたのだ。割れたバイザーの隙間から覗く顔はズタズタで、目は硬く閉じられている。そして彼の背中は、痛々しいほどに傷つき、動かない。
「アルファ......起きて、アルファ......!」
私は手を伸ばし、彼の肩を揺さぶった。
しかし、反応はない。
いつも軽薄に笑い、規則を破り、私を困らせていた男。そんな男に沈黙は似合わない。
「アルファ、起きて! お願い、いや、いやだ......!」
視界はにじみ、喉は枯れた。それでもアルファを呼び続けた。我々は使い捨ての駒だ。固有名なんてない。だから、私はあなたをこう呼ぶしかないのだ。
「パパ......!」
アルファの大きな腕を握り、必死に叫ぶ。取り乱す私を見て、不安に駆られたのだろうか。それとも、今この瞬間に彼女の感情に火が灯ったのだろうか。
「ふぇ......ふぇええええん!」
エコーは泣き声をあげた。これまで一度もあげたことのないほど大きな声で、力いっぱい泣いた。
「ほら、エコー。エコー、パパって呼んでごらん」
アルファの魂がまだここにあるのなら。エコーの声が呼び水になるかもしれない。私はエコーを抱きしめ、祈るように言った。
「ね、エコー」
お願い。彼を連れ戻して。連れ戻せるのは、きっとこの世界であなたしかいない。どうかその声を届けて。聞かせて、あなたの声を。
「ぁ、ぱぁ......ぱ......?」
エコーの唇から、父親を呼ぶ言葉が紡がれた。生まれて初めて、アルファを父と呼んだのだ。
「ぱーぱ、ぱぁ、ぱ」
エコーはぺちぺちとアルファの頬を叩きながら、何度も何度も呼びかける。父親を求める幼子の声に、胸が張り裂けそうだった。
「戻ってこい、アルファ......! 娘が、はじめて喋ったのに! 寝てる場合じゃ、ないだろう!」
私は魂を込めて、空に向かって叫んだ。私の声に応える者は誰もいない。聞こえない。聞こえるのは、微かな吐息だけ。......吐息、だけ?
「エ、コー......」
泥にまみれたアルファの唇は、娘の名前を紡いだ。私は急いでアルファの身体を起こして、口の中の泥を取り除く。生命バイタルを示すランプが、チカチカと緑色に点滅した。
「がは......げほっ、ごほっ......!」
「アルファ、エコーは無事。あなたが守った」
私はエコーを抱きあげて、アルファの腕に抱かせてやる。破れたグローブの隙間からのぞいた指がピクリとはねた。そしてアルファは頭に残っていたヘルメットの残骸を、地面に投げ捨てる。
「へへ......こうして見せるのは、初めてだな。エコー」
栗毛の巻き毛と無精髭に覆われた、雄々しい顔つきの男が現れた。男は折れた歯を見せてにっこりと笑う。今まさに頭上から降り注ぐ黄金の光のように、眩しい笑顔だった。
「ぱぁぱ」
エコーがアルファを呼び、頬に触れた。少し伸びた髭を引っ張り、楽しげにきゃらきゃらと笑う。
「こりゃ、参ったな......」
アルファは片目だけを開いて、エコーと私をかき抱いた。大きな腕で、しっかりと、強く抱き締めた。私もその力強さに答えるように、彼の広い背に腕を伸ばす。
「エコーを、嫁に出せなくなりそうだ」
「何年先の話をしてるの」
私は呆れて体の力を抜き、アルファの腕に身体を預けた。硬いプラスチックからのぞく分厚い筋肉にそっと触れる。
「なぁ、見てみろ」
アルファに促されて周囲を見渡すと、そこは昨日までの荒涼とした泥の川ではなかった。嵐が通り過ぎた後の劇的な地殻変動か、あるいは地中に眠っていた種子が一斉に目覚めたのか。
「一晩のうちに、新人類の俺たちでも生きられる環境に変化したってか。自然っていうのはなんとも不思議なもんだ」
「非合理的な仮説ね。それでもこれはこれで」
「あぁ、綺麗だ」
アルファは笑みを深めて、私の肩を叩いた。
私たちの周囲には、見たこともないような、鮮やかな黄色や白色の小さな花々が、地平線の彼方まで一面に咲き誇っていた。
まるで、世界が新しく生まれ変わったかのような、圧倒的な美しさだった。
「地球は滅んじゃいなかった」
「えぇ。そうみたい」
我が祖先が暮らした惑星は、ただ、自らを浄化するための長い眠りについていただけだったのだ。そして今、この嵐を経て、世界は再びその息吹をあげた。これは新人類にとって、これ以上にない朗報だろう。しかし今は、任務の結果なんてどうでも良かった。
「あぅあ」
振り返ったエコーの青色の瞳が、私の顔をじっと見つめた。彼女の瞳に映る私の目には、またしても涙が浮かんでいる。
月面基地では不要だと切り捨てられたこの機能が、地球という環境で芽吹いたのもきっとただの偶然ではない。この小さな生命体こそが、私の変化の根源だ。
「まぅ、あ」
エコーは小さな、泥まみれの手を伸ばし、私の涙をそっと拭った。その顔に、満開の花畑のような、柔らかな笑みが浮かぶ。アルファは私へエコーを返し、優しく彼女の背中をさすった。その動きに促されるように、エコーの小さな唇が、かすかに動いた。
「......まぁま」
それは、電子音声でもなく、ただの喃語でもない。
明確な意志を持った言葉。彼女が、私に与えてくれた、唯一の存在意義。
「えぇ、エコー」
私自身さえ知らなかった、熱く、激しい「何か」が溢れ出してきた。
血の繋がりなんて、どうでもいい。旧人類と新人類の壁なんて、知ったことではない。
今、私の目の前で、私を必要として、私を「母親」として呼んでくれたこの小さな命。それこそが私の世界のすべてだ。
「エコー、ねぇ、エコー」
「まま、まぁま」
私を何度も呼ぶエコーを、壊れてしまいそうなほど強く、強く抱きしめた。
彼女の柔らかな体温を、匂いを、その存在のすべてを、私の身体に刻み込むように。
「そう。私が......私たちが、あなたのパパとママよ」
私たちはここで生きる。たとえこの星が滅びの惑星だったとしても、この星の土を踏み、この大気を吸い、この花畑の中で、生きていく。
私の心の中に、これまで感じたことのない、深く、揺るぎない決意が満ちていく。
それは、神に祈るような、あるいは世界そのものに誓うような、絶対的な愛の言葉だった。
「私の持てる、全てをあげる」
私はエコーの栗色の髪に、何度も、何度も口づけを落とした。
「どうか......どうか、あなたがずうっと幸せでありますように」
太陽の光が、私たちの未来を照らすように、花畑の一面を黄金色に染め上げていった。
「ぱぁぱ、まま」
エコーが私たちを呼ぶ。それはまさに、滅びの星に木霊する祝福の響きであった。
私たちの世界は、黄金色に光り輝いていた。